雨降りのつもりだったが、降らなかった。おかげで、残っていた全ての鉢の土を入れ替えた。数えてみたら大小合わせて48個あった。すでに琉球アサガオなどを植えた鉢が6個あるので、今期の土の入れ替えは54個になる。同数かもう少し多い鉢に、バラやアジサイやランタナが植えられているから、我が家の鉢は合わせて100個以上あることになる。狭いながらも夏には色とりどりの花が咲き、葉はいっそう緑が濃くなる。それだけを楽しみにせっせと土の入れ替えを行なっている。
考えてみれば、古い土は袋にでも詰めて捨て、新しく培養土を買ってきて植えた方がはるかに楽である。それを1鉢ずつ鉢から土を出し、赤玉土を掘り出してまた使い、根や白糸菌のようなカビなどを取り除き、バーク堆肥や乾燥牛フンや小粒の赤球土などを混ぜ合わせ、そこにミミズを等分に入れてやる。そのため、2時間かけても3鉢くらいしかできない。なんとまあ馬鹿馬鹿しいことをやっているのかと時々思うこともある。チューリップなど見頃は1週間しかない。友だちを呼んで、コーヒーを楽しむチャンスはなかなか難しい。
これから植えるサルビアは秋の終り頃まで咲くが、11月末には抜いて、再び鉢の土の入れ替え作業を行ない、チューリップの球根を植えつける。それが終わると冬で、北風が激しく吹きぬける日が多くなり、ルーフバルコニーに出られる日は数少なくなる。部屋の中から、強風に煽られよじれても耐えている樹木を眺め、頑張ってくれと願う。冬の寒さに耐え切れたものだけが春の惠を満喫することになる。
花が咲くのは嬉しいことなのに、それまでの作業を思うと悲しくなる。ひたすら、黙々と、土をより分け、ミミズの様子を伺い、肥料を施した土を鉢に戻す。何のために、腰を屈め、背中や腰や足に痛みを感じながら、この単純作業を続けるのかと疑問に思う時もある。結論はただひとつ、咲かせたいだけなのだ。何でも一途になってしまう私の悪いクセでもある。適当にやっておこうと思えばそれでも充分なはずなのに、何故か夢中になってしまう。恋も同じで、そのためにしつこさ過ぎて嫌われた。
食事やドライブや旅行などは、誰と一緒かによって全く味も喜びも違ってくる。友だちがカミさんと出かけて珍しいものを食べたけれど、「格別美味しいとは思わなかった」と言う。残念ながら相手が悪かったのだ。もし、好きでたまらない人と一緒であったなら、こんなにも美味しいものはないと感じたかも知れない。素晴らしい景色でもそれは一緒に感動してくれる人がいればより印象が深くなる。日常のテレビを見ながらの食事では、美味しいものの味もよくわからなくなる。恋をしている時のことを思い起こせば一目瞭然である。
花を咲かせたいという気持ちは恋に似ている。ただひたすら、待ち焦がれている。結果がよければもちろん嬉しいけれど、恋しているうちは結果などよりも恋していることに夢中になっている。疲れたなどと言ってはいられないのだ。
考えてみれば、古い土は袋にでも詰めて捨て、新しく培養土を買ってきて植えた方がはるかに楽である。それを1鉢ずつ鉢から土を出し、赤玉土を掘り出してまた使い、根や白糸菌のようなカビなどを取り除き、バーク堆肥や乾燥牛フンや小粒の赤球土などを混ぜ合わせ、そこにミミズを等分に入れてやる。そのため、2時間かけても3鉢くらいしかできない。なんとまあ馬鹿馬鹿しいことをやっているのかと時々思うこともある。チューリップなど見頃は1週間しかない。友だちを呼んで、コーヒーを楽しむチャンスはなかなか難しい。
これから植えるサルビアは秋の終り頃まで咲くが、11月末には抜いて、再び鉢の土の入れ替え作業を行ない、チューリップの球根を植えつける。それが終わると冬で、北風が激しく吹きぬける日が多くなり、ルーフバルコニーに出られる日は数少なくなる。部屋の中から、強風に煽られよじれても耐えている樹木を眺め、頑張ってくれと願う。冬の寒さに耐え切れたものだけが春の惠を満喫することになる。
花が咲くのは嬉しいことなのに、それまでの作業を思うと悲しくなる。ひたすら、黙々と、土をより分け、ミミズの様子を伺い、肥料を施した土を鉢に戻す。何のために、腰を屈め、背中や腰や足に痛みを感じながら、この単純作業を続けるのかと疑問に思う時もある。結論はただひとつ、咲かせたいだけなのだ。何でも一途になってしまう私の悪いクセでもある。適当にやっておこうと思えばそれでも充分なはずなのに、何故か夢中になってしまう。恋も同じで、そのためにしつこさ過ぎて嫌われた。
食事やドライブや旅行などは、誰と一緒かによって全く味も喜びも違ってくる。友だちがカミさんと出かけて珍しいものを食べたけれど、「格別美味しいとは思わなかった」と言う。残念ながら相手が悪かったのだ。もし、好きでたまらない人と一緒であったなら、こんなにも美味しいものはないと感じたかも知れない。素晴らしい景色でもそれは一緒に感動してくれる人がいればより印象が深くなる。日常のテレビを見ながらの食事では、美味しいものの味もよくわからなくなる。恋をしている時のことを思い起こせば一目瞭然である。
花を咲かせたいという気持ちは恋に似ている。ただひたすら、待ち焦がれている。結果がよければもちろん嬉しいけれど、恋しているうちは結果などよりも恋していることに夢中になっている。疲れたなどと言ってはいられないのだ。