風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ゲバラの見果てぬ夢(中)

2017-10-15 13:06:39 | 日々の生活
 チェ・ゲバラは、フィデル・カストロの外交特使として、キューバ革命が成就してから半年後の1959年6月12日から9月8日まで3ヶ月弱の長期外遊に出たときに、日本に立ち寄っている。そのときに彼が抱いた日本の印象が興味深い。
 農地改革庁工業相に就任する前のことだったが、革命の英雄として著名だったのだろう、エジプトではナセル大統領に会い、スエズ運河を視察後、パレスチナのガザ地区やシリアを訪れ、インドではネルー首相に会い、ビルマ(ミャンマー)、タイ、香港に寄った後、7月15日に羽田空港に降り立ち、藤山愛一郎外相や池田勇人通産相や福田赳夫農林相や東竜太郎東京都知事と表敬会談している。そして、7月25日、予定されていた千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に行かずに広島へ向かい、原爆ドームを眺め、原爆死没者慰霊碑に献花し、平和記念資料館、原爆病院、広島県知事を訪ねた。広島の印象は強烈だったようで、フィルム4本を費やして写真に記録したという(そのときの写真の一部は、二ヶ月前に私が見に行った「写真家チェ・ゲバラが見た世界」に展示され、言わば目玉だった)。同行した大尉に、この恐るべき現実を見たからには広島と広島の人々を一層愛したいと思った、と語り、妻アレイダには「広島のような地を訪れると、平和のために断固闘わなければならないと思う」と書き送ったという。そして接待した広島県職員には「日本人は、米国にこんな残虐な目に遭わされて怒らないのか」と腹立たしそうに問い掛け、取材した中国新聞の記者には「なぜ日本は米国に対して原爆投下の責任を問わないのか」と質したという。米帝国主義こそ正面の敵と捉えるチェの面目だろう。そして訪日の印象として「工業の再建には目を見張るものがある。だが民族的誇りが失われていると感じた」と総括した。
 「米国の力に従属する日本」を感じとったのは、当然だろう。エコノミック・アニマルと揶揄されるようになるのはもう少し後のことだが、戦後14年、占領統治を脱して独立を果たしてから7年(因みに千鳥ケ淵戦没者墓苑はこの年3月に竣工している)、4月には東海道新幹線の起工式が行われ、5月には64年の東京オリンピック開催が決定して、冷戦構造下でもその緊張に直接晒されることなく、吉田ドクトリンの軽武装・経済成長に邁進し、戦後復興に沸いていた頃だ。バイアスがかかったアルゼンチン人・民族主義者の目には、国内はおしなべて民主的で勤勉な国民が驚異的な経済発展を遂げつつあるのが羨ましくもあり、他方で民族の自主自立への気概が置き去りにされているのが物足りなくも思われ、それが偽りの平和に見えたとしても不思議はない。そしてそれは58年後の今もさして変わっていない。
 その長期外遊の後のことになるが、キューバ革命政権の経済運営は、なかなかうまく行かなかったようだ。チェは徐々に共産主義に傾倒するが、人材の壁にぶち当たる。中央銀行総裁当時のチェがアルゼンチンの詩人フアン・ヘルマンに対して、「中国が羨ましい。長期の戦いで何万という幹部が育った」と語ったところを読んで、ハッとなった。生涯を通じて戦いを繰り返したチェの実感だろう。それは個人の能力のことではあるものの、組織のありようとして中国共産党だけではなくどんな組織にも、企業にも当てはまるように思う。戦いは試練と置き換えてもいい。私の会社は戦っているだろうか・・・ふと、不安に思った。その後、キューバの初代工業相になったチェは、生産性停滞の原因として労働規律の緩みや効率の悪さを問題視し、労働者の生産意欲をどう高めるかについて、物質的刺激をやむを得ず用いる場合は副次的なものに留まるとし、あくまで社会主義的情熱が基本だと主張したという。物質的刺激が盛んになれば革命的情熱は薄れ、資本制復活に繋がると危惧し、その兆しをソ連・東欧圏に垣間見ていたわけだ。そして、チェは率先して日曜や祭日を返上して砂糖黍を刈ったり工場で働いたりして、自発的労働の模範を示したらしい。チェは飽くまで理想主義的である。フランス人ジャーナリストのジャン・ダニエル(ケネディ大統領の密使として米国とキューバの和解工作を担ったとされる)に、「共産主義の倫理を欠いた経済中心の社会主義に興味はない。マルクス主義には利潤だけでなく利己心もなくすという基本目的がある。これを軽視したら共産主義は単なる生産再分配の方法となる。より多く生産し、よりよく食べるということなら資本主義者は我々よりずっと有能だ」と語っている。熱帯キューバに並はずれた努力を求めたが、熱帯ではチェのような頑張り過ぎは異常なのだったと、本書でも述べられているが、それとともに、後発国が資本主義的発展の前に多少なりとも社会主義的手法で経済の底上げを図るというのは分からないではないが、個人の欲望を些か軽視したのは、チェ自身の目線の高さのままで世間を見る誤謬であり観念的に過ぎたと言うべきだろう。
 そんなチェには、謎めいた、取っつきにくい人物だと見られるところがあったと言われると、なんとなく納得する。関心のない相手や気に食わない相手には冷淡だったという。哲学者レジス・ドゥブレに「アルゼンチン人の私は熱帯では迷子同然だ。私は打ち解けにくく、フィデルにあるような意思伝達の能力に欠けている。私はつい黙してしまうのだ」と語っているし、「革命戦争断章 コンゴ」の中で自ら告白して、「葉巻と読書という私の弱点に問題があり、読書への没入は日常性からの逃避だった。私には簡単に打ち解けられない性格がある。私には部下に最大の犠牲を求める気力がなかった」と述べている通り、コンゴのゲリラ戦基地での映像には、チェが部下たちから離れて独り読書する情景が映し出されているという。ニューヨークタイムズ紙の論説委員ハーバート・マシューズは著書「フィデル・カストロ」の中で、「チェはフィデルよりも遥かに自分の周りを壁で囲み、ごく親しい人しか入っていけない人間だった。彼が好意的なときですら怒っているかのようだった。このように感情が革の紐で繋がれている異常な人物で、どこか神秘的な雰囲気があった。宣教師のような革命への献身、政府に対してと同様、自分に対しても口とペンで失敗をこき下ろす例外的に鋭い知性だった」と述べている。
 チェが哲学や詩を好むところは、チリの詩人パブロ・ネルーダが、中央銀行総裁だったチェに会ったときの回想録で余すところなく伝えている。「彼の服装は銀行の環境には不調和だった。チェは色が浅黒く、話し方がゆっくりしていて、疑う余地のないアルゼンチン訛りだった。彼はパンパでマテ茶とマテ茶の間でゆっくり話し合う相手としてふさわしい男だった。彼の言葉は短かった。そして、まるで空中に注釈を残すかのように微笑して話を終えるのだった。私の詩集『大いなる歌』について彼が言ったことが私を喜ばせた。マエストラ山脈では(注:キューバ革命闘争中の意)、夜になるとゲリラに、この私の本を読んでやるのが彼の習慣だった。あれからもう何年も経ったが、彼の死に際し私の詩も彼に付き添ったのだと考えると、身震いする。私はこのことをレジス・ドゥブレから聞き知ったのだが、ボリビア山中で彼が最後の瞬間まで背嚢の中に入れていたのは2冊の本だけだった。数学の教科書と『大いなる歌』だった。(中略) 私にとり戦争は脅威であって運命ではない。我々は別れた。二度と会うことはなかった。やがてボリビアで彼の戦闘と悲劇的な死があった。私がチェ・ゲバラのうちに見続けているのは、彼が英雄的な戦いの中にあっても常に武器の傍らに詩のための場所を用意していたあの瞑想の男なのだ」と。
 ボリビアでは、政府軍兵士を満載したトラックを制圧しながら、殺傷することなく退去させる場面が出てくる。フィデルの「騎士道精神」を批判していたチェにもまた「騎士道」や「武士の情け」を思わせるロマン主義があり、それが実戦における弱さに繋がっていたようだ。
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