池田晶子さんの週刊新潮連載「人間自身」今週号は、「どうすればいいのか」という題でした。池田さんは講演会において、しっかり説明したつもりなのに、表題のような質問を受けてトホホ感になるそうです。
「「どうすればいいのか」とは、ある意味で人生の常態である。人生は自分が生きるものである。だからこれを自分に問うのは理解できる。しかし、この問いを他人に問うとはどういうことなのだろうか。」
確かに池田さんの仰る通り、人生は自分で生きています。しかし実社会において、表題のような問いはあちらこちらで聞かれます。
社会において「先生」と呼ばれる人に対して、大衆は常にそのように聞く権利を持っているようです。池田さんも世間においては「先生」ですから、「自分で考える」ことを説明しているにもかかわらず「どうすればいいのか」と教えを乞われるわけです。
つまりは、学校の先生にだって、医者の先生にだって、弁護士の先生にだって、「どうすればいいのか」と聞いて指南をいただくのが、庶民たる我々のささやかなる権利なのです。
所詮自分の意思でこの世に生まれたわけではないのですから、その未知なる人生全てについて自分で責任を負うのは、あまりにも重過ぎます。他人に責任の一端を負ってもらえば少しは楽なのです。
そして人生は未知なるゆえ、池田さん自身もこう書いておられます。自分だってどうすればいいのかは知らない、だから考えるのだと。
「「どうすればいいのか」とは、ある意味で人生の常態である。人生は自分が生きるものである。だからこれを自分に問うのは理解できる。しかし、この問いを他人に問うとはどういうことなのだろうか。」
確かに池田さんの仰る通り、人生は自分で生きています。しかし実社会において、表題のような問いはあちらこちらで聞かれます。
社会において「先生」と呼ばれる人に対して、大衆は常にそのように聞く権利を持っているようです。池田さんも世間においては「先生」ですから、「自分で考える」ことを説明しているにもかかわらず「どうすればいいのか」と教えを乞われるわけです。
つまりは、学校の先生にだって、医者の先生にだって、弁護士の先生にだって、「どうすればいいのか」と聞いて指南をいただくのが、庶民たる我々のささやかなる権利なのです。
所詮自分の意思でこの世に生まれたわけではないのですから、その未知なる人生全てについて自分で責任を負うのは、あまりにも重過ぎます。他人に責任の一端を負ってもらえば少しは楽なのです。
そして人生は未知なるゆえ、池田さん自身もこう書いておられます。自分だってどうすればいいのかは知らない、だから考えるのだと。