友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

「心づかい」や「思いやり」は幻想なのだろうか

2011年03月27日 18時38分37秒 | Weblog
 今日も昨日と同じように寒い。朝、ルーフバルコニーに出て、大きく伸びてきたチューリップに水をやったけれど、寒さで震え上がった。それに風が強く、しかも一定方向ではなくて、マンションのこの辺りでぶつかり合うのか、散水の水が舞い上がって私に降りかかってくる。被災地の皆さんはもっと寒い思いをされていることだろう。避難所の生活も2週間を超え、かなり限界に近づいている。それも本当は人によりけりで、絶望的な思いの人もいれば、楽しく思っている気楽な人もいる。何が大変なのかと言えば、「この先が見えないことだ」と言っていたが、その通りだろう。

 先がわかっていれば我慢も出来るが、どうなるのかわからなくては耐えられない。拷問と同じだ。先が見えなければ音を上げる以外ない。こんなに豊かで穏やかな時代に、まさか故郷を捨てて新しい土地に移らなくてはならないと誰が想像できただろう。人は生活し始めると、「住めば都」になるものだ。若い人なら新しい土地でも働く場所があるから生活できる。蓄えが無くても働けばまた豊かな生活を取り戻せる。しかし、年寄りは働くことも出来ず、収入の道がないのだからいったいどうすればいいのかと思う。土地を離れられないのは、土地に対する愛着ばかりでなく、これからどうやって生きていくのかという不安が大きいからだ。

 若い人は命を懸けてベルリンの壁を東から西へと越えた。ベトナムでもアフガニスタンでもリビアでも、若い人は命を懸けて自由を求める。北極のようなとても生活できないだろうと思うところでも人は生きているし、エレベストの落ちれば絶対に命がないような崖の奥で生活している人もいる。どうしてもっと楽に生活できそうな場所へ移らないのかと思うけれど、生活してきた人にとってはそこが安住の地なのだろう。人には耐えられることと耐えられないこととがあるようだ。どうやらそれは豊かさではなく、自分がどう扱われるかということにある。

 テレビでは災害以後、商品コマーシャルに代わって公共広告が流され、いつの間にか言葉や歌までも覚えてしまった。金子みすずの詩もいいが、「心は誰にも見えないけれど 心づかいは見える。思いは見えないけれど 思いやりは誰にでも見える」というコピーもズシンと来るものがある。「ひとつになろう 日本」には異端を許さない雰囲気があるけれど、金子みすずやこのコピーには優しさがある。飛躍してしまうけれど、フランス映画『突然炎のように』や三島由紀夫の『三原色』は、確かに自分勝手な生き方ではあるけれど、完全にはなれない人の、たとえ部分であるとはいえ、真実があると思う。

 三島由紀夫の『三原色』は演劇のシナリオで、ひとりの女をふたりの男が愛するのだが、美しいものを愛するのに心は要らないという誠に勝手な価値観をテーマにしている。地震直後のこの時期ならとても受け入れられないだろう。日本人は冷静で慎みと思いやりに溢れていると外国人から絶賛されていたけれど、放置された車のガソリンを盗むばかりかガラスを割って金品を持って行く者がいるそうだ。もっと悪いのは、会社のために人々の危険を無視してしまう人だろう。「心づかい」や「思いやり」は幻想なのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする