Good Frlend!(motovlog)

個人の好きなことを書くブログです。

カワサキ・ワークス、motoGPにて復活!ZX-RR(2002年型)。(番外編vol.3298)

2022-06-30 10:15:47 | 日記

カワサキの場合、1980年代の初頭にたった3年間だけ「WGP」の最高峰である2スト「500ccクラス」に参戦するも、結果的には思った成績を上げることが出来ず、

早々に「撤退」を選択をしたカワサキチだったのですが、その後も「市販車改造レース」の最高峰「世界スーパーバイク世界選手権」にはずっと出場しており、

逆に1980年代の後半から1990年代中盤までにはいくつかの優勝も果たし、なかなかの戦歴を獲得していました、しかし途中から「V型2気筒1.000cc」と「並列4気筒750cc」の混走となり、

圧倒的に、V型2気筒1.000ccに有利なレギュレーションとなった事を懸念して、今後のレース活動やマシン開発に関して「どうするか?」社内でも議論してた矢先、

それまでの2スト「500ccクラス」で行われていた「WGP」最高峰レースが、2000年にFIM(国際モーターサイクリズム連盟)が、2002年より「4ストエンジン」へのシフトを発表した事で、

カワサキ・ワークスチームとして、再度この新しい「motoGP」最高峰レースに参戦する事を決定します。ここは大型排気量の「4ストに強いカワサキ」の選択となったんですね。(笑)

ただ、当初はスズキと相互に車両の「OEM供給」を行なっていた為、スズキとの共同参戦として計画されていたのですが、

チーム体制として完全にスズキワークスの「傘下に属するチーム」となる状況だった為、途中でこの契約を破棄し「カワサキ単独」でマシン開発をする事を決定します。

また、その時に「世界スーパーバイク世界選手権」で使っていたベース車両となる「ニンジャZX-7RR」をボアアップしたエンジンと、新開発のフレームにカウリングデザインが施され、

新たに登場したのが、この「ZX-RR(2002年型)」となる訳です。

で、マシンの見た目の特徴は、なんと言っても「クサビ形」のカクカクしたデザインと、往年のチームカラーである「ライムグリーン」がカワサキの復活を表したもになっていました。

しかし、肝心のエンジンは上記で述べたように「世界スーパーバイク世界選手権」で使用してた「ニンジャZX-7RR」のものを1000ccにボアアップしただけのものだったので、

そのポテンシャルは完全に「未知数」と言う状況でもありました。

もちろんこの「motoGP」元年の2002年シーズンは、他社のチームに置いても同じ条件だったので「どこのマシンが速いのか?」幕を開けてみなければ分からない状況でもありました。

ただ、カワサキがこの年の参戦(13戦目)を果たすまでの状況を見るに、ホンダワークスの「RC211V」が、かなり有利にレースを運んでる感はありましたけどね。(笑)

で、待望の2002年シーズンの終盤にあたる第13戦「日本パシフィックGP(ツインリンクもてぎ)」より「華々しくデビュー」するカタチとなり世界が注目する中スタートするのですが、

レーシ内容は散々で、唯一のライダーであるカワサキの秘蔵っ子「柳川明選手」は初戦リタイヤと共に負傷し、その後代役を果たす「アンドリュー・ピット選手」も最下位を走ると言う、

カワサキワークスとしては「惨敗」な結果としてこのシーズンを終える事となります。

この結果に対する問題は「motoGP」のために開発したエンジンで無かった事と、大柄な車体にあった様です。また、キャブ(インジェクション(ケーヒンFCR-i))が使用されていたのですが、

これは、全開時にスロットル内に抵抗物が残らないという利点があった代わりにセッティングが難しく、サーキットに対して最適なマシンにならなかった事もあげられてた様です。

また、廃棄効率を考慮したマフラー(アンダーシートマフラー)も思ったほどの性能を発揮してくれず、完全に設計ミスと言ってもいいくらいの状況だったんですよね。

その後のカワサキに関してはまた述べるとして、この「初年度」に関しては「完全に失敗」と言わざる得ませんでした。(笑)

更に2003年は2台体制となり、誤ったパーツに関しては改善したにも関わらず結果として思った様に開発が進まず、本格的に体制が確立したのは2004年シーズンからと言ってもいい感じがします。

とりあず、2002年の初年度にあったこのカワサキ「ZX-RR(2002年型)」ですが、今見ても「模索の跡」が思いっきり伺えますね!(笑)






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年にあった過去のWGPチャンピオンマシン、スズキ・RGV-Γ500。(番外編VOL.3297)

2022-06-29 11:56:26 | 日記

とりあえず、1988年に「WGP」へのフル参戦を復活させた「スズキワークス」だったのですが、実は当時、新たなモデル「RGV-Γ500」の開発自体は、まだまだ「模索中」の状況にありました。

なので、この新開発された「横置きV型4気筒エンジン」は、まだ「完璧なものでなかった」ため、今一つパワーが上がらず初年度は「劣勢を強いられるシーズン」を覚悟しての参戦でもあった様です。

しかし、1988年度の初戦となる「日本グランプリ」で、あのヨシムラから現れた、スーパー天才ライダーの「ケビン・シュワンツ選手」のライディングで「いきなり優勝」する事態となります。

この快挙は、スズキチームも想像していなかった事らしいのですが、スズキの「エースライダー」の実力はこれにより世界で証明される事となります。

ただ、その後の結果としては西ドイツGP(ニュルブルクリンク)の2勝だけで参戦初年度のシーズンを終える事となり「ケビン・シュワンツ選手」を持ってしても初参戦の年は厳しいものとなる訳です。

とは言え、その翌年の1989年、さらに1990年と「RGV-Γ500」も正常に進化を遂げ「ケビン・シュワンツ選手」の天才的なライディングのお陰もあって徐々に「トップ争い」が増えて行く事となります。

また、1991年、1992年には「優勝」の回数も増えていく状況となり、ライダーとしては「相変わらず活躍を続けていた」ものの、いつまで経っても「RGV-Γ500」の「トータル性能」が上がり切らず、

他の「ホンダ」や「ヤマハ」のマシン性能で劣っていた為、必然的に「ケビン・シュワンツ選手」のライディングもアグレッシブルなものとなり、コーナーの突っ込みや旋回性能ギリギリを攻めるものとなり、

せっかく年間で6〜8回と優勝しても、それと同じぐらい転倒リタイヤもすると言う状況が続き、スーパー天才ライダーの「ケビン・シュワンツ選手」がその実力通り「ワールドチャンピオン」になるには、

もう少し「RGV-Γ500」の「性能向上が急がれる事態」となっていきます。しかし常に「非力なマシンで勝つ姿」は日本人にも魅力的にうつり、彼に対して多くのファンを獲得することになっていきます。

で、迎えた運命の1993年シーズンは、ついに「ケビン・シュワンツ選手」が4回の優勝に11回の表彰台を獲得し、悲願の「ワールドチャンピオン」へと輝く事となります。

これはスズキワークスにとっても、1982年シーズンの「フランコ・ウンチーニ選手」以来の快挙となり、1988年からのフル参戦「6年目の悲願」となったんですよね。

とにかく、この年の「RGV-Γ500」は例年になく素晴らしく、トップスピードでも「ホンダ」や「ヤマハ」に劣らない速さを誇っていましたし、フレームの剛性や彼に合ったサスペンションのセッティングなど、

それまでとは大きく異なる性能を発揮し「なるべくしてなったチャンピオン」と言えるのですが、この年、永遠のライバルだったヤマハの「ウェイン・レイニー選手」が、レース中の事故で下半身付随となり、

残念ながら引退を余儀なくされた事があって「ケビン・シュワンツ選手」の喜びはそこまでのものでは無かった印象がありました。

また実際「ケビン・シュワンツ選手」自身も、ワールドチャンピオンが決定した時のコメントで「彼の体が治るならこのチャンピオンはいらない」とマスコミの前で発言しています。

喜びと悲しみが同時に合った1993年シーズンでしたが、気持ちを切り替えての1994年シーズンは2勝を上げたものの、アメリカGPで負った怪我のため残り3戦を欠場し総合4位に終わってしまいます。

また、その翌年1995年には3戦目の日本グランプリを最後に、いきなり引退を発表してしまいます。

その要因は、怪我もさることながら、やはりライバル「ウェイン・レイニー選手」不在の中「もう走るモチベーションが上がらない」と言う理由だったと言われています。

とにかく「ケビン・シュワンツ選手」無しに、この「RGV-Γ500」を語る事は難しく、逆に彼が「RGV-Γ500」で走った事でここまで速いマシンに仕上がったとも言える時代でした。

その後に関しては次世代の「アレックス・バロス選手」や「ダリル・ビーティー選手」に引き継がれ「RGV-Γ500」も時代と共に進化を続けて行くのですが、1993年以降、立ち入るライバルには敵わず、

いや、あまりにホンダの「NSR500」と「マイケル(ミック)ドゥーハン選手」が速かった時代が長く続き、ヤマハも含めて「勝利がら遠ざかる」結果となってしまいます。

しかし、1999年にヤマハから移籍してきた「ケニー・ロバーツjr選手」が、いきなり総合2位を獲得したかと思いきや、翌年の2000年には忽然とスズキ「RGV-Γ500」でワールドチャンピオンになります。

これには当時のボクも驚いた思いで観てました。(笑)さすが血は争えないものですね。(笑)

で、最終的には2002年を持って「WGP」は終焉を迎え、それと同時に「RGV-Γ500」もラストを飾り、スズキワークスとしては次の世代になる、4ストマシン「GSV-R」へとバトンタッチする事となります。

1990年代のスズキ「RGV-Γ500」を振り返り思い出せば、どうしてもマシンより、ボクの場合、スーパー天才ライダー「ケビン・シュワンツ選手」の方に話がなっちゃいますね!(笑)





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年代にあった過去のWGPチャンピオンマシン、ヤマハ・YZR500。(番外編VOL.3296)

2022-06-28 00:00:28 | 日記

1980年代は「機械的なパーツの飛躍」が凄まじかったこのヤマハ「YZR500」も、新たなな世代を迎える前年の1989年モデル(OW-A型)から「電子制御の飛躍」へとシフトしていく事となります。

で、迎えた1990年代、この時代のヤマハワークスと言えば、あの天才「ケニー・ロバーツ選手」が発掘したアメリカの秘蔵っ子で、天才&秀才ライダーの「ウェイン・レイニー選手」の存在ですよね。

彼の戦歴を振り返りますと、1988年よりチーム「ロバーツ・ヤマハ」でWGPに参戦し、1990年から1992年までの3年間、連続して「ワールドチャンピオン」に輝くと言う快挙をなし得ています。

とにかく、この「ウエイン・レイニー選手」を語ると、若い頃から「秀でた才能」を誇っており、性格的には非常に緻密にレース展開をするタイプで「慎重かつ速い!」と言うものでした。

さらに、この時代の「YZR500」と言えば、先ほど話した通り「電子制御が劇的に飛躍」した時代で、エンジンの吸排気からサスペンションの制御まで、全てが電子システム化される事となっていきます。

で、2ストからなる500ccエンジンに関してですが、ホンダが「112度」もバンクを掛けたV型エンジンに対して、ヤマハのV型は「70度」と非常に狭い角度になってた事も特徴だったりします。

また、ちょうどこの頃よりそれまでの「数字」で表してた「マシンの名称」を「アルファベット」で表す様に変更され、例えば「ウェイン・レイニー選手」が最初にタイトルを獲得した1990年モデルなら、

アルファベットの「C」からなる「OW-C型」とされ、また翌年の1991年モデルが「OW-D型」、そしてさらに1992年モデルが「OW-E型」と言う事になっていきます。

これ、最終となる2002年モデルで「OW-L型」まで行きますから、1年単位で飛び飛びになりますが、要するに世に出なかったモデルを含め「A型〜L型」まであったと言う事ですね。(笑)

さらに、この「YZR500」の特徴としては、1980年代の中盤からあった独自開発の「デルタボックフレーム」の進化と、他社よりいち早く開発を進めた「倒立フォーク」の導入があったりします。

残念ながら「ウェイン・レイニー選手」のチャンピオン以降、最後の最後までホンダやスズキに勝利を持っていかれる結果となるのですが、1990年代後半に向かってはストレートで速いマシンではなく、

マシンの特性として「コーナリング重視」で速かった事が、ボク個人の印象としては残っています。多分ですが、意図的にそうゆう仕様のマシン開発であったと思われます。(笑)

また、この時代に活躍する優秀な選手として、ホンダなら「マイケル(ミック)ドゥーハン選手」や、スズキだと「ケビン・シュワンツ選手」など、「ウェイン・レイニー選手」の引退以降、

彼らにまさる選手が「ヤマハワークスに存在しなかった」事が、この時代のヤマハにとっての敗因の1つと考えられ、そう思えば決してマシン性能が劣っていたと言う事ではなかったと思われます。

で、これもレースファンなら良く知ってる話ですが、1993年のイタリアGPの事故で「ウェイン・レイニー選手」が「下半身付随」と言う大怪我で、彼のレース人生が早々と終ってしまった事は、

その後のヤマハにとって「大きな痛手」となりましたし、何より彼の人生も含めて残念だどしか言いようがありませでした。

ただ、これはあくまでボクの想像の範囲でしかありませんが、その跡を追いかけていた天才ライダーの1人、アメリカ人ライダーの天才「ジョン・コシンスキー選手」が、

もっと大人の対応(チームに対してあまりに言動が良くなかった…)でレースに臨んでいれば、彼自身もヤマハワークスから解雇されず「ウェイン・レイニー選手」の次のヤマハ世代を背負って、

後にタイトルを獲得出来た可能性があった気がします。まぁ、これは完全にボクの主観からる、あくまでたらればで、そうならなかったかもしれませんけどね。(笑)

結果的には、1992年の「ウエイン・レイニー選手」のチャンピオ獲得以降、2002年の2スト500cc終焉まで、ヤマハワークスでワールドチャンピオンに輝く選手は1人も現れませんでした。

そして、2003年から「WGP」より「motoGP」への改定で、ヤマハワークスとしては次に登場する、4ストマシンの「YZR-M 1」へとシバトンタッチする事となり現在に至る経緯です。

昔から一般の市販車も含め、常にホンダに続く「ナンバー2」のポジションに甘んじるヤマハと言うメーカーですが、どうしても個人的には納得出来ない部分があって、

特にオートバイレースにおいては、もう1つ何かが足りてれば、この1990年代だって、もっと「素晴らしい戦歴」を残す事が出来たんじゃないかって、気がしてならないんですよね!(笑)





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1990年代にあった過去のWGPチャンピオンマシン、ホンダ・NSR500。(番外編vol.3295)

2022-06-27 10:07:21 | 日記

そうですねぇ、個人的には1990年ってボクがちょうど25歳になる年で、それまで10代から悶々と「頭の悪い峠小僧」をやる事で、オートバイのモチベーションを保っていた状況から、

もうそろそろ20代も中盤になるし、そんな「無謀な行為」は卒業して「もっと違う大人なカタチ」でオートバイを楽しみたいと考え始めた、非常に懐かしい時期のお話になります。(笑)

ただ、ボクは「引退の道」を模索してましたが時代的には、まだまだ「峠小僧」たちの存在はその後も広がる一方で、オートバイの進化(レーサーレプリカ)も続いていく事となっていましたけどね。(笑)

で、そんな時代に突入した頃、相変わらず「オートバイレース」に対しては関心を持ち続けて観ていたボクだったですが、そんな時代にあったホンダの「WGP」最高峰マシンがこの「NSR500」シリーズです。

この「NSR500」を「世代別」に区分すると「3つの世代」に分ける事が出来て、まず初期モデル(TYPE-1〜3)が1984年から1986年までで、そこから中期モデル(TYPE-4~8)が1987年から1991年まで、

そして後期モデル(TYPE-9~18)が1992年から2002年までとする事が出来ます。で、その違いは進化による「構造」の違いと、思考と設計による「方向性」の違いで分かれる状況となります。

まず、初代モデル(TYPE-1)まで遡ると1984年式からになるのですが、この1年だけはマシンが大きく違い「排気管(4本のチャンバー)がガソリンタンクの下を這う」ちょっと変わったものだったのですが、

メンテナンスの悪さや、熱対策の問題、さらにタイヤへの負担などが問題視され、1985年の2年目(TYPE-2~)より一般的な「2ストV型4気筒エンジン」へと変更(進化)する事となります。

ただ、1986年(TYPE-3)までって、V型エンジンとキャブレターの配置の関係上、排気管4本の「全てがエンジンの下」を通るデザインとなってたため、とても複雑な取り回しのチェンバーとなっていました。

そこから、V型エンジンの角度(90度から112度)に変更したことによりそれが解消され、後ろ2本が後方排気となったのが1987年型(TYPE-4~)からで、1991年(TYPE-8)までおおよそ同じ設計で、

細かな仕様とカウル形状のデザインのみ変更される時代となります。ただし、この頃の全体の特徴として「エンジンパワーの向上と軽量化」に関しては年々優れたものへと進化していました。

で、1992年代(TYPE-9~)に入ってからは、それまでの「ハイパワー化」にストップがかかり、とにかく逆にライダーが「乗りやすい方向」へと思考の方向転換が図られる事となります。

また、ここから、いよいよ「ホンダの快進撃」が始まり1999年まで、ひたすら「ワールドチャンピオン街道をまっしぐら」となって行く事になります。(笑)

その立役者とも言え、この時代で思い出深いのが、1994年から1998年まで「5年連続で世界チャンピオン」となるオーストライア出身の天才ライダー「マイケル(ミック)ドゥーハン選手」の存在です。

また、これはこの時代を知るオートバイのレース好きなら誰でも知ってる有名な話ですが、1992年に起こしたオランダGPの「予選中の事故」により彼の右足が一時期、自由に使えなくなり、

ホンダが「苦肉の策」としてリアブレーキをクラッチレバーの横に配置すると言う「ドゥーハン専用のリアブレーキレバー」を開発します。

これが良かったのかどうか?は未だに謎な部分なのですが、そこからの快進撃が「あまりに凄かった」ので、他のホンダワークスライダーもこのリアブレーキレバーを試してみたりしていたらしいのですが、

結果的には「扱いづらい」と言う事で、最後は「マイケル(ミック)ドゥーハン選手」だけのものとなっていきます。(笑)

さらにボク個人の思い出としては、やはりこの時代での「NSR500」の「カラーリング」で、初期はタバコメーカー「ロスマンズカラー’」そして後半は今もメインスポンサーを務める「レプソルカラー」です。

近年の「motoGPマシン」のカラーリングを見ると複雑で、メインスポンサーのカラーリングにインパクトと日本人がよく知らないメーカーだったりで、イマイチどのマシンを見ても「ピンと来ない」のですが、

この時代のカラーリングは、全てのチームにおいても非常に「キャッチ」で、カッコいいイメージがあります。まぁ、振り返れば、ほとんどがタバコメーカーだったですけどね。(笑)

で、2002年には4ストマシンとの混走となり、2003年から正式に「WGP」から今の「motoGP」へと変更された事で、遂にこの2ストモデル「NSR500」も終焉を迎えます。

GPレースがスタートした1949年から、非常に長い歴史を持った最高峰の「2スト500ccマシン」も時代の流れ(環境問題)には敵わなかった様で、現在の4スト大型排気量マシンへと移行しますが、

ボク(現在56歳)にとっては、やはりこの時代が「ボクのオートバイにとっての青春」であり、思い出しても一番「エキサイトして応援してた時期」だったですね。(笑)







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1980年代にあった過去のWGPマシン、カワサキ・KR500。(番外編vol.3294)

2022-06-26 00:09:05 | 日記

そもそもカワサキがこの時代の「WGP」に参戦してた事を知ってる人も少ないと思われるほど、印象も薄くイメージのわかないマシンがこの「KR500」です。(笑)

まず、初期モデルの登場が1980年からで、1982年までの3年間だけ戦ったのですが、結果としてはこの年を最後にカワサキワークスとしては「WGP」から撤退をしてしまいます。

大体がレーシングマシンに詳しい方なら想像出来ると思いますが、カワサキは「大型排気量の4ストエンジンを得意」としており、2ストのイメージ自体が全然ないですよね。(笑)

市販車でも、1980年代の一時期に「KR250」などが販売されていましたが、それも非常に短命に終わっており、それ以降2ストエンジンを搭載したスポーツモデルを生産しておりません。

他の国産メーカーは、ホンダなら「NSR250R」、ヤマハなら「TZR250R」、さらにスズキだと「RGV250Γ」などが有名なバイクとなっていますが、この時代のカワサキってどうなってたっけ…?

そんな、ボク世代(現在56歳)の1980年代を知るバイク好きオヤジでも、カワサキの2ストバイクってそのイメージが全然ありません。多分、同じ様にそう思う人は多いと思います。

しかし、実はこの時代に3年間だけ「WGP」最高峰である500ccクラスに参戦してたんですよね。(何となくタミヤのプラモデルで見た事はあるかなぁ…)(笑)

元々は、1970年代の中盤あたりから250ccと350ccの2ストモデルで参戦を果しており、カワサキ独自の「タンデムツイン」と言う珍しいヘッドブロックを持ったエンジンを開発していました。

この「KR500」は、それを並列に「2コずつ2列」に並べた変な4気筒エンジンを搭載しており、そのうち後ろの2つを「前後ひっくり返して」後方排気化していました。

さらにフレームはアルミ製で新開発のモノコック型が採用されており、エンジン「上部のフレームの一部をガソリンタンク」としていました。

これにより外から見たガソリンタンクは、ただのカバー(剥き出しのオールアルミ製)で、実はダミーという事です。

また戦歴を調べてみますと、参戦直後の1980年はイマイチの成績だったのですが、2年目の1981年にはトップ争いに食い込むレース展開が出来るようになり表彰台も獲得しています。

しかし最後の年となった1982年には、マシンの仕様を大幅に変更して臨むのですが、その結果は散々なもので、表彰台どころかシーズンを通して1度もポイントを取る事が出来ていません。

それがあったからかどうかは定かではありませんが、この年を持って全ての排気量に関してもカワサキは「WGP」から完全撤退してしまう事となります。

結局は、2003年に「WGP」から「motoGP」となり、全てのマシンが「4ストエンジンとなった年」から、あらためて「参戦を開始」るのですが、

その間、市販車改造の「世界スーパーバイク選手権」には参戦していましたが、オートバイでの「最高峰レース」からは「20年間」もの期間、遠ざかっていたんですよね。

要するにカワサキって他の国産メーカーと色々な意味で「違う道」を歩んできており、それが故に時には時代をリードしてる時もあれば、置いてきぼりを食らってしまう時もあったって訳です。

