ヤマハの国際レースへの参戦は1960年代の初頭から始まっており、他社の国産メーカーと共に各カテゴリー(排気量)で多くの勝利を収めていくのですが「WGP最高峰クラス」が、
かつて「4スト750cc」と「2スト500cc」の混戦だった状態から、我々世代(私56歳)がよく知る「2スト500ccのみ」のレギュレーションに変わったのって、実は1978年以降からの話になります。
ややこしいですが、ヤマハは参戦の初期から2ストマシンを製作しており、最大排気量にあたる500ccモデルの「YZR500」の初期モデルに関しては1973年からのスタートとなってるので、
1977年までは4ストの750ccマシンと同等に戦っていたと言う事です。まずここら辺あたりから複雑で分かりにくいですよね。(笑)
また、1970年代から各種の排気量で「市販レーサー」もいち早くヤマハから一般販売されており、多くのプライベーターのライダーたちも、この時代はヤマハを扱ってる人が多かった状況だったんですよね。
そんなヤマハの歴史を知りつつお話しするのですが、今日は中でも世界初の「2ストV型4気筒エンジン」を踏査した1982年より登場した「YZR500(0W61〜)」ってオートバイです。
この頃って、ボクが16歳を超えてオートバイに乗り出した頃で、レースに関しても今より強い興味を示してた時代でした。(笑)
またこの「YZR500(0W61型)」以前のマシンは全て「並列4気筒エンジン」だったので、あの天才ライダー「ケニーロバーツ選手」が2年連続(1979年・1980年)でタイトルを制した時は、
この「YZR500(0W61型)」より先代のモデルにあたる(OW45・OW48/R型)の頃になります。
で、この「YZR500(0W61型)」が登場した1982年はケニーロバーツ選手だけでなくスズキから移籍したあの「バリーシーン選手」や、舎弟の「エディーローソン選手」もヤマハで戦った時代でした。
また、先日お話ししたホンダ初の2スト500ccマシンである「NS500」の登場もこの1982年からで、超天才ライダー「フレディースペンサー選手」などと非常に熱い戦いが始まった年でもあったんですよね。
さらに話はそれますが、実は1980年代初頭で一番力を発揮してたのって、ヤマハでもホンダでもなく、スズキの「RGB500」が圧倒的なパフォーマンスを見せつけてた時代で、
とりあえずライダーは優秀だったのですが、マシンの有利性で「アドバンテージはスズキにあった」時代が1〜2年続いていました。その状態をひっくり返したのもこの1982年からだと言えるんですよね。
まさに1982年は、かつての戦国時代の様な、各社ほぼ「同格のポテンシャル」を持つマシンで戦い、さらに優秀なライダーが多く存在してた「激戦の時代」だったって感じです。(笑)
で、その翌年1983年(OW70型)にはフレームがのちの市販車に繋がる、ヤマハ独自のアルミ製デルタボックスフレームに、また時代を先取りした前後17インチのホイールが搭載されます。
さらに、1985年・1986年(OW81型)には大幅なエンジン改良とハンドリングの向上で10年ぶりのメーカータイトルを獲得、さらに翌年の1987年(OW87型)には2年連続でもメーカータイトルを獲得し、
1988年(OW98型)にはV型エンジンのバンク角をそれまでの60度から70度に変更し、よりハイパワーなものへと進化させます。
この時期のヤマハにとっても、この「YZR500」にとっても、なんと言っても知的な秀才ライダー「エディーローソン選手」の存在は大きく、最高峰「WGP500ccクラス」にて、
1984年、1988年、1989年と3回も、このヤマハ「YZR500」でワールドチャンピオンに輝いています。また国内ではあの努力家で天才ライダー「平忠彦選手」がこの「YZR500」で3年もの連勝記録を挙げており、
なんとなく、当時の我々(すっトボケた10代の峠小僧たち…(笑))としては「ヤマハとホンダの2強」とされる時代になっていくんですよね。(笑)
またこの頃の、ヤマハによる2ストでの市販車と言えば、名車「RZ」と高性能な「TZR」シリーズが挙げられますが、とにかく1年単位でオートバイが大きく進化されてた時代であり、
それだけに、こう言った「レース」や「マシン」が、いかに重要だったかが伺える時代でもあったと言えるんですよね。(笑)