大和塾の市民講座『ピカソはやっぱり北名古屋人!』に参加してくれたご婦人からこんな手紙をいただいた。「久しぶりの参加です。あの方は本当に生徒さん相手の先生なのかと思うくらい軽やかな話をされました。しかも少しエッチな話も軽いタッチで話されるのでビックリしました。見た目は硬い感じでしたので、どんなピカソの話をしてくれるのかと半分身構えていた私でした。でも安心して聞くことができた講座でした。あまり参加できない私ですが、また誘っていただきたいと思います。幅広い層の方がみえるのですね。私は参加して聞くことしか出来ませんが、みんなにも声をかけて呼びかけたいと思います。ありがとうございます」。
こんな風に言ってもらえるのはとても嬉しい。「松下村塾のような、このまちの未来をつくっていく人づくりになる塾を立ち上げたい」と頼まれて始めたけれど、そんな大きな夢の実現にはほど遠くても、参加してくださった人が元気になれる「市民講座」を続けようと思い、事務方を引き受けてきた。「どうせまた選挙にでも出るつもりだろう」とか「あいつがやるようなものには協力するな」とか、いろいろと言われていることも知っている。私は、呼びかけてくださった故人の意思を大事に思っているだけで、選挙に出る気持ちは全く無い。大和塾の市民講座も4年間続いてきて、塾生の皆さんからは「まちづくりに提言できるような活動もすべきだ」と言われている。
私はあくまでも事務方であり、大和塾の活動の方向は塾生の皆さんの総意に従ってその段取りを行なうことだと思っている。強いリーダーのもとに進んでいくのは気持ちの高揚があってよいのかも知れない。しかし、みんなの気持ちを大事にしたいと思うけれど、強い力で引っ張っていくことは気が思い。やはり歳を取ったと思う。先頭に立って頑張ろうというパトスが無くなっているし、若い人に譲らなくてはいけないのではないかという気持ちが働いてしまう。
今朝、テレビを見ていたら、「私たち国民は心をひとつにして、この難局を乗り越えましょう」(正確にはもっと違う表現だったかも知れません)といったキャンペーンテロップが流され、ビックリした。もちろん、みんなそんな気持ちになっている。各地で自主的に募金が集められているし、節電や倹約も積極的に取り組まれている。「私も何かしたい」と思っている人がたくさんいる。日本人の優しさと連帯感と正義感は素晴らしいと思う。
けれど私はちょっと不安になる。「国民は心をひとつにして」と呼びかけられると、どこかで嫌だなという気持ちが生まれてしまうのだ。善意の気持ちが大きく強いほど、協力できない人を非難してしまうことになり兼ねないのではないだろうか。ボランティアに熱心な人もいるけれど、そうでない人もいる。いろんな人がいていいし、助けたい気持ちがあってもみんなと同じようにできない人だっているかも知れない。それを認める心の余裕こそが大事なのではないだろうか。
ノアの箱舟に全員が乗れるわけではない。私が乗らなければ、誰かが乗れる。それなら私はここに残ろうと思う。
こんな風に言ってもらえるのはとても嬉しい。「松下村塾のような、このまちの未来をつくっていく人づくりになる塾を立ち上げたい」と頼まれて始めたけれど、そんな大きな夢の実現にはほど遠くても、参加してくださった人が元気になれる「市民講座」を続けようと思い、事務方を引き受けてきた。「どうせまた選挙にでも出るつもりだろう」とか「あいつがやるようなものには協力するな」とか、いろいろと言われていることも知っている。私は、呼びかけてくださった故人の意思を大事に思っているだけで、選挙に出る気持ちは全く無い。大和塾の市民講座も4年間続いてきて、塾生の皆さんからは「まちづくりに提言できるような活動もすべきだ」と言われている。
私はあくまでも事務方であり、大和塾の活動の方向は塾生の皆さんの総意に従ってその段取りを行なうことだと思っている。強いリーダーのもとに進んでいくのは気持ちの高揚があってよいのかも知れない。しかし、みんなの気持ちを大事にしたいと思うけれど、強い力で引っ張っていくことは気が思い。やはり歳を取ったと思う。先頭に立って頑張ろうというパトスが無くなっているし、若い人に譲らなくてはいけないのではないかという気持ちが働いてしまう。
今朝、テレビを見ていたら、「私たち国民は心をひとつにして、この難局を乗り越えましょう」(正確にはもっと違う表現だったかも知れません)といったキャンペーンテロップが流され、ビックリした。もちろん、みんなそんな気持ちになっている。各地で自主的に募金が集められているし、節電や倹約も積極的に取り組まれている。「私も何かしたい」と思っている人がたくさんいる。日本人の優しさと連帯感と正義感は素晴らしいと思う。
けれど私はちょっと不安になる。「国民は心をひとつにして」と呼びかけられると、どこかで嫌だなという気持ちが生まれてしまうのだ。善意の気持ちが大きく強いほど、協力できない人を非難してしまうことになり兼ねないのではないだろうか。ボランティアに熱心な人もいるけれど、そうでない人もいる。いろんな人がいていいし、助けたい気持ちがあってもみんなと同じようにできない人だっているかも知れない。それを認める心の余裕こそが大事なのではないだろうか。
ノアの箱舟に全員が乗れるわけではない。私が乗らなければ、誰かが乗れる。それなら私はここに残ろうと思う。