友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

我が家の女たち

2008年03月01日 21時59分19秒 | Weblog
 孫娘と二人で、彼女の母親である長女の研究発表会を見学にいってきた。車のナビを孫娘にセットさせて出かけたが、どう考えてもナビの示す道よりもここで曲がった方がスムースにいけるのにというケースがあった。そこで曲がろうとすると、「ダメ!ナビのとおりに行って!」と孫娘は言う。「せっかく私がセットしたのだから、このまま行って!」と強く言う。「ホントにどうして我が家の女どもは、命令口調でしか言えないのかな」と言うと、「私は違う!私はもっと優しい!」と言う。

 その孫娘が帰路で、そろそろ家に着くという頃に、カミさんに知らせるために電話を入れた。「もう5分くらいで着くからね」。するとカミさんは何を思ってか、「それで?」と聞き返してきた。電話を切って、孫娘は怒っている。「私が一番嫌いなのは、人が話した後で、『それで?』『だから?』と聞き返すこと。馬鹿にしている!」。そうだよね。「わざわざ電話をありがとう。待ってるわね」とか言って欲しいものだ。「それで?」「だから?」と聞くのは、電話をしてきたのは次に何かがあると考えたのだろうけれど、話している方としては、こちらの気持ちが全くわかっていない気がしてしまう。次女がこんなことをブログに書いていた。

 《 家を出ようと思ったら家のカギがいつもの場所になくて必死に家中探しました。でも、やっぱりどこにもないんですよ。犯人はサミー(ダンナのこと)しかない!!っと決め付けて電話しました。「私のカギがないんだけど2つ持ってない?」「持ってないよ~でも確認してみる。ひょっとしたら持ってるかもぉ~」「早くして!もう出かけなきゃいけないんだから!!」「じゃー、そのままでかけていいよ」。そこで私は慌しく家を出て、ドアをバンって閉めたの。すると~な・な・なんと、カギが鍵穴にささっている。私のおっちょこちょいのおかげで、サミーは危うく犯人にさせられちゃうところでした。すぐにサミーに電話して謝りましたw 》

 どうも我が家の女たちは、同じ傾向にあるように思う。こうなったのは、相手が悪い。悪いのは相手で私ではない。物がなくなったりすると必ず、「どこかにやったんじゃない?」とカミさんは言うけれど、たいていの場合は思わぬところに仕舞い込んである。もちろん、私も同様なことはよくある。肝心なのは「ごめん」と素直に謝ることだ。その点では、次女はエライ。「でも、まてよ」と思うのは、確かにダンナにはすぐに自分の非を認めるようだけれども、私と話すときは絶対に認めないのはどうしてなのだろう。

 友だちは、女房と自分の関係は「セラピストと患者のようなもの」と言う。「まるでセラピストのように、私が心の奥にしまいこんで、人に知られたくない劣等感の部分を1年がかりでやさしく解きほぐしてくれた。私にとって何か、別の世界が広がっていくように感じられたものである。その延長線上に私たちの結婚があった」と言う。いいね、うらやましいね。初めはそうでも、次第に慣れてしまうと、お互いにわがままが出てしまうものだけれど、友だちは「セラピストと患者の関係は今なお継続している」と言う。今も、彼の心の奥のモヤモヤとしたものを彼のカミさんは治療し続けてくれているのだろう。うらやましい限りである。
コメント
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