先日、高田明さんの講演を聴いた。ジャパネットたかた創業者で、昨年1月に代表取締役社長を長男に譲ったのはどこかで聞いていたが、TVショッピングへの出演からも引退されていたとは知らなかった。どうりで暫くお見かけしない。
講演冒頭で驚いたのは、いつもの上ずった・・・と言えば失礼だが、独特の甲高い声ではなく、実は低音のなかなか渋い声だったということだ。普段はこうなんです・・・と笑いをとる。しかし生まれ故郷(長崎県平戸市)の肥筑方言訛りは健在で、この朴訥としたイントネーションが独特の熱(テンション)を帯びて、えも言われぬ雰囲気を醸し出すのである。そしてこの日も、だんだん興が乗るとだんだん声が上ずって、ではなくて甲高くなって、その一途で一所懸命な様がこの方の魅力なのだとあらためて感じ入った次第である。
話す内容も、長崎の田舎町のカメラ屋「カメラのたかた」を一代で年商1500億円を越える大企業(エコポイントがついて地デジがバカ売れした2010年には年商1789億円!)に育て上げたカリスマ経営者にしては、決して大風呂敷を広げることなく、むしろ朴訥な声の調子そのままに、着実で地に足がついて堅実である。
例えば、成長の秘訣は、身の丈に合った経営をすることだと言う。自分のペースを守って、着実な成長を心掛ける。無理に背伸びをすると、急成長の歪みが生じて、サービスの質が低下し、お客さまに迷惑をかけることになりかねないから。だから、無理に株式上場を目指さない。もし上場したら、株主から短期間で高い成果を出すことを求められてしまうから。同じ理由で、創業以来、あえて売上目標を掲げて来なかった。高い売上目標を掲げ、社員に厳しいノルマを課せば、社内に歪みが生まれ、お客さまに迷惑をかけることになりかねないから。さらに競合他社のことも意識しない。競合他社に勝つことばかり考えていたら、例えば、お客さまが望まないような機能競争に巻き込まれかねず、従い商売の本質を見失ってしまいかねないから。大事なのは、お客さまの声を知ることであって、お客さまに喜んでもらうにはどうすればいいのか、日々考え、実行していけば、会社は自然と伸びていくと考える。
そのために、シンプルに考える生き方を勧めておられる。我々は過去でも未来でもなく、「今」を生きている。「今」を生きていると考えると、課題が見えてくる。課題は、常に目の前にあるものだ。目の前にある現状と課題をキチンと受け入れ、先々の理想を追い求めることなく、「今」の成功に一極集中し、「今」に向き合って全力で行動すれば、課題を一つ一つクリアしていくことが出来る。出来ることが1割でもあれば、それを膨らませることが出来るように考え続ける。ジャパネットたかたも、会社を大きくするという大いなる野心を抱いて「今」に至ったわけではなく、与えられた課題を一つひとつクリアする中で、少しずつ成長して来たのだと言う。未来を変えていくのは「今」しかないのだ。
原点は学生時代にあるように思われる。私も学生時代は勉強しなかったクチだが、高田明さんも(年代から想像できるように)ご多分に漏れず勉強しなかったらしい。しかし英語だけは別で、好きで一所懸命勉強し、卒業後も機械メーカーでヨーロッパを回りながら英語で商談する中で、本当に大切な英単語は1000くらいしかないと気が付いたと言う。大切なことは、ごく僅かな基本的な単語だけで話した方が伝わりやすく、上達すればするほど簡単な単語だけで喋るようになる、という事実だ。この原理・原則は英語でも日本語でも同じであり、TVショッピングのMCでも同じだと言う。仮にある商品の魅力がたくさんあっても、それらを全て喋るのではなく、大切な一つを選んできちんと伝える、その他の特徴もせいぜい5項目以内に絞って、専門用語を避け、簡単な言葉を使う、これらを英語から学んだのだと言う。
もう少し個人に引きつけて言えば・・・「今」の課題をコツコツこなしていけば、語学学習のように、いつか大きく飛躍する瞬間が訪れる。所詮、人は基本的に一歩ずつしか登れない。一日一段登れば、十日で十段、そこまで根気強く努力を続け、夢を持ち続けられるかどうかが成功するかしないかの分かれ道だ。人の成長は、突然訪れ、次の一歩は十段になるかも知れない。元ソニーの出井伸之さんが創業された会社の社名に使われている「クオンタム・リープ(飛躍的進歩、Quantum Leap)」という考え方だ。やってみなければ分からず、やり続けた人にしか起こらない。でもそんな過程を踏むと、毎日やり続けることが楽しくて仕方なくなるのだと言う。
まるで高田教の教祖のような、その朴訥ながら熱の籠った言葉につい惹き込まれる。未来への野心を消し、常に「今」に向き合い、目の前の課題に愚直に対処するところは、実に清々しいが、なかなか出来るものではない。実のところ上記内容は、ネットで拾った雑誌記事を講演内容に絡めて再構成したもので、実際の講演ではここまで明確に語られたわけではない。しかし、雑誌のように数百万人の目に触れる可能性がある厳密な言葉や文章と違って、講演会ではせいぜい数百人レベルで、ざっくばらんで気楽な言葉の多くは虚空に空しく消えてしまい、間合いを伴う雰囲気や気分の余韻とともに、幾ばくかのキーワードが記憶に残るだけだ。言ってみれば、タキシードの雑誌記事ではなく普段着の講演会にあって、高田明さんに大いに共鳴したことが二つある。
一つは、ビジネス・マンとしての基本姿勢だ。もとより零細自営業あがりのカリスマ経営者と、しがないサラリーマンの私とでは、所詮は月とスッポン、高田明さんは「今」を一所懸命生き、着実に目の前の課題(Bottle-neck)を克服してきただけと謙遜しつつ飽くまでポジティブなのに対して、そもそもサラリーマンになりたくなくて、今は世を忍ぶ仮の姿と諦観する私は常々、サラリーマン人生は流れに逆らうことなく、まさにテレサテンよろしく「時の流れに身をまかせ」、「貴方の色」ならぬ「会社の色に染められ」る人生だと揶揄して如何にもネガティブだ。そんな私は、売り手市場の異常な就職戦線で、様々な会社から(「うん」と言えば)すぐに内定を出すと迫られる、今思えば幸運で異常ですらある状況に戸惑いながら、将来性豊かと見られたハイテク企業を選び、それでも20年もてばいいと斜に構えて(つまり大いに期待したわけではなく)入社したからこそ、その後の冷戦崩壊とグローバル化の中で、ハイテクはほどなくコモディティ化し、無限の成長は単なる幻想に過ぎないことも分かって、社内失業の憂き目も一度ならず、その時々で恨めしくも思い、状況に腐ったこともあったが、その時々の仕事に対しては、私なりのプロとしての結果を求め続けて来られたのだと思う。今話題の舛添さん?だけでなく野心に溢れた多くの人たちを周囲に見て来たが、むしろ私は「私」を消して、全体最適を意識しながら会社や事業体として何がベストかを追及して来たのが、ささやかな私のプライドである。良くも悪くも事業環境が激変する中で常に「今」を生き、目の前の課題に挑戦して来たという意味で、高田明さんの生き方に親近感を覚えたのである。表現や夢の方向は違うけれども。
もう一つは、世阿弥の「風姿花伝」を愛読されていることだ。必ずしも原書でなくても、簡単な解説本でもいいから、最低10回は読んで欲しい、年齢とともに味わいも変わる、そんな読書経験を述べられて、能のことは知らないけれども世阿弥の言葉を愛する私との距離感は一気に縮まった。
それにしても高田明さんのポジティブさには畏れ入る。静かなエネルギーの源泉はどこにあるのだろう。人それぞれの生き方の違いと言ってしまえばそれまでだ。それでも誰にも多かれ少なかれ夢にかける思いがあり、そこに少し火を点けてもらったような気がする。そして、それを人は「元気を貰った」と称するのだろう。高田教の教祖たる所以だ。
