風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

反日(1)中国の排外の系譜

2012-10-01 00:06:46 | 時事放談
 もはや泥仕合の様相と言うべきでしょう。「泥仕合」と言うと、「互いに相手の欠点・失敗・秘密などを言い立てて非難しあう醜い争い」(三省堂大辞林)になってしまいますので、日本はあくまで手を汚さないでやんわりと主張したのに対して、中国が一方的に泥を投げつけて、引きずり込もうとしている・・・ようなイメージでしょうか。
 国連総会の一般討論演説の中で展開された中国・外相の理屈によると、尖閣諸島は「中国・古来からの固有の領土」であり、この点に関し「そもそも議論する余地のない歴史的、法的証拠も持っている」ものである故、日本政府による尖閣諸島の国有化は「中国の主権に対する重大な侵害」であり、戦後の国際秩序を大きく乱すだけでなく、「国連憲章の目的と精神に合致しない」となります。減らず口にも程がありますが、あろうことか「日本の行為はまったく違法、無効であり、日本が中国から尖閣諸島を盗んだという歴史の事実を変えようとするのは言語道断」とまで指弾したのだそうです。
 日本は、すぐさま同演説に反論する答弁権を行使し、日本の尖閣諸島領有の歴史を詳細に説明した上で、「日本の固有の領土」であることを主張したのは当然ですが、すかさず中国は答弁権を行使し、「日本は歴史をまたも歪めている。中国の領土への強硬姿勢を正当化している」などと非難した上で「(尖閣諸島を)盗んだ」などと再び強弁したようです。日本が二度目の答弁権行使で「歴史的事実と国際法に基づき、尖閣諸島は日本の固有の領土だ」と主張すると、中国の国連大使は「日本は、植民地主義者として侵略した罪の意識がない」などと罵倒したといいます(以上、産経新聞)。
 その前日(26日)、野田総理は、領土や海域をめぐる紛争について「国際法に従い解決する」と主張した際、中国を名指しで批判することはありませんでした。「国連の討議では、ある国が他国の名前を挙げない時、相手国もそれに従うのが筋」(国連外交筋)なのだそうですが、中国はそれを無視して日本を名指しした上、「(日本が尖閣諸島を)盗んだ」「強盗のロジックと同じ」「(違法な)マネーロンダリング(資金洗浄)のようだ」「植民地主義的」などと何度も形容し、「国連総会という各国の首脳・閣僚クラスが一堂に会する場で、これほどの言葉を聞いたことは過去にない」(国連筋)、いやしくも安保理常任理事国の発言だけに「安保理の品格を貶めるもの」(安保理外交筋)との声まであがっているようです(同じく産経新聞)。
 さて、ここ一週間で、中国当局は、23と27日に予定されていた日中国交正常化40周年記念式典を当面延期(=無期延期)つまり事実上中止に追い込んだのをはじめ、日本との経済・文化交流イベントを中止したり、日本製品不買運動を容認したりするなど、露骨な対抗措置は見苦しいばかりです。在日中国大使館の広報担当は、27日の定例記者会見で、中国が日本製品の通関を強化している問題について「日本の不当な島購入行動が中日貿易関係の正常な発展に影響を及ぼし、損害を与えている」と語り、尖閣諸島国有化への対抗措置として通関を強化したことを事実上認めた上、「こうした局面は中国としても見たくない」と述べ、責任は日本にあるとの立場を強調したのだそうです。また、反日デモが暴徒化し、日系企業に損害を与えたことに関しても、「(国有化で)中国人民の極めて大きな憤りを引き起こした結果であり、国民の自発的な行動だ」と説明し、謝罪しなかったそうです(これも産経新聞)。
 いつか見た夢・・・デジャブヴと言います。反日デモが暴徒化し、それでも日本のメディアは飽くまで反日デモと呼び続けたのに対して、佐藤卓己氏(京大大学院准教授)は、投石も放火も略奪も「暴力」であり、これを正確に表現すれば「反日テロル」ではあるまいかと、苦言を呈しておられましたが、「愛国無罪」の名のもとに政府が真面目に取り締まろうとしないのをよいことに勝手御免の狼藉を働く暴徒を指して、まるで(文革の)紅衛兵だ、いやいや義和団だ、などとツイッターで呟く声が飛び交ったのだとか。
 文化大革命の時期に台頭した全国的な青年学生運動である紅衛兵は、「『破四旧』(旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣の打破)を叫んで街頭へ繰り出し、毛沢東語録を手に、劉少奇や小平に代表される実権派、反革命分子を攻撃した。ジーンズをはいた若者を取り囲んで服を切り刻んだり、老舗の商店や貴重な文化財を片っぱしから破壊し、果ては多くの人々に暴行を加え死傷させた」のでした。そして、毛沢東主席は、「造反有理(造反にこそ道理あり)」、後には「革命無罪(革命に罪なし)」として、「資本主義の道を歩む実権派」を攻撃することを擁護したのでした。しかし「次第に毛沢東思想を権威として暴走した彼らは、派閥に分かれ反革命とのレッテルを互いに貼り武闘を繰り広げ、共産党内の文革派ですら統制不可能となり」「党の権力者や知識人だけでなく全国の人民も対象として、紅衛兵による組織的な暴力を伴う全国的な粛清運動が展開され、多数の死者を出したほか、1億人近くが何らかの被害を被り、国内の主要な文化の破壊と経済活動の長期停滞をもたらすこととなった」のでした(いずれもWikipediaより)。
 「中国中央政府に盗賊団や学生放火魔を取り締まるよう要請しても期待できない。しかし、『アメリカ資産に手を出すな』とお触れを出させるくらいのことを要求する権利はある。しかし保護するどころか、過激排外学生におもねり、略奪を奨励する政府である。略奪行為の多くを私はじかに知っているのであるが、これに荷担した政府役人でも何のお咎めもなし。全在中国領事館を調査したら、1927年に国民党が政権を握ってからの略奪事件だけでも数千件にも上ると思われる。」こう述べたのは、1931年からアメリカの副領事として上海、その後、福建省福州で勤めたラルフ・タウンゼント氏で、1933年に出版した「暗黒大陸中国の真実」(芙蓉書房出版)からの引用です(私は読んだことがありませんので、伊勢雅臣氏によります)。
 義和団事件は、学生時代の歴史で習った微かな記憶しかなく、あらためてWikipediaで辿ってみると、当時、「アロー号戦争(第二次アヘン戦争)後に結ばれた天津条約では、清朝内陸への布教を認める条項(内地布教権)が挿入されており、以後多くの外国人宣教師が内地へと入っていった。(中略)外国人宣教師たちは、宗教的信念と戦勝国に属しているという傲岸さが入り交じった姿勢で中国社会に臨み、その慣行を無視することが多く、しばしば地域の官僚・郷紳と衝突した」といった背景があったとは言え、「(前略)山東省から押し出された義和団は直隷省(現在の河北省と北京)へと展開し、北京と天津のあいだの地帯は義和団であふれかえる事態に至った。直隷省は山東省以上に、失業者や天災難民が多くおりそれらを吸収することによって義和団は急速に膨張した。そして外国人や中国人キリスト教信者はもとより、舶来物を扱う商店、はては鉄道・電線にいたるまで攻撃対象とし、次々と襲っていった(後略)。」そして清朝政府は、外国人を守るどころかその虐殺に理解を示したため、欧米諸国と日本は結束して、自国民保護のために出兵したのでした。
 こうして排外の系譜は、共産党独裁の中華人民共和国だけでなく、それ以前の中華民国、清王朝、そして恐らく中国4千年の歴史を通して辿ることが出来ます。そこに一貫して流れるのは、「中華思想」でしょう。
 かつて古代インドから、「秦」を語源として「シーナスタン」と呼ばれ、ヨーロッパに伝わってCHINAとなり、日本には仏典とともに「震旦」として伝わりました。その「シーナスタン」を中国自らが漢訳したのが「支那」とされ、清が崩壊した後、漢民族が支配する地域を表現する言葉として、日本でも「支那」と呼ばれる時期がありました。ところが1930年に当時の中華民国から「支那」の呼称を止めて欲しいとの要請があり、以来、中華民国の略称としての「中国」が使われ現在に至っています。他方、中国人が自称する「中国」とは、周辺の夷狄(未開の野蛮人、つまり東夷・西戎・南蛮・北狄)に対立する概念として、文字通り優れた文化・文明の華咲く中央の国という意味の美称です。中国人は、今は中華人民共和国の略称としての「中国」だと言いますが、日本だけは同じ漢字文化圏にあって、中国人の美称を使わされているとも言えます。その本質は、漢民族こそ最も優秀であり、常に周辺の異民族を見下し、服従・朝貢を強要し、従わない者に対しては容赦なく侵略し、殺戮・略奪を恣にする独善性にあります(このあたりの国名を巡る論考は、杉山徹宗氏や拳骨拓史氏など)。こうして思想としての「中華」と、遊牧民族由来の性格としての攻撃的な破壊性は、DNAとして脈々と受け継がれ、それだけであればアングロサクソンとも大して変わりませんが、近代法治国家の鎧を纏わずに素朴な民族性として形成されているところに、厳密に言うと、欧米に対するのと日本を含む東アジア諸国に対するのとで明らかに対応が違うダブル・スタンダードに、中国の異質性を読み取ることが出来るように思います。
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