友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

名古屋市長選挙

2009年04月20日 21時25分11秒 | Weblog
 今朝の新聞を見ると、1週間後に迫った名古屋市長選挙で、民主党が推す河村候補が「一歩リード」とあった。河村さんは、市民税を10%カットするとか、校区毎に市民会議を設け、予算を付けて自主的に使えるようにするとか、市議会議員の報酬や市職員の給与を見直すとか、私たち『無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク』で議論してきたことに近い政策を掲げている。

 けれども私は直接会って話したこともないし、実際に政策が書かれたマニフェストやチラシを見たこともなく、演説も聴いたことがないので、河村さんを全面的に応援する気持ちに至っていない。他の候補が当選するよりは名古屋市民のためにはよいのではないか、そんな気がするという程度でしかない。「河村は品がない」と言う人もいるが、テレビで見る限りでは私もそう思う。

 ただ、見かけだけでは判断できない。ましてや名古屋市長だからそれなりにふさわしい感じも大事な気もするし、いや今は行政のあり方に根本からメスを入れられる人こそ選ぶべきだとも思うし、立候補者を見比べれば、河村さんしかいない気もする。首長が、自民・公明・民主の相乗りで当選する構図は絶対に避けたいから、そうなると図々しさがにじみ出ている河村さんが一番ふさわしいかとも思う。

 テレビで見る限りだと河村さんは面白そうだ。「名古屋の庶民革命だでよ」とこの市長選挙を位置づけるけれど、それにしては革命像が見えない。徹底的に庶民の味方であることをアピールして欲しいし、何よりも革命と言うからにはオバマさんのように「We」でなくてはならないだろう。オレがやる姿勢は必要だろうけれど、「みんなと一緒にオレはやる」のでなければ、独裁者になってしまう。

 もうひとつ、私が河村さんを全面的に信頼できないのは、「『今のままでは日本にテポドンが撃ち込まれても白旗を掲げるしかない』として、憲法九条の交戦権を認めない規定を改正するように主張している」(4月19日付け中日新聞)点である。発想が短絡的過ぎる。テポドンが撃ち込まれるような事態にならないようにするのが政治の役割で、憲法九条はそのもっとも有効な指針である。やはり、頭が悪いのではないか、そんな気がしてならないから、諸手を揚げて河村さんを名古屋市長にと言えない。

 今のところ、河村さんが一番人気であるらしいけれど、まだ6日間残っているからどんな風が吹いてくるか、決して楽勝ではないように思う。名古屋市議の中には元名古屋市職員がいる。緑区選出のその民主党市議は、民主党が推薦している河村候補ではなく、自民・公明が後押しをしている細川候補の応援演説を行っている。河村候補が嫌いならば民主党を離党すればよいはずだが、その気はないようだ。

 この市議がなぜ河村さんではダメだというと、市民税の10%カットや市議報酬や職員給与の引き下げに反対だからである。そんなに市議や職員の方を見て政治をしていていいのかと思ってしまう。いや、そもそも市議や職員はどうあるべきなのだろうか、あるいは行政はどうなくてはならないのだろうか、そうした行政のあるべき姿に向けて、何をどう変えていくのか、真摯な議論をすべきだろう。

 さて、どんな結果になるのか。
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運、不運もまた人生

2009年04月19日 19時37分24秒 | Weblog
 世界保健機構(WHO)が、海外での渡航移植の規制を強化する見通しであることから、わが国の子どもの臓器移植ができなくなるというので、臓器移植法を改正しようという動きがある。現行法では臓器提供は15歳以上とあるが、この年齢制限を撤廃しようというのである。年齢制限の撤廃を可能にするために脳死判定の基準を厳格化し、法案の改正に反対する議員を減らそうと目論んでいる。

 私の周りに、臓器移植でしか助からない命の人がいないからだろうけれど、私は臓器移植を歓迎する気にならない。医学は目覚しく進歩し、人間の命を救ってきた。目の悪い人がメガネをかけるように、臓器を取り替えるだけだとは思えない。私は以前、自分の臓器が他人の役に立つなら使ってもらいたいと思った。カミさんは反対したが、それで助かるならと臓器移植カードにサインする気でいた。

 けれども、後進国で臓器が売買されていることを知り、愕然とした。そして自分が歳をとり、人はいつか死ぬと思うようになった。早い人もいれば遅い人もいる。それは自分では決められない。運命を受け入れる考え方をすべきではないだろうか。子どもがかわいそうだとか、臓器提供があればもっと長生きできるのにとか、そんな風に私たちが思うのは臓器移植という医術を知っているからだ。この医術は本来はやってはいけないことだったとわかれば、あきらめもつくのではないか。

 秦の始皇帝も不老長寿の薬を求めて、諸国を探させたけれど、人にはそれぞれに生きる長さが決まっていると知っていたならば、もっとよい政治をしたかもしれない。医術に携わる人々には哲学を必須科目にして欲しいと思う。目先のことよりももっと人間としての尊厳を大事にする医術であって欲しい。そのためには、科学技術の進歩の前に、人は何のために生きているかをみんなで考えることが必要なのだろうなと思う。

 昨日の朝日新聞の『悩みのるつぼ』は明快だった。大学生が「運、不運で人生が決まるの?」と質問していた。「個人の運、不運ならまだ実力のうちと納得できても、生まれた時代や環境によって、どうして左右されるのか」といったものだった。回答者は作家の車谷長吉さんという方であった。詳しくはぜひ一読していただきたい。車谷さんは「世には運、不運があります。それは人間世界が始まった時からのことです。不運な人は、不運なりに生きていけばよいのです」「己れの不運を知った人だけが、美しく生きています」「己れの不運を知ることは、ありがたいことです」。そう結んでいたが、私は非常に快い読後感だった。

 不運を嘆くなとはとても言えない。運命だからあきらめろとも言えない。人間は平等と言いながら、幸運な人もいれば不運な人もいる。本当に悲しいよねと一緒に涙を流すことしかできない。
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目くそ鼻くそを嗤う

2009年04月18日 22時25分08秒 | Weblog
 昔の人は偉かったと思う。古代中国では「君子」論が盛んだった。君子とは人の上に建つ立派な人のことだ。国語か漢文かで習った君子の中に、「瓜田に履を入れず 李下に冠を正さず」という言葉がある。人から疑われるような行為はするなということである。80歳になる方がいつも送ってくださる『たより』を見ていったら、この言葉の前に「君子は事前に予防し、疑われやすい場所に身を置かない」とあることを知った。

 『たより』の主も民主党の小沢代表を頭において、「君子は未然に防ぎ 嫌疑の間に処らず」を掲載しているのだろう。誠にそのとおりだ。このところの新聞報道を見ると、自民党もダメだが、民主党も同じだといった記事が多い。障害者団体の郵便割引制度を悪用した事件も民主党議員が関与しているような報道だった。議員の公設秘書が団体の役員と一緒に郵政公社へ出かけている。議員の事務所は「一般的なことを聞いただけ」とマスコミに弁明しているが、私も国会議員の秘書を勤めていたからわかるけれど、相手方は「便宜」を図ろうとしてくれるものだ。

 君子が「この瓜はよくできているね」と声をかけただけで、かけられた相手方は瓜が欲しいということかと察知して、「どうぞ、お持ちください」と言う。君子ならば「いやいや瓜のできをほめたまでのこと」と辞退するものだが、このところの日本の政治家はこれに味を占め、平気で何度も繰り返してしまう。清廉潔白であることが政治家の条件であるはずなのに、「政治にはお金がかかる」と公言してはばからない。

 国会議員には政党助成金が支払われているし、様々な恩典もある。地方議員にも政務調査費が議員報酬とは別に「会派または議員」に支払われる。それでもお金が足りないのであれば、具体的にどのように遣っていて、どのように足りないのか、公開して論議すればいい。ただ漠然と「政治にはお金がかかる」は、不透明な言い方でしかない。政治家がいかに清廉潔白であるかを示したならば、もっと国民は政治家に理解を示すだろう。君子はどこにいるのか。

 『たより』の中に北朝鮮のミサイル打ち上げに対して、自衛隊の配備が新聞などで報道されていたことについて、「情報公開だと言われるかもしれないが、こんなにこちらの手の内(作戦配備)をオープンにしてしまっていいのか」とあった。政府の狙いとしては、北朝鮮の脅しには屈しないとの意思表とともに、防衛論議を作り出すことにあるだろう。現に、民主党の次期代表候補のひとりである前原議員が国会で「防衛力の不備?」を取り上げていたことを見逃してはならないだろう。

 「目くそ鼻くそを嗤う」などと言って、自民も民主も変わらないと笑ってばかりいたならば、民主党の前原議員のような人が政治の中心に座る時代になりかねない。前原議員の隣には一体誰がいるのだろう。安倍前首相や中川前財政相らが闊歩する時代にしてはならないと私は思っている。
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本当に焦るよ

2009年04月17日 22時41分39秒 | Weblog
 大和塾の市民講座のチラシを配って回っているうちに一日が過ぎてしまった。日曜日は大切な日なのにその準備が全くできていないから焦る。心が落ち着かないと間違いも生まれてくる。するとまた、焦ってしまいパソコンでのラベル印刷で3時間もつまずいている。あれ?などと思ってキーを叩いていたら、これまでと違う画面になってしまい、どうやっても印刷できない。もうこれは今日のところはあきらめる以外ない。

 そう思うと、3時間も一体何をやっていたのかと悔しくなる。ああ、人生こんなものか。ダンナが定年を過ぎてから、「毎日家に居るからやりきれない」と奥さんがぼやいていた。結婚して35年、共働きだったので、それぞれが仕事に生き甲斐を持って暮らしてきた。職業が違えば仕事の中身がわからないから何も言えないし、同業者であれば仕事の中身がわかるだけに、干渉されたくもないし、したくも無い。生活を共にしているけれども互いに独立した存在であった。

 また別の夫婦は、夫の単身赴任で別居生活が長く、生活費も独立採算制となり、会話は差しさわりのない子どもの話ばかりになった。子育ての方法では互いに理想を抱いていたとしても、単身赴任では子育てに口を挟むこともできず、全てがカミさんまかせである。結局、結婚してからの35年は自分にとって何だったのか、そんな風に夫は自分の居場所を考える。

 カミさんの方は、(あなたは)散々自分の好きなことをやってきておいて、今更何を言ってくれるのと思ってしまう。子育ても、住んでいる家のことも、老後の暮らしも、皆何一つ心配せずにやっていけるのは誰のおかげなの。大変なことは全て押し付けておいて、ねぎらいの言葉はひとつもないのはどういうわけ。子育てや仕事から解放されて、やっと自分の時間が持てるようになったのに、あなたはさっさと趣味の場を広げて自分の居場所を確保している。けれど、私の居場所はどこにあるの?

 60歳を過ぎてから結婚した夫婦もいる。結婚生活53年の夫婦とはやはり違う。「60年間も別々に暮らしてきたのだから、これからはいつも一緒に行動する」と言う。一緒にいれば心も一緒と言うわけではないけれど、別々に暮らしていては互いを知ることもできない。けれども逆説的に「知らないほうが幸せなのかもね」と言う人もいる。夫婦の形に決まりがあるわけではないが、夫婦の形にこだわっている人もいる。

 まあ、そんなに急いで結論を出すこともないだろう。円満そうに見える夫婦であっても当の本人は「何か足りない」と感じている。求めるものが多ければ不満を感じてしまうものかもしれないし、人間はどこまでいっても未完成ということなのかもしれない。それにしてもラベル印刷ができないとなるとどうすればいいのか、本当に焦るよ。
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秘境の芝桜

2009年04月16日 20時06分27秒 | Weblog
 私の65歳の誕生日を祝って、恵那の奥の温泉へ出かけた。宿に着くまでには充分すぎるくらいの時間に余裕があったので、中津川市役所に立ち寄り観光名所を聞いてみた。受付嬢は優しい人で、市内の観光地図を開いて見せて、いろいろと説明をしてくれた。けれどもせっかく説明してくれたのに、とりあえずはコーヒーが飲みたくなって、隣の喫茶店に入って地図を見ているうちにここへ行ってみようというところが見つかった。

 古代エジプトのクフ王のピラミッドがあるという博石館である。10分の1のスケールは日本一とあった。世界中の石を集めたミュージアムで、中には神殿風のレストランもある。行ってみて、なるほどミュージアムとはこういうものかと思った。確かにいろんな石が集められていたし、宝石とはこういうものと言うことがよくわかるし、子ども連れなら砂の中にある宝石探しも面白いだろう。若いアベックならピラミッドの迷路を手をつないでさまようのも楽しいだろう。

 ここのレストランでもう一度地図を見ていて、シデコブシやハナノキやヒトツバタゴの自生地が各所にあることに気付いた。しかし、シデコブシやハナノキはすでに咲き終わっているだろうし、ヒトツバタゴはまだ先のことだ。そう思って見ている中に、「芝桜の里」とある。念のためにと受付の女の子に聞いてみると、確かにシデコブシやハナノキは時期を過ぎていると言い、「芝桜は標識が出ていないかも」と言う。

 とにかく行ってみようということになり、地図とナビを頼りに車を走らせた。ところがナビにはない道路のところに「芝桜の里」はあった。しかも車の乗り入れは遠慮して欲しいとばかりに柵まで置いてある。停まっていた車の人に聞かなければわからないところだった。車を随分離れたところに停め、柵を越えて歩いて入ったが、いや見事だった。こうしてブログで紹介してはならない気さえしている。

 聞けば、おじいさんがひとりで40年前から芝桜を育てているそうだ。初めは北海道へ行った時に見た芝桜を自分の家の周りに植えてみようと始まったものらしい。そのうち愛好家も増え、互いの芝桜を交換したりして、花の色も増えていったようだ。今では、芝桜の間にチューリップも植えられているし、ところどころにはユキヤナギもあり、水仙やムスカリもあり、見事な花畑だった。

 いつだったかテレビで、福島県のおじいさんが山にひとりで何千本かの桜を植え、皆さんに開放しているのを見たことを思い出した。花にとりつかれた人はやはりいるものだ。初めは自分だけの楽しみで育てていたのだろうけれど、花畑が増えるにしたがい、口コミで見に来る人があると、ますますもっと楽しんで欲しいと思うようになる。私もチューリップ畑を見て、初めは自分の楽しみで鉢植えにしていたのに、次第にルーフガーデン一面をチューリップ畑にしたくなり、ぜひ眺めて欲しいと思うようになった。

 でも、この「芝桜の里」は、今しばらく秘境であって欲しい気もしている。
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求めなければ情愛にならない

2009年04月14日 19時35分12秒 | Weblog
 久しぶりに雨だ。夕方だったけれど、五条川の堤を車で通ったが、もうすっかり葉桜に変わっていた。花を包んでいたガクが雨に打たれて地面に落ちて、まるで赤い花が咲いているように見えた。その横を大きな鞄を背負った女子中学生が重い足取りで歩いていく。スカートの丈が長いからおそらく新1年生だろう。

 スカートの丈が学年を表しているのも面白い。高校生は極端なくらいミニだけれど、それも学年が上になるほど短いと見ていい。ミニスカートは彼女たちが意識しているかいないかは別にして、男の目を釘付けにするから、「性」を売りにしていると言えるだろう。大根足ではミニは似合わないと言う人もいるけれど、そう言う男も彼女たちの足に目をやっている。ロングスカートよりもアピール度はやはり高いのだ。

 まあ、そんなことはどうでもいいか。「そういうことを書くからエッチと言われるんだよ」とまた孫娘に叱られそうだ。思いの違いから人間は逃れられないと私は思っている。私は、後2日で65歳になる。誕生日を祝ってもらって嬉しいかと問われれば、別に嬉しいわけではないが、けれども自分がこの世に生まれ出たことには感謝している。生まれてこなかったなら、私のドラマはなかったし、この世の喜びもなかったのだから。

 誕生を祝うのは、「あなたに出会えて本当によかった」と言うためだ。友だちは毎年、好きな彼女の誕生日にメールを送っている。ところが誕生日と彼女の母親の葬儀とが重なってしまった。お祝いの言葉を送りたい気持ちは強いのに、彼女の状況を考えれば、「おめでとう」などと言うのは不謹慎に思える。ここは常識として控えておくべきだろうと判断した。ところが彼女は「どうしてメールをくれなかったの?」とご機嫌が悪い。

 まさか、葬儀の席にいる人なのに、それを承知でお祝いのメールは送れない。友だちはビックリしてそう弁明した。その時、彼の中で何通りの思いが交差していた。常識のある人間ならメールは送らないだろう。それを分かって非難しているなら、可愛い。もし、分からずに言うなら非常識で身勝手な女だ。いや違う。彼女はもっと単純にいつものように誕生日にメールを送って欲しかった。愛している者の証だと思っているのだ。「冷たい人」と言うのは、常識などにとらわれていないでという表現なのだ。

 相手のことを思いやっての行為が、逆に相手から愛情のない行為と思われてしまうことは、日常生活の中ではよくあることだ。若い時はよりたくさんのものを欲しがるから、そんなすれ違いがケンカになるけれど、年老いてくると多く求めるとケンカになるとわかるから、次第に目を瞑るようになる。また若い時なら、こんなことですれ違いたくないと思うから、そう思った方が矛を収めて謝るだろう。年老いた者たちは、目くじらを立てる前に止めてしまう。

 求めなければ情愛にならないし、求めすぎれば憎悪になってしまう。人間は難しいね。
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教え子からメールが届く

2009年04月13日 21時10分58秒 | Weblog
 教え子からメールが届いた。高校時代の彼女は明るくて活発な女の子だった。彼女の中学校の美術教師は私が憧れていた先輩で、名古屋の現代美術を代表するアーチストのひとりだった。私が知り合いになれたのも彼女のおかげである。彼女は職場結婚して、家庭を持ち、家を建て、仕事も変わった。

 彼女のメールは「近況報告」で、その内容は「夫」のことばかりだった。彼女の夫は食道ガンで今年2月に手術を受け、3月には無事退院してきた。丁度60歳になったこともあり、病気がわかった時点で退職したそうだ。サラリーマンが退職すると一番困るのは、「何もやることがない」ことだ。彼女の夫も毎日やることがないと嘆いている。

 夫はなかなか行動的な人のようで、天気がよければひとりでカヌーに出かけたり、川へ散歩に行くこともある。夫婦でドライブに出かけたりもしている。連休には故郷への墓参旅行も計画しているそうだ。それでも夫は「毎日何もすることがなく、楽しくない」と言うのだそうだ。退職したばかりの男たちの多くはこういう状態に陥る。

 前もって退職してからの過ごし方を考えておけと、新聞や雑誌に書いてあるけれど、いざとならないと行動できないのは人の常だ。趣味があり、第2の人生を計画している人は退職後が待ち遠しいくらいだからいいが、特に何もない人は慌ててしまう。それでも地域に同好の仲間がいたり、いつも気軽に話せる友だちがいれば、何とか気も紛らわせることができる。

 私の小学校の時の友だちも水彩画教室に通い、作品ができるたびにブログに掲載し、作品についての思いを載せている。結構仲間ができてコメントも来ているようだ。今度は地方公務員のお手伝いをすることになったと書いていたから、また新しい視野が広がるだろう。また、中学・高校からの友だちはアルバイトに出かけたり、地域の役員を引き受けたりしている。人のつながりが生きていく楽しみとなるのだろう。

 真面目に働いてきた人ほど仕事がなくなるとさて明日から何をしたらよいのかと悩んでしまうようだ。しばらくは彼女と二人であちらこちらと旅して回るのもよいだろう。地域のサークルに入りづらいならば少し離れたところでもよいし、まあ、焦ることはない。そのうちに何とかなるものだ。

 そういえば、彼女もまた真面目なのだ。「そのうち何とかなるさ」ということが許されない。不真面目というか、怠け者のように思ってしまうのだろう。この夫婦はキチンとしていないと気がすまない性格なのだ。共存夫婦の内ならいいが、共倒れ夫婦になり兼ねない。不遜な言い方だが、浮気でもするくらいの不真面目さが欲しいものだ。

 医者は「リンパに転移があったので、再発の可能性がある。それはもう神に祈るしかない。再発は1年くらいしてからが多い」と言う。そこで彼女は余命が後1年とすれば「夫に悔いのない人生を送らせることを最優先にしなくては」と考える。そう思うならばそうすればいい。彼女が悔いのないことが、結果として夫が悔いのない人生を送ることになるのだから。中学生の孫娘は「人生はどっちを選択しても悔いは残る」と言っていた。
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伊那のコヒガンザクラ

2009年04月12日 23時24分35秒 | Weblog
 長女の婿が「私が好きな桜が伊那にあるんですが、行きませんか」と誘ってくれた。昨日は『無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク』の総会に当たっていたので「ちょっと行けないな」と伝えてあったが、孫娘の水泳大会が今日、岐阜で行なわれるので、「そのついでに出かけましょう」と言うので、伊那まで足を伸ばして行ってきた。

 高遠にあるコヒガンザクラと同じ桜だと言う。伊那インターで下りて東へ向かえば高遠だが、ここで西に向かい、中央アルプスを目指すのだが、それほど登ることもなく牧草地帯なのかなと思われる丘陵地を行ったところに、見事な桜が現れた。なだらかな牧草の原とその向こうに見える桜がなんともいえぬ風情を醸し出している。

 この桜は有名なのか、すでにカメラを構えた人たちがいる。車を見ると大阪ナンバーだった。私たちが「ワアーすごいね」と感激していると、またもう1台の車がやってきて5人の男の人が降りてきて、やはり桜にカメラを向けていた。牧草地とその向こうに見えるおおきなコヒガンザクラの組み合わせが人々を魅了しているようだ。

 牧草地を下って、南にあるその民家から桜を眺めてみるが、それほどの感動は受けない。見慣れた家のたたずまいが邪魔をしているせいだろう。そう、この桜は民家の北側に植えられた3本の桜で、北側から眺めると牧草地の奥で、家を守ってひっそりとたたずんでいるように見えるのだ。

 昔、誰かの小説で村を守るために生け贄として、村の娘を桜の木の下に埋めた話を読んだことがある。桜が美しく物悲しいのは、死んだ娘のことを思い出すからであり、桜が妖艶なのは死んだ娘が女になったからだといった話も聞いたことがある。こんな風に桜にまつわる話は数多い。

 昨日の朝日新聞にも桜の話が特集されていたけれど、残念なことに後でゆっくり読もうと思って、読まずに着てしまったことだ。読んでいたなら、またしても「お父さんの桜に関するウンチク」で点数を稼ぐことができたのかもしれなかった。読みが浅かった。残念!
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「毎日見てますよ」と言われて

2009年04月11日 20時59分15秒 | Weblog
 「毎日見てますよ」とか「いつも読ませてもらっています」とか言われると、うれしくなってお応えしなくちゃーと思う。思うけれども、コレというものがない時は何かないかと探し回ることがある。先日、我が家からは少し離れたコーヒーショップで偶然出会った人から「いつもブログ読ませてもらっています。今では、昨年の6月まで遡って読んでいます」と言われた。言われて気が付いた。長女の結婚式でお手伝いをしてくださった人だ。確か、長女の職場の後輩で、孫娘のピアノの発表会にも来てくださった。

 私の全く知らないところで、私のブログに興味を持っていてくれる人がいることに感激した。家族のことや出来事など、あるいは私の考えを思いつくままに書いている。だから嘘はないけれど、誇張や縮小があることは許していただきたい。次女が「えっ!本当のことじゃないの!騙されているわけ!」と吠えたことがあったが、本当のことしか書いていないけれど、何もかも全部さらけ出しているわけではない。私自身のことならそれでもよいが、私以外の人のことにはさすがの私も気を遣って書いている。

 けれども、このブログは基本的に自分が知っている人々への手紙のつもりなので、私が思ったこと考えたこと体験したこと望んでいることを正直に書き記している。私が毎日欠かさず読んでいるブログもいくつかある。中学・高校からの友だちのブログはそのひとつだ。彼のブログに今頃では時々しか載っていない、彼の12年以上も付き合っている女性との話は特に興味深い。中学からよく知っている男であり、彼によって文学へ誘われたとも言える。彼が付き合っている女性との関係は「友だち以上恋人未満」であることに間違いはないけれど、なぜそうなのか、そしてそれでよいと決め付けているものは何か、つまり人間は、少なくとも男はどういう存在何か見極めたいと私は思っている。

 彼に、「あなたは女友だちとのことを小説に書けないだろうけれど、私は男と女の究極の存在について書いてみたいと思っている。一緒にやらないか」と提案したけれど、未だに返事は来ない。おそらく余計なお世話というわけだ。今朝の朝日新聞『be on Saturday』に上野千鶴子さんが「エロスを封じるには人生長すぎる。(略)迷うのも楽しみのうち。自分の器に見合った選択をすること」と述べていた。恋多き(?)賢き女性は見る目が違うなと思った。

 政治のことも社会のことも男女のことも、私には皆同じことだ。人間とは何だろうという関心である。そんなわけで、これからもこの辺りのことを書き綴っていくつもりでいる。
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桜散り何が残るか

2009年04月10日 21時46分07秒 | Weblog
 街路樹に桜を植えている通りで、車が通り抜けていくと、桜の花びらが舞い上がっていた。私たちのマンションの桜も風に吹かれて、雪が舞うようにちらちらと散っていた。子どもたちがその花びらを集めては、パッと空中に放り投げて遊んでいた。昨日、五条川沿いを通ったけれど、両岸の桜は見事に満開で、川面には落ちてきた花びらが筋を作って流れていた。

  満開の桜よ泣くな川面にもお前の涙漂い積もる

  立ち止まり桜吹雪のその奥に恋する人は小さく手を振る

  桜咲く朝市の社清々しい父ら奏でる雅楽献上

 先日、井戸掘りに行っていた家の庭にはツツジが咲いていた。そういえば各地で藤まつりの準備も行なわれている。これからはショウブ祭りも各地で行なわれる。昨年は静岡県の菖蒲園へ遊びに行ったけれど、もう1年が過ぎようとしているのか。花とか景色とか、そういう自然のものに心惹かれるのは老いたる証拠と誰かが言っていたけれど、そうかなー?と私は思う。東北の桜を巡って旅をした時も、あるいは紅葉の八幡平を見た時も、アメリカのヨセミテやグランドキャニオンの景色も、それは深く感動した。地球はこれほどに美しいものなのか、生きていて本当によかったと思った。

 美しいものにあるいは優しい言葉に、もし感動しなくなったなら、それは自分の人生の終わりの時だと思う。自然のものも、人が作ったものも、森羅万象どんなものであっても、オオーとかワアーとかスゴイとか、大きな感動があるはずだ。冷静沈着な人よりも感動してしまえる人の方が私は好きだ。穏やかで豊かな毎日もいいけれど、時には何かを無性に求めて生きていく、そんな日々を送れたならば素敵だと思う。

 麻生首相はこれまでに例のない15兆円の補正予算で景気刺激を行なうとブチ上げている。全くいい気なものである。満開の桜を眺めて浮かれているようなものだ。満開の桜は必ず散っていく。桜は次に葉が出てくるが、景気刺激策はどうなるものか定かではない。それに、一体誰のお金だと思っているのだろう。政府は予算を組めばすむかもしれないが、結局このお金は私たちの子どもや孫たちへの借金となっていくだけだ。

 桜散り予算膨らみ後の世に借金ばかり残すわが国
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