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ネコのミモロのJAPAN TRAVEL (Mimoro the cat:JAPAN TRAVEL)

「京都観光おもてなし大使」のライターとネコのミモロが、京都の情報や暮らし、グルメなどをご紹介。心和む雑誌のようなブログ

京都にも大仏があった方広寺。豊臣家を滅亡へと追い込む大きな釣鐘。

2012-10-03 | 歴史・史跡

太閤秀吉を祀る「豊国神社」を訪れたミモロ。
出世開運を、しっかり祈願した後は、境内を通り、隣接する方広寺へと向かいました。
そこには、大きな釣鐘が下がった建物が。


「わー大きな釣鐘ー!」

大晦日には、多くの人が除夜の鐘を突きに来る釣鐘です。

ミモロもちょっと突くマネを・・・。「とてもミモロの力では、突けないよー。どんな音がするんだろ?」と。この鐘が突けるのは大晦日、それまでお預けです。


さて、この釣鐘は、秀吉の子、秀頼により、慶長19年(1614)に作られたもの。重さ82.7トン
高さ4.2メートル、厚さ0.27メートル 外周2.8メートルという巨大な釣鐘。

慶長19年は、大阪夏の陣の前年。この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、家康を分断し、豊臣を君主とするとして、徳川方より追求され、それを切っ掛けに、さまざまな難題持ちかけられ、豊臣家を滅亡へと導いたと言われるいわくつきの鐘です。

現在、鐘には、その部分がよくわかるように、白い標があります。

重要文化財になっている釣鐘で、東大寺、知恩院と共に「日本三大名鐘」に数えられています。
ちなみに、知恩院の鐘の方が、ちょっと大きいそうです。


「こんなに重い釣鐘をどうやって吊るしたんだろ?みんなで引っ張ったのかなぁ?」と、本当に機械のない時代、どうやって吊るしたか不思議です。


「ここには、昔あった大仏殿の名残りがあるんですよ」と、釣鐘の番をしている方が教えてくれました。

「やっぱり京都にも大仏様がいらしたんだー」とミモロは、梵鐘の建物の隅を見て回ります。
そこには、鉄でできたものが、ゴロンと置かれていました。

「これなんだろ?」
「それは、大仏殿の柱の周りについていた金具ですよ」
「こんなに柱が太かったんだー」とビックリ。

「あのーこれはなあに?」
「それは、大仏殿の屋根の四隅に下げられていた風鐸ですよ」
「屋根の飾り?これって、普通の釣鐘くらいの大きさがあるねー」と。

「ということは、本当にすごく大きな大仏殿だったんだー」と、その大きさを想像します。

そもそも旧方広寺は、秀吉が建立した寺で、本尊は、木造の廬舎那仏。その高さは、約48メートルで、奈良の大仏を凌ぐサイズだったそう。
天正14年(1586)に、奈良の東大寺を模った大仏殿の造営が始まります。文禄4年(1595)に宗派を超えた約千人の僧が集められ、大仏開眼のための千僧供養会が営まれたそう。
しかし、翌年、慶長伏見大地震により倒壊します。


「えーせっかく作ったのに、すぐ壊れちゃったなんて、なんかあるね…。でも大仏が壊れるほどの大地震が、京都でもあったんだー」

その後、秀頼により再建されるも、寛政10年(1798)に火災で焼失。

天保14年(1839)に、昔の大仏の10分の1のミニチュアサイズの木造半身像が寄進されるのですが、それも昭和48年(1973)に失火による火災で焼失。今は、かつての場所を示す碑だけが残ります。


「あれ?徳川家の時代になっても、方広寺は、取り潰されなかったんだー。ということは、しばらく京都には、大仏殿があったことになるねー。今もあれば、立派な観光名所になれたのに…ミニ大仏でいいから、見たかったなぁー」と、残念そう。

「これは、なに?」「それは、大仏の台座の蓮の花の一部だそうですよ」と。
「やっぱりすごく大きな仏様だったんだねー」

現在、方広寺は、天台宗山門派のお寺で、本尊には、大日如来をお祀りしています。

「豊国神社」の境内の一角には、秀吉ゆかりの品々を納めた宝物館が。

そこも豊臣家を知るうえで、ぜひ見ておきたい場所です。
「豊国神社」に行ったら、入館をおすすめ。




*「方広寺」は、京都国立博物館のすぐそば「豊国神社」の北側に。


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