【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

東大寺~お水取り~

2014-02-28 | デジカメ紀行
「正倉院正倉整備工事見学」をおえ、二月堂方面へ。

二月堂
東大寺再建寺、大仏殿東方の丘陵地、東が高く西が低い傾斜地に、西を正面として建てられています。奈良時代(8世紀)創建、大小2体の十一面観音を本尊とする仏堂。1体は内陣中央に安置され、「大観音」(おおがんのん)と呼ばれ、もう1体は厨子に納められ、通常は大観音の手前に安置されているもので、「小観音」(こがんのん)と称される。2体共、秘仏です。現存する建物は1669年の再建で、平成17年12月、国宝に指定されています。

奈良の早春の風物詩である「お水取り」の行事が行われる建物として知られています。
「お水取り」は正式には修二会といい、8世紀から連綿と継続されている宗教行事です。
旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることから「二月堂」の名があるそうです。

 大仏殿&鹿

正倉見学を終え、東方面へ。
鹿たちがのんびり、草を食んでいました。
後ろの方に見えるのは、大仏殿の裏側です。

 講堂跡

柱跡でしょうか。規模の大きな飛び石のよう・・・。

 二月堂への道1 石畳のなだらかな坂道を上がって行きます。


 二月堂への道2


 二月堂への道3

振り返ってみました。

 お願い

この坂道にある溝に掲げてありました。

 二月堂&階段1


堂の手前左右(南北)の階段で、堂への通路となっています。北側の階段は屋根付きで「登廊」と称され、練行衆が参籠宿舎から二月堂へ上堂する時にここを通るそうです。
右手に見えている木が、「良弁杉」です。

奈良の民話伝説によると
昔、近江の国、滋賀に仲のよい夫婦がいました。二人には子供が有りませんので、毎日毎日、観音様にお願いしました。すると二人には男の子が産まれました。観音様が授けてくださったのか、二人はお守りに小さな金の観音様を作り、その子の首にかけて大事に育てました。ある日、畑で仕事をしているとき、突然大きなワシが現れ、木陰で寝ていた赤子をさらってしまいました。二人は必死で追いかけましたが、とうとうワシは見えなくなってしまいました。ワシは奈良まで飛んでゆき、二月堂の下の杉にひっかけてその赤子を食べようとしましたが、その子の胸のあたりから後光が射してワシの目がくらみ食べることが出来ず、飛び去っていきました。その杉にひかかっている赤子を見つけたお坊さんがその子を降ろして見ると、懐に観音様のお守りが入れてありました。その子は良弁と名づけられ、後に立派なお坊さんになり東大寺の建立に力を尽くしました。ワシにさらわれてから30年間、全国を探し回っていた母親とも杉の木の下でめぐり会い二人は幸せにくらしました。 その後、杉の木は「良弁杉」と名付けられ、今も東大寺二月堂の前にあります。


二月堂&階段2

南側の階段で、3月12日深夜の「水取り」の時に若狭井へ下りる際に使用されるそうです。

 「階段2」に埋め込まれている石段の模様です。
石段









階段の 全体にあるわけではなく、下の方三段と、上から二段あたりに見られました。
意味は・・・?。

二月堂から 奈良市街を望みます。

左手、山の前のほうに見えるのが、横から見た大仏殿です。

二月堂(南面) 廊下の周りに「吊り灯篭」があり、夜には灯がともり、幻想的だそうです。


二月堂&鹿

こういう風景を見ると「奈良だなあ」って感じ。

手水舎 屋形細工、

透かし彫りなどの彫刻が見られ「すごい!」の一言。

灯篭いろいろ

二月堂参拝の後休憩場へ向かう途中で見られました。

松明見本

休憩所に修二会で使われる「たいまつ」の見本がおいてありました。

興成神社(こうじょうじんじゃ)

二月堂の西、やや下辺りにあります。

興成神社説明


閼伽井屋

高札の左には「若狭井」の石碑が建っています。

閼伽井屋高札


瓦、鵜

閼伽井屋の屋根にいます。

四月堂




毎年4月に法華三昧が行われるので「四月堂」と言われる三昧堂。御本尊に十一面観音立像(平安時代・重文)、普賢菩薩騎象像(平安時代)、阿弥陀如来坐像(鎌倉時代・重文)等を安置。
二重屋根の形式を持つお堂です。創建は治安元年(1021)、鎌倉時代に再建。

北隣は東大寺開山の良弁の像を祀り、庭に奈良三名椿の一つ「のりこぼし」がある開山堂です。
「のりこぼし」は、残念ながら非公開なので、塀の間から覗いて下さいとのこと。

東大寺案内図


ざくろ

閼伽井屋辺りで見つけました。

法華堂1


正面(礼堂)。一般に三月堂(さんがつどう)として知られる、東大寺境内東方の丘陵部に位置する、奈良時代(8世紀)建立の仏堂。国宝に指定。東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の1つで、堂内に安置する10体の仏像も奈良時代の作だそうです。本尊は不空羂索観音立像。手前に建つ石灯籠は重要文化財です。

法華堂が位置する東方丘陵部の一画を「上院」(じょういん)と称します。大仏開眼(752年)以前から、東大寺の前身寺院があった場所で、法華堂はその主要堂宇の1つです。

法華堂2

建物西側です。

向かって左半分(北側)の4間分が奈良時代、右半分の4間分(南側)が鎌倉時代の建築。
右端から数えて4本目の柱の上には組物がなく、代わりに実用上は必要のない雨樋が入っているそうで、正堂と礼堂が本来別棟で、
ここに雨樋があった名残だそう。

法華堂を後にし、下(西)方面へ。
鐘楼1


梵鐘

   
梵鐘は、大仏開眼供養の前年751年に鋳造されたと伝えられています。
鋳造された鐘は天平勝宝4年4月8日に天皇が行幸して懸けられたそうです。
巨大な梵鐘だけに、当初からこの丘の上で鋳造されたものらしく、重さ26.364トン、直径は2.708メートル、高さは3.853メートルもある大鐘で、音は長く響き「奈良太郎」と呼ばれて
「日本三名鐘」の一つとされています。現在の鐘楼は、鎌倉時代(1207~10年)に、栄西によって再建されたものです。国宝に指定。室町時代の文献には、南都(奈良)八景の第一に「東大寺の鐘」が挙げられています。

俊乗堂(しゅんじょうどう)    

鐘楼の北側に元禄年間、公慶上人が重源上人の遺徳を讃えて建立。
堂内中央に国宝「重源上人坐像」が安置されているそうです。

念仏堂


鐘楼のすぐ東の位置にあります。方3間、単層、寄棟造りで本瓦葺きの建物で国の重要文化財に指定されています。ここの屋根は錣葺(しころぶき)屋根という屋根の上半分を切り離し、寄棟屋根を載せたようなたような珍しいもの。本尊は鎌倉時代に造られた地蔵菩薩坐像で国の重要文化財に指定されています。

大仏殿方面へ

鐘楼のある広場から、大仏殿方面へ向かいます。
東側からの大仏殿です。
右手の木々が茂っている向こうに隠れているのが辛国社。
辛国社(からくにしゃ)

天狗社とも呼ばれる。

市内の阿字万字(あぜまめ)町の人々の間では辛国神社(からくにじんじゃ)として崇敬されているようです。石灯籠などの刻銘から、明治三十六年前後から天狗社が辛国社という名称にかわったようです。良弁僧正が東大寺創建時にさまざまな障害を加える天狗達を改心させて、仏法護持を誓約させて祀ったものだそう。この神社の前、大仏殿までの道を「猫段」と言うんだとか。ここで転ぶと猫になると言われたことから来ているようです。

境内の様子・・・ 、
馬酔木1

馬酔木2


鹿親子

おっぱいが欲しいー。

鹿





    
椿





鏡池&石碑 

もどってきました。

南大門

国宝。

平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重文)を安置する。上層の正面中央に、「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられているのは、古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、2006年10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて新調されたものだそうです。ウィキペデイアを参考にしました。

東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院。金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺です。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代別当)は良弁。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されています。

東大寺はどこからでも入ることができ、気が付けば「境内」って感じです。
東大寺といえば、「大仏さま」。
とてつもなく広く、「見る」「お参りする」ところが多く・・・。改めてびっくり。(まだまだ見残しあり。)
時間がたりないですね。

【3月14日:お水取り】




















  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする