友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

短くわかりやすい文章は記者の使命です

2011年03月28日 19時42分37秒 | Weblog
 昨日までとは大きく変わって、今日は暖かかった。午後6時、私の部屋の真向かいに真っ赤な太陽が養老山脈の稜線に届きそうな位置にあった。いつも寒いと思って見もしなかったけれど、あまりに大きく美しかったので、ブログに載せようとルーフバルコニーへ出て、ケイタイを向けた。ところが肉眼では素晴らしく大きく美しく見えるのに、私のケイタイでは小さな点に過ぎない。それから5分も経ていないのに、太陽はすっかり消えてしまった。するとまた冷たさが徐々に広がってくる。

 いつの間にか3月も終わろうとしている。3・11大地震、9・11ニューヨーク無差別テロ、どうも11というのは魔の金曜日のように嫌われそうだ。いつの間にか、私のブログの閲覧数が500をそして訪問者が200人を超えている日がある。私の知っている人への勝手な手紙のつもりで書いてきたのに、時々私の思いとは真反対なコメントが寄せられたり、よくわからない内容のコメントがあったりする。ブログを行なっている先輩諸氏に聞けば、「公開している限り当たり前のこと。どう対処するかはあなたが決めること」と言われてしまった。

 全くその通りだと思う。時々グサッと心をえぐられるようなコメントもあるけれど、できる限り削除しないで置くようにしている。反論を求められることもあるけれど、出来れば論争は避けたいので、投稿者同士でやってもらいたいと虫のいいことを願っている。ブログでの吐露は私の勝手な思いであって、それを間違っていると言われても困ってしまう。気に入らない人は無視してくださればいいし、もちろんそれでもご自分の思いを寄せてくださるなら拒否はしないつもりだ。

 それでも、私のブログを楽しみにしているとか言われると、休むわけにはいかない。さて、今日のように何を書こうかと思ってもネタが見つからない日もある。そういう時は、今日くらいは休んでもいいかと怠け者の声がするのだが、いや何か書けよという声がそれを打ち消す。フランス人の女流作家マルグリット・デュランの『愛人』を読んでいるけれど、この文体がとても面白い。訳されたのは清水徹さんという方だが、英語もフランス語も実は日本の古文も不得意な私が言うのもヘンだけれど、きっとフランス語もこんな風な書き方なのだろうなと思いながら読んでいる。

 私は学生時代に、高橋和巳の『憂鬱なる党派』を読んで虜になった。続いて『邪宗門』や『我が心は石にあらず』を読みふけって、高橋さんの難解な文章に憧れた。1ぺージに句点が1つしか無いか全く無い。デュランの『愛人』も読点ばかりで句点が少ない。高橋さんの文章は長々と続き、どこで終わるのかわからない。デュランの方はブツブツと切れるのだが、その切れ方が面白い。私は高橋さんの文体に憧れながら、しかし、新聞を作っていたので自分が書く文章は出来るだけ短くした。短くわかりやすい文章を書くことが記者の使命だと後輩にも言ってきた。

 ※コメントをくださる皆さん。本名でなくて結構ですが、あの人かなと私がわかるようなコメント名だと嬉しいです。
コメント
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