【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

真田丸を訪ねて Part 1

2016-04-13 | デジカメ紀行


3月27日「真田丸」ゆかりの町、和歌山県伊都郡九度山町へ。
道の駅「柿の郷くどやま」へ車を停めて散策です。



赤備え



道の駅に展示されています。

自動販売機も真田丸仕様。




3月13日にオープンした「九度山・真田ミュージアム」へ向かいます。
道の駅「柿の郷くどやま」から徒歩5分ぐらい。

真田ミュージアム

幸村の生涯で一番長い時間を過ごした九度山での生活を紹介!


関ヶ原の敗戦後、父昌幸とともに蟄居を命じられた地、九度山。
真田昌幸、幸村、大助の真田三代の軌跡と、14年間という幸村の生涯で一番長い時間を過ごした九度山での生活を、パネル展示とドラマ仕立ての映像により紹介します。
大河ドラマ展(平成28年3月13日(日)~平成29年2月28日(火))では、出演者のパネルやドラマで着用した衣装、小道具等を展示し、大河ドラマの魅力を紹介します。

入り口


九度山町の花「牡丹」が置かれています。




エントランス

前で記念撮影ができます。

NHK大河ドラマ「真田丸」題字。

制作の様子が展示されています。
題字は、飛騨高山に拠点を置きながら、左官の技術を活かして国内外で活躍されている挾土秀平(はさどしゅうへい)氏によるものです。
挾土氏の暮らす飛騨高山の赤土に、左官で使用する鏝(こて)で
『真田丸』という文字が書かれています。
赤土の赤は、真田の赤備えをイメージしたものだそうです。

旗印(六文銭)


NHK大河ドラマパネル。


真田庵(幸村の屋敷跡)へ向かいます。
町中の電柱に施されています。

    

左 「ゆきむらさま」
幸村ゆかりの町「九度山」の真田幸村イメージキャラクター。
日常は穏やかでありながら、いざという時は武勇を発揮する幸村をイメージ。
大河ドラマ「真田丸」くどやま推進協議会が、九度山の大河ドラマ「真田丸」推進事業で活用するキャラクターを募集されたそうです。

右 「ゆきむらさま」と「真田十勇士」
真田幸村の活躍を支えた彼らは、共に戦い時代を駆け抜けた家臣たちです。
猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、三好伊三入道、穴山小介、由利鎌之助、筧十蔵、海野六郎、根津甚八、望月六郎。

町中、いたる所に六文銭の旗が建っているので、それを目印にたどって行けば目的地に着くことができます。

善名称院
 

高野山真言宗の寺院。和歌山県の史跡に指定されています。
寛保元年(1741年)に大安上人が、真田昌幸の庵跡と伝承のあるこの地に、地蔵菩薩を安置した一堂を創建したのが始まり。
真田庵(さなだあん)とも呼ばれ、真田幸村父子の屋敷跡に建てられたお寺。本尊に延命子安地蔵菩薩を祀り、かつてはお地蔵さんとして賑わいをみせたこともありました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れた真田昌幸・信繁父子は、女人禁制の高野山(蓮華定院)に配流の身となり、信州より紀州へとやってきました。高野山での生活は寒くたいへんだったため、麓の九度山町で生活したのではないか、また、妻を連れていたために九度山に移され蟄居生活を送ったとも言われています。

真田昌幸は、この九度山町で亡くなり、息子である幸村は、父の供養のために、森の中に宝篋印塔(ほうきょういんとう)を建てました。
その後、大安上人がこの森に来たとき、本尊がここに善名称院(真田庵)を建てよと言われ、大安は松の木だけを残してお寺を建てたと言われています。
九度山町の町花、牡丹の名所としても知られています。

三門をくぐると、出迎えてくれたのが、こちら。

アカハラ




本堂



八つ棟造りの重厚な三層城閣風のお堂です。

軒の瓦には菊花の紋章が入っています。
本尊は地蔵菩薩。

真田地主大権現

このお寺で、怒った姿の昌幸の霊がたびたび見られるようになりました。そこで大安上人は昌幸の霊をこの地の大権現の神様にして祀ったところ、穏やかな顔になった昌幸が現れ、そして祀ってもらったお礼にこの地を守ると約束しました。それがこの真田地主大権現です。
その後、稲荷大明神、金比羅大権現、天満宮、住吉大社も、
境内に加えて建てられました。

真田昌幸の墓

真田家の宝物である毘沙門天と真田三代の御霊を合祀。
大権現の左手に真田昌幸、信繁(幸村)の墓。
奥には真田家臣一族の墓。

与謝蕪村の句碑

「かくれ住んで花に真田が謡かな」
江戸時代の俳人与謝蕪村によって詠まれた2句のうちのひとつ。

雷封じの井戸

慶長年間、幸村公が蟄居中、真田屋敷に落ちた雷をとりおさえて
この井戸に封じ、里人の難を救ったという…。
こんな言い伝えが残されています。

土砂堂、右手は開山堂(大安上人御廟)


長屋門



扉に、菊花の紋章と六文銭。

絵馬と真田庵由緒



菊紋
大安上人が上皇室より下庶民に至るまで、霊顕を施し、信望を集めました。
嵯峨御所は、その徳をお慕いになり御紋章付の提灯と紫色の御幕を賜り、それ以後、菊の御紋章の使用を許されました。

旗印(六文銭)
真田家が六文銭を旗印として用いたのは北条氏とのある一戦で勝利してからだといわれています。天正10(1582)年、戦に破れた昌幸がわずか300の軍勢を率いて上田城に引き返す途中、4万余の北条軍に遭遇。その時15歳の幸村は無紋の旗を取り出し、北条方の武将松田氏の旗印永楽通宝を描いて兵に持たせ、軍を六隊に分けて闇討ちをかけました。北条方は松田が謀反を起こしたと勘違いし大騒動。それに紛れて真田勢は無事上田城に帰り着くことができました。
昌幸は幸村にその功を誉め定紋を六文銭にすることを許し、これが真田の六文銭の由来と言われています。
幸村の決死の覚悟を伝える神聖なシンボルと言えるでしょう。六文銭とは三途の川の渡し賃と言われています。

結び雁金

真田の家紋です。西門の扉に彫られていたようです。
この結び雁金は、渡り鳥の「かり(がん)」から出来た家紋で主に平時に使用していたと言われています。雁は幸せを運ぶ鳥とも言われているそうです。

境内の花達。








善名称院を後にして

真田古墳



「この穴の向こうは大坂城に続いていて、かつて真田幸村はこの抜け穴を使って戦場へ出向いた。」という伝説が残っています。
昭和28年(1953年)に行われた発掘調査によって、古墳時代後期(4世紀頃)の横穴式石室を持つ円墳であることが判明しましたが、真田の伝説が残る場所として「真田古墳」と名付けられました。

真田のみち

南海九度山駅に続く商店街に。

南海九度山駅




南海なんかい・真田さなだ赤備あかぞなえ列車、この秋参上!!
高野線車両(1編成)と九度山駅を「真田色」に装飾します。

車体や座席は真田幸村の赤備え甲冑をモチーフに、「六文銭(ろくもんせん)」や「結び雁金(むすびかりがね)」をあしらい、甲冑の力強さや美しさを表現したデザインです。
南海・真田赤備え列車は、南海電鉄高野線の難波駅(大阪市)と極楽橋駅(高野町)の間で、平成27年11月1日から約1年間運行します。

九度山駅から、県道13号線沿いに道の駅へ。

お昼ご飯は途中の「グラタンカフェ」で。


下りていきます。


見上げると・・・。


真田丸セット

熱々!。

まどの外は丹生川です。


お腹もいっぱい、幸せ気分で、道の駅へ戻ります。

マンホール(汚水蓋)

中央に九度山町の町章を配置し、町の木である柿を
デザインしています。

顔出し看板



ゆきむらさまと、真田十勇士。
道の駅に隣接する公園に設置されています。

お土産


九度山、イベント紹介。

第8回町家の人形めぐり 開催中!
2016年4月1日(金)~2016年5月8日(日)九度山町まちなかエリアにて。

こいのぼりの丹生川渡し
九度山町を流れる丹生川と紀の川の合流する丹生橋付近(道の駅柿の郷くどやま近く)では、毎春約100匹以上のこいのぼりが空を泳ぐ「こいのぼりの丹生川渡し」が開催されています。
川面の上を優雅に泳ぐこいのぼりの姿は、九度山の春の風物詩となっています。
4月上旬~5月5日

続いて、慈尊院、丹生官省符神社へ向かいます。Part2へ。
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