腹時計がかなり正確な人がいる。腹の減り具合から腹時計というのだろうと思っていたが、正確には体内時計というらしい。人間をはじめとする生物には、ほぼ24時間周期で睡眠や体温、臓器の活動などのリズムを刻む体内時計があるという。生活のリズムが規則正しい人は体内時計も正確に働くが、昼夜が逆転したような生活をしている人は体内時計も狂ってくるそうだ。疲れやすく、思考力や活動意欲が低下し、それが進むと「うつ」に陥るという。不登校やひきこもりにこの傾向が見られるそうだ。
不登校やひきこもり、あるいは「うつ」をダメだとは思えない。それは人間だからこそ陥ることだからだ。「こころ」なのか「脳」なのか、どこに原因があるのか、それもわからない。けれど、体内時計の狂いを正常にすることは出来るそうだ。それは光を浴びることだという。毎朝6時から8時に、昼間の屋外の明るさに相当する約5千ルクスの光を浴びると、1週間でリズムは改善するそうだ。確かに、海外旅行などで時差ボケに陥った時、その時間に合わせて動いてしまうとボケなくてすむ。
光を浴びれば、「こころ」なのか「脳」なのかわからないけれど、人間の見えない病も治すことが出来るのだろうか。規則正しい生活を送ることはその第1歩かも知れない。長女は看護師であるから夜勤もあり、準夜勤もある。規則正しい生活とは全くかけ離れた生活を送っている。長女のダンナが言うには、「その(昼夜の)切り替えができる人でなければ勤まらない」そうだからきっと長女もそうしているのだろう。そのコツを聞いた事はないけれど、子育てもあり大変だと思う。
母親が看護師の子どもはどんな風に育っていくのだろう。高2の孫娘も小さい時は、母親が夜勤や準夜勤のために家を出て行く度に「ママー、ママー」と大泣きした。もうすぐ2歳になる下の孫娘も狂ったかのように泣く。子どもにとって母親は絶対的な存在だと思い知らされる時間である。「こころ」なのか「脳」なのかわからないけれど、傷にはならないのだろうかと心配になる。無理なことなのかもしれないが、やはり子育ては3歳までは母親と父親がそばにいた方がいいのではないだろうか。
原子力発電を止めたなら、電力不足は必至だという。電気は電力会社が独占しているから、データーは電力会社にしかない。「節電しなければ、夏場は越えられない」と言われればそうするしかない。「電気代を上げなくては電機を供給することも難しくなる」と言われれば、そうなのかとしか受け止められない。電気は「こころ」や「脳」とは違う。見ることが出来るものなのに、まるで「こころ」や「脳」のように見られないものになっている。どこに病気の原因があるのか、病原菌の巣がどこにあるのか、誰かが解明しなくてはならないはずなのに、見えない。
不登校やひきこもり、あるいは「うつ」をダメだとは思えない。それは人間だからこそ陥ることだからだ。「こころ」なのか「脳」なのか、どこに原因があるのか、それもわからない。けれど、体内時計の狂いを正常にすることは出来るそうだ。それは光を浴びることだという。毎朝6時から8時に、昼間の屋外の明るさに相当する約5千ルクスの光を浴びると、1週間でリズムは改善するそうだ。確かに、海外旅行などで時差ボケに陥った時、その時間に合わせて動いてしまうとボケなくてすむ。
光を浴びれば、「こころ」なのか「脳」なのかわからないけれど、人間の見えない病も治すことが出来るのだろうか。規則正しい生活を送ることはその第1歩かも知れない。長女は看護師であるから夜勤もあり、準夜勤もある。規則正しい生活とは全くかけ離れた生活を送っている。長女のダンナが言うには、「その(昼夜の)切り替えができる人でなければ勤まらない」そうだからきっと長女もそうしているのだろう。そのコツを聞いた事はないけれど、子育てもあり大変だと思う。
母親が看護師の子どもはどんな風に育っていくのだろう。高2の孫娘も小さい時は、母親が夜勤や準夜勤のために家を出て行く度に「ママー、ママー」と大泣きした。もうすぐ2歳になる下の孫娘も狂ったかのように泣く。子どもにとって母親は絶対的な存在だと思い知らされる時間である。「こころ」なのか「脳」なのかわからないけれど、傷にはならないのだろうかと心配になる。無理なことなのかもしれないが、やはり子育ては3歳までは母親と父親がそばにいた方がいいのではないだろうか。
原子力発電を止めたなら、電力不足は必至だという。電気は電力会社が独占しているから、データーは電力会社にしかない。「節電しなければ、夏場は越えられない」と言われればそうするしかない。「電気代を上げなくては電機を供給することも難しくなる」と言われれば、そうなのかとしか受け止められない。電気は「こころ」や「脳」とは違う。見ることが出来るものなのに、まるで「こころ」や「脳」のように見られないものになっている。どこに病気の原因があるのか、病原菌の巣がどこにあるのか、誰かが解明しなくてはならないはずなのに、見えない。