風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

最後の零戦乗り

2016-05-06 00:39:21 | 日々の生活
 くまモンが三週間ぶりに復活したので、是非その活躍を称えたいところだが、今日は、それよりもある老人の死を悼みたい。長野在住の原田要さん。享年99。
 終戦時に飛行記録を焼却したため証拠は残っていないらしいが滞空時間8000時間と言われ、世界に誇る「零戦」を駆った歴戦の戦闘機パイロットとして、「自分の命は差し出して働く覚悟」「やらなければやられる極限の戦い」で、撃墜した敵機は19機に及ぶ。1933年に17歳で海軍に志願し、1937年、日中戦争の南京攻略で海軍航空隊の一員として初陣を飾った。1941年9月、空母「蒼龍」の乗組員になると、真珠湾攻撃作戦では上空援護の任務のため敵機と対峙しなかったが(当然真っ先に自分が行くと思っていたので、悔しかったらしい)、その後、ウェーク島の戦い、ポートダーウィン空襲、セイロン沖海戦に参加。ミッドウェー海戦では、帝国海軍が虎の子と誇った空母「赤城」「加賀」「蒼龍」の3隻が米軍爆撃機の空襲により次々と被弾・炎上・沈没し、母艦を失った原田さんは、唯一残った「飛龍」に着艦、短時間で整備を受けて発艦し(このとき滑走路は着艦した航空機で埋まり、わずか50メートルの滑走距離で奇跡的に飛び立つことができたそうだ)、連合艦隊機動部隊を最後の一機として護衛したが、「飛龍」も被弾し大爆発を起こしたため、燃料が切れて海面に不時着し、4時間の漂流の末、駆逐艦「巻雲」に救助された。ガダルカナル島の空中戦ではグラマンF4Fワイルドキャットと対戦し、撃退するも、自らも左腕に被弾し、零戦ごと密林に突っ込み、ジャングルを数日さまよって、海軍の特殊潜航艇基地に辿り着く。同基地で治療を受けたものの傷は悪化し、マラリア、デング熱も併発し、生死の境を彷徨ったという。内地送還後は飛曹長に昇進し霞ヶ浦航空隊教官を務め、戦場に戻ることはなかった(以上、朝日、産経、Wikipediaより)。
 日本が降伏すると、米占領軍による報復を恐れて隠れ、公職追放にも遭ったという。そして農業などをした後、1964年に自治会長になったことを機縁に託児所を開設、続いて幼稚園を経営し、園長として穏やかな日々を送った。その実、「零戦パイロットは人殺しロボット」などと言われて罪悪感に囚われ、長らく「零戦乗り」の過去については口を閉ざしてきたという。
 撃墜すると、一瞬だが間近で相手の様子が確認できるのだそうだ。敵機に致命傷を与える20ミリ機銃の弾丸は、両翼に60発ずつしかなく、確実に当てるためには、100メートル以内に接近し、時には5メートルほどの至近距離になることもあり、時速500キロ以上のスピードですれ違いながら、いかに米軍の後部銃手の攻撃をすり抜けて敵機に感知されないよう接近するか、機体を傾け、敵機の一方にすっと入り込む、熟練した操縦の腕が求められたという。そんな当時の様子が脳裏に浮かび、「撃墜すると安堵感と高揚感があって、その後、嫌な気分になりました。『あの男にも家族がいただろう』と想像したから…」(産経Web)
 転機となったのは1991年の湾岸戦争で、ニュース映像を見た若者が漏らした「テレビゲームみたい」という感想に衝撃を受け、何度も生死の境をさまよった自らの悲惨な体験を伝える決心をする。 「次世代が(戦争の)苦しみを味わうことのないように、私の体で感じたことを死ぬまで伝えていきたい」。
 壮絶な人生だったと言うべきだろう。右の産経も左の朝日も、その死を悼んだ。どちらかと言うと、産経は若き日々を国に捧げた零戦乗りの「誇り」に焦点を当てながら、朝日は「罪悪」という言葉を繰り返す原田さんが70年間苦しんできた「罪の意識」を強調しながら。しかし、いずれも尊いと思う。そんな中、朝日は伝えないが、産経が最後まで産経抄(朝日の天声人語に相当するもの)で拘ったメッセージがある。南京大虐殺は信用できないというものだ。1937年に日本軍が中国・南京を攻略した際、原田さんは海軍航空隊の一員として現地にいて、記憶にあるのは、露店が立ち、日本兵相手に商売を始めた住民の姿なのだそうだ。「南京大虐殺は信用できない。もしあれば、中国人はわれわれに和やかに接しただろうか」。こうした現実感覚は、とかく観念論が先立つこの問題を冷静に捉え直すために(もっと言うと、プロパガンダと化した歴史認識を垂れ流す中国の悪意を抑えるため)、もっと広く声高に宣伝してもよいように思う。
 何より、開戦の前年に誕生した零戦は、当初、世界一の戦闘機としての呼び声が高く、原田さんも「操作が楽で、微妙なところで舵が利くいい飛行機だった」と振り返ると同時に、「零戦が誕生しなければ、日本も真珠湾攻撃を考えなかった」だろうし、「真珠湾での勝利、零戦への過剰評価が、自信ではなく慢心につながった」とも冷静に振り返っておられる。至言であろう。そして、「私たちが命がけで守ったこの国の行く末が心配です」と呟かれる。アンビバレントに揺れる原田さんだからこそ、その言葉の重さに、私は深く心を揺さぶられるのである。私たちはあの戦争をまだ総括できていない。
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