【折々の花だより】

”季節の花だより”
花たちとの出会いを楽しんでます

福岡へ行ってきました。 PartⅠ博多祇園山笠

2019-07-22 | デジカメ紀行
博多祇園山笠


(公式サイトより)

承天寺開祖の聖一国師が仁治二(1241)年、疫病除去のため施餓鬼棚に乗って祈祷水(甘露水)をまき、病気退散を祈ったのが始まり。当時は神仏混淆の時代。これが災厄除去の祇園信仰と結びついて山笠神事として発展したとのこと。
戦国時代に荒れた博多の町の復興を命じたのが豊臣秀吉で、「太閤町割り」「博多町割り」と呼ばれ、博多山笠も華やかになったそうです。

山笠は、古くは高さ15メートル前後のものをゆっくりと舁いていたようですが、貞享四(1687)年正月、竪町(恵比須流)に嫁いだ土居町 (土居流)の花嫁が、花婿ともども里帰りしたところ、土居町の若者が余興として花婿に桶をかぶせるなどしたため、竪町の若者が怒って押しかけ一触即発に。夏のお祭りの際、恨みが残っていた恵比須流が昼飯を食べていた土居流を追い越そうと走り出し、土居流も負けてはならじと走り、これが評判を呼び、「追い山」に発展したといわれています。

2016年ユネスコ無形文化遺産に登録されています。

訪れました。

14日お昼、博多駅着。


駅前に「飾り山笠」が見えています。

昼食は、博多めん街道にある、「長浜ナンバーワン」で長浜ラーメンをいただきました。。




=用語、準備など=
イメージです。


櫛田入り
追い山笠ならし(7月12日午後)、追い山笠(15日早朝)では、順に櫛田神社の境内(清道)に山笠を舁(か)き入れます。
山笠は清道旗を回って境内を出て、コース(追い山笠ならし約4キロ、追い山笠約5キロ)に飛び出します。
この舁き出しから境内を出るまで(約112メートル)を“櫛田入り”と呼び、所要時間の計測があります。
肩に山笠の棒を乗せて走ることを「舁く」と言います。

清道旗
追い山笠のコースには三つの清道旗が立てられています。

櫛田神社の清道にある清道旗

“櫛田入り”のタイム(所要時間)はこの旗を巧く回るかどうかに左右されるそうです。


法被
博多山笠の舁き手は、各町それぞれが独自の法被を身に着け、褌(ふんどし)と、地下足袋。
地下足袋(古くは「張り付け式ゴム底足袋」)の発明は大正初期、ブリヂストンの創業者の石橋正二郎氏(1889~1976年)。久留米で家業の足袋製造業に従事するとともに「地下足袋」を考案、炭鉱、旧 陸軍はじめ各分野で爆発的に普及したそうです。

人形づくり
いずれの山笠も博多人形師が手がける。等身大以上の武者、奥方、アニメの主人公のほか、馬・牛などの動物、きらびやかな館、岩こぶ、波、川など。
割った竹で骨格を作り、和紙を張って彩色。人形には博多織や金襴でつくった着物を着せる。頭(顔)や手は和紙やおがくずなどを固めて仕上げます。

小屋入り
その年、山笠を建てる位置に山笠台の部材や縄、棒などを並べて組み立て作業の安全を祈願。
山笠台は独特の構造をしており、釘を使わない。

棒洗い
取り付けられる六本の棒は山笠のシンボル。6月の初旬、各流の当番町役員や若手が櫛田神社の浜宮に運んで、神官がお祓いをし、海水を勢いよくかけて洗い清めます。

棒締め、 試し舁き
6月の中旬から下旬にかけて「ぼー(棒)締めた!」「ぼー締めた!」の掛け声(組み上げた山笠台に六本の棒を固定する作業の際の声)が響き渡ります。
表、見送りとも一本の麻縄を巻いて、取り付けますが、“おやし棒”と呼ばれる棒をテコにして締め上げます。
6本の棒がしっかり山笠台に固定されているか。それを知るため、棒締めが済むと、作業をした当番町の若者が肩を入れて持ち上げて走りだします。

飾り付け
6月27日から、人形師が素山にのぼった若手らに人形類の据え付け位置を指示。
「もう少し箱崎側に」「ちょっとだけ、姪浜寄りに」などと声をかけます。右とか左とかではなく、地元なら誰もが知っている地名を用いるそうです。

標題
山笠には何を飾っているかを表現する、テーマを書いた標題が付いています。「牛若丸飛燕之誉」「弁慶五条橋之勲」・・・。


町内を散策します。全部の山笠を見てまわることはできませんでしたので、ほんの一部を。

<飾り山笠>
7月1日から15日の午前0時まで福博の町、14ヶ所で公開されます。
櫛田神社に向いた面を「表」とし、その裏側を「見送り」と呼び、それぞれ 博多人形師による絢爛豪華な人形が飾られ、「表」には武者物、「見送り」には童話やテレビアニメが題材になることが多いそうです。
「飾り山笠」は10メートル前後の高さです。

