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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

『ピカソはやっぱり北名古屋人!』

2011年03月19日 19時47分43秒 | Weblog
 「ピカソはどうして巨匠になれたか」と講師の山田彊一先生は話す。「ド助平であったこと。助平でない男は有名人にはなれない」と自論に熱が入る。大和塾の第20回市民講座『ピカソはやっぱり北名古屋人』はこんな話から始まった。確かにピカソが愛した女性は知られているだけでも5人はいる。70歳代でも子どもを生ませていたのではなかっただろうか。性的な力がある男は生活力というか、生きる力というか、存在力が旺盛である。性的な力は生まれながらに持っているものかと言えば、そうとも言えるしそうではないとも言える。自らが欲して培われるものであるようだ。

 ピカソは次々とたくさんの女性を愛していくけれど、そうすることでさらに自分をもっと上へと高めていく力を作り出す。山田先生の話では、ピカソは女性に振られたことがないことになっているけれど、実際は何度も呆れられて逃げられているそうだ。山田先生は「そこがピカソの凄いところで、すぐに次の女性を見つけてしまう。ピカソの下を去った女性が戻ってきた時には女性のいる場所はないので、ピカソが振ったことになってしまう。冷たい男なんですよ」と言う。会場の男たちはゲラゲラと笑ってはいるが、一生に一度の女性しか知らない人が大半だろうから、心の中では羨ましがっていたのではないだろうか。

 ピカソを有名にしたのは、『アヴィニョンの娘たち』という作品だ。5人の女性が描かれているけれど右の二人だけが顔の表情が違う。これはピカソがマチスのアトリエを訪ねた時、アフリカ人の作った人形を見て、面白いとヒントに描き直したが納得できなくて放ってあった作品であった。立体派の画家のブラックが子の作品を「素晴らしい」と言って褒めた。3次元絵画を切り開いた最初の作品といわれている。さらに有名な『ゲルニカ』は絵画で始めて反戦を描いたものだ。この作品でピカソは不動の地位を得たわけだけれど、この時も女性が大いに関係している。また母国スペインがナチスに空爆されその怒りと悲しみが、パリ万博に出品されるというタイミングも良かった。

 身長155センチのピカソは、スペインの田舎育ちで、人がビックリするような写実力があった人とは言えない。たまたま友だちに誘われてパリに出かけ、食えない画家であったのが、女性を愛することでエネルギーを蓄積していった。パリの多くの画家たちと同じように、新しい絵を見つけ出そうしていたけれど、多分それだけなら普通の画家で終わったであろう。人にはタイミングというものがあるし、タイミングを捉えるというか、自分に引き寄せる力とか努力とかが運命を切り開いていくのだろう。

 山田先生は言う。「人に見られることで人は活性化する。大勢の人に見られることはより大きな力となるが、一人だけでもいい。自分を認めてくれる人がいれば、人は元気になれる。自分がブランドになる。自分をブランドにしていく。それこそがピカソが教えてくれた生き方である」。先生の話は迫力がある。説得力がある。さすがに実年齢は70歳にありながら、アフリカでは40歳と言ってきた先生である。また惚れてしまった。
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