風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ゆりこはゆりこでも

2017-10-21 11:01:39 | 時事放談
 「石田ゆり子(48)が、すごいことになっている」とは、産経電子版による。「男女を問わず人気を広げて、ドラマやCMにひっぱりだこ。“ゆり子バブル”が到来したといっても過言ではないだろう」とまで言われている。昨年のTBS系「逃げるは恥だが役に立つ」に出演して以降、いまや癒やし系女優の代表格となり、男性が、と言うより、女性が支え、しかも20~40代と幅広い層で人気を得ているのだという。「肩肘を張らない自然体の様子が、こうした女性たちにとって憧れの存在」(広告代理店関係者)になっており、実際のところ、インスタは110万のフォロワーがいるほどの人気ぶりで、「すっぴんに近い自然体の石田や、一緒に暮らす犬やネコの写真が多く、男性ファンを意識した投稿は少ないほうです。むしろ、石田が着こなすファッションに注目する女性の書き込みなどが多いのも特徴」(芸能サイト編集者)ということらしい。ほほう。
 もう一人のゆりこと言えば、ユリノミックスなる造語まで生まれた小池都知事だ。こちらも、逆の意味ですごいことになっている(ようだ)。一時期は、救世主の如くもてはやされ、それこそ「百合子バブル」が到来し、心ある自民党の心胆を寒からしめたはずだったが、いつの間にかバブルははじけてしまった。このあたりの動きは、ツイッターの時代になって加速しているように思う。百合子さんにとって、自民党は大悪党、民進党は小悪党だったようで、私もそれに異存はないが、その小悪党を懲らしめたつもりの「排除」発言によって、もともと売りにしていた権力に立ち向かうイメージが、権力側に立つ悪代官(ヒール)のイメージに変わってしまったのだろうか。いったん逆回転を始めた歯車は、今どき、あらぬものまで巻き込んで加速する。私自身は、政党である以上、理念を同じゅうする人たちが結集するのが当たり前と思っているが、民進党左派を「排除」した仕打ちは底意地の悪さ(飽くまでイメージだが)と受けとめられ、都政では見るべき成果がなくパフォーマンスだけというイメージも呼び覚まされ、さらにかつて「政界の渡り鳥」と呼ばれた計算高さまでほじくり返されて、爽やかさを際立たせんとするイメージカラー黄緑色の衣装では隠しおおせなくなってしまったように見える。東京都議会議員選挙で奏功した追い風がそのまま吹き続けることを期待し、都知事のまま国政の政党(希望の党)の代表を引き受け、衆院選の勝負に打って出たのだったが、風は立憲民主党にさらわれてしまった。ドタバタ劇で沈んだだけだという言い方でもいいが、背景に、どうも世論の読み違えというか国民性への誤解があったように思う。
 党を立ち上げ、「改革保守」という矛盾した用語を組み合わせてまでして「保守」を標榜し、ヌエの如き民進党を「選別」し整理したとき、自民党や民進党といった既存政党に飽き足らない「保守」層を取り込めると踏んだのは間違いないだろう。実際、シルバー民主主義のもと、無党派層のかなりの部分を「保守」化した若者が占めていると誤認しても止むを得なかったと思う。しかし若者は必ずしも「保守」化したわけではなさそうで、左傾化した既存メディアしか見ない高齢者層と違って、専らネットに依存する彼らは左傾化した既存メディアに毒されていないだけのようだ。その証拠に、若者ほど中国への親近感は高いというデータがある(意外な話だが、飽くまで相対的に、と言うべきもので、国民全体では過去20年間、史上なかったほどまで親近感は低下しているのだが)。それはともかく、百合子さんが「保守」を標榜したからと言って、民進党を超え、消極的に自民党を支持する「保守」層を味方につけ、あるいは(野党を支持しないと言う意味では「保守」的だが自民党を積極的に支持したくないと思っているはずの)無党派層を取り込めると想定していたとすれば、誤りではなかったかと思うのだ。自省もこめてそう思う。
 国民は、信頼できる「保守」を求めているのではなく、単に自民党に飽き足らず、その受け皿を求めているだけなのではないかと思うのだ。それは2009年の「政権交代。」がそうだったし、これに懲りてその後しばらくは自民党に回帰したが、またぞろ「安倍一強」「反・安倍政治」といった左傾メディアの政治宣伝にほだされて、自民党以外の受け皿を求める今もそうだ。そのときに、「保守」が旗印でなくても構わなくて、およそ政策の傾向や政治信条で選んでいるわけではなさそうなのは、結果として「排除の論理」を振りかざしてネガティヴなイメージで傷ついた百合子さんが支持を失って、民進党左派と言われた所謂護憲派の立憲民主党が代わって支持を得ている現象からも裏付けられる。
 どうも日本は欧米と違って、「リベラル」と「保守」といった区分が馴染まないようだ。そもそも「リベラル」の定義自体が欧米とは異なっていて、私もこのブログで「リベラル」と言うときは日本的な意味での「リベラル」、すなわち冷戦時代の左翼や左派や進歩派や革新であり、冷戦後の護憲派の意味で使っており、欧米での本来的な意味での「自由主義と進歩主義のコンビネーション」(三浦瑠麗さん)ではない。「歴史的に見たリベラルの出発点は、王や貴族に対するブルジョアジーの反抗であり、自分たちが正当な競争で得た財産をお上から守ろう、という私有財産制の主張です。その上で、世界の変化に際し進歩を担う側と、暴力的変革を忌避して押し戻そうとする側に分かれ、それがリベラル対保守の構図になった」(同)ということだ。確かに、この観点での日本と欧米とりわけ英国との歴史的な相違は明確で、イギリスの王は征服者・支配者といった「権力者」として君臨し、ブルジョアジーをはじめとする反抗があって、「支配」「被支配」の対立の構図が続く中で民主主義を発展させていくことになるのだが、日本で王と言えば、かつて民家のカマドから煙が立ち上らないのは炊くもの(食べるもの)がないからではないかと民衆の生活を気遣ったとかいう仁徳天皇に象徴されるように、民衆の側に立つ「権威者」に過ぎない。天皇・貴族の政治が天皇の支持を得た幕府政治へと受け継がれ、武士という「権力層」が出現したが、「自由」を求めて立ち上がるといった国民的な経験はない。
 それにつけても思い出すのは、大学に入学したての頃、北海道出身で寮に住むクラスメイトが、寮の自治闘争のために英語の講義(授業)を乗っ取ったときのことだ。教授もものわかりがよくて、文句を言うわけでもなく、講義は流れてしまった。それ自体も驚きだったが、まあそこには最初の二年間の教養課程を重視しない(ある意味では身勝手な)学生の根強い伝統があるからよしとしよう。むしろそのクラスメイトが「自由は勝ち取るものだ」と演説をぶったことに違和感を覚えたのだった。それは欧米の歴史の請け売りであって、日本の歴史ではない。そんな彼も今はのうのうと厚生労働省の役人をやっている(笑)
 日本ではなかなか政策論争にならなくて、単に「反」安倍とか「反」安保法制とか「反」改憲にとどまって、なんとなくそれでよしとする雰囲気があるのは、そんな日本の歴史に根差すような気がするのは、独断に過ぎるだろうか。こうして百合子さんは政治心情的に近い自民党ではなく敢えて政権交代可能な新しい「保守」を唱えた新党を立ち上げて、その主張(それ自体はさしたる訴えにならなかった)ではなく単なるその手段によって自滅した、ように見える。そしていつの間にか百合子さんの口から天下国家論が聞かれることは少なくなり、代わって「モリ・カケ」非難が増えているようだ。寂しい限りの選挙戦の一風景だ。
 明日の投票日には台風が接近する。伝統的に悪天候や逆に行楽日和は固定票をもつ共産党や公明党やかつての自民党が有利とされたものだが、期日前投票も増えるご時勢、どこにどう影響するものだろうか。
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