友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

運、不運もまた人生

2009年04月19日 19時37分24秒 | Weblog
 世界保健機構(WHO)が、海外での渡航移植の規制を強化する見通しであることから、わが国の子どもの臓器移植ができなくなるというので、臓器移植法を改正しようという動きがある。現行法では臓器提供は15歳以上とあるが、この年齢制限を撤廃しようというのである。年齢制限の撤廃を可能にするために脳死判定の基準を厳格化し、法案の改正に反対する議員を減らそうと目論んでいる。

 私の周りに、臓器移植でしか助からない命の人がいないからだろうけれど、私は臓器移植を歓迎する気にならない。医学は目覚しく進歩し、人間の命を救ってきた。目の悪い人がメガネをかけるように、臓器を取り替えるだけだとは思えない。私は以前、自分の臓器が他人の役に立つなら使ってもらいたいと思った。カミさんは反対したが、それで助かるならと臓器移植カードにサインする気でいた。

 けれども、後進国で臓器が売買されていることを知り、愕然とした。そして自分が歳をとり、人はいつか死ぬと思うようになった。早い人もいれば遅い人もいる。それは自分では決められない。運命を受け入れる考え方をすべきではないだろうか。子どもがかわいそうだとか、臓器提供があればもっと長生きできるのにとか、そんな風に私たちが思うのは臓器移植という医術を知っているからだ。この医術は本来はやってはいけないことだったとわかれば、あきらめもつくのではないか。

 秦の始皇帝も不老長寿の薬を求めて、諸国を探させたけれど、人にはそれぞれに生きる長さが決まっていると知っていたならば、もっとよい政治をしたかもしれない。医術に携わる人々には哲学を必須科目にして欲しいと思う。目先のことよりももっと人間としての尊厳を大事にする医術であって欲しい。そのためには、科学技術の進歩の前に、人は何のために生きているかをみんなで考えることが必要なのだろうなと思う。

 昨日の朝日新聞の『悩みのるつぼ』は明快だった。大学生が「運、不運で人生が決まるの?」と質問していた。「個人の運、不運ならまだ実力のうちと納得できても、生まれた時代や環境によって、どうして左右されるのか」といったものだった。回答者は作家の車谷長吉さんという方であった。詳しくはぜひ一読していただきたい。車谷さんは「世には運、不運があります。それは人間世界が始まった時からのことです。不運な人は、不運なりに生きていけばよいのです」「己れの不運を知った人だけが、美しく生きています」「己れの不運を知ることは、ありがたいことです」。そう結んでいたが、私は非常に快い読後感だった。

 不運を嘆くなとはとても言えない。運命だからあきらめろとも言えない。人間は平等と言いながら、幸運な人もいれば不運な人もいる。本当に悲しいよねと一緒に涙を流すことしかできない。
コメント
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