風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

供給過剰の大学生

2012-11-08 02:22:30 | ビジネスパーソンとして
 先週の日経新聞に興味深い数字が出ていました。断片的には漏れ聞いていましたが、あらためて突きつけられると感慨深いものがあります。それは一面記事の「働けない若者の危機」という特集記事の第三部・シューカツ受難①で、「供給過剰の大学生」というサブタイトルを掲げて、大学進学率はほぼ四半世紀前の1985年に26.5%から2012年には50.8%に上昇し、毎年の卒業生は37万人から55万人に急増した、と説明されていたものです。少子化の時代にかかわらず。ところがほぼ同じ時期に、従業員1000人以上の大手企業の採用数は増加傾向にあるとはいえ現在15万人程度(従い大卒の3割未満)、人気100社に限ると1.6~1.8万人(同じく大卒の3%)と言うと早・慶の学生総数にほぼ等しい狭き門だというわけです。
 「大学は出たけれど」というキャッチフレーズは、昭和初期の就職難の時代を描いた小津安二郎監督の映画(1929年公開)のタイトルで有名になりました(その後、1955年に野村芳太郎監督の作品も公開)。卒業予定ながら内定がない4年生は10万人以上と言われ、毎年のように、ロストジェネレーションを再び出さないためにも早急な対策が必要・・・と叫ばれ続けて久しいですが、日本の経済が縮小して雇用を支える仕事が減る問題がある一方、大衆化すればやむを得ないとは言え大学生の価値もまた低下している問題が当然ながら指摘されます。
 こんな数字が頭に残っていたので、田中文科相が、秋田・札幌・岡崎の3大学の開校を不認可とした問題は、よりによってこんな時期に相変わらずの「人騒がせ」ではありましたが、問題意識としては間違いではないという思いは一層強くありました。今日の会見で、3大学の内の一つの関係者が「勝った」「学生が救われた」などと思わず発言したことには、却って反発を覚えました。経営が成り立たない大学のご苦労はあるでしょうし、学生は、確かに専門学校でも短大でもない、「四大」の肩書を無事得られるかも知れませんが、入るときの称号は何であれ、それが出るときの就職を約束するものではありません。まさに「大学」のもつ価値が希釈されているのに気付かず、学生はそんな「大学」の名誉に拘って、却って不幸になるのではないかと心配ですらあります。
 先の日経の特集記事に戻ると、従業員1000人未満の企業では、来春採用の求人倍率は1.79倍、従業員300人未満の企業では、3.27倍だそうです。明らかにミスマッチがあり、何かと学生の選り好みが問題視されますが、企業側が「質」による学生の選別を強めている現実もあるはずです。つまり求人すれどもひっかかるような人材がいない、田中文科相が指摘したように、大学の量より質の問題があると。さらに、短大生や高専、専修学校の学生も加えると、若い人の雇用を取り巻く環境は益々厳しくなるばかりで、本当に気の毒です。私は企業人なので、大学側の問題はさておくとして、こうした特集記事を見ると、最近はやりの生活保護問題とも相俟って、若い人(別に若い人に限りませんが)がしっかり自立して生き生きと働ける健全な社会を築く責任が私たちオトナにはあるはずだと、まさに失われた20年を前線で過ごしたオトナの一人として痛恨の極みでやるせない・・・という思いについ囚われてしまいます。
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