博多駅の前にあるのが・・・。
「十五番山笠 博多駅商店連合会」
表、合戦川中島(かっせんかわなかじま)

日本の戦国時代に甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄と越後国(現在の新潟県)の
戦国大名である上杉謙信との間で北信濃の支配権を巡って行われた数々の戦いをいう。
天文22(1553)年頃から永禄7(64)年頃までの戦い。

見送り、ラグビーワールドカップ 2019(らぐびーわーるどかっぷ 2019)

4年に一度、約7週間で行われる15人制のラグビー世界王者決定戦、
第9回目の今回アジアで初めて開催されます。


商業施設キャナルシティにあるのが・・・。

「十六番山笠 キャナルシティ博多」
表、勧進帳(かんじんちょう)

歌舞伎十八番の一つ。

見送り、令月風和桜報恩(れいげつかぜやわらぎてほうおんのさくら)

日本の五大お伽噺。正直者の老夫婦に可愛がれた犬シロの恩返しのお話。


櫛田神社にあるのが・・・。
「番外 櫛田神社」


神話海幸彦と山幸彦(しんわうみさちひことやまさちひこ)
火照命(ほでりのみこと、海幸彦)と火遠理命(ほおりのみこと、山幸彦)の二人の兄弟神は、
それぞれ海と山で獲物をとって暮らしていました。
ある日、弟の火遠理命が兄の火照命に「互いの狩りをする道具を換えてみよう」と求め、
二人は道具を交換して使ってみることにしました。
これは神話・海幸彦と山幸彦の一場面です。

流星光底逸長蛇(りゅうせいこうていちょうだをいっす)
謙信、信玄が己の英知と信念のもと激突した今なお語り継がれる川中島の合戦の場面。
標題は、江戸後期の漢詩人、頼山陽が謳った漢詩に由来します。



<流>
十数か町(旧町)を束ねた組織の呼称。
大陸貿易で栄えた博多は戦国時代、せめぎ合う大名、豪族の争奪の場となり、兵火に遭って焼け野原と化した。天正十五(一五八七)年、その復興を命じたのが太閤秀吉で、「太閤町割り」あるいは「博多町割り」と呼ばれる
縁起がいい、七つの流があります。




表、道一筋不謁二君(みちはひとすじ にくんにまみえず)
立花 宗茂は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。大友氏の一族で、重臣。陸奥棚倉藩主、筑後柳河藩の初代藩主。関ヶ原の戦いで改易後、大名として復帰した武将は他にもいるが、
旧領を回復した武将は宗茂ただ一人である。


=博多祇園山笠スケジュール=
7月1日 注連(しめ)下ろし
祭り初日に舁き山笠の流区域を清める行事。

7月1日 ご神入れ
山笠に神を招き入れる神事。

7月1日 当番町お汐井(しおい)とり
その年、各流の当番長になった町の面々が、法被に締め込み姿で、箱崎浜まで駆けて行き、汐井(真砂)を小さな升やテボ(竹ヒゴで編んだか ご)に入れて持ち帰る。

7月9日 全流お汐井とり
各流の舁き手が午後6時から7時過ぎにかけて箱崎浜に到着し、沈む夕日に柏手を打って安全を祈願。
帰路は筥崎宮、櫛田神社に参拝します。

7月10日 流舁き
舁き山笠がそれぞれの流区域内を舁き回ります。

7月11日 朝山笠
早朝に町総代や旧役員を呼んで接待する流舁き。祝儀山とも呼ばれるそうです。

7月11日 他流舁き
1日2回舁きます。流の外に出るところからこの名があるんだとか。

7月12日 追い山笠ならし 
追い山笠のリハーサル。
一番山笠から順次「櫛田入り」して奈良屋町角の廻り止め(ゴール)までの約4kmのコースを全力で舁く。

7月13日 集団山見せ
明治通りの呉服町交差点~天神(福岡市役所)間約1.3kmが「舞台」。

7月14日 流舁き
追い山笠では、慣れた若手やベテランの舁き手が交代で山笠に付くので、未熟な舁き手が、その年、山笠が舁ける最後のチャンスだそう。

7月15日 追い山笠
大太鼓の合図とともに一番山笠から順に「櫛田入り」。
その後、境内を出て旧博多部に設けられた約5kmの「追い山笠コース」を須崎町の廻り止め(ゴール)を目指して舁く。
「櫛田入り」「コース」ともに所要時間を計測します。

