蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

こころが、悲鳴をあげる時

2013-08-19 | 人生

いま、精神的にすこしバランスを崩している。

あまりにも暑いから、カラダがまいって、それで、こころまで乱しているのだろうか。
更年期障害の一種だろうか?

わたしは、そもそも、本来、こころは、非常にお達者な人間である。
厚顔無恥に近いものがある。
カラダも健康そのものである。
少しは、調子が悪い時もあるが、基本的には病気知らずである。

空の巣症候群の時は、さほど辛くなかった。
子育て戦争が、突然、終結したような、あっけない幕切れに、呆然としたことを覚えている。
子供が家を出て行った、がらんとした、子供部屋で、しみじみ終わりを味わった。
自分の役目は終わったと感じた。

始まりがあれば、終わりがある。
出会いがあれば、別れがある。
時は、無常だ。待ってくれない。

古今東西、どんな人も、感じたであろう、この無常。
無常を感じずに、日々の雑事に忙殺されている人は、ある意味、幸せなのかも知れない。

わたしは、いま、中年期から老年期に突入しようとしている。
その老いのカタマリは、目の前ではあるが、まだ、入っていない。
ででんと立ちはだかり、そびえている、大きな山。
予告編のカットが、ときおり、ちらちら、フラッシュ的に見える。
そこに、からだと、こころの抵抗があるのだろう。

実年齢と精神年齢が一致して、
まるまる実物大の自分を受け入れて、はじめて安らぎや安定がある。
必死で考えても、あるいは、なんにも考えなくても、人は年をとり、老年になり、やがて死ぬ。
その方向に、ひしひしと自分が歩いているからといって、それを発見、自覚したからって、
別に不思議であるはずがない。

大きな流れに身をまかすこと。
年をとる、というのは、もっとも大きな流れではないか。

 

18の時、世の中で「番茶も出花」と言われているのに、
自分といえば、どこが出花なんだろう?と、思ったものだ。
おじさんたちには、垂涎もの、なんだろうけれど、MAXであるはずの世代を、ただただ、暗く、過ごし、
出花は、花開くことなく、過ぎ去ってしまった。

自分は、プリザーブドフラワーに、なりたいのか?
造花ではあまりにも、あだ花。
生花は、すぐ枯れる。花の命が短すぎる。痛々しすぎる。

不老不死、若さを永遠に保ちたいと、だれもが願う。
しかし時を止めることはできない。

今をときめく、どんな人でも、必ず老ける。
何千年、何万年と、皆が通ってきた道。

氷河期のマンモスが、氷の中から発見されたように、
美少女のミイラが発見されたように、
時を止めても、解凍されても、生き返れない。

不老不死の願いが叶うものではなければ、
開き直って、限られた人生を享受するしかない。
やけのやんぱちで、いきなりプラス思考に転換する。

老いようが、なんであろうが、生きている限り、
「生きる」を全力で全うするのも、ひとつの方法。
全力でサボるのも、ひとつの方法。

その方法は、人それぞれ。
ただし、終わりが必ず来るのは、皆、いっしょ。


ものごとに、執着しない生き方を身につけ、涼しく過ごしたい。
エアコンを一日中つけていると、へんな強制的、冷気に当てられ、カラダが故障もする。
ほどほどに、自然の力も取り入れ、肩の力を抜いて、過ごしたい。

・・・・・・

これだけの行数を使って、落ち込んでいた気分、気持ちを少しでも救うことができた。
ほんの少しではあるが。
気の持ちよう。
自分に向かうブログタイムは、わたしを救う。

 