ただ、1つハッキリ言えるのは「現在のカワサキは凄い」って事ですけどね!(笑)

で、お話をこの「KR500」に戻しますが、先に述べたように前半の2年と後半の1年はまるで別物と言えるほど違っており、それが結果として失敗したと言う状況だったって事です。

マシン自体は、非常に他ではない斬新で新しい試みがなされていたのですが、何故か勝利に繋がりませんでした。

また、当時有名なライダーの1人だった「コーク・バリントン選手」が最後のキャリアを、このカワサキの「KR500」で戦ったのですが、1982年の撤退を機に自身も引退してしまいます。

まぁ、そもそも「2ストに縁の薄いカワサキ」なので、他社に比べエンジン開発で遅れをとった事は間違いなかったでしょう。

さらにそこから深掘りせず、あっさり撤退した所は流石のカワサキと言える気もします。なんせ1980年代に「あれだけ売れた原付スクーター」を最後まで作りませんでしたからね!(笑)






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1980年代にあった過去のWGPチャンピオンマシン、スズキ・RGB500。(番外編vol.3293)

2022-06-25 01:42:32 | 日記

今日は、前回のヤマハ「YZR500」だったり、前々回にご紹介したホンダ「NS500」に続いて、1980年代初頭に「圧倒的な強さ」を誇ったWGPマシン、スズキ「RGB500」のご紹介です。

そもそも、その元祖となるスズキ初の2スト500ccマシン「RG500」が登場したのって1974年からで、1978年にはさらにエンジンを改良した2世代型の「RGA500」型となり、

また、さらにその翌年となる1979年からは、より「機械制御」が充実したなエンジンを搭載した、この3世代モデル「RGB500」となり、同年にWGPデビューしたと言う経緯となっています。

で、その仕様を見てみますと、まずエンジンは、2ストの水冷式で並列(ロータリーディスクバルブ式)の4気筒DOHCが搭載されており、当時で最高出力は110spでした。

また車重は137kgで、リアのサスペンションはフルローター式のモノクロリンクサス仕様で、ホイールサイズは前後とも18インチとなっていました。

この時代って不思議で「ホイールサイズ」が各社で統一されておらず1982年だけでも、ホンダは16インチ、ヤマハは17インチ、そしてスズキが18インチとマシンで違いがあったんですよね。

さらに驚くのは、同じ名称「RGB500」として「市販レーサー」も同年から販売されており、世界中のプライベーターチームがそれを一般購入して国際レースに出場してたって感じでした。

現代の最高峰「motoGP」では完全にオートバイメーカーでの「ワークスチーム」とその「サテライトチーム」だけで戦ってる状況ですから、なんだか考えられないですよね。(笑)

また、ぐ〜っと、遡(さかの)ぼった、1976年にはあの英国で「サーの称号」を与えられた「バリー・シーン選手」が先代モデル「RG500」でスズキで初のワールドチャンピオンとなってて、

この「RGB500」マシン以降に関しても、1981年に「マルコ・ルッキネリー選手」が「ケニー・ロバーツ選手」や「ランディー・マモラ選手」を破りその年のシリーズチャンピオンとなり、

さらに、その翌年の1982年にはイタリアのライダーである「フランコ・ウンチーニ選手」が世界チャンピオンになり、2年連続でスズキの「RGB500」がチャンピオンマシンとなります。

もちろん彼らが乗ったマシンは「スズキワークス」からのものだったですが、この時代って「最高峰の500ccクラス」でも「30台以上」の車両がエントリーされており、

めちゃめちゃ速いライダーから、かなり遅いライダーまで、激しく「技量が違う」ライダーの混戦で走っていたため、何周も「周回遅れ」となるマシンも出てくる始末で、

その周回遅れをどう攻略するかもトップライダーの技量や作戦の1つと見られていました。まぁ、そうは言えこの「WGP-500クラス」に誰でも出場できた訳ではありませんが、

今と違い「市販で500ccレーシングマシン」が売られていたので、ある程度、母国で実績を持った個人のライダーが「お金を投じて自身でチームを作れば…」って感じで参戦してたので、

まぁ、こんな事態になってたのも、当然と言えば当然の状況だったと言えます。(笑)

そこはともかく、この時代のスズキって、もう独占状態で「RGB500」に乗れば勝てると言われるほど、抜きに出てた性能を誇るマシンだったことがよく分かりますよね。

また、この時代からの大きな特徴の1つに「スポンサーカラー」があって、広告規制の関係で一般に広告宣伝が打てない世界中の「タバコメーカー」がメインスポンサーとなってた状況で、

スズキに関しても「HB(ハーベ)」などがメインスポンサーとなっていましたし、まぁ、モータースポーツとタバコメーカーのコラボは4輪も含めて当たり前の時代でした。(笑)

今じゃ嫌われ者のタバコですよ!(笑)まさに、ここも今と「大きく違う点」だったりします。で、この「RGB500」市販車はその後も生産され続けるのですが、スズキワークスとしては、

この1982年で一旦レース活動を中止する事となります。その原因はもちろん「経営不振」からですが、1980年代の中盤に入ると人気モデルが登場し脱却を図る事に成功します。

で、このスズキと言えば、このレジェンド「ケビン・シュワンツ選手」が参戦開始する1988年に復活を遂げ、当時、彼が乗ったV型エンジン搭載の「RGV-Γ500」も同年からの登場となります。

いやぁ、華々しかったですね。しかしその後は、浮き沈みの激しい時代をスズキワークスとして「厳しい道のりを経験」していくのですが、そこら辺のお話はまた後に…。(笑)







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1980年代にあった過去のWGPチャンピオンマシン、ヤマハ・YZR500(0W61~98)。(番外編vol.3292)

