太閤秀吉を祀る「豊国神社」を訪れたミモロ。
出世開運を、しっかり祈願した後は、境内を通り、隣接する方広寺へと向かいました。
そこには、大きな釣鐘が下がった建物が。

「わー大きな釣鐘ー!」

大晦日には、多くの人が除夜の鐘を突きに来る釣鐘です。

ミモロもちょっと突くマネを・・・。「とてもミモロの力では、突けないよー。どんな音がするんだろ?」と。この鐘が突けるのは大晦日、それまでお預けです。
さて、この釣鐘は、秀吉の子、秀頼により、慶長19年(1614)に作られたもの。重さ82.7トン
高さ4.2メートル、厚さ0.27メートル 外周2.8メートルという巨大な釣鐘。
慶長19年は、大阪夏の陣の前年。この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、家康を分断し、豊臣を君主とするとして、徳川方より追求され、それを切っ掛けに、さまざまな難題持ちかけられ、豊臣家を滅亡へと導いたと言われるいわくつきの鐘です。

現在、鐘には、その部分がよくわかるように、白い標があります。
重要文化財になっている釣鐘で、東大寺、知恩院と共に「日本三大名鐘」に数えられています。
ちなみに、知恩院の鐘の方が、ちょっと大きいそうです。
「こんなに重い釣鐘をどうやって吊るしたんだろ?みんなで引っ張ったのかなぁ?」と、本当に機械のない時代、どうやって吊るしたか不思議です。
「ここには、昔あった大仏殿の名残りがあるんですよ」と、釣鐘の番をしている方が教えてくれました。

「やっぱり京都にも大仏様がいらしたんだー」とミモロは、梵鐘の建物の隅を見て回ります。
そこには、鉄でできたものが、ゴロンと置かれていました。
「これなんだろ?」

「それは、大仏殿の柱の周りについていた金具ですよ」
「こんなに柱が太かったんだー」とビックリ。
「あのーこれはなあに?」

「それは、大仏殿の屋根の四隅に下げられていた風鐸ですよ」
「屋根の飾り?これって、普通の釣鐘くらいの大きさがあるねー」と。
「ということは、本当にすごく大きな大仏殿だったんだー」と、その大きさを想像します。
そもそも旧方広寺は、秀吉が建立した寺で、本尊は、木造の廬舎那仏。その高さは、約48メートルで、奈良の大仏を凌ぐサイズだったそう。
天正14年(1586)に、奈良の東大寺を模った大仏殿の造営が始まります。文禄4年(1595)に宗派を超えた約千人の僧が集められ、大仏開眼のための千僧供養会が営まれたそう。
しかし、翌年、慶長伏見大地震により倒壊します。
「えーせっかく作ったのに、すぐ壊れちゃったなんて、なんかあるね…。でも大仏が壊れるほどの大地震が、京都でもあったんだー」
その後、秀頼により再建されるも、寛政10年(1798)に火災で焼失。
天保14年(1839)に、昔の大仏の10分の1のミニチュアサイズの木造半身像が寄進されるのですが、それも昭和48年(1973)に失火による火災で焼失。今は、かつての場所を示す碑だけが残ります。
「あれ?徳川家の時代になっても、方広寺は、取り潰されなかったんだー。ということは、しばらく京都には、大仏殿があったことになるねー。今もあれば、立派な観光名所になれたのに…ミニ大仏でいいから、見たかったなぁー」と、残念そう。
「これは、なに?」

「やっぱりすごく大きな仏様だったんだねー」
現在、方広寺は、天台宗山門派のお寺で、本尊には、大日如来をお祀りしています。
「豊国神社」の境内の一角には、秀吉ゆかりの品々を納めた宝物館が。


そこも豊臣家を知るうえで、ぜひ見ておきたい場所です。
「豊国神社」に行ったら、入館をおすすめ。

*「方広寺」は、京都国立博物館のすぐそば「豊国神社」の北側に。

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