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自分は悪くない、あの○○が、悪い

2013-08-18 | 日々のこと

どうしても、モノゴトに一生懸命になると、目に見える成果が欲しくなる。
頑張っても頑張っても、いまひとつ、結果が不振、だと、不服になり、責任転嫁したくなる。

「こんなに、わたしは頑張っているのに、うまくいないのは、○○のせい」

この○○は、モノゴトの分野や性質、状況などによっても違うが。

なにしろ、○○のせいにしておくと、ちょっと肩の荷が下りる。
そうなんだ、わたしは頑張っているけれど、○○のせいで、正当な評価を受けられないだけなんだ。
だから、いいんだ。
頑張りと評価は、一致してないけれど、いいんだ。

そこで、「いいんだ」と無理やり納得できる人と、できない人がいる。
無理やり納得しても、ことあるごとに、納得できない気持ちがむくむくと湧き上がってくる。
もぐら叩きゲームのように、出てきては叩き、出てきては叩き、引っ込ませる。
その場しのぎである。

こんな、すっきりしない状態より、根本的解決をしたくなる。
○○のせいだ、○○が悪い、○○をやっつけろ。

学歴とかの場合、やっつけ方としては、自分自身が学力を身につける。
学歴のある人よりも、多くを学ぶ。
こんな優等生的な例を出しても、ほんの数握りの方しか、実践しないだろう。
ふん、学歴なんて、なにさ!と、すっぱいぶどうパターンとなる。
そういう自分が惨めなので、極力、学歴の高い人とは付き合わない、近寄らないという自衛防御策もある。
(あるいは、子供に夢を託し、教育ママになって、いい結果が出る場合と、そうでない場合がある)

これが、学歴に限らず、お金、肩書き、社会的地位、美貌、能力(身体的、頭脳的)、人気、資格、
挙句の果てには、人物運、異性運、運勢、人生・・・どんどん広くなっていく。


この○○が、事象でなく人物の場合は、わかりやすい。
自分が理想としているのに、たどり着けない人物△△を徹底的に否定する。
この否定は、理論上の否定もあれば、実際に、具体的な方法でやっつける場合もあるだろう。
具体的に手を出してやっつけると、犯罪である。
そんな人は、事件簿ぐらいにしか載っていないだろう。
こころの中で、やっつける。
これも、なんだか、浅ましくて見苦しくて、そんなことを空想、想像している自分が、自分でも嫌になることだろう。

では、論理的にやっつけるのは、どうか? 克服するには・・・
つまり、価値観を変えるのだ。

この速攻的・価値観の変換が、じつにお見事な人が、ご近所ママ友Sさんの、ママ友Nさんの、ママ友Kさんにいた。

子供の進学のことである。
受験めざして、K君は母子ともに、頑張っていた。
受験校、進学校がいかに良いか、優秀なコースをたどることは、いかに素晴らしいか、
熱意を込めて、口に泡を飛ばして(かどうかは、知らないが)、
ご近所で、Kさんは、同じ小学校に通う、同学年、同性の子供さんのいる母親Nさんたちに力説していた。
周りは、Nさんをはじめ、受験派ではない親は、アタマから否定されたような気になって、いい気はしなかった。

ある日、Kさんは、ころりと価値観を変えていた。
しゃかりきになって受験させている人を否定した。
受験しない道を声を大にして肯定。
今までのあの熱意は、なんだったの? 
他の人々に向けての、自己選択の肯定の熱弁は、なんだったの?

価値観が180度変わった彼女は、受験組には、なんの価値も見出していないのだから、
自分は、落ちこぼれたわけでも、脱却したわかけでもない。
むしろ受験組は、まるで悪いことしているかのような、選んだ道が間違っているかのような、そんな錯覚さえ起こさせられた。

K君のクラスメートのお母さんで、毎日熱弁を聞かされていたNさんが、そう嘆いておられた。
Nさんは、もともと受験派ではなかったが、Kさんに振り回されたことになる。

「あれだけ、シャカリキになって、自分の道が、いかに良いか、正しいかを熱心に説いていて、
うまくいかなくなると、急に方向転換して、
他を否定しはじめるなんて、その変わり身の早さったら・・・・」

まあ、そういう人もいる。
自分は傷つかない、子供も悪くない、
急ブレーキで方向転換した際に、少々、車体がぶつかった傷を、壁やら塀やらガードレールやら、他の車やら、
あちこちに、付けたにすぎない。

守ったのは、自分のこころ。プライド。
子供も守ったことになる?
(でも、子供も、急に180度転換されて驚いたかも? いや、受験勉強しなくてよくなって、喜んだかも?)

いつまでも、社会や他人のせいにして、ぐじゅぐじゅいっているよりは、マシ?
巻き込まれた人は、少々お気の毒だが、自分の軸をしっかり持っていれば、巻き込まれない。
が、なんの経験もない時には、近所のママ友の影響は受けやすいことだろう。

受験しないと言っておいて、受験するよりは、マシだったかも知れない。
そっちのほうが、深刻に恨まれることに、なりかねない。

 

わたしも、どうしても克服できないコンプレックスがある。
それを克服するのは、価値観の転換しかない。

しかし、すっぱいぶどう、負け惜しみ、負け犬の遠吠えになりかねない。
コンプレックスを抱えながら、いつも自信なく、その道をおどおどヨタヨタ進むより、
いっそ、価値観、考え方をごろっと変えて、明るく堂々と進んだほうが、気持ちいいかも。
ただ、自分のコンプレックスの方向に、まだまだ価値を置いていて、
「ふん、なにさ!そんなもの!無価値だわさ!」とまで、切り替えられない。
自分が負け惜しみで無理しているのが、よくわかるからである。

あと少しすると、なにか、いい方向転換の岐路にまで進むだろうと、明るく期待している。
が、砕けて、ゼロからのやり直しになるのかも知れない。

よおく考えてみると、これは、たんに、わたしの弱気な性格によるものかも知れない。
強気で強引なNさんを見習うぐらいの、強さがあってもいいのかも。

 

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家族

2013-08-17 | 暮らし

自分のブログについて。

じつに中途半端である。
これは、前々から思っているのだが、
新しいブログを作るために、製本するなりなんなり、このブログを保存する作業が面倒なのだ。
なぜ、中途半端なのかは、・・・何人ものリアル人がこのブログを知っているから。
本音やら建前やら、事実やら虚飾やら入り乱れることになる。
そのまんま事実どおりに実物大には書けませんね。

それが、わたしには、歯がゆいというか、小さな息苦しさを感じる。

しかし、リアル人が知っているのを知っていて、よくここまで、書けるね、という見方もできる。
このブログを読んでいるリアル人は、わたしの味方だと思っているんで、まあいいのだ。
わたしに興味があるから読んでくれている、と、とらえている。
そして、それらのリアル人のことをわたしは、信頼しているので安心している。
(これ、あきらかに、そのリアル人たちに向けたメッセージになっています・・・)

誇張表現や演出、希望的観測、思い込みが散らばめてあるので、
あんまりまともに隅から隅まで、信じ込まないほうがいいかとは思うが。
(リアル人たちを意識したために、こうなったわけではないようだ・・・)

これは、蝶ブログを通してだけのわたし、
リアルなわたしを知らない方々に対しても言えることだが。

事実を事実そのままに書いて、なにか、おもしろいことがある?
小学生の作文ではないか。
いまどきの小学生は、話し言葉が文語になっていて、驚かされるが。

わたしは、一人遊びが好きなのだ。
大勢で、もしくはグループで遊ぶ、そういうことは、苦手なのだ。
大勢で行動する場合は、遊びではなく、義務や行事、イベントだったりする。
イベントも悪くないが、一人行動も好きなのだ。

なぜだかよくわからないが、自分のことを知ってほしくないからだろう。
というか、むしろ、そういうのは、うるさい、と感じる。
干渉されたくない。
ほっておいてほしい。
誰にも知られずに、のびのび、ドジを踏んだり、無駄なことをしたり、・・・ひとりで完結したい。
報告は、後から、自分の血となり肉となってから、あるいは、毒は対外に放出されてから。

でも、自分を知ってほしい。
だから、こういうブログのように、一方通行のものが好きなんだろう。
歪(いびつ)かも知れない。
人間は、矛盾を抱える生き物ですので。


ストレートタイプの人がいる。
まっすぐ、まん前を向いて、生きている人だ。
わたしは、すこし違う。
こころは、素直でまっすぐなんだけれど
(一人遊びが好きな段階で、すでに、違うのかも知れないが)
どこかが違うように思う。
(何度も言うようだが、わたしは根は、明るいタイプです)

そして、根は、ガンコである。
自分が納得しないと、テコでも動かない。
直進→衝突→停止→方向転換→直進→衝突→停止→方向転換→・・・これの繰り返し
なので、効率の悪い、要領の悪い行動をすることになる。
一般的には、こういう一連のことを「試行錯誤」という。


あ・・・それと・・・
自分より悲惨な目に遭っている人が、逆境を跳ね除け、頑張っていると、人は感銘を受ける。
恵まれた環境の人が、好き勝手し放題していても、なんの面白いことがあろうか。
同じ趣味の人同士ならともかく。

面白くない生活の人が、面白くなさを発散させる、その発散方法が、
スポーツやら趣味やらに「昇華」されるものならよいが、
マイナスの方向に向いて、人を攻撃したり、陰湿なことをしたりすると、よろしくない。
自分に向けすぎると、こころの病を患いかねない。
そんなことは、言うまでもなく、書くまでもないことだ。
が、現実としては、解決されないまま、毎日が過ぎていっていることだろう。


こころの支えは、家族。
そして、知らず知らずのうちに無意識に、宗教心に近いものがあるのかも知れない。
結婚する年齢を過ぎても、家族は家族。
結婚して、遠方に離れて住むと、少し、気持ちも離れ、
新しい家族に、バトンタッチ、切り離されたような気になるが、その後の経緯でまた変わる。
結婚していなくても、連絡もほとんどなく、遠方に住んでいると、日常では存在を忘れている。
やりとりがあると、気持ちがまた行き来する。
でも、やりとりがなくても、いつもこころの中にある。
それが、家族の絆。

自分の親、兄弟も、そう。

やりとり、行き来があるか、ないか、これはけっこう大きな要素になると思う。
家を出たまんま、音信不通、あるいは、喧嘩したまんま、そういう家族もいるだろう。
あるいは、日常にはお付き合いはあるが、うまくいっていない家族もあるだろう。
長いスパンで、家族の歴史に触れる機会、それが、お盆というものだ、と、つくづく感じた。

 

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こっちの水は、甘いよ~

2013-08-16 | 趣味

別SNSでの日記を、アップすると、手ごたえのある反応が、どんどんあって、おもしろい。
ある程度溜めて一気にコメント返しをするので、疲れるが、
翌日、読み返すと、なかなかいいことを書いていて(自分が、です)、これまた、ほほぉ~っと自己陶酔している、
かなり隠れナルシスト(良く言いすぎ)なわたしだ。

同じ趣味を持つと、ピンポイントに興味が絞り込めるし、論点が明確であるし、
その道での経験や意見、考え、悩みが、各自それぞれあって、共通するものが、わかりやすい。
しかも、年代もほぼ似たり寄ったり。

あーだこーだと、意見や感想を多くの人と戦わせ合うのって、とても楽しい。
しかも、どうでもいい、趣味のことなので、罪がない。結論なんか、いらない。
お茶のみ縁側的な場でもある。

どんな世界も、本音と建前があって、一見、良く見えても、どこも同じだ、という人もいるが、
趣味の世界に、本音と建前を使い分けて、なにをしようというのだ?
そんなものは、いらない。
意見が違えば、「人それぞれ」で片付ける。
「プロじゃあるまいし。所詮、お遊び。各人、ご自分の道を突き進んで楽しめたらいいですね」に、なる。

自己顕示欲の強い人や、結果主義の人、競技絶対主義の人がいても、
「競技に価値をおかない」という価値観で、勝負は、勝ち負けなしになる。
競技の人は、競技の人だけで、つるんでもらえばいいわけで、その他の人に価値観を押し付けるのなら、
自分たちの世界から一歩も出なければいい。
でも、ちょろちょろ出てくるので、そこは、社交の世界。
自分たち競技者の実力を認めろ、と、しゃしゃり出てくるのなら、そちらの世界内だけでどうそ、と、お帰りいただく。
出てくるということは、こちらの世界(競技ではない世界)に魅力があるからに他ならない。
こっちの水は、甘いのだ。
修行僧が、ふもとの街に、ふらふらと舞い降りてくるようなものだ。

ただし、本音と建前を使いわけている、と、わたしは思わない。
相手に合わせる必要はない。喧嘩をする必要もない。

価値観は、人それぞれであり、共通するところだけで、接点を持って、楽しめばいいのだ。

趣味の世界は、どれが正しいとか、こっちにしなさい、とか、そんなのはない。
笑われるようなカッコ悪いことをあえてしたい人は、すればいい。
上達が著しく遠くなるような道をあえて選びたい人は、選べばいい。
向上、努力、精進を極めたい、一生、終わりはない、という人は、そうすればいい。
サボってる、とか、生真面目すぎるとか、柔軟性がない、とか、人の選んだ方法に口を出す権利はない。

ただし、あくまでのこれは趣味の世界のこと。
仕事や、生活面で、ノールールで好き勝手、それぞれにしていたら、社会は混沌とする。
日常生活が苦しくて辛くて、趣味の世界で、ほっと息抜きをする人もあるだろう。
趣味で、救われる。
そんな人に趣味の厳しさを説いて、どうする?
気が晴れて発散するタイプと、のめりこみ、追求するタイプがある。
あるいは、優位をお金で買おうとするタイプ。
努力の工程をショートカット。
これは、自慢げにされると、じつに鼻につく。
経済的にゆとりがない人は、自分のできる範囲のことで頑張っているのに。


しかし、趣味を持つことは、本当に、いいことだと思う。
熱くなりすぎて、トラブルを起こさないように。
日常生活に、支障を来たさないように。
それこそ、本末転倒である。

 

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自分は、何様なの?

2013-08-15 | 人生

 

異性とのお付き合いにおいて、
わたしは、あまり好きでなくても、むこうが好いてくれたら、とりあえず付き合う。
自分が好きでも、相手が好いてくれなければ、付き合わない。
強引に押しかけ女房とか、ありえない。
努力し続けて、自分を好きになってくれるよう、頑張らない。

自分からアポとか、しない。
女性の友だちでも、延々と長い間、連絡があるまで待つのみ。一方的、受身。
相手は、わたしのことを、おそらく、「乗る気がない人」だと思っていることだろう。

なぜか?
しんどいからだ。

わたしは、サボりなので、なんの努力もしなくても、無条件に自分のことを好いてくれる人がいい。
と、書きつつ・・・
あ、これって、厳密に言えば違うなあ、ということに気づく。
細かいところは、またの機会に。

異性の場合、

自分のことを好いてくれるのが、第一条件。
こちらは、さほど好きでなくても、である。
しかし、いくら好いてくれても、絶対的に嫌いな人とは、付き合わない。
そして、その、絶対的・・・の条件が、案外、厳しい、狭き門になっている。

まず、わたしよりアタマの悪い人は、だめ。
わたしより、運動神経が鈍い人は、だめ。
わたしより背が低い人は、できれば避けたい。
わたしより、要領が悪い人は、だめ。
どんないい人でも、ギャンブルをする人は、だめ。
どんな素敵な人でも、女ったらしは、だめ。
ケチは、だめ。
下品も嫌い。
器の小さい、せせこましい、みみっちい、狭量は、だめ。
親兄弟、家族を大切にしない人は、だめ。
歪んでいる人、拗ねている人は、だめ。
絶対にはずせないのは、お金にルーズな人。
だからすごく若くてイケメンでもだめ。ホスト系は、生理的にも精神的にも拒絶反応。

そうすると、我慢できることと言えば、見かけぐらいになってくる。
見かけだけがよくて、あとは、全部だめ、という、いわゆる「一目惚れ」というパターンは、ない。
あるいは、惚れた弱みで、なんでもかんでも、許す、必死で尽くす、というパターンもない。
あほらしい。

逆のパターンはある。
尽くされるほうが、うまくいくことが多い。
尽くしても、相手をつけあがらせるだけだ。
高飛車、大きな態度に出たほうがいい。
(あくまでも、わたしの場合。わたしは、受身でおとなしいので、なめられる傾向がある)

ど演歌の歌詞で、「尽くして、捨てられて」「いまでも、あなたを愛してる」「あなたを忘れない、忘れられない」
などというのがあるが、
あれは、男性が幻想、幻影を抱いて、実際にはありえないことをわかって、確信犯で作詞しているのだろう。
そんな女性は、見たこともないし、知っている人にはひとりもいない。
男性のほうが、いつまでも、女々しく、捨てられた女性のことをぐじゅぐじゅ思い続ける。
たいがい、堪忍袋の尾が切れて、男性を捨てるのは、女性だから。
女性は、見切りが早い。だめなものは、だめ。あんた、だめ。はい、次。
もちろん、男性に捨てられる女性もいるが、こんなんじゃあ、捨てられても仕方ないというパターンが多い。


で、どんどん話は、それているが・・・

つまり、見かけが少々気に入らなくても、上記の条件を満たしていると、付き合うということだ。
付き合うイコール好きになる、とは、また違うのだが。

見かけがよくない、見かけのせいで、異性にモテない人は、中身や行動で、頑張る。
(才能があっても努力しないと大成しないが、そこそこの資質でも、熱意と努力で、花を咲かせるのと同じ)
なので、付き合うと、見かけがいい人より、ずっと努力家である。
ワケありセールで、本来は高価なのだが、割安で出ている、蚤の市で見つけた高級品みたいなかんじで、気に入れば、お得だ。

知らず知らずのうちに、自分が不幸にならないタイプを選んでいる。

あ、関係ないけれど、
わたしより歌が下手な人でもオッケー。(わたしも、かなりオンチだが)

どちらかというと、スポーツ選手や芸能人より、
政治家や実業家、コメンテイター、記者、作家、教授系のほうが好き。
芸術系や哲学系、クリエーター系は、オプション。

どうぞご勝手に!と言われそうだ。

夫にする人は、自分より能力が上の人を望んだ。
子供への遺伝子も考えた。
夫選びの基準にも、わたしのサボり精神、手抜き根性が色濃く現れている。


わたしの親の世代は、頑張り世代だ。
戦前派、戦中派が多いと思う。
なので、とても忍耐強く、よく働く。そして厳しい。
そんな親と比べると、一世代若い我々は、頑張りが劣る。
なので、夫は、わたしの父親に比べると、劣る。
わたしは、夫の母親に比べると劣る。
まあ、しかたない。
どっちも、そんな立派な親と比べて、配偶者に幻滅したりしても、しかたない。
自分が、甘いんだから。
甘く育つことができて、時代に感謝しなければ。


割れ鍋に、綴じ蓋。
いつまでたっても、このパターン。
自分が成長しなければ、相手に多くを求めることはできない。
自分が努力して頑張れば、いつかは事態は好転する。
自分が変わらなければ、相手は変わらない。
自分も相手も、同時に次第に変わるとこもある。

夫は、自分を映す鏡だ。
子供も、そう。
みんな、自分の行いが、跳ね返ってくる。
長い時をかければ、かけるだけ、その反響、ブーメラン効果がある。
良い場合も、悪い場合も。

結果を焦らず、じっと時を待つ忍耐力も必要だ。
半ばあきらめつつ、ぼーーっとしてたら、ある日、突然、結果が現れる時が訪れる。

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ママに、おまかせ。あなた、何歳?

2013-08-13 | 日々のこと

最近、別SNSの日記にはまっている。

昨日など、めったにないことだが、一日中、自由時間だったので、
パソコンの前に張り付いていた。

で、趣味のカテゴリーで日記をアップしたら、コメントが続々。伝言も。
足跡も、みーんな、一目瞭然。

だれそれが、いつ覗いたとか、も、わかるが、そんなのは、いちいちチェックしない。
趣味関係の具体的な会場、イベント開催のお知らせやら、いろいろ、リアル社会ともリンクしている。
お盆でも、家の行事のない女性から、イベントのお誘いがあった。
が、お断りした。
お盆で、女性の参加が少ないそうだ。
さすがに、お盆は、無理。
「お盆は、全部ママがやってるので、わたしはフリーです」と、その女性は書いていたが、
羨ましいというか、棲む世界が違うというか。
お盆でなくても、わたしは、その女性とは行かないかもしれないが。

しかし、一日中、日記の番をしているようで、充実したかというと、そうでもない。
やはり、なにごとも、ほどほどがよろしい。

さて、今日、明日と、お盆行事あり。
毎年、必ず、この時期は忙しい。

今から支度にかかります。

 

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なに考えてるの?

2013-08-12 | 日々のこと

会話が、できないということ。
これは、とてもキツイ。

自分の「人生の質」の現状が、「会話」のやりとり状況で、表されている。

通常の日常会話、これは、まあいい。

次。
ちょっと、アタマの回転が遅い対応の場合の会話(わたしです)。
これは、間が空き、テンポが狂い、相手によっては、理解させることをあきらめ、次の話題に移る。
(これ、娘たちによく、やられます。
実母も、われわれに、やられます。)

その次。
老化で耳が悪くなって、聞こえないケース。
こちらの言っていることが、わかってないとわかると、会話の理解、反応をあきらめて適当に流して、精度を下げる。
老化現象のひとつと思って対処していたが、ほんとうは、「聞こえない」のではなく、
「自分の関心のあることしか、聞こえない」のだということが、最近、わかった。

さらに、その次。(上記とリンクするが)
人の話を聞いていない人との会話。
いくら熱心にこっちが話しても、相手は聞いていないので、がっくり。
今まで、微に入り、細に入り、わかりやすく実例や説明を加えて熱心に熱弁を繰り広げていたのに。
で、まともに話す気をなくす。
さらっと、相手の話したいことだけを聞く。
こっちは、さーっと熱が引いて、接待的な会話となる。

(これ、やっている場合も、やられている場合も、両方ある・・・はず)

で、そのまた次。
母国語の違う人同士との会話。
複数の人がいる場合、語学ができない、言葉がわからない人は、微笑むだけ。
まわりも、その微笑みが、理解や賛同の表現ではなく、
「わかってない」「理解できてない」ということを見抜いていて、
でも、あえて、会話の進行の邪魔になったり、場の雰囲気を壊したりしないよう、ちょっと距離を置く。

「わからない」にも、ヒアリング能力はあるが、スピーキングができない、
あるいは、引っ込み思案で、しゃしゃり出たり、自分の意見を言うのが不得意な場合もあるが、
「わかってない」、「意見がない」とみなされる。
あまりわかってないが、積極的スピーキングで、理解度を勘違いされる、ハッタリの利くケースもある、
が、難しい話になると、即、ばれる。

わたしのように、まったくわからない、という人も、まじっている。
必要最低限のことだけを必死で聞き出し、こちらからも伝える。
これは、「聞く」「話す」という会話レベルではなく、「コミュニケートする」に近い。

乳幼児と大人の会話は、その点、無邪気でいい。
言葉が話せなくても、会話になる。
まさに、ストレートなコミュニケーションだ。

 

 

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自分の道

2013-08-11 | オトコとオンナ

昨日の自分のブログを読んで、ふと思った。
優秀ではない男性は、DNAを残すな、と、とらえられる可能性もある。
そんなことは、決して言っていない。

結婚していて、妻子がいるのに、公然とフーゾク通いを肯定している男性の意識、感覚について、
わたしが感じたことを書いた。
未婚なら、どうそ、ご自由に。
そういう行動をする男性を、女性であるわたしが、どう捉えているかは、別として。

シングルマザーは、たいへんだから、
どんなに非力で、なよっとしていても、家庭に成人男性がいるのと、いないのとでは、大きくちがう。
そりゃあ、部屋から一歩も出ず、部屋に差し入れられた食事だけを食べる成人男性なら、
家族も悩みや不安のもとになるだろう。
そうでない、一般的な心身ともに健康な(できれば勤労)男性であれば、
すご~い優秀極まりない、立派な人でなくても、十分だ。

お年寄りができないようなことを、手助けしてくれる、とか、
それだけでも、とても助かる。
ましてや、赤ちゃんの子守、育児、これをサポートしてくれる、
子供と血がつながった実の父親でもある、成人一般社会人男性が、同じ屋根の下にいてくれると、とても助かる。

どんなに弱弱しい、だめだめDNAでも、二人で一生懸命、家庭を築いてくれるのなら、
頼もしい。
パワフルで、あちこちにDNAを撒き散らしている男性より、ずっとずっといい。

ダメな奴で、家庭もほったらかし、しかもDNAも外に撒き散らしている、そんな既婚男性が、
けしからん、と言っているのだ。
ダメダメじゃなくて優秀な、あるいは、アタマは優秀じゃないけど、別方面が強い、しかも、超金持ち男性で、
妻を5人ぐらい持って、各、家庭を維持させている既婚男性が、
6つ目の家庭を持つことに関しては、文化の違いもあり、言及する気がないが。
(日本では重婚になります)

・・・・・・・・・・

フーゾク通いや浮気に関して、奥さんが、なにも言わないケースがあるとしたら、
お互いがそれで納得しているのであれば、まったくの仮面夫婦であり、
いろんな価値観があり、それはそれで、その家庭は成り立っているのだから、
他人が口を出す問題ではない。

わたしなら、いやだ、というだけだ。(というか、皆、夫婦であれば、いやだろう)
いやだけど、仕方ないから、我慢するチョイスと、
仕方なくないようにする手段、方法を考え、具体的に目標、プランを立て、それに向かって努力、実践するチョイス、
ふたつの選択肢がある。

おこがましく、体験談をべらべら自慢げにまくし立て、
だから、こうしなさい、と、アタマから決め付ける、ご親切な方もおられるだろうが、
そんなの、うっとうしい限りだ。

どちらを選ぶかは、各人の好きなようにすればいいい。

 

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いずれ、捨てます。捨てられます。

2013-08-10 | オトコとオンナ

男性はフーゾクに通っても、なんのお咎めもないのに、
女性は、そんなことしていたら、とんでもない。
第一、プライドが邪魔して、お金を払ってまで、女性は、そんなこと、ありえない・・・

そんな意見を、とあるブログで読んだ。
一般的に感じる、ふつうの感覚だと思う。
が、・・・

これは、男性の体の機能、構造、メカニズムからそうなるのか、
男性が自分が都合のいいように理屈付け、言いくるめ、世間の常識であるかのように、
納得させ、その説を定着させているのか。

石器時代から、男性は外で狩をし、女性は家で料理。
その刷り込みDNA?

石器時代は、女系家族。
父親は、どこのだれかはっきりしなくても、母親は、