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風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

六十五回目の夏(6)戦艦大和(下)

2010-10-28 02:08:47 | たまに文学・歴史・芸術も
 昨日の続きです。戦艦大和のガンルームの中で戦わされた死生談義の模様が、本書(「戦艦大和の最期」吉田満著)の中に登場します。もはや敗北は時間の問題とされる中で、何のための敗戦か、また第一線に配置された我々の余命幾許もなく、何のための死か、と問います。これに対し、兵学校出身の中尉・少尉は、国のため、天皇陛下のために死ぬ、以って瞑すべし、それ以上に何が必要かと考えるのに対し、学徒出身の士官は、君国のために散るのは分かるが、それがどういうことと繋がっているのか、自分の死や日本の敗北を、普遍的な何らかの価値に結び付けたいと考えるのだそうです。それは理屈、しかも有害な屁理屈だ、特攻隊の「菊水」のマークを胸につけて、天皇陛下万歳と死ねて、それで嬉しくはないのかと言われても、それだけじゃ嫌だ、もっと何かが必要なのだと、こだわります。そういう腐った性根は叩き直してやる、とばかりに、乱闘の修羅場となり、出撃前のこうした死生談義は一応の結論に至り、哨戒長・臼淵大尉の次の言葉に収斂するのだそうです。これも有名な言葉ですが・・・進歩がない者は決して勝てない、負けて目覚めるべきだ、日本は、私的な潔癖や徳義に拘り過ぎて、進歩ということを軽んじ過ぎた、敗れて目覚めるために、俺たちはその先導になるのだ、日本の新生に先駆けて散るのがまさに本望だ、と。
 今でこそ、先の戦争を経て、東京大空襲やヒロシマ・ナガサキをはじめとする戦争の悲劇を身をもって経験し、あるいはそれが戦争経験として語り継がれ、とりわけ核戦争が現実の恐怖となった冷戦時代以降は、戦争は無条件に邪悪なものと信じて疑われなくなりましたし、戦後、まがりなりにも民主主義が教えられ、生命や財産の自由は絶対的な権利として尊重されるからこそ、もはや国家権力によって死を強要されることもないと信じて疑いませんが、「神国不滅」の当時においてなお、極く当たり前の心の葛藤が見られたことに驚かされます。確かに時代はちょっと異常でした。特攻という欧米人にはとても考えられないような“蛮行”を強要し、強要する側は「護国の鬼」と化することこそ「大和男子の本懐」などともてはやし、それを一面的ではあれ受け入れる素地(あるいは空気)が世間にはありました。実際には、個々人のレベルでは、お国のため、君のために、喜んで死を捧げることに100%納得する者はいませんでしたし、逆に当時の国策を批判し、特攻を忌避して、その死を無駄な死(所謂犬死)だと一方的に決め付け蔑む者もいませんでした(そうした例はなかったとは言いませんが、余り伝えられていません)。そうではなく、国民の大多数はその間で揺れていて、半分は運命として死を受け入れつつ、残りの半分ではどうにも納得し得ない反戦・非戦の思いがあった、その残りの半分を隠すために、お国のために死ねることが喜びであると自己韜晦して無理矢理納得させようとするか、あるいはその死を祖国の再生などの何らかの普遍的な価値と結び付けてやはり無理矢理納得させようとするか、いずれにしても折り合いをつけんとする止むに已まれぬ思いと言う意味で双方に明確な違いは見出せませんし、今の私たちとも変わるところのない心象だと感じます。半ば(諦めて)運命として受け入れる、というところが、日本人の日本人たる所以だろうと思いますし(それが良いか悪いかは別の議論があろうと思います、アメリカ人であれば100%納得できず、そもそも特攻は成り立ち得ません)、残りの半分を隠さざるを得なかったところが、異常な時代だったのだろうと思います。
 九死に一生ではない、十死零生と言われた特攻の悲劇については、東大協同組合出版部が刊行した「きけわだつみのこえ」という有名な本があり、初版5千部、累計で2百万部は売れていると言われるほど広く親しまれています(私は読んだことがありませんが)。応募して来た日記や手記などの遺稿309通の中から、東大の編集委員が独自の判断で75通を選んだもので、刊行されたのが昭和24年10月ということから察せられる通り、連合軍による占領政策のもと、「大日本帝国万歳」とか「靖国で会おう」といった旧体制を賛美したり軍国主義的な表現・内容があるものや学徒兵として情緒的な内容のものは外され、時代への抵抗が含まれている遺稿を重視するといった編集方針が採られたと言われます(「特攻と日本人」保阪正康著)。同じように「戦艦大和の最期」も、最初に出版されたのは同じ昭和24年で、連合軍の検閲方針に触れて出版が難航し、筆者自身、極めて不本意な形で世に出ることを余儀なくされたと語っています。本来の形に戻ったのは、日本が独立を勝ち取った後の昭和27年のことだそうです。戦時中には軍の検閲があって、本土の家族への手紙には、体制批判や弱音は吐けず、ただお国のために死ねることを誇りと言い、靖国で会おうと誓いつつ、行間に本音を潜ませる程度でしたが、戦後は一転、振り子が逆に触れ、体制批判が当たり前になりました。今、それらのフィルターを外して虚心坦懐に眺めてみると、そこに登場する「お国のため」という言葉は、タテマエ半分、本音半分で語られたのだろうと想像されます。「タテマエ」の方は、当時の日本人は、現代の私たちが思うほど国家を邪悪な存在と認めていませんし、それほどの悪意も感じていなかったであろうこと、恐らくそれは、現代の我々にはもはや国民の記憶として欠落してしまった、当時、国際社会で孤立する中、自存自衛に立ち上がる国家への共感といった、同時代故に人々に共有された価値観や文脈が多少なりともあったためだろうと思われます。「本音」の方は、国家という無機的な存在と言うよりも、多分に両親・兄弟や親類縁者などの血族と連なる郷土の意味合いが強かった、そういう意味ではそれはナショナリズム(国家主義)と言うよりももっと素朴なパトリオティズム(郷土愛)だったのだろうと思われます。
 本書(「戦艦大和の最期」)の最初の方に、出港後間もなく、見張員が双眼鏡を通して陸地の桜を見とめ、周囲にいた者が先を争って双眼鏡に取り付き、細やかなる花弁のひとひらひとひらを眼底に焼き付けようとする場面が登場します。「霞む双眼鏡のグラスの視野一杯に絶え間なく揺れ、我を誘う如き花影の輝き」「桜、内地の桜よ、さようなら」 今、読み返すたびに、泣けて来る場面です。桜の花の控えめな色合いや、咲き誇るときの可憐さや、散り際の潔さは、日本人が仮託するあらまほしき人生そのものであり、桜に対して日本人は独特の感情移入を行って来ました。日本を離れて海外生活を送った私のような日本人にとっても、とりわけ強烈な自己主張をする派手な色あいと匂いを誇る熱帯の花と比べて、日本の花のなんと可憐なこと、そうした思いはひとしおです。特攻=死、に旅立つ前に見る桜は、どれほど祖国と結びつき、愛しいものだったことでしょう。素朴な郷土愛を感じさせる場面です。
 史上最大の戦艦と謳われながら、護衛の航空機に守られることなく、アメリカ軍機動部隊延べ1000機以上もの航空機の猛攻撃を受け撃沈した、戦艦大和の最期は、栄華を誇った大日本帝国海軍の凋落の象徴であり、それはそのまま近代・日本の転落を意味します。本書は戦艦大和への鎮魂歌であるとともに、「坂の上の雲」で欧米に伍することを夢見、欧米の手によって叩かれ挫折した近代・日本に手向けられた鎮魂歌でもあります。本書で対象となっているのは最後の十日間ですが、その背後に多くの物語があるために、民族の壮大な叙事詩となしています。本書が書き記されている漢字とカタカナによる文語体は、必ずしも読み易いわけではありませんが、声に出して読むと、「平家物語」以来の軍記物に相応しい戦争の壮絶さと無情さ、ひいては無常が、格調高く伝わって来て、反戦や軍国の主張を超えて、あるがままの事実を受け入れるべきという、著者の心意気を感じますし、厳かな気分にさせられます。
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