講演冒頭で驚いたのは、いつもの上ずった・・・と言えば失礼だが、独特の甲高い声ではなく、実は低音のなかなか渋い声だったということだ。普段はこうなんです・・・と笑いをとる。しかし生まれ故郷(長崎県平戸市)の肥筑方言訛りは健在で、この朴訥としたイントネーションが独特の熱(テンション)を帯びて、えも言われぬ雰囲気を醸し出すのである。そしてこの日も、だんだん興が乗るとだんだん声が上ずって、ではなくて甲高くなって、その一途で一所懸命な様がこの方の魅力なのだとあらためて感じ入った次第である。
話す内容も、長崎の田舎町のカメラ屋「カメラのたかた」を一代で年商1500億円を越える大企業(エコポイントがついて地デジがバカ売れした2010年には年商1789億円!)に育て上げたカリスマ経営者にしては、決して大風呂敷を広げることなく、むしろ朴訥な声の調子そのままに、着実で地に足がついて堅実である。
例えば、成長の秘訣は、身の丈に合った経営をすることだと言う。自分のペースを守って、着実な成長を心掛ける。無理に背伸びをすると、急成長の歪みが生じて、サービスの質が低下し、お客さまに迷惑をかけることになりかねないから。だから、無理に株式上場を目指さない。もし上場したら、株主から短期間で高い成果を出すことを求められてしまうから。同じ理由で、創業以来、あえて売上目標を掲げて来なかった。高い売上目標を掲げ、社員に厳しいノルマを課せば、社内に歪みが生まれ、お客さまに迷惑をかけることになりかねないから。さらに競合他社のことも意識しない。競合他社に勝つことばかり考えていたら、例えば、お客さまが望まないような機能競争に巻き込まれかねず、従い商売の本質を見失ってしまいかねないから。大事なのは、お客さまの声を知ることであって、お客さまに喜んでもらうにはどうすればいいのか、日々考え、実行していけば、会社は自然と伸びていくと考える。
そのために、シンプルに考える生き方を勧めておられる。我々は過去でも未来でもなく、「今」を生きている。「今」を生きていると考えると、課題が見えてくる。課題は、常に目の前にあるものだ。目の前にある現状と課題をキチンと受け入れ、先々の理想を追い求めることなく、「今」の成功に一極集中し、「今」に向き合って全力で行動すれば、課題を一つ一つクリアしていくことが出来る。出来ることが1割でもあれば、それを膨らませることが出来るように考え続ける。ジャパネットたかたも、会社を大きくするという大いなる野心を抱いて「今」に至ったわけではなく、与えられた課題を一つひとつクリアする中で、少しずつ成長して来たのだと言う。未来を変えていくのは「今」しかないのだ。
原点は学生時代にあるように思われる。私も学生時代は勉強しなかったクチだが、高田明さんも(年代から想像できるように)ご多分に漏れず勉強しなかったらしい。しかし英語だけは別で、好きで一所懸命勉強し、卒業後も機械メーカーでヨーロッパを回りながら英語で商談する中で、本当に大切な英単語は1000くらいしかないと気が付いたと言う。大切なことは、ごく僅かな基本的な単語だけで話した方が伝わりやすく、上達すればするほど簡単な単語だけで喋るようになる、という事実だ。この原理・原則は英語でも日本語でも同じであり、TVショッピングのMCでも同じだと言う。仮にある商品の魅力がたくさんあっても、それらを全て喋るのではなく、大切な一つを選んできちんと伝える、その他の特徴もせいぜい5項目以内に絞って、専門用語を避け、簡単な言葉を使う、これらを英語から学んだのだと言う。
