友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

当事者ではない私の勝手な思い

2011年05月09日 19時13分05秒 | Weblog
 「ユッケ」を食べた人が亡くなっている。商売で食べ物を提供しているのだから、安全と誰もが思う。日本料理を商いとしていたカミさんの叔父は、まな板や包丁には格別に注意を払っていた。料理をする度に洗い流すことは当たり前で、気配りに徹するというか、扱いはとても慎重だった。弟子や下働きのオバサンがまな板の上に何か載せたりすると、物凄い怒鳴り声が響いた。お客さんの口にするものを扱う大事な場所だぞということだった。「ユッケ」が一般的に出回るようになったのは何時ごろからだろう。私も美味しいと思って何度か食べたことがある。始めて食べたのは韓国ソウルだったかも知れない。馬刺しや鳥の刺身もあるので、牛もあるものと思っていたが、これで少し出す方は慎重になるだろう。

 人間は貪欲だ。魚でも鳥でも、一度「生」のものを食べると、「生は美味しい」ことに気付いてしまう。そして愚かにも、店で食べるならば安全と思ってしまう。全く話が違うけれど、脳死状態になった母親からその娘に臓器が提供されたと報道があった。臓器移植の観点から、身内に提供するのは不公平とされてきたものが緩和されたために実現されたという。10代で脳死となった若者の臓器がいろんな人々に提供され、移植が行なわれたこともあった。私は臓器移植に反対だが、移植を求めている人はたくさんいるし、それで幸せを掴んだ人もたくさんいる。ここまで医学がその技術を見せてしまうと、反対する運動は起こらないだろう。

 菅首相がまたしても唐突に「浜岡の原子力発電所を停止することが望ましい」と発言した。「浜岡は私が止めました」と後世に残したいのだろう。何もできない首相では終わりたくない気持ちはわかるけれど、それなら文書の棒読みではなく、自分の気持ちで素直に話した方が国民は納得するはずだ。「原子力発電は危険が多すぎるので、今後は徐々に廃止する」とハッキリ言った方が説得力がある。自分に信念がないから、発言はいつもブツブツと途切れてしまう。原子力発電は万が一の事故に対して処理出来ないばかりか、廃炉にすることも出来ない。造っても壊すことが出来ないものは造るべきではないだろう。原発反対デモが名古屋でも行なわれた。

 医学や科学は目覚しく発展しているが、なぜそれをつくりだすのか、つくりだしてどうするのか、その根本が問われないままに技術が先行している。またまた話が飛躍するけれど、「大相撲夏場所」が始まったそうだが、まだ八百長問題が解決していないということで、「技量審査」の場所として入場は無料だそうだ。あくまでもスポーツにこだわりたいのだろうけれど、伝統に基づく「興行」にした方がスッキリすると私は思う。相撲を取る人たちもその方が安心して出来るのではないだろうか。現在のようなスポーツに似せた形にしたことが伝統から外れた姿なのだから、「相撲協会」は自ら作ってきたものを壊すことには戸惑いがあり、勇気もいるけれど、作り直した方がいいだろう。

 それもこれも、当事者ではない私の勝手な思いに過ぎないが、世の中には変わった人間もいるということを示して生きたい。
コメント
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