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友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

自己責任とプライバシーがつくり上げた社会

2011年03月05日 19時29分13秒 | Weblog
 児童館の行事で写真を撮った友人が、「皆さんに渡したい」と子どもたちの写真を持って行ったところ、職員は「ありがとうございます」と礼は言ってくれたけれど、「写っている子どもの許可を受けないと渡せません。プライバシーの問題ですから」と言われたそうだ。プライバシーというのはそういうことではないだろうと思ったけれど、役所は何かにつけてパライバシーと言うところだからと諦めて帰って来たそうだ。そういえば、目の見えない人のために点字を行なっているサークルが「市の広報を点訳して目の見えない人の所へ届けたいので、住所を教えて欲しい」と申し込んだところ、プライバシーにかかわることだからと断られたという話も聞いた。

 地震などの災害に備えて、ひとり暮らしの高齢者や身体の不自由な方をキチンと把握しておくことは大事なことだが、そのデーターは誰が持っているのだろう。役所の担当が保管していることは確かであろうけれど、プライバシーだからと公表されることはない。それではイザという時に間に合うだろうか。近所の民生委員が把握しているだろうが、民生委員が持っている人数が多かったなら早急な対応はできるのだろうか。阪神淡路大震災の時に、スムーズな救出ができた地域は、日頃から近所付き合いができていて、どこの家の誰が不自由かをみんなが知っていたそうだ。

 マンションのようなところではそういう近所付き合いは期待できないけれど、せめて地域の役員くらいは災害弱者の存在を知っていて欲しいと思う。マンションではなくても、新興住宅街でも近所付き合いができないと聞く。何とも寂しくなったものだと思うけれど、私自身のことを考えてみると、近所付き合いが濃厚であった子どもの頃はそれがとても嫌だった。祖母が亡くなって、近所の人たちが葬式の手伝いをしてくれたけれど、悲しいというよりはまるでお祭りのような雰囲気で、私はこういう近所付き合いは見せかけばかりで本物ではない、集団よりも個人を大事にしたいと考えるようになった。

 多分それは、封建時代のような集団の関係から工場で働く個人の関係へと変わっていった時代が背景にあったのだろう。ところが今、その個人の関係はあまりにも希薄な関係になったために様々なところで問題が起きてきた。「無縁社会」という言葉はその象徴で、自己責任やプライバシーが作り上げた社会だと思う。アメリカは個々の実力で新しいエネルギッシュな社会を形成してきた。頑張れば頂点に立てるのだから、底辺にいるのは怠け者だという価値観を育ててきた。だからシンデレラボーイとかガールを大いに讃える。その反面で、キリスト教の教えや共同体意識もあって、みんなで助け合うことにも積極的だ。

 労働が個人に限られるから、人の関係が個々になるのは当たり前だろう。その個人が他人との関係をいっそう閉ざしていくと、人の痛みや悲しみや寂しさがわからなくなる。「死にたい」ならば自分ひとりで死ねばいいのに、その時は多くの人を巻き添えにしてしまうのは、集団に身を置きたいと願う深層心理なのかも知れない。それだけ弱い存在なのに、助けの求め方がわからないのだ。先進社会が後戻りしつつあるように私は思うが、どうだろう。
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