もう少し個人に引きつけて言えば・・・「今」の課題をコツコツこなしていけば、語学学習のように、いつか大きく飛躍する瞬間が訪れる。所詮、人は基本的に一歩ずつしか登れない。一日一段登れば、十日で十段、そこまで根気強く努力を続け、夢を持ち続けられるかどうかが成功するかしないかの分かれ道だ。人の成長は、突然訪れ、次の一歩は十段になるかも知れない。元ソニーの出井伸之さんが創業された会社の社名に使われている「クオンタム・リープ(飛躍的進歩、Quantum Leap)」という考え方だ。やってみなければ分からず、やり続けた人にしか起こらない。でもそんな過程を踏むと、毎日やり続けることが楽しくて仕方なくなるのだと言う。
まるで高田教の教祖のような、その朴訥ながら熱の籠った言葉につい惹き込まれる。未来への野心を消し、常に「今」に向き合い、目の前の課題に愚直に対処するところは、実に清々しいが、なかなか出来るものではない。実のところ上記内容は、ネットで拾った雑誌記事を講演内容に絡めて再構成したもので、実際の講演ではここまで明確に語られたわけではない。しかし、雑誌のように数百万人の目に触れる可能性がある厳密な言葉や文章と違って、講演会ではせいぜい数百人レベルで、ざっくばらんで気楽な言葉の多くは虚空に空しく消えてしまい、間合いを伴う雰囲気や気分の余韻とともに、幾ばくかのキーワードが記憶に残るだけだ。言ってみれば、タキシードの雑誌記事ではなく普段着の講演会にあって、高田明さんに大いに共鳴したことが二つある。
一つは、ビジネス・マンとしての基本姿勢だ。もとより零細自営業あがりのカリスマ経営者と、しがないサラリーマンの私とでは、所詮は月とスッポン、高田明さんは「今」を一所懸命生き、着実に目の前の課題(Bottle-neck)を克服してきただけと謙遜しつつ飽くまでポジティブなのに対して、そもそもサラリーマンになりたくなくて、今は世を忍ぶ仮の姿と諦観する私は常々、サラリーマン人生は流れに逆らうことなく、まさにテレサテンよろしく「時の流れに身をまかせ」、「貴方の色」ならぬ「会社の色に染められ」る人生だと揶揄して如何にもネガティブだ。そんな私は、売り手市場の異常な就職戦線で、様々な会社から(「うん」と言えば)すぐに内定を出すと迫られる、今思えば幸運で異常ですらある状況に戸惑いながら、将来性豊かと見られたハイテク企業を選び、それでも20年もてばいいと斜に構えて(つまり大いに期待したわけではなく)入社したからこそ、その後の冷戦崩壊とグローバル化の中で、ハイテクはほどなくコモディティ化し、無限の成長は単なる幻想に過ぎないことも分かって、社内失業の憂き目も一度ならず、その時々で恨めしくも思い、状況に腐ったこともあったが、その時々の仕事に対しては、私なりのプロとしての結果を求め続けて来られたのだと思う。今話題の舛添さん?だけでなく野心に溢れた多くの人たちを周囲に見て来たが、むしろ私は「私」を消して、全体最適を意識しながら会社や事業体として何がベストかを追及して来たのが、ささやかな私のプライドである。良くも悪くも事業環境が激変する中で常に「今」を生き、目の前の課題に挑戦して来たという意味で、高田明さんの生き方に親近感を覚えたのである。表現や夢の方向は違うけれども。
もう一つは、世阿弥の「風姿花伝」を愛読されていることだ。必ずしも原書でなくても、簡単な解説本でもいいから、最低10回は読んで欲しい、年齢とともに味わいも変わる、そんな読書経験を述べられて、能のことは知らないけれども世阿弥の言葉を愛する私との距離感は一気に縮まった。
それにしても高田明さんのポジティブさには畏れ入る。静かなエネルギーの源泉はどこにあるのだろう。人それぞれの生き方の違いと言ってしまえばそれまでだ。それでも誰にも多かれ少なかれ夢にかける思いがあり、そこに少し火を点けてもらったような気がする。そして、それを人は「元気を貰った」と称するのだろう。高田教の教祖たる所以だ。