追い山笠
旧暦時代は6月15日の夜明けに行われていたが、新暦の現在では一か月遅れの午前4時59分に設定。
舁き山笠は午前1時半ごろから櫛田神社前の土居通りに順番に並べられ、お参りをします。
午前4時59分、大太鼓の合図とともに一番山笠が 櫛田入りします。

午前4時59分という出発時間は一番山笠だけに認められた「博多祝い唄」を歌う時間として一分間前倒ししているためだそうです。

博多の祝い唄(通常は三番まで)はおもに祝いの席で唄われます。
櫛田入りでは一番山笠だけが一番のみを唄います。


=櫛田神社=

博多祇園山笠が奉納される神社で、飾り山笠が一年中展示されています。
博多っ子からは「お櫛田さん」の愛称で親しまれている、博多の総鎮守です。

楼門の額「威稜」

「いつ」と読み天子・天皇の御威光という意味。



祭神は正殿に三神が祀られています。


大幡主命(櫛田宮):孝謙天皇天平宝字元年(757年)託宣によって鎮座。
左殿に天照皇大神(大神宮):奉祀についてはあまりにも古く史実としてはっきりしないそうです
右殿に素戔鳴尊(祇園宮):天慶4年(941年)藤原純友の乱の追討使小野好古が戦勝奉賽のために勧請されたといわれています。

三神を祀っているため、神社には3つの紋が祀られています。

左から素盞嗚尊(祇園宮)の紋、大幡主命(櫛田宮)の紋、天照皇大神(大神宮)の紋。

「博多っ子がキュウリを食べない」という話は、祗園宮の紋とキュウリの輪切りの切り口が似ているから、という理由だそう。
祇園山笠でもこの三神は、神額になって舁き山・飾り山の差し物に飾られているが、天照大神は女性神のため、山笠の期間は大新宮の紋は使用されないんだとか。博多博多祇園山笠のポスターにも祇園宮と櫛田宮の二種類しか掲載されていないそうです。
長法被の際に着用している帯のデザインでも大神宮紋は入っていません。
櫛田神社の境内にある鈴に付けられた麻縄は、左から祇園宮、櫛田宮、大神宮の縄となっているため、山笠期間中は舁き手は右側の縄を使わない、という事にもなっているようです。

博多風神雷神

拝殿の破風の左右に掲げられている風神雷神の木彫りは風神があっかんべぇをして雷神から逃げる様子で、ユーモアあふれる博多っ子の気質を表しているといわれています。


櫛田のぎなん

樹齢千年とも言われ、長寿延命のシンボルとされる御神木です。
博多祝い唄に「さても見事な櫛田のぎなん」と唄われているそうです。
県の天然記念物に指定。


霊泉鶴の井戸

本殿地下から湧き出る霊泉で不老長寿のいのち水として信仰されています。

博多べい

豊臣秀吉の太閤の博多町割りによって、よみがえった市街には焼け石、焼け瓦が厚く塗り込められた「博多ベい」と呼ばれる土べいが長く連なりました。
櫛田神社の「博多べい」は博多三傑の一人嶋井宗室の屋敷で三百八十余年の風雪に耐えた
最後の「博多ベい」を移築再建したもの。



境内で。









大正天皇行幸記念殿


手水舎

彫られている模様も、山笠。


雰囲気を味わったところで「ディナークルーズ」へ。

「華やかな夜景と生演奏に包まれる
自然豊かな能古島や、海から望むヤフオク!ドーム、福岡タワーと百道浜の夜景・・・。
時間ごとに、季節ごとに移ろう景色が楽しめます。
心ときめくひとときをお過ごしください。」

ベイサイドプレイス博多から130分の乗船です。

MARIERA マリエラ







遠くには、福岡ドームや、福岡タワー等も見えます。


非日常の世界を味わうことが出来ました。


明日(15日)は、朝4時に出かけます。

前日からの場所取り、二重三重の人垣で、なかなか前に進むことも出来ないくらいの人出です。

合間から、手を伸ばして・・・。

恵比須流


大黒流


東流


西流




最後は、唯一の飾り山笠がやってきました。
上川端通







背が高いので。電線を超えると尖塔が伸びてきました。


辻を曲がるところが迫力がある、というので移動するんですが、こちらも、身動きできず。

やっとの思いで撮ったのがカーブミラーに映ったこれ。



櫛田神社へ戻ってきました。

鎮めの能
山笠が駆け抜けた櫛田神社の能舞台では午前6時から荒ぶる神様に捧げる鎮めの能が演じられます。


飾り山笠、「上川端通」が帰ってきたところで、パフォーマンス。

商店街の天井についています。


迫力満点!。

朝食を済ませ、太宰府天満宮へ向かいます。

説明文は公式サイト、パンフレットを参考にしました。



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