2022-06-24 00:22:46 | 日記

ヤマハの国際レースへの参戦は1960年代の初頭から始まっており、他社の国産メーカーと共に各カテゴリー(排気量)で多くの勝利を収めていくのですが「WGP最高峰クラス」が、

かつて「4スト750cc」と「2スト500cc」の混戦だった状態から、我々世代(私56歳)がよく知る「2スト500ccのみ」のレギュレーションに変わったのって、実は1978年以降からの話になります。

ややこしいですが、ヤマハは参戦の初期から2ストマシンを製作しており、最大排気量にあたる500ccモデルの「YZR500」の初期モデルに関しては1973年からのスタートとなってるので、

1977年までは4ストの750ccマシンと同等に戦っていたと言う事です。まずここら辺あたりから複雑で分かりにくいですよね。(笑)

また、1970年代から各種の排気量で「市販レーサー」もいち早くヤマハから一般販売されており、多くのプライベーターのライダーたちも、この時代はヤマハを扱ってる人が多かった状況だったんですよね。

そんなヤマハの歴史を知りつつお話しするのですが、今日は中でも世界初の「2ストV型4気筒エンジン」を踏査した1982年より登場した「YZR500(0W61〜)」ってオートバイです。

この頃って、ボクが16歳を超えてオートバイに乗り出した頃で、レースに関しても今より強い興味を示してた時代でした。(笑)

またこの「YZR500(0W61型)」以前のマシンは全て「並列4気筒エンジン」だったので、あの天才ライダー「ケニーロバーツ選手」が2年連続(1979年・1980年)でタイトルを制した時は、

この「YZR500(0W61型)」より先代のモデルにあたる(OW45・OW48/R型)の頃になります。

で、この「YZR500(0W61型)」が登場した1982年はケニーロバーツ選手だけでなくスズキから移籍したあの「バリーシーン選手」や、舎弟の「エディーローソン選手」もヤマハで戦った時代でした。

また、先日お話ししたホンダ初の2スト500ccマシンである「NS500」の登場もこの1982年からで、超天才ライダー「フレディースペンサー選手」などと非常に熱い戦いが始まった年でもあったんですよね。

さらに話はそれますが、実は1980年代初頭で一番力を発揮してたのって、ヤマハでもホンダでもなく、スズキの「RGB500」が圧倒的なパフォーマンスを見せつけてた時代で、

とりあえずライダーは優秀だったのですが、マシンの有利性で「アドバンテージはスズキにあった」時代が1〜2年続いていました。その状態をひっくり返したのもこの1982年からだと言えるんですよね。

まさに1982年は、かつての戦国時代の様な、各社ほぼ「同格のポテンシャル」を持つマシンで戦い、さらに優秀なライダーが多く存在してた「激戦の時代」だったって感じです。(笑)

で、その翌年1983年(OW70型)にはフレームがのちの市販車に繋がる、ヤマハ独自のアルミ製デルタボックスフレームに、また時代を先取りした前後17インチのホイールが搭載されます。

さらに、1985年・1986年(OW81型)には大幅なエンジン改良とハンドリングの向上で10年ぶりのメーカータイトルを獲得、さらに翌年の1987年(OW87型)には2年連続でもメーカータイトルを獲得し、

1988年(OW98型)にはV型エンジンのバンク角をそれまでの60度から70度に変更し、よりハイパワーなものへと進化させます。

この時期のヤマハにとっても、この「YZR500」にとっても、なんと言っても知的な秀才ライダー「エディーローソン選手」の存在は大きく、最高峰「WGP500ccクラス」にて、

1984年、1988年、1989年と3回も、このヤマハ「YZR500」でワールドチャンピオンに輝いています。また国内ではあの努力家で天才ライダー「平忠彦選手」がこの「YZR500」で3年もの連勝記録を挙げており、

なんとなく、当時の我々(すっトボケた10代の峠小僧たち…(笑))としては「ヤマハとホンダの2強」とされる時代になっていくんですよね。(笑)

またこの頃の、ヤマハによる2ストでの市販車と言えば、名車「RZ」と高性能な「TZR」シリーズが挙げられますが、とにかく1年単位でオートバイが大きく進化されてた時代であり、

それだけに、こう言った「レース」や「マシン」が、いかに重要だったかが伺える時代でもあったと言えるんですよね。(笑)






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1980年代にあった過去のWGPチャンピオンマシン、ホンダ・NS500。(番外編vol.3291)

2022-06-23 00:11:44 | 日記

このブログで市販車じゃない「WGPグランプリマシン」をご紹介するのは初めてですが、ボクの「知る限りの範囲」でお伝えしたと思いますのでよろしくお願いいたします。

で、まず最初は、ボク的に一番知ってる時代?に大活躍したこのホンダ「NS500」からです。また、ボクの尊敬するあの「片山敬済選手」もこのマシンで活躍しました。(笑)

遡(さかのぼ)れば、ホンダがまず「初期時代」に国際レースで活躍してたのは、1960年代の初頭から後半(1967年)にかけての数年間だけで、

その後の1968年から、1979年までは一時オートバイレースから「撤退」してた状況でした。これ、ボク世代(現在56歳)でもこの頃の事は流石によく分かりませんし、

当然、今の若い世代(20〜30歳代)は全然知らない話ですよね。(笑)

で、その間の「WGP(ワールドグランプリ)」って、実は色々な事が「ゴチャゴチャ」してて、年によってはカテゴリーが複数に分かれてみたり、4ストと2ストの排気量違いの混戦だったり、

いわゆる現在とは大きく違い、レギュレーションの「明確性に欠けていた」事や、本格的で専用の「サーキット」が世界でも限られていた為、どうしても市街地を使った「一般道レース」が多く開催され、

それが故に、とても「危険性の高い状況」ってのものあり、自動車レースの最高峰である「F1」もそうですが、1年間で何人ものドライバーやライダーが死亡すると言う時代だったんですよね。

今からすれば考えれられない話ですが、どうも開催側(FIM Grand Prix World Championship)が人の命を「軽視していた」んじゃないかって思うほどです。

しかし、再開を果たす事となる1980年あたりには、徐々に開催側も安全性を考慮し始め、世界各国で新しいサーキットの増設であったり、安全を考慮した新レギュレーションであったりと、

色々な事に「変化」が起こり始め、そんな時代になったから?か、どうかは分かりませんが、この時からホンダの参戦って始まる事となります。(笑)

また「moroGP」に変わる2002年まで、複数に分かれてたカテゴリーも、2スト500cc、250cc、125cc、と3種に排気量分けがハッキリされた事から、ホンダも「新たなマシン開発」が行われる事となります。

で、参戦した最初の2年間は、最高峰500ccクラスにおいて、それまで得意としてた4ストエンジンを搭載した「NR500(楕円ピストン)」をまず開発し、戦い開始となったのですが、

これが勝つどころか、どこに持ち込んでもまともに完走すら出来ない状況が続き、さらに開発も遅れがちで年間を通して1ポイントも獲得できないってお粗末な結果を残してしまいます。

そこで、さらに考えを改め新開発されたのが、1982年からの参戦となるホンダ初の2ストでのレーシングマシン「NS500」だった訳です。

また「最大の特徴」はなんと言っても、他社が2スト4気筒エンジンだったのに対し、この「NS500」は2スト「3気筒エンジン」を搭載していたところです。

そのメリットは車体のコンパクト化と軽量化、そしてマスの中心化からなる旋回性の良さなどが挙げられます、しかし当然トップスピードは4気筒ほど速くなく、

イタリアの「モンツァ・サーキット」の様な超高速サーキットは苦手としていました。

それでも「NS500」のトータルバランスの良さから、1983年にはあの天才ライダー「フレディースペンサー」選手によって最高峰500ccクラスで「ホンダ初のワールドチャンピオン」を獲得する事となります。

また、この「NS500」の特徴はそれだけでなく複数のブロック構造からなる新形状のアルミフレームであったり、足回りではリンク式のモノショックリアサスペンションであったり、

効率の良い排気チャンバーの形状であったり、それまでに無かった新しい装備が「てんこ盛り」だった事から今につながる「世界一のホンダ」としての「快進撃が始まった」と言える感じだったです。(笑)

で、初期モデル(NS2A-2X型)では、エンジンの最高出力が113psだったのに対し、最終モデルとなる(NS2C型)では130psまで出力が上がり、

ホイールサイズも初期がフロント16インチ、リア18インチだったのに対し、後期は前後とも16インチに変更され、130kgあった車体重要も110kg近くまで軽量化がなされる事となります。

また使用期間ですが、ホンダワークス(HRC)としては1985年までで、次の「NSR500」と併用して使われていました、またそれ以降に関しては1987年までプライベーターチームが使用する事となります。

さらに面白いところで言えば、1986年に「エルフ3」と言うフロントフォークが肩持ちの風変わりなマシンが開発されており、このマシンにも「NS500」の3気筒エンジンが使われていました。

この時代の「NS500」は市販のオートバイにも大きな影響を与えており、1984年には「NS250R」や、まさに同じ3気筒エンジンを搭載した「NS400R」が登場する事となります。

いやぁ、今見ても、ボクの様なオヤジライダーには、この時代のマシンに憧れを感じてしまいますね!(笑)





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スズキの中型250ccスポーツツアラー、スズキ・アクロス。(番外編vol.3290)

2022-06-22 00:19:46 | 日記

1980年代の後期から1990年代初期の頃って、まだまだ中型「レーサーレプリカ」が一番人気であり、それを追従する次のムーブメント「ネオクラッシック」も、徐々に数が増えつつあった時代にあって、

それ以外のオートバイに関しては、結局、出しては見ても「泣かず飛ばず」なモノになってしまう状況で、まさにそれにバッチリ該当する中の1台が、このスズキ「アクロス」だったりします。(笑)

いわゆるジャンルで言うところの、中型「スポーツツアラー」だったのですが、なぜか明暗を分けるカタチで同年に登場したカワサキ「ZZR250」と正反対の道を辿ることとなります。

で、その登場は共に、1990年からで「アクロス」に関しては、最終モデルで1998年まで生産されることとなります。

逆に、兄貴分の「ZZR400」や「ZZR1100」など「ZZR」シリーズとして、そこそこの人気モデルとなったカワサキ「ZZR250」は新しい排気ガス規制が起こる2008年まで生産される事となります。

この差は、間違いなくそれまでの経緯(歴史)にあり、カワサキに関してはそれ以前から地道に「スポーツツアラー」を輩出しており250ccクラスに関しても「GPZ250R」から「GPX250R」などがあり、

最終的にこの「ZZR250」の登場となったのに対しスズキ「アクロス」場合は、いきなり登場した状況だったので、ある意味「魅力不足」だった事が考えられます。

しかも1993年モデル以降に関しては、ほぼ何の仕様変更も行われておらず、結果としては惰性(だせい)で残りの5年間を過ごす事となります。

で、この「アクロス」の詳細なスペックを見てみますと、エンジンは当時のレーサレプリカ「GSX-R250」からの流用で水冷式4スト並列4気筒DOHC4バルブを搭載しており排気量は248cc、

最高出力が45psで、最大トルクは2.7kgとなっていました、もちろんツアラー仕様として中低速にトルクを配置し、高回転ではあったものの乗り味はマイルドになっていました。

また面白い構造で、本当のガソリンタンクはシート下に配置されており、見た目のガソリンタンクはダミーで、代わりにヘルメットが収まる収納庫と工夫がなされていました。

さらに、多くの積載を考慮して各所にフックが設けられており、とにかく使い勝手の良いオートバイと言う設計になっていた様です。

ただ残念ながら、この時代は今と違い「ツーリング」が主流となっていなかったので、この手の「スポーツツアラー」は非常に限られた方にのみに受け入れられてた経緯でもありました。

もし、今、この4スト4気筒エンジンを搭載し45psのパワーと電子制御を駆使したモデルが、スズキから登場したなら「物凄い話題と人気」を得る可能性がありそうですけど…。(笑)

そう考えれば、もしかしたら登場した「時代が悪かった」とも言えるかも知れないですね。(笑)

また余談ですが、スズキと言うメーカーは昔から「試験的な車両」を多く登場させる傾向があり、成功すればヒット商品となり、失敗すれば一瞬の販売期間で終わると言う「独特の思想」を持っています。

これが、良いとか悪とかではなく、常に「攻めの姿勢」である事からスズキファンも多い分、逆にアンチもいる為、実はよく観ればとても優れたオートバイであっても中には、

スズキと言うブランドイメージだけで、受け入れられなかっりする車両もあったりします。

個人的な意見ですが、もしかすると、この「アクロス」もそうでライバルの「ZZR250」が2気筒エンジンにも関わらず、ツアラーとして売れた事を知れば「売れててもおかしくなかった」気もします。(笑)

まあ、たられば話はこれくらいにして、最後に恒例の中古市場を見てみますと、大体安いもので35万円あたりから、高いものでも50万円前後で取引されています。

250ccで4気筒エンジンを搭載した車両としては結構お安いですよね。ただ8年間も売られた割に球数は劇的に少なく、状態の良し悪しに関わらず見つけるだけでも一苦労ありそうです。

さてそんなスズキの「アクロス」ですが、ツーリングが主流となってる現在にあって、これから乗るには非常に「条件の良いバイク」じゃないかって思うのですが、いかがなものでしょう!(笑)




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリアンカフェレーサーを彷彿させた、ヤマハ・SRV250/S。(番外編vol.3289)

2022-06-21 00:10:18 | 日記

まず、このネームから見てもお分かりに様に、既に名車となっていたヤマハ「SR」シリーズの「V型エンジン搭載」で同類ポジションに位置するのが、このヤマハ「SRV250/S」です。

排気量は250ccだけの単体モデルでしたが、初期モデルの登場は1992年からで、この時代に合うオートバイの流れを意識して開発された1台となります。

まず、1989年のカワサキ「ゼファー」シリーズの登場を切っ掛けに、突然襲って来た「ネオクラッシック」のブームは1990年代に入るとその勢いはより加速する方向に向かい、

各社からも類似したモデルが続々と登場する中、ヤマハもそんな流行りに乗っかるカタチで、トラディショナルなイタリアン風のカフェレーサーを模したモデルとして設計されたものでした。

そもそも、搭載されてたエンジンは先に登場したクルーザー系の「ビラーゴ250(XV250)」から流用されたもので、主流となってた水冷式と違い昔ながらの「空冷エンジン」が特徴となっています。

まぁ、いわゆる「ネオクラッシック」とは過去にあった「名車のリメイク」と言うものですが、そう考えるとこの「SRV250/S」に関しては若干それとは違い、元となるモデルは特になかったのですが、

1950年代から1960年代にかけてイタリアの小さなメーカーが製造してた過去のオートバイを模倣したモデルとされていたため、一応この時代の「ネオクラッシック」の仲間とされています。

で、その詳細なスペックを見てみますと、まずエンジンは「ビラーゴ250(XV250)」からの流用で、空冷式4ストV型2気筒SOHC2バルブで、排気量が248cc、

最高出力は27psと控えめで、最大トルクは2.5kgとなっていました、またフレームは1970年代からあった伝統的なダブルクレドール式が採用されており、フロントブレーキは片側のシングルを搭載、

ガソリンタンク容量は13リットリルで、市街地での平均燃費が約45kmとなってましたから、満タンからの航続距離はなんと585kmと言う「優れた燃費性能」を実現していました。

当時、まだまだ人気があった、250cc系の「レーサーレプリカ」が軒並み45psのパワーを誇っていた事を考えれば、この「SRV250/S」の27psはそれらと比べると非常に非力なものでしたが、

この「ネオクラッシック」と言うジャンルにおいては、スタイルコンセプトが最優先されてましたから、当然ながら「性能は二の次」だったので全然これで問題なかった様です。(笑)

また、この「SRV250/S」自体の最終モデルとしては1995年まで生産され、1996年からは。次の2世代目モデルとなる「ルネッサ」へとバトンタッチされます。

結局、「ルネッサ」も同じコンセプトのカフェレーサースタイルを意識したイタリアントラッドスポーツとされるので、この「SRV250/S」のコンセプトをしっかり受け継いだカタチとなります。

実際にこの「SRV250/S」がどの程度、世間に受け入れられたかと振り返って見れば、個人的な見解にはなりますが、そこまでの人気を獲得出来てはなかった様に感じられます。

その要因はやはり、当時の人気を得たモデルを見返して考えれば、過去にあった「明確な名車のリメイク」ものが圧倒的な人気車になってた事に気が付きます。

この「SRV250/S」の様な広い範囲(イタリアの旧車)で創造したものは、正確な意図が掴みづらかった事で世間的には分かりづらく、ただ「好みだけ」の魅力に留まったんじゃないかって思われます。

そんなこんなで最後にこの「SRV250/S」の中古市場を見てみますと、大体安いもので15万円あたりから、高いもので65万円前後で取引されている様です。

安いモデルは非常に安い傾向で、逆に高いものは、相当「状態が良い」か「カッコよくカスタムされた」ものに特化してる感じです。(笑)

販売から25年以上経ったモデルですが、特にオートバイ自体の価値はそんなに高くない傾向ですが、それだけにお手軽な1台と言える気もします、さていかがだったでしょう!(笑)






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする