友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

大人になってきた孫娘

2009年04月29日 21時39分00秒 | Weblog
 孫娘を見ていると、中学2年までと3年になった今とでは大きな違いがあるように思う。これまではただ聞いていただけだったのに、はっきりと自分の意見を言うようになった。学校そのものが2年と3年では大違いの雰囲気があるようだ。進学はしないとあきらめた子どもたちは、学校へは給食を食べに来るだけだと言う。先生も問題を起こされるよりはその方がよいと思っているのか、彼らの行動には目をつぶっている。

 全く勉強なんかやる気はない。いやむしろ、この何年間か勉強からそっぽを向いてきたのだから今更勉強しようとしてもさっぱりわからないし、ついて行く事も出来ない。授業後に残して個別に教えればまだ理解できるのかもしれないが、始めっからやる気がない人間を大勢の中で教えるには無理がある。だから、仕方がないのでお客さんでよいから静かにしていてくれということになる。そうなれば、彼らだってのけ者にされていることはわかるから、時々は存在を示したくなって暴れるのだ。

 教師をしていて一番悩むところだ。昔、クラスの子どもで数学が出来ない子に数学の担当者にお願いして授業後に面倒を見てもらったことがあった。「わかった時はとてもうれしそうな顔をするよ」とその先生が言ってくれてうれしかった。誰だって、自分が馬鹿のままでいいなんて本当は思っていない。誰だって、分からないことが分かればうれしい。「出来たね!」とほめられれば、もう少しやってみようと意欲が湧く。

 けれども現実の学校ではそんな余裕はないようだ。孫娘は落ちこぼれてしまいそうな子どもたちから頼りにされているみたいだ。親ならそれは心配の種なのだろうけれど、ジジババは意外に余裕を持ってみることが出来る。とにかく、孫娘の話を一通り聞こうという姿勢がある。これが我が子の時であったなら、「そんな子とは付き合ってはいけません」とか「そんな暇があるなら勉強しなさい」と頭ごなしに押さえつけていたであろう。

 この歳になり、ああそうなのだと思うことがある。たとえば、子どもが果物とか菓子とかを母親や父親にあげようとして残しても、「せっかくあなたのために買ってきてあげたのにどうして食べないの」と理由も聞かずに怒ったりしなかっただろうか。子どもと一緒に食事をしようとか、買い物に行こうとか、映画でも何でもいいが、子どものためと思って楽しい計画を立てているのに、いつまでも帰ってこないと、だんだん腹が立ってきて「いつまで遊んでいるのよ。いい加減にしなさいよ」と怒鳴ってしまうことはないだろうか。

 どうしてこんな時、相手の気持ちを汲む余裕がないのだろう。子どもだっていろいろ事情がある。それを聞いてから話すべきなのに、自分の感情の方が先に爆発してしまうなら、子どもは何が何だかわからないだろう。大人というものは理不尽なものなのだと思ってしまうだろう。孫娘も、母親と父親が勝手に離婚してしまい、それで自分をどう位置づけてよいのか、戸惑いと不安の日々を送っている。そのことが彼女を大人にしているのかなとも思うが、大人になってきたことは確かだ。
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