4月29日、京都の「熊野神社」の神幸祭が執り行われました。

氏子町の神輿渡御が行われる前に、祭りの一行は、近くに位置する修験道の総本山である「聖護院門跡」へと向かいます。
晴天に恵まれた4月29日の正午。「熊野神社」では、神幸祭へ出発する準備が整いました。

「熊野神社」は、京都の三熊野社(新熊野神社・熊野若王子神社)の中で、最も古い神社で、弘仁2年(811)に修験道の始祖役行者の十世僧 日圓(にちえん)が国家護持のため、紀州の熊野大神を勧請したと伝えられます。
寛治4年(1090)に白河上皇の勅願で創建された「聖護院」の鎮守社となり、平安時代には、熊野詣に熱心だった後白河上皇が、熊野の木材などを使い整備。さらに、室町幕府3代将軍 足利義満から、広大な敷地を寄進されました。しかし、応仁の乱で焼失し荒廃。その後、寛文6年(1666)に聖護院宮道寛法親王により再興。江戸中期に社殿の大改造が行われ、現在の社殿は、「下鴨神社」から移築されたもの。
「あ、鼓笛隊がいる~時代祭に登場する勤皇隊みたい~」と、社殿で神事に望む姿を見つめるミモロです。

これは、神幸祭を先導する「熊野少年勤皇隊」。明治元年に丹波山国郷で結成された鼓笛を奏でながら凱旋した維新勤皇山国隊をモデルにしています。「熊野神社」の神幸祭には、昭和3年から参加している、歴史あるものなのです。
「神事の後、聖護院門跡に来るって聞いたから、急いで行って、待ってよう~」と、ミモロは、「聖護院門跡」へ急ぎます。

「あれ?誰もいない~」白砂が掃き清められた本堂前には、誰の姿もありません。

12時を10分ほど過ぎた頃、本堂の前に人の姿が…

「あ、御門主さまたちだ~」とミモロは、ご挨拶に…。

「ミモロちゃん、いらっしゃい~これから、神幸祭のご一行を御迎えして、ご祈祷をするんです」とおっしゃる宮城執事長。
そこにいらしゃる3人は、宮城家ご三代です。
「神幸祭、拝見します~」というと、ミモロは、門が見える場所へ移動。

しばらくすると、風にのって、「ピーヒャラピー」という鼓笛が聞こえてきました。
それが次第に近くなります。「なんか明治維新が近づいて来たみたい…時代が変わるときって、こんな感じだったのかなぁ~」と想像したくなります。
やがて門には、錦の御旗が・・・その後ろに、熊野少年勤皇隊が演奏しながら続きます。

本堂の前に進む一行。

整列して、本堂に向かいます。

「熊野神社」の宮司様が、「聖護院門跡」の御門主さまにご挨拶。

そして、宮城執事長が吹く法螺貝が境内に響きます。

それから、読経が行われ、祭りの一行の無事を祈願します。
法要が納められると、続いて、熊野少年勤皇隊の演奏が…。

そして約30分後、祭りの一行は、「聖護院門跡」を出発して、氏子町へと向かいました。

滞りなく「聖護院門跡」での法要を終え、挨拶を交わす宮司様と御門主さま。深い縁の神社とお寺…今もその関係は変わりません。

一行は、門を出てゆきました。
鼓笛の音もしだいに遠ざかり、境内に静寂が戻るのを、じっと見守られている御門主さまのお姿が、そこに…。

やがて、御門主さまたちも戻られ、「だれもいなくなっちゃった~」とポツリ、本堂の前に残ったミモロです。

後日、「子供の頃から、この神幸祭を見てきました。以前、少年勤皇隊は、数十名いて、入隊したい希望者が多くて、断っていた時代もあったんですよ。でも、今年は、今までで一番少なく7名しかいない…もっと参加してくれる子供たちがいるといいんだけど~」とおっしゃる宮城執事長。以前、神幸祭の行列は、今よりも大勢の人が参加し、感動的だったとか。
ここにも少子化の影響があるのでしょうか?また「こういう祭り、知らなかった~」とミモロ。まだまだ知らない地元の祭りがたくさんある京都です。観光客の姿もありません。京都の歴史を、改めて知ることができた祭りでした。

すでにお昼を回った時刻、「ねぇ、お腹空いた~」と、いつもように言い出したミモロは、ランチのため「聖護院門跡」をあとにしました。
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氏子町の神輿渡御が行われる前に、祭りの一行は、近くに位置する修験道の総本山である「聖護院門跡」へと向かいます。
晴天に恵まれた4月29日の正午。「熊野神社」では、神幸祭へ出発する準備が整いました。


「熊野神社」は、京都の三熊野社(新熊野神社・熊野若王子神社)の中で、最も古い神社で、弘仁2年(811)に修験道の始祖役行者の十世僧 日圓(にちえん)が国家護持のため、紀州の熊野大神を勧請したと伝えられます。
寛治4年(1090)に白河上皇の勅願で創建された「聖護院」の鎮守社となり、平安時代には、熊野詣に熱心だった後白河上皇が、熊野の木材などを使い整備。さらに、室町幕府3代将軍 足利義満から、広大な敷地を寄進されました。しかし、応仁の乱で焼失し荒廃。その後、寛文6年(1666)に聖護院宮道寛法親王により再興。江戸中期に社殿の大改造が行われ、現在の社殿は、「下鴨神社」から移築されたもの。
「あ、鼓笛隊がいる~時代祭に登場する勤皇隊みたい~」と、社殿で神事に望む姿を見つめるミモロです。

これは、神幸祭を先導する「熊野少年勤皇隊」。明治元年に丹波山国郷で結成された鼓笛を奏でながら凱旋した維新勤皇山国隊をモデルにしています。「熊野神社」の神幸祭には、昭和3年から参加している、歴史あるものなのです。
「神事の後、聖護院門跡に来るって聞いたから、急いで行って、待ってよう~」と、ミモロは、「聖護院門跡」へ急ぎます。

「あれ?誰もいない~」白砂が掃き清められた本堂前には、誰の姿もありません。

12時を10分ほど過ぎた頃、本堂の前に人の姿が…

「あ、御門主さまたちだ~」とミモロは、ご挨拶に…。

「ミモロちゃん、いらっしゃい~これから、神幸祭のご一行を御迎えして、ご祈祷をするんです」とおっしゃる宮城執事長。
そこにいらしゃる3人は、宮城家ご三代です。
「神幸祭、拝見します~」というと、ミモロは、門が見える場所へ移動。

しばらくすると、風にのって、「ピーヒャラピー」という鼓笛が聞こえてきました。
それが次第に近くなります。「なんか明治維新が近づいて来たみたい…時代が変わるときって、こんな感じだったのかなぁ~」と想像したくなります。
やがて門には、錦の御旗が・・・その後ろに、熊野少年勤皇隊が演奏しながら続きます。

本堂の前に進む一行。

整列して、本堂に向かいます。

「熊野神社」の宮司様が、「聖護院門跡」の御門主さまにご挨拶。

そして、宮城執事長が吹く法螺貝が境内に響きます。

それから、読経が行われ、祭りの一行の無事を祈願します。
法要が納められると、続いて、熊野少年勤皇隊の演奏が…。

そして約30分後、祭りの一行は、「聖護院門跡」を出発して、氏子町へと向かいました。


滞りなく「聖護院門跡」での法要を終え、挨拶を交わす宮司様と御門主さま。深い縁の神社とお寺…今もその関係は変わりません。

一行は、門を出てゆきました。
鼓笛の音もしだいに遠ざかり、境内に静寂が戻るのを、じっと見守られている御門主さまのお姿が、そこに…。

やがて、御門主さまたちも戻られ、「だれもいなくなっちゃった~」とポツリ、本堂の前に残ったミモロです。

後日、「子供の頃から、この神幸祭を見てきました。以前、少年勤皇隊は、数十名いて、入隊したい希望者が多くて、断っていた時代もあったんですよ。でも、今年は、今までで一番少なく7名しかいない…もっと参加してくれる子供たちがいるといいんだけど~」とおっしゃる宮城執事長。以前、神幸祭の行列は、今よりも大勢の人が参加し、感動的だったとか。
ここにも少子化の影響があるのでしょうか?また「こういう祭り、知らなかった~」とミモロ。まだまだ知らない地元の祭りがたくさんある京都です。観光客の姿もありません。京都の歴史を、改めて知ることができた祭りでした。

すでにお昼を回った時刻、「ねぇ、お腹空いた~」と、いつもように言い出したミモロは、ランチのため「聖護院門跡」をあとにしました。
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