友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

連休の中の金曜日

2011年05月06日 19時32分05秒 | Weblog
 連休の中の金曜日、せっかく車を置いていってくれたけれど、どこへ行くという当てもなく、ほとんど一日中ルーフバルコニーにいた。カンカン照りのような暑い日ならば午後からは作業が出来ないけれど、今日はどんよりとしていて農作業にはもってこいの日だった。おかげで、腰を下ろすと立ち上がることが出来ないまでになってしまった。腰を下ろして作業している時はなんともないのに、立ち上がろうとしても背筋が伸ばせないのだ。私より年長の人たちが、腰を引きガニ股で歩いている姿を見て、どうしてちゃんと背筋を伸ばして歩けないのか、歳を取ると何から何までみっともないと思っていたが、自分もまたそんな歩き方になっているようでガッカリした。

 人生はあっという間である。つい先ほど、中学生から高校生になったばかりのように思ったけれど、高校を卒業してもうすぐ半世紀になる。高校時代を一番よく思い出すのは私にとって充実した日々であったからだろう。今朝は、仙台の高校の先生となりデザインを教えていた。あの被災から始めて授業を行なう日というので、自分のことをPRするイラストかあるいは文章でもいいからと画用紙を配っている夢だった。高校の教員には未練があったからだろうか。それでもいつでも、何らかの形で自分が選択して今日に至っていることは間違いない。確かに大きな流れが支配している。たとえば生まれた場所や時代や自分ではどうしようもないものの中で生かされているが、今在る自分は自分が選択した結果であり、社会や他人が決めたものではない。

 高校3年生の時、下級生の女生徒からラブレターをもらったことがある。卒業間近だった。面長のきりっとした顔で色の白い子だった。遠くから自転車で通学していたから冬は頬を真っ赤にしていた。手もかわいそうなくらい赤かった。お父さんは学校の先生をしていると言っていた。手紙は尊敬しているということと、茶室が完成したので遊びに来て欲しいというものだった。私は好きな女の子がいたけれど、その子に「あなたが好きなのは、あなた作り上げた私なの。あなたにふさわしい人にきっと出会うわ」と宣告された直後だったから、彼女の誘いを受けてもかまわなかったけれど、私の友だちから彼女が好きだと聞いていたから困った。

 まるで夏目漱石か。考えた末に彼女に黙ってその男友だちとふたりで出かけた。素直な明るい子だったし、きれいな子だったから、男友だちには秘密にしてひとりで出かけてもよかったのかも知れない。後1ヶ月もすれば卒業で、みんなバラバラになるのだから、友だちへの負い目など考えなくてもよいはずだ。それなに、茶室で彼女が立てたお茶をいただき、しばらく雑談した後、「ちょっと用事があるから先に帰る」と言い、男友だちに「じゃあな、よろしく頼む」とまで言った。あれから彼女がどうなったのか私は知らないが、文学好きな子だったからきっと察しは付いただろう。

 人はどこでも必ず選択している。自分がした選択を悔いるようなことはしない。それが私の誠に身勝手な生き方であるが、迷惑な方々には申し訳ない。「ゴメン」である。
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