申し渡す辛さ。

およそ斯道の大家であれば、後進が充分に育っていても、その組織に関わっていたいと思うものだ。自分がその組織を大きくしたという自負もあれば、自ら引き際を察するのは難しい。しかし、年を重ねれば、身だしなみも一人で整えられなくなる。剃り残しの長い髭などが数本喉の辺りにヒョロヒョロと生えているのを見れば、世話になった者としていたたまれなさと切なさが交錯した気持ちになる。誰かが言上しなければ、いわゆる“世間に老醜を晒す”ことになる。嫌な役だが「あなたしかいないでしょ」と言われた。申しあげねばならなかった……、できれば、迎えたくない今日だった。

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祝・2000回目のブログ

密蔵院のホームページが完成したのは2007年7月のこと。それからgooブログで、普段坊主がどんなことを感じて一日を過ごしているのかを書きはじめた。今回が2000回目である。わはははは。フェイスブックに転載しはじめたのは途中からだから、フェイスブックでは2000回になっていない。これからも、一日過ごして「なーんにも感じなかった。なーんにも記憶に残っていない日だった」ってなことがないように過ごしたいと思う。

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先を越される

午後3時になって、家内がいきなり中庭に出て、水をまきはじめた。誰もお客さんがくる予定はないから、中庭に水を打って出迎える必要はない。ああ、そう言えば、東京は空気が乾燥しているとお昼のニュースで言ってたっけ。まずい、私が先に気づいて水をやるべきだった。不覚を取った。ぐははは。こういうことでは、いかんのだ。

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踏青(とうせい)の季節

密蔵院前の歩道の茂みに生えている草は、葉が大から小へと重なって、さらに階層の間に小さな紫の花が咲いている。地べたにいる虫にとっては高楼閣だろう(誰か名前教えて!)。小学館から出ている「まほろば歳時記」シリーズ3の『花の名前』(高橋純子文・佐藤秀明写真)には、季節の分け方の中で「踏青(とうせい)」を「春めく野に若草を踏む野歩きのよろこび」と付記している。手もとの『大辞林』には「萌え出た草を踏んで野に遊ぶこと。古い中国の行事が移入されたもの。野遊び」とある。犬のウンコなど気にしないで草原を裸足で歩き、寝っころがって、踏青を楽しみたいと思った。

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ゆらーりゆらーり

誰かが種を巻いたのだろう。ポピーみたいな花も、玄関を出て20歩の植え込みに咲いている。ちょっとの風でキリンの首みたいな細長い茎がゆらーりゆらーりと揺れる。春風にのって柔らかなダンスしているみたいだ。空気(時代や環境)の流れに逆らわず、絶えることもせず、楽しむのもまた、いとおかしである。

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「そろそろ、俺たちもいく?」

密蔵院から歩道に出て100歩以内に、8種類の花が咲いていた。「あっ、あいつも咲いてるぞ。そろそろ俺たちも咲くかぁ」ってな具合で、日本の花らしく、他を見て安心して咲きだしたという気がする。

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不思議な話3--偽墓--

『中国怪異譚五』より。

「中国の曹操は、自分の死後、墓の盗掘を心配して、七十二の偽墓を作った」

ここからさまざまなドラマが始まることだろう。想像力を刺激されるエピソードである。

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不思議な話2-怪力無双-

『中国怪異譚六』(平凡社)より

 ある怪力の男は出された胡桃(クルミ)を、人指し指で叩いて割って食べた。叩くそばから殻が砕けていった。わはははは。

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不思議な話1--三妖怪-

『中国怪異譚六』(平凡社)からのご紹介である。

三妖怪

①衝州では、夜が老けると誰も出歩かない。鐘楼の上に、見るもおそろしい一本角の鬼がいて、人の足音を聞きつけるといきなり下りてくる。人が驚いて逃げると鬼はそのままひき返す。しかし、その鬼の顔を見たものは、たちまち病気にかかり、死んだ者も多い。

②城内のある池には、夜になると一疋の白い布が現れて、白い帯が地上に横たわっているような具合である。通りすがりの者がそれを拾うと、たちまち巻かれて水の中に引きずり込まれる。

③アヒルの鬼がいる。夜かふけて、池のほとりがしんしんとして、なに一つない時に、もしもその鳴き声を聞くと、たちまち病気になってしまう。

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成長を願いつつ

若い仲間が赤ちゃんや幼児をつれて遊びに来てくれる。その子たちが成人式を迎えるころ、私が生きていれば75歳を越えてしまう。そこで講談に出てくる言葉が口から出る。「早く大きくなってくれと、大きくなるのが待ち遠しくて、手足を持って引き伸ばしたいのは山々だが、そうもいくまい」。ぐははははは。それぞれが受け持ち時間を全うするしかない。

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