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風来庵風流記

縁側で、ひなたぼっこでもしながら、あれこれ心に映るよしなしごとを、そこはかとなく書き綴ります。

ザ・デストロイヤー

2017-11-04 01:12:13 | スポーツ・芸能好き
 テレビで見る「足四の字固め」は、文字通りの“必殺”技であり、プロレス・ファンのガキには強烈で、友達とプロレスごっこに興じた小学生の頃、よくできた技だと子供心に感心したものだった。日本におけるプロレス・ブームの立役者と言ってもよいのだろう。そのザ・デストロイヤーも齢87だという。秋の叙勲で旭日双光章を受章した。
 「プロレスの歴史上初めて、マスクマンとしてヘビー級のトップ戦線で活躍したプロレスラー」(Wikipedia)だそうである。今から50年以上も前、1963年に初めて来日し、力道山と対戦して「足四の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした」(同)。「全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、『馬場に負けたら助っ人として日本に残る』と宣言、敗れたデストロイヤーはその後、1973年3月から1979年6月にかけて全日本プロレスの所属選手として活動し、その間アブドーラ・ザ・ブッチャーやミル・マスカラスなどと名勝負を残した」(同)。アメリカに戻ってからも「年1回、全日本プロレスの『サマー・アクション・シリーズ』での特別参戦を続け」(同)、1993年に引退後も、レスリングや水泳をする地元の子供たちを日本に連れて来て、日本の子供たちと交流させる活動を20年以上続けてきたという。「かつて(太平洋戦争で)敵だった日本人は、初来日から仲間のように接してくれた。同じ経験を米国の子供たちにさせてあげたかった」と語っている。知日派は日本をよく知るだけで心でどう思っているか知れたものではないが、彼のような親日家は大事にすべきだろう(ジョセフ・ナイやリチャード・アーミテージやマイケル・グリーンは知日派だが親日というわけではない)。今はニューヨーク州郊外の小さな町アクロンで、奥様のウィルマさん(84歳)と静かな余生を過ごしているが、数年前から足が不自由で歩行器が必要らしい。
 日本ファンの前では今もなお覆面を脱がない。そろそろ暴露してもいいじゃないとも思うのだが、プロレスというショー・ビジネスのプロ意識は今もなお健在のようだ。来日にあたって、2001年の同時テロが起きるまで、マスク姿で空港の入国審査を受けていたという。
 産経電子版にインタビュー記事が出ていた。
 初来日の1963年、力道山との試合直前に、ロサンゼルスのプロモーターから、覆面レスラー「ザ・デストロイヤー」として試合に出るように言われたのだという。そのときに渡されたマスクはウール製で、着け心地が悪かったが、別のレスラーから借りたマスクはそのまま食事ができるほど快適で、女性用のガードルだったので、すぐに奥様とデパートに買いに出かけて、売り場で女性用のガードルを頭からかぶっていたら、みんなが見にやってきたというが、そりゃそうだろう。当時は奥様の手作りマスクで、今はアディダス製のものを使っているらしい。
 小学生にショー・ビジネスはなかなか理解できず、ヒール役の外国人レスラーを倒すためにプロレスラーを志したこともある(笑)。世界に目を向ける(その逆に日本を意識する)きっかけとなったのは、恐らく大阪・万国博覧会が最初だったと思うが、世界を股に掛ける大泥棒「ルパン三世」や、「この~樹なんの樹、気になる樹~」という「日立の樹」のエンディングでお馴染み「素晴らしい世界旅行」とともに、全日本プロレス中継も一役買っていたようだ(笑)。それはともかく、その後、アントニオ猪木が、相手に技をかけさせて良いところを引出し、体力を十分に使わせたところで、自分の技をかけて見せ場をつくる・・・みたいなことをインタビューで語っていて、なるほどこれがショーとしてのプロレスかと感心したことがあるが、ずっと後になってからのことだ。
 今のプロレス界についてどう思うかと聞かれて、「私は、プロフェッショナルなレスラーであることを常に心がけてきた。観戦する人に、そういう印象を与えることに努めていた。ただ、今のレスラーは、本来のレスリングをしているとは思えない。レスリングは単純な試合だ。ただ、ヘッドロックやトーロックをかけて格闘することだ。レスラーが椅子で頭を殴っても、私は興奮しないよ」と答えている。私も、場外乱闘や流血が多くなって、それもショーの一つの要素なのだろうと理解しつつも、だんだん興醒めて行ったのだったが、まさに古き良き時代のプロレスを懐かしむ気持ちは同じだと思って、なんだかほっとしたのだった。
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体操ニッポン健在

2017-10-10 23:11:31 | スポーツ・芸能好き
 冒頭は昨日のブログの続きになるが、半年振りのジョギングから一夜明けて、太腿がガチガチ、しかも朝から昼、さらに夜へと、時間差でどんどん酷くなるのがちょっと哀しい(苦笑)。不思議なもので、ふくらはぎから下は殆どダメージがなく、太腿に効いているのは、久しぶりに走って体重の3倍の負荷がかかるのに慣れていなかったせいだ。更にその3倍以上(つまり体重の10倍以上)の負荷がかかると言われる体操(跳馬)の着地の際に、微妙に高さが足りずに左足首を負傷し棄権した内村航平選手らが、今日、帰国した。
 うっちーの場合、五輪と世界選手権を合わせた8年連続の世界一を含め、9年間続いた国内外の大会での連勝記録が「40」で止まって、さぞ悔しいだろうと思ったら、「(技に)成功して怪我しているので、何とも言えない。怪我をするということはまだ下手。下手だから伸びしろはあると思うので、しっかり治して這い上がってやろうと思う」「違う形で(注:種目別など)東京五輪までとも思ったけど、自分の中でそれは逃げているんじゃないかと思う部分もある。次に試合に出るときは今日よりも強い状態で出られたらいい」などと強気で、災い転じて発奮材料となし、東京五輪に向けて個人総合に再挑戦する気になったようだ。「個人総合は誰もが憧れるべきもの。種目別のメダルを6個とっても、個人総合の1つには勝てない。それくらい価値があると思う気持ちは揺るぎない」とも語って、個人総合で銅、種目別で金2個を獲得してよく健闘した後輩の白井健三を前にして、なかなか挑発的である(笑)。いや、後輩の演技を見守るうっちーは涙目で、いろいろ思うところがあったのだろう。
 まあ、うっちーは別格なので、けんぞー君も是非、発奮して先輩にプレッシャーを与えるようになって欲しいものだ。
 今回の体操の世界選手権は、リオ五輪の翌年ということで、どうやら実力者を欠いていたらしいのだが、それにしても、うっちーのいない体操ニッポンは健闘した。白井は、床運動で「シライ」の名前がつく技が3つも入った難しさと美しさを兼ね備えた別次元の強さを見せて三回連続優勝を果たし、エレガンス賞まで獲得したし、村上茉愛は、女子個人総合で0.100及ばず惜しくも四位に終わったが、床運動では日本女子として実に63年振りの金メダルをもたらした。
 水泳やバドミントンや卓球やテニスやゴルフに、最近は陸上短距離まで、歯が立たないと思われていた日本人でも頑張れば十分に世界に伍して行けるという確信のようなものが伝播して、いろいろな競技に好循環をもたらしているようだ。かつてのソ連や東ドイツと比べるのは気が引けるが、ジュニアの頃から計画的に育成・強化して行けば、そして日本人らしい戦い方を身につければ、なんとかなるということだろうか。これからが楽しみだ。
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また青梅への道(1)

2017-10-09 22:31:52 | スポーツ・芸能好き
 戸外で運動するにはよい季節になった。私にとっても、今日ようやくマラソン・シーズンが始まった。東京マラソンが決まらないことには始まらない・・・と嘯いて、落選通知があってから更に二週間が経ってしまった。この年齢では練習量が日本一少ないのではないかと自慢にもならないことを自慢するズボラな私には、これから半年程のシーズンに突入するにはそれなりの覚悟が必要で、夏場の半年間は完全休養して、また走ってみようかという気になるまで待たなければならないのが、自分でも厄介だ。
 今年の東京マラソンへの応募者は32万人と相変わらずの人気ぶりだが、昨年より1,700人弱減った。僅かとは言え、これまで確実に応募者を増やして来て、減少に転じたのは初めてではないだろうか。また今年は、東京マラソン(来年2月25日)の一週間前に開催される青梅マラソン(来年2月18日)の申込みが先行してしまい、東京マラソンに落選したから青梅マラソンに流れる・・・はずが、やや躊躇する事態となった。まあ確率的には躊躇するほどではなく、どうせ・・・と高を括り、やっぱり・・・当選せず、この冬も青梅マラソンを目標に身体を造って行くことになった。
 実に半年振りのジョギングだった。最近、ちょっと下腹部に皮下脂肪がつき始めたのが気になっていて、走り始めると、下腹部もさることながら、皮下脂肪は背中全面に広がっているのだろうか、背中全体が突っ張るような感じがして、所謂身体のキレが悪い。心臓の筋肉も衰えているようで、すぐに息切れがする。後半になると、腰や背骨周りの筋が衰えて上半身を支え切れないのだろうか、腰が痛くなり始めた。靴も、半年前、シーズンで最も身体が出来ていた頃の靴紐の状態のままで締めると、ちょっとキツイ。いつもは10キロを軽く1時間ほどで走るコースだが、15分ほど余計にかかってしまった。ところで、走ると足に体重の3倍の力がかかるといわれ、走り終わる頃にはヨタヨタなのだが、内村航平選手の着地には700キロ?だったかの圧力がかかると森末さんが言われていたので、更にその3倍以上の力になる。意識と身体がちょっとズレると大怪我に繋がるのは道理だ(うっちーも歳かなあ・・・)。
 しかし、久しぶりに意図して汗をかくのは心地よい。普段、歩くときに痛む右足指の関節まわりも走るときには何故か気にならない。途中、拓殖大学の学生さんの一群(陸上部かどうか分からない)とすれ違って、とぼとぼ走る私には、その軽やな走りが羨ましい。私だって十代の頃は飛び跳ねるように走っていたものだが、今はそんなバネや全身のバランスの良さは見る影もない。歳をまた一つ重ねて、同じ練習をしているだけでは衰える一方で、今年はどうやって記録を伸ばそうかと、しばし思案中である。
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祝・9秒98

2017-09-09 21:16:15 | スポーツ・芸能好き
 陸上男子100メートルで、桐生祥秀が、日本人として初めて10秒の壁を破る9秒98を記録した。これで世界歴代「99」位にランクインしたというのも、今日の日付が「9月9日」というのも、何かの因縁か(笑)。これまでの日本記録10秒00は伊東浩司が1998年12月のアジア大会で出したもので、実に19年ぶりの更新である。100分の1秒まで表示する現行の電気計時では、アメリカのジム・ハインズが世界で初めて10秒を切る9秒95で走ったのが1968年のメキシコ五輪だったから、日本人は49年の遅れでようやく追いついたことになる。まがりなりにも競技としての陸上を高校時代にやっていた者として感慨深い。
 実のところ桐生が!?と驚いた人が多かったのではないだろうか。洛南高校3年生のときに出した10秒01は鮮烈で、「9秒台に最も近い男」と言われながら4年が経ち、正直なところ足踏みして見えたのは伸び悩みかと思っていたし、最近は同じ大学生で多田修平という伏兵が登場し、更にケンブリッジ飛鳥やサニブラン・ハキームといったハーフ勢が幅を利かせて、この前の世界陸上では100メートル個人として代表を逃すと、気が早い(短い)私は桐生の時代は終わったかと一抹の寂しさを覚えたものだった。それを一番気にしていたのは彼だろうし、何度もケガに見舞われ、もどかしい思いをしていたことだろう。前・日本記録保持者の伊東浩司氏は「桐生くんの意地だと思う」と語っていたのはその通りだと思うし、この日のレースも象徴的だったようで、「多田くんに前に出られて、いつもなら硬くなる場面。桐生くんが壁を乗り越える瞬間を見させてもらった」と感慨深げである。
 時代の流れもあったのだろうと思う。カール・ルイスが9秒86の世界新記録を樹立した1991年の世界選手権東京大会を契機に、日本陸連は一流選手の走法の科学的な分析に着手したのだそうだ。外国選手は走行時に膝を曲げず、足を1本の棒のように振っていることが分かり、それまで主流だった「速く走るためには太ももを高く上げる」という考え方が改められ、以来、多くの走者がタイムを縮めたという。伊東浩司は、膝を高く上げずに重心を移動させる走りを身につけようと、腰回りの筋力を鍛えたというし、末続慎吾もすり足に近い感覚の走りを目指したらしい。桐生は2015年頃から、高速ピッチを保ちながら歩幅を広げるフォームを目指してきた。上半身を前に傾けて重心を乗せるような感覚で、追い風に乗りやすいのも、今日(追い風1.8m)は幸いしたようだ。400メートルの日本記録保持者・高野進氏は、伊東や末続の動きは小手先ではまねしにくい動きだったと評した上で、「(桐生は)すごくまとまっている。多くの人がお手本にできる」と解説するほど、桐生のフォームはバランスが取れ、目立った癖がないらしい。
 十種競技の王者だった「百獣の王」武井壮は、「日本人初の9秒台ってどんな気持ちなんだろうなあ。。最高だろうなあ。。未来永劫名前が残る偉業だな。。後半の走り鬼の高速だったな。。」と絶賛したというが、競技者故の感想なのだろう。端っから縁のないただの競技者だった私には縁遠い感想だ(笑)。今日だって、万全ではなく、足に不安があって、コーチとギリギリまで相談して、出るとなれば肉離れしてでもスタートからいかないと、と思っていたという。飽くまで世界大会のファイナリストになるのが目標で、ようやく世界へのスタートに立ち入れたと思う、と言う彼の今後の活躍を期待したい。
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ミレイユ・ダルク

2017-08-29 02:00:28 | スポーツ・芸能好き
 フランスの女優ミレイユ・ダルクさんがパリの自宅で亡くなったという。享年79。
 私は何故か中学二年の頃から突然、洋画に目覚め、と言っても劇場に通うほどの金銭的余裕はなく、毎月なけなしの小遣いは「スクリーン」という月刊誌に消えるので、TVで放映された映画を観るしかなく、好きが昂じて中学三年のときには受験勉強中にもかかわらず「水曜ロードショー」や「ゴールデン洋画劇場」など年間50本以上観た記憶がある(ということは毎週一本観ていた)。よく親は黙って許してくれたもので、志望校に合格できてなにより、である。のどかな時代だった。
 当時は今ほどハリウッド映画一辺倒ではなく、1960年代から70年代にかけてフランス映画の名作も多く、アニュイな雰囲気と情感たっぷりの映画音楽が子供心にも不思議と気に入っていた。さすがにブリジット・バルドーの時代ではなく、またソフィー・マルソーやジャン・レノが出てくる以前のことで、辛うじてカトリーヌ・ドヌーヴや、イザベル・アジャーニ、マリー・ラフォレ、アニセー・アルヴィナなどのいい感じの女優さんがいたし、男優でも、アラン・ドロンはもとより、ジャン=ポール・ベルモンドやジャン・ギャバンなどの渋~い方がいた。
 では、ミレイユ・ダルクのファンだったのかと言うと、実は彼女の映画は一本も見ていない。それにもかかわらず、美女と言うよりボーイッシュな感じの、美人というより可愛いタイプの女優さんとして印象に残っているのは、ひとえに、アラン・ドロンが、ロミー・シュナイダー、続いてナタリー・バルテルミー(後のナタリー・ドロン)との破局のあとに、愛人関係にあったからだ。アラン・ドロンと言えば、最近で言えばトム・クルーズやジョニーデップやレオナルド・ディカプリオやブラッド・ピットやジョージ・クルーニーなんて目じゃないくらいの人気者で、当時の世のおばさまたちを虜にした。如何にもベタな二枚目なのだが、生い立ちが不幸で、「太陽がいっぱい」や「地下室のメロディ」のような陰のあるちょいワルの役柄がよく似合う。
 後にコケティッシュという言葉を覚えたとき、何故かミレイユ・ダルクのことだと思い込み、パリジャンと言えばカトリーヌ・ドヌーヴ(のような正統派美人)ではなくミレイユ・ダルク(のような小悪魔的美女)をイメージするようになって、今に至る。映画を一本も観ないで、これほど強烈な印象を残しているのは、アラン・ドロンの存在感の故か、はたまた出会ったのがお年頃だったせいか・・・私にとってあの時代の輝きを身にまとった方が故人となられて、ついメランコリックになってしまったのだった。謹んでご冥福をお祈りしつつ、合掌。
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甲子園の夢・番外

2017-08-26 12:58:29 | スポーツ・芸能好き
 今から40年以上前の大阪の片田舎のベッドタウンに、「ホワイト・スネークス」なるバタ臭い名前の野球チームがあった。クラス替えがなかった小学5~6年の仲が良いクラスメイト5人が結成したものだが、いつ始まっていつ終わったかは定かではない。習いたてのローマ字を使って頭文字のH.S.のステッカーをユニフォームの胸に貼りつけて喜んでいた頃に始まり、中学に入って英語を習い始める内に、W.S.の間違いではないかと指摘してお互いに苦笑いした記憶があるから、中学生になってからも暫く続いていたことになる。
 当初、小学生のくせに、監督はなく、コーチは互選し、守備も打順も皆で話し合って決めるという、生意気なほど民主的な運営は、むしろ牧歌的ですらある。しかし、ひとたび試合になると連戦連勝で負け知らずの、伝説的なチームだった。
 メンバーがなかなかの個性派揃いだ。ピッチャー兼投手コーチのカネやんは、後に高校時代に駅伝で活躍するスポーツマンで、左投げ左打ち、上背があってストレートに伸びがあった。キャッチャーのシゲは、幼稚園の頃はいつも黄色っ洟をたらしていたものだが、でっぷり太った存在感は名実ともにチームの要であり、当たればホームラン、当たらなければ三振と、打撃の思いきりの良さといい体格といい、当時、阪神のキャッチャー田淵そのままだった。ファースト兼打撃コーチのサイセンは、背丈こそクラスで一番低いものの野球センスは抜群で、左投げ左打ちと、当時、巨人のファースト王さんを気取った。セカンドのウラシマは、一つ年下だが、地元の名士のドラ息子で、キャッチャーミットやキャッチャーマスクやファーストミットなど、当時、誰ももっていない珍しい道具を買い与えられていて、重宝するので仲間に入れられた。サード兼守備コーチのヒラメは、勉強ができない連中の中にあって異色の、児童会・会長もこなす優等生で、当時、巨人のサード長嶋ばりの守備上手。ショートのフクイは、カッコつけのマセガキながら、やるべきときにはやる男で、誰も褒めてくれないものだから「鉄壁の三遊間」などと吹聴しまくった。以上の6人をコア・メンバーとして、試合のときにはその都度、近所のガキを借り集めて外野に立たせることになるから、内野の守備こそ固くて惚れ惚れするほどだったが、外野に打球が飛ぶと長打になるのが玉にキズだった。
 当時は、週休二日制なる言葉が辞書に載る遥か以前で、虎の子の安息日である日曜日に、雨の日も風の日も、毎週欠かさず集まっては和気藹々、小学校のグラウンドや近所の某社宅のグラウンドに忍び込んで、練習しているのか遊んでいるのか、とにかく野球と遊びが大好きな少年たちだった。李下に冠を正さず、と言うが、あるときファール・ボールが柵を越えてイチゴ畑に飛び込むと、球探しをするフリをして、しこたまイチゴを頬張ったものだし、またあるときには小学校の給食室の前までボールが転がり、給食の余りの牛乳が栓を開けられないまま残っているのを見つけて失敬したら、ヨーグルトのようにドロンと固まっていて、びっくらこいたものだ(いずれも時効成立)。時々、練習が終わって、ウラシマの家の前でたむろしていると、「いつも遊んでくれてありがとう」と、当時はまだ珍しいクーラー(今で言うところのエアコン)がある部屋に通されて、いつもは賑やかな彼らも、カルピスをご馳走になる頃には、借りて来た猫のようにおとなしくなった。
 練習はもちろん、試合のためにある。その相手として、リトルリーグのチームが恰好の餌食になった。ホーム・ベースなどの各種備品が揃っている上、監督サンが審判になってくれるし、そもそもプライドが高い連中のこと、貧相な彼らに対して野球を教えてやろうと言わんばかりのノリで相手をしてくれる。それで逆にやっつけてしまうのだから、痛快この上ない。また、同じ小学校や中学校の他クラスの知人に試合を挑むこともあったし、あるときには近所の悪ガキ・チームと、あちらからとこちらから、狭いグラウンドで入り乱れている内に、乱闘ならぬ果たし合いに至ったこともある。そのときは、偶々散歩中の同級生のお父ちゃんを見つけて審判を頼みこみ、プレイボール。隣のクラスのヌマ公と崇められていたガキ大将がピッチャーで、ガキ大将と言えばだいたい成長がちょっと早くて大人並みの体格なものだから、多少はノーコンでもスピードがあって、さすがの彼らも打ちあぐねていた。ところが、取り巻き連中がヘナチョコで、ボテボテの内野ゴロがヒットになったのを機に畳みかけ、サイセンの一振りで絵に描いたような劇的なサヨナラ勝ちをおさめて、不敗伝説を守った。
 彼らにとっては、「フィールド・オブ・ドリームス」。大阪という土地柄、野球帽には巨人のマークと阪神のマークが半々、ユニフォームもばらばらで、最後まで私服のままの者もいて、バットとボールとグローブを持っている者が持ち寄るだけの、あるがままの雑草のようなチームだったが、練習するたびに野球が上手くなった。そして、それぞれに守備と打順が割り振られ、期待された役割をこなすことに誇りをもち、勝利することに喜びを感じ、組織だったリトルリーグのチームを倒すことには快感を覚えた。家に帰ると、今のように一人ひとりに勉強部屋があてがわれているわけではなかったが、グラウンドには間違いなく彼らの居場所があった。
 そんな彼らに、甲子園は夢のまた夢。皆、地元の公立中学に進学したが、気が弱い彼らは、野球部が札付きの不良の巣窟と知ると、入部の扉を叩く勇気がある者はなかった(笑)。その後、母子家庭のカネやんはお母ちゃんのたこ焼屋を継ぎ、シゲは自動車修理工に、フクイはスナック経営と、風の便りに聞いたが、残り3人の行方は杳として知れない。いつか「ホワイト・スネークス」を再結成して、ガキを相手に試合を挑んで、大人げなく本気で、と言うか、童心に返って勝ちを目指して欲しいというのが、ごっこ遊びに興じる彼らを傍で見ていた私の夢なのだが。
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甲子園の夢・清原超え

2017-08-25 00:23:54 | スポーツ・芸能好き
 記録はやはり破られるためにあるものだ。今夏の甲子園で、中村奨成(広陵)が6本塁打をマークした。やんちゃな清原(PL学園)の野球小僧ぶりを愛する私には、彼の一大会での最多本塁打記録(5本)が塗り替えられたことがちょっぴり寂しく、やや突き放したところで、ほおぉと感心する。実に32年振りのことだ。
 小学生の頃、野球少年だった私は、以来、高校野球をよく見たものだった。時代はONを擁する巨人の黄金時代だし、子供にはなにしろ暇がある。そんな小学生の頃の私にとって最初のヒーローは、江川卓(作新学院)という規格外の大投手だった。打者の手元でホップする剛速球に全国中が瞠目し、高三の夏の二回戦、延長12回裏1死満塁のピンチで、雨の中、押し出しの四球でサヨナラ負けしてガックリ肩を落とすシーンは今も瞼に焼きついている。翌年の夏もまた悲劇的なシーンが記憶に残っていて、生まれ故郷の定岡正二(鹿児島実業)が、準決勝でホームに滑り込んだ時に投手として大切な右手首を負傷して交替し、あれよあれよとサヨナラ負けしたシーンも忘れられない。その後、高校時代には、隣町に牛島和彦・香川伸行(浪商)という人気のバッテリーがいて、地元として応援したものだったし、大学時代には、KKコンビと言われた桑田真澄・清原和博(PL学園)に注目した。ところが、いつしか自分が年上になり、更に齢が離れるに従い、見る目も変わって、徐々に離れて行ったのは、仕方のないことなのだろう。つまりは子供の頃のヒーローほど思い入れが強いということで、冒頭のような発言になる。
 その後も、甲子園は、松井秀喜(星稜/1992年)、松坂大輔(横浜/1998年)、斎藤佑樹(早実)と田中将大(駒大苫小牧)が投げ合った2006年、藤波晋太郎(大阪桐蔭)と大谷翔平(花巻東)と松井裕樹(桐光学園2年)の2012年など、5~8年毎に怪物が出没する恐ろしいところだ。甲子園に出られなかった清宮幸太郎(早実)はU18ワールドカップには出場する。最近はサッカーやテニスやゴルフと、楽しむスポーツはいろいろあるからこそ、是非、野球を盛り立てて行って欲しい・・・といったオジサンの発想になる(笑)。
 思い出すだに子供の頃に与えられた感動はかけがえのないものだった。プロではない技術を補うひたむきさや不安定故に壊れやすい緊張が見る者を惹きつける。偽善的なところを衝く見方もあるが、野球をやっている一瞬一瞬が面白ければいいと思う。是非、子供達に感動と将来の夢を。
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慎ちゃん2000安打

2017-08-16 12:01:02 | スポーツ・芸能好き
 巨人の阿部慎之助選手が、13日の広島戦で、通算2000安打をマークした。日本プロ野球史上49人目の快挙である(なんとなく最近は試合数も増えたし指名打者制もあって、投手に比して打者が有利で多い気がすると思って調べてみたら、投手26人に対して打者53人らしい、但しこれは名球会在籍者数とは異なり、日米通算を含む数字)。
 巨人の生え抜き選手では、川上哲治、長嶋茂雄、王貞治、柴田勲に次いで5人目だという。この大先輩4人は全て監督まで経験した名選手であり、その域に達したのかと思うと感慨深い(実に37年振りということだが、確かに4人は巨人のV9を支えた監督と選手たちだ)。また、駒田や松井のように野球人生の半分を巨人で過ごして他球団に移籍してから達成した選手や、落合や清原や小笠原のように他球団出身で巨人に在籍中に達成した選手もいる中で、モノは考えようだが巨人一筋、生え抜き達成は幸せなことだとしみじみ思う。
 阿部慎之助と言えば、巨人の第18代主将(2007年~2014年)であり、日本プロ野球史上3位の年俸6億円プレーヤー(2014年)であって、2000安打以前に既に押しも押されぬ大選手なのだが、彼らしい弾丸ライナーの鋭さや野球技術的なところは言うまでもなく、何より野球に向かうひたむきさや(今では珍しいかも知れない)体育会系ならではのケジメある明るさや(勝負強さとも結びつく)頼りがいある存在であるところには、大いに人を惹きつけるものがある。そんな印象を形成した足跡を辿ってみた。
 父・東司氏はあの掛布雅之と習志野高校で同期で、掛布とクリーンナップを組み、掛布が3番、父上が4番を打ち、甲子園出場経験があるそうである。そんな血をひく彼の安田学園3年時から中央大学の4年間を含めて計5年間を追いかけたという、阿部の担当スカウトだった中村和久氏は、初めて阿部を見た高校3年春を振り返って、「前年の夏から2年生捕手として注目されていた。スイングがとにかく速くて、右中間、左中間にライナーで運ぶ姿が印象に残っている。捕手としても肩が強くて、様になっているなと。そういう印象でしたね」と言うのは、まさに今のイメージと重なり感慨深い。大学時代、「慎之助は野球道具をきっちり並べて、グラウンドでは常に先頭で全力疾走。野球への取り組みも素晴らしかった。中大での4年間、ずっと変わらなかった」と回想するのも、彼らしさが伝わって来る。長嶋茂雄監督(当時)は野手を獲得する際、「プロでタイトルを獲れるか?」と上位指名の基準は高かったというが、中村氏は球団幹部に「プロでクリーンアップを打てる。打撃タイトルも獲る」と進言したという(以上はスポニチ記事から、以下はWikipediaから)。
 2000年のドラフト1位(逆指名)で巨人入りし、2001年3月30日の阪神との開幕戦、巨人では山倉和博以来23年ぶりとなる「新人捕手開幕スタメン」として先発出場(8番・捕手)し、初打席・初安打・初打点を含む4打点を挙げる活躍を見せて、いきなり勝負強さを発揮した。翌2002年、シーズン後半から高橋由伸の故障に伴い3番打者に起用され、8月の3度を含む4度のサヨナラ打を記録して、「サヨナラ慎ちゃん」と呼ばれるようになる(懐かしい・・・)。
 2004年は当たり年で、4月9日から16日にかけて6試合連続本塁打、4月28日には3本塁打を放ち、4月に放った16本塁打は王貞治の球団記録を更新した(1981年の門田博光、1994年の江藤智と並ぶ日本タイ記録)。5月12日にはマーク・マグワイアが1998年に記録した従来の世界記録である「開幕35試合目での20本塁打」を2試合更新する「開幕33試合目での20本塁打」なる珍記録?まで生まれた。残念ながらこの後ペースは失速し、シーズン33本塁打に終わったが、巨人所属捕手として球団史上初の30本塁打、規定打席到達で自身初の打率3割を記録した。
 2007年にはチームの主将に任命されるとともに、6月9日の楽天戦では「球団史上第72代目4番打者」となり(この日、2本塁打5打点と活躍)、名実ともにチームの柱となる記念すべき年となった。
 記録については、2010年に44本の本塁打を放ち、捕手として野村克也・田淵幸一に次ぐ史上3人目のシーズン40本塁打を記録したのをはじめ、2012年には初のタイトルである首位打者(.3404は、1991年に古田敦也が記録した.3398を上回る捕手としての最高記録)と打点王(両リーグで唯一100を超える104打点)の「2冠」に輝き、更に最高出塁率(.429は両リーグでトップ)のタイトルも獲って、セ・リーグ最優秀選手に選ばれた。ベストナインやゴールデングラブ賞には2014年まで選ばれているが、成績はこの年(33歳)がピークだったようで、実際、月間MVPに三度選ばれ、三振数は規定打席到達者の中でリーグ最少、また、264塁打、8犠飛、6敬遠、OPS.994はリーグ・トップ、そして長打率.565は両リーグ・トップと、記録づくめだった。総合評価指標WARにおいて、2012年、2013年にはそれぞれ9.7、8.4といずれも両リーグNo.1の数値を記録している。
 2014年以後は、怪我や不振に泣かされる。一塁手として出場することもあり、この年オフに捕手から一塁手へコンバートされ、2015年開幕から一塁手として出場した(が、相川亮二が故障で離脱したこともあり急遽4月3日には捕手に復帰)。2016年に就任した高橋由伸監督の方針で再び捕手登録に戻るが、オープン戦で肩に違和感を感じて登録抹消され、開幕は二軍で迎えた。7月8日から8月10日まで23試合連続安打という、自己最長を記録したりもしたが、この年は一塁手または指名打者として試合に出場し続け、最終的にプロ入り後初めて捕手としての出場を果たせなかったシーズンとなった(以上Wikipedia)。
 入団当時の巨人編成部長だった末次利光氏は、「活躍は予想していた。アマチュア時代から、攻守両方を兼ね備えた選手だったが、なにより、精神的に強かった。いい意味で図太い。プレッシャーを楽しむことができる心の強さが、巨人軍の生え抜きの選手としてこれだけ活躍できる理由ではないか」と分析している(読売新聞)。
 長嶋終身名誉監督は、「バッティングは大学時代からの評判通り、非凡なものを持っていました。一方で捕手としてのリード面は、プロとして経験を積む必要があると判断し、1年目から少々の失敗には目をつぶって起用し続けました。本人が努力を重ねた結果、みなさんご存じのように打者としても捕手としても、巨人軍の歴史、そしてプロ野球を代表するような選手に成長しました。それだけに今回の記録の達成は、私としても大変感慨深いものがあります」と語っている(スポニチ)。本人も捕手というポジションへのこだわりがあったようで、2005年オフに原辰徳監督から一塁手へのコンバートを勧められたが、捕手として勝負したいと辞退したという(Wikipedia)。2000安打達成後のインタビューでは、これまでの17年間で苦しかったことを問われて、「たくさんありすぎて分かりませんが、首、肩がダメでキャッチャーをできなくなったことですかね。キャッチャーをやりながら打ちたかったですが、こういう道を僕と考えてくれたおやじと原監督には、すごく感謝しています」と答えている(日刊スポーツ)。
 守備への負担が大きい捕手というポジションをもっと早くに離れていれば打者としての記録はもっと伸ばしていたかも知れないが、捕手じゃない阿部慎之助というのは考えにくいのも事実だ。もう捕手の守備につくことはないと思うが、もう少し彼の雄姿を眺めていたい。
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ボルトのラスト・ラン(後)

2017-08-14 00:15:09 | スポーツ・芸能好き
 あっけない幕切れだった。誰がこんな結末を予想しただろうか。陸上の世界選手権男子4x100mリレー決勝で、現役最後のレースに臨んだウサイン・ボルトは、ジャマイカ・チームのアンカーとして5連覇を目指したが、左脚を痛めて途中棄権した。
 かつて北京五輪の陸上男子4x100mリレーで朝原宣治を手ぶらで帰らせるわけには行かない(そして銅メダルを獲得、8年後に金メダルのジャマイカ・チームがドーピング違反のため失格となり、銀メダルに繰り上げ)と言っていたのを皮切りに、ロンドン五輪の競泳男子4x100mリレーでは北島康介を手ぶらで帰らせるわけには行かないとの名言を残した(そして銀メダルを獲得した)松田丈志を、リオ五輪の競泳男子4x200mリレーでは手ぶらで帰らせるわけには行かないというのを合言葉にして結束した(そして銅メダルを獲得した)。今回、ジャマイカ・チームにはボルトを手ぶらで帰らせるわけには行かないとの思いがあったことだろう(実際に、第一走者オマール・マクロードは『ウサインには金メダルとともに引退して欲しかった』と語っている)。
 第三走者ヨアン・ブレイクは、レース後に怒りをぶちまけたという。「彼らはあまりに長く僕らを招集所で待たせ続けた。ウサインは本当に冷え切っていた。実際に僕にこう言ったんだ。『ヨアン、これはクレイジーだと思うよ。40分間も待たされて、(その間に)自分たちの出番の前に2回のメダル授与式が行われているなんて』とね」(The Answer)。ジャマイカ生まれのボルトは寒さに弱いと言われてきたが、寒さには弱くない私たち日本人のしかも陸上部の高校生ですら身体を冷やさないように気を付けたものだった。走りの技術が高い分、意外性も高かった、と振り返る専門家がいたが、ぎりぎりのところで戦うボルトのような選手は、微妙なところで均衡を崩すようなことがあるのかも知れない。
 その結果、日本チームに銅メダルが転がり込んだ。
 さきほど北京五輪では銅が銀に繰り上げになったと書いたが、あのときは予選で優勝候補のアメリカやイギリスがバトンミスで失格となる幸運があった。ロンドン五輪では5位に終わった(後にアメリカは、タイソン・ゲイのドーピング違反が発覚したため銀メダル剥奪、日本は繰り上げで4位)。ところがリオ五輪ではアメリカを抑えてジャマイカに次ぐ堂々の銀メダルを獲得した(その後、三位のアメリカは、バトン・パスのミスで失格)。誰一人10秒を切れていない中で、バトン・パスの高い技術に支えられたチーム力の勝利だった。今回の銅メダルは実質4位とは言え、ケガのため大事をとったサニブラウン・ハキーム、本調子ではないケンブリッジ飛鳥、さらには故障のため代表落ちしたリオ五輪代表の山縣亮太を外してのそれであり、それなりに評価されるものとは思う。しかしイギリスやアメリカ、さらに中国やフランスは確実にバトン技術を向上させており、二年後の世界陸上、その翌年の東京五輪では、10秒を切る選手が複数いない限り、日本がお家芸とも言えるバトン技術だけでメダルを獲るのは難しいだろう。やはり日本人の9秒台(続出!)に期待したい。
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ボルトのラスト・ラン(前)

2017-08-06 17:13:56 | スポーツ・芸能好き
 あのボルトが胸を衝き出しつつゴールする姿を見ることになろうとは思わなかった。よほど余裕がなかったのだろう。最後も当然のように勝利で飾りたかったはずだが、陸上の第16回世界選手権の第2日、男子100m決勝で3位に終わった。記録も今シーズン自己ベストながら9秒95と彼にしては平凡だった。2位に入ったのは米国の新星クリスチャン・コールマン(21)というのはまだしも、優勝したのは、リオ五輪でボルトの後塵を拝した銀メダリスト、30歳の大台に乗ったボルトより5つ年長のジャスティン・ガトリン(35)とは、何たる天の配剤だろうか。ガトリンの名前は勿論知っているが、優勝は12年ぶりというから、調べてみると、2004年アテネ五輪の100m金メダリストで、2005年の世界陸上ヘルシンキ大会100m・200mの二冠以来である。2010年夏まで4年ほどドーピングで出場停止となり、復帰したときにはボルトがいて、ボルトと同時代に(4年半の微妙な年齢差をもって)生まれ合わせたばかりに優勝から遠ざかり、それでもこの歳になるまで我慢して頑張って、久しぶりに手にした金メダルだ。ガトリンの今回の、と言うより、ここまでの頑張りに天晴れ、かも。
 さて、ボルトの方は、予選からスタートブロックへの不満を口にし、「スタートが私を殺した。ラウンドを重ねれば良くなると思ったが駄目だった」と、首を振ったといい(デイリースポーツ)、確かにリアクションタイムは決勝出場8名中7番目だったが、長身の彼のスタートが悪いのはいつものことで、中盤から加速して一気に他を引き離すレース後半の圧倒的強さが彼の持ち味だ。レース後、「全力を尽くしたが、納得いく走りができなかった」と語ったというが、これが最後の個人種目ともなれば、さすがの彼も微妙に狂っていつもの調子を出せなかったのか。彼には最後までレジェンドであって欲しかったのだが・・・。
 金曜深夜のTBSで、織田裕二と中井美穂が前夜祭としてボルトの足跡を振り返っていて、あらためて彼の凄さを思った。ピークは2008年(北京五輪)から2012年(ロンドン五輪)あたりだろうか。オリンピックの男子100m・200mで三連覇の偉業を成し遂げたのは2008年の北京五輪からで、このとき100m・200mともに世界新記録での優勝は、オリンピック・世界選手権を通じて史上初めてのことだった。そして翌2009年の世界陸上ベルリン大会(9秒58)にかけて100mで同一人物が三度、世界記録を更新したのも史上初めてのことだった。とにかく男子100mについてボルトは規格外だったと言えよう。2012年のロンドン五輪100m決勝では、自身が持つ9秒69のオリンピック記録を9秒63に更新し、この時の最高時速45.39kmは世界記録時のそれを上回っていたという。規格外ゆえにその後も活躍したが、2013年の世界陸上モスクワ大会では9秒77、2015年の世界陸上北京大会では9秒79、2016年のリオ五輪では9秒81と、優勝したものの徐々に記録を落としていった。
 よく知られるように、持病の脊椎側彎症によって、不安定に揺れる背骨と肩とのバランスをとろうと骨盤が互いに大きく揺れ動いて身体を支えるため、肩を大きく上下させる独特なフォームに特徴がある。こうした脊椎側彎症によるハムストリングスなどの身体への影響を考え、当初、100mの走りを希望したボルトに対し、コーチは200m専門で戦わせてきたという。そんなハンディあったればこその偉業と言えなくもないし、それを克服した彼の精神力も素晴らしいと思う。
 時代を画したヒーローの雄姿は、いよいよ来週土曜日の400Mリレーが最後となる。今回、三人揃って準決勝に駒を進めた(でも揃って決勝に進めなかった)日本人選手の活躍にも期待したい。
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