補遺と言いながら、余談。
前々回のブログで、安倍さんほど毀誉褒貶の激しい総理大臣は、憲政史上、かつてなかっただろうと書いたが、佐藤丙午教授(拓殖大学)は現代ビジネスに、「日本の総理大臣の中で、安倍首相以上に国内と国際の評価が異なる政治家は珍しい」と寄稿された。確かにその通りだと思う。このあたりは、安倍政権の外交・安全保障政策レガシーに関わることであり、少し紐解いてみたい。
前々回ブログに、ユーミンに暴言を吐いたとして登場した白井聡氏は、8月30日付の論座に「安倍政権の7年余りとは、日本史上の汚点である」と題する、なんとも刺々しい論考を寄せておられる(笑)。その中で、「単に政治的に支持できないのではなく、己の知性と倫理の基準からして絶対に許容できないものを多くの隣人が支持しているという事実は、低温火傷のようにジリジリと高まる不快感を与え続けた。隣人(少なくともその30%)に対して敬意を持って暮らすことができないということがいかに不幸であるか、このことをこの7年余りで私は嫌というほど思い知らされた」と、一種の被害妄想を吐露された。では何がそれほど問題なのかについて、「長期安定政権にもかかわらずロクな成果を出せず、ほとんどの政策が失敗に終わった。だが、真の問題は、失政を続けているにもかかわらず、それが成功しているかのような外観を無理矢理つくり出したこと、すなわち嘘の上に嘘を重ねることがこの政権の本業となり、その結果、「公正」や「正義」といった社会の健全性を保つために不可欠な理念をズタズタにしたことにほかならない。したがって、この政権の存在そのものが人間性に対する侮辱であった」とまで述べたてる。甚だ感情的に過ぎるが、要は政権運営や手法、権力の行使のあり方に批判的である(と言うより、常人の理解を絶するほどに「憎悪」されている)ことが分かる。ここまで言うのは極端にしても、私の周囲にも、日頃、尊敬できる諸先輩方の中に、TVで安倍の顔を見ると気分が悪くなるのでチャンネルを変える・・・などと憤然と話す方が一人や二人ではないところからすると、一般にアベガーと総称される人々に多少なりとも共通する「気分」ではないかと想像する(勿論、具体的に外交・安全保障政策を批判する人もいるとは思うが)。
こうした心情的反対派に加えて、安倍政権支持派にも政策面で不満が残ったと、佐藤丙午教授は説明される。「安倍政権の政策は、党派横断的に全ての人間を完全に満足させるものではなく、特定の政治的立場や主張に偏ったものではなかった。ここで偏った、という表現を使用するのは適切ではないかもしれない。ただ、全体的に見ると、安倍政権はバランスの取れた、中道的な政策を実施したのは否定できない」、その意味で、「皮肉な言い方をすれば、保守派などを中心とする安倍応援団は、首相によって『裏切られ』てきた」と述べておられる。その例として、第一期政権期に設置した安保法制懇の最終報告書の全てを採用せず、国内政治上受け入れ可能な内容以外は封印したことと、慰安婦問題で朴槿恵大統領との妥協に応じたことを挙げておられる。いずれも保守派には不満が残った。つまり、国内では反対派も賛成派にも不満が残ったというわけだ。
他方、海外の安倍政権への評価はおしなべて高い。ブルームバーグのインド人コラムニストはCOURRIER誌で、「アジア諸国が安倍首相の退陣を惜しんでいる」と題して、「自由で開かれたインド太平洋」構想を念頭に、「インドは中国軍とヒマラヤ山脈地帯で衝突し、オーストラリアは自国内の中国の影響と葛藤し、アメリカは国内の分裂で消耗するいま、安倍のとても日本的な形の自己主張はこれまで以上に、かけがえがないように思える」と絶賛したのは、インド人としてはまあ当然だと言えなくもない。9月8日付ニューズウィーク誌は、「世界が機能不全に陥った時代に日本を合理性のモデルとして世界に示すことに成功した、あまり愛されなかったリーダーのことを」「日本は懐かしく思い出すかもしれない」と書いた。トランプ大統領に悩まされるアメリカのリベラル派としてもまあ当然だと言えなくはない。また同誌でマイケル・オースリン氏(スタンフォード大学フーバー研究所)は、「安倍晋三は『顔の見えない日本』の地位を引き上げた」と題して、中国の台頭を念頭に、「安倍の辞意表明で中国政府がほっとしているのは間違いないだろうし、インド太平洋地域や世界における日本の役割の拡大に向け、後継の首相には安倍ほどのエネルギーもビジョンもない人間が就くことを期待しているはずだ」「米政府は過去10年近く、日本の指導者が日米同盟に完全に忠実で、国会でも多数の支持を得られて、世界第3位の経済大国にふさわしい役割を果たすかどうか、心配する必要がなかった。遠くない将来、アメリカと同盟国はそんな安倍時代を懐かしく思う日が来るかもしれない」と書いた。内政の運営手法にはさして興味がないであろう海外の人の目には、客観的に政策の筋の良さが認められ得るということだろうか。佐藤丙午教授は、「米国を国際社会に繋ぎとめることに成功している」し、「中国との関係では、民主党政権下で拗れた尖閣諸島の購入問題を解決し、日中双方が政治的に妥協できるレベルにまで関係を戻した」と評価される。しかし、北朝鮮による日本人拉致問題の未解決と、ロシアとの北方領土交渉の二つについては、「結果志向の外交・安全保障政策が大きな禍根を残した」と手厳しいが、感情的にならずに冷静に評価できる人には概ね首肯できる内容であろう。
佐藤丙午教授の場合は、外交・安全保障政策にフォーカスし、さらに党派性を峻別して述べておられるが、国内外の評価をひっくるめて、私のようにそれほど党派性に拘りがない者も含めて、外交・安全保障政策に注目すれば、安倍政権に対して高い評価を与えられるだろうし、内政、とりわけ行政や権力行使の統治の局面に注目するならば、白井聡氏は極端にしても、辛い評価になる、ということなのかも知れない。
前々回のブログで、安倍さんほど毀誉褒貶の激しい総理大臣は、憲政史上、かつてなかっただろうと書いたが、佐藤丙午教授(拓殖大学)は現代ビジネスに、「日本の総理大臣の中で、安倍首相以上に国内と国際の評価が異なる政治家は珍しい」と寄稿された。確かにその通りだと思う。このあたりは、安倍政権の外交・安全保障政策レガシーに関わることであり、少し紐解いてみたい。
前々回ブログに、ユーミンに暴言を吐いたとして登場した白井聡氏は、8月30日付の論座に「安倍政権の7年余りとは、日本史上の汚点である」と題する、なんとも刺々しい論考を寄せておられる(笑)。その中で、「単に政治的に支持できないのではなく、己の知性と倫理の基準からして絶対に許容できないものを多くの隣人が支持しているという事実は、低温火傷のようにジリジリと高まる不快感を与え続けた。隣人(少なくともその30%)に対して敬意を持って暮らすことができないということがいかに不幸であるか、このことをこの7年余りで私は嫌というほど思い知らされた」と、一種の被害妄想を吐露された。では何がそれほど問題なのかについて、「長期安定政権にもかかわらずロクな成果を出せず、ほとんどの政策が失敗に終わった。だが、真の問題は、失政を続けているにもかかわらず、それが成功しているかのような外観を無理矢理つくり出したこと、すなわち嘘の上に嘘を重ねることがこの政権の本業となり、その結果、「公正」や「正義」といった社会の健全性を保つために不可欠な理念をズタズタにしたことにほかならない。したがって、この政権の存在そのものが人間性に対する侮辱であった」とまで述べたてる。甚だ感情的に過ぎるが、要は政権運営や手法、権力の行使のあり方に批判的である(と言うより、常人の理解を絶するほどに「憎悪」されている)ことが分かる。ここまで言うのは極端にしても、私の周囲にも、日頃、尊敬できる諸先輩方の中に、TVで安倍の顔を見ると気分が悪くなるのでチャンネルを変える・・・などと憤然と話す方が一人や二人ではないところからすると、一般にアベガーと総称される人々に多少なりとも共通する「気分」ではないかと想像する(勿論、具体的に外交・安全保障政策を批判する人もいるとは思うが)。
こうした心情的反対派に加えて、安倍政権支持派にも政策面で不満が残ったと、佐藤丙午教授は説明される。「安倍政権の政策は、党派横断的に全ての人間を完全に満足させるものではなく、特定の政治的立場や主張に偏ったものではなかった。ここで偏った、という表現を使用するのは適切ではないかもしれない。ただ、全体的に見ると、安倍政権はバランスの取れた、中道的な政策を実施したのは否定できない」、その意味で、「皮肉な言い方をすれば、保守派などを中心とする安倍応援団は、首相によって『裏切られ』てきた」と述べておられる。その例として、第一期政権期に設置した安保法制懇の最終報告書の全てを採用せず、国内政治上受け入れ可能な内容以外は封印したことと、慰安婦問題で朴槿恵大統領との妥協に応じたことを挙げておられる。いずれも保守派には不満が残った。つまり、国内では反対派も賛成派にも不満が残ったというわけだ。
他方、海外の安倍政権への評価はおしなべて高い。ブルームバーグのインド人コラムニストはCOURRIER誌で、「アジア諸国が安倍首相の退陣を惜しんでいる」と題して、「自由で開かれたインド太平洋」構想を念頭に、「インドは中国軍とヒマラヤ山脈地帯で衝突し、オーストラリアは自国内の中国の影響と葛藤し、アメリカは国内の分裂で消耗するいま、安倍のとても日本的な形の自己主張はこれまで以上に、かけがえがないように思える」と絶賛したのは、インド人としてはまあ当然だと言えなくもない。9月8日付ニューズウィーク誌は、「世界が機能不全に陥った時代に日本を合理性のモデルとして世界に示すことに成功した、あまり愛されなかったリーダーのことを」「日本は懐かしく思い出すかもしれない」と書いた。トランプ大統領に悩まされるアメリカのリベラル派としてもまあ当然だと言えなくはない。また同誌でマイケル・オースリン氏(スタンフォード大学フーバー研究所)は、「安倍晋三は『顔の見えない日本』の地位を引き上げた」と題して、中国の台頭を念頭に、「安倍の辞意表明で中国政府がほっとしているのは間違いないだろうし、インド太平洋地域や世界における日本の役割の拡大に向け、後継の首相には安倍ほどのエネルギーもビジョンもない人間が就くことを期待しているはずだ」「米政府は過去10年近く、日本の指導者が日米同盟に完全に忠実で、国会でも多数の支持を得られて、世界第3位の経済大国にふさわしい役割を果たすかどうか、心配する必要がなかった。遠くない将来、アメリカと同盟国はそんな安倍時代を懐かしく思う日が来るかもしれない」と書いた。内政の運営手法にはさして興味がないであろう海外の人の目には、客観的に政策の筋の良さが認められ得るということだろうか。佐藤丙午教授は、「米国を国際社会に繋ぎとめることに成功している」し、「中国との関係では、民主党政権下で拗れた尖閣諸島の購入問題を解決し、日中双方が政治的に妥協できるレベルにまで関係を戻した」と評価される。しかし、北朝鮮による日本人拉致問題の未解決と、ロシアとの北方領土交渉の二つについては、「結果志向の外交・安全保障政策が大きな禍根を残した」と手厳しいが、感情的にならずに冷静に評価できる人には概ね首肯できる内容であろう。
佐藤丙午教授の場合は、外交・安全保障政策にフォーカスし、さらに党派性を峻別して述べておられるが、国内外の評価をひっくるめて、私のようにそれほど党派性に拘りがない者も含めて、外交・安全保障政策に注目すれば、安倍政権に対して高い評価を与えられるだろうし、内政、とりわけ行政や権力行使の統治の局面に注目するならば、白井聡氏は極端にしても、辛い評価になる、ということなのかも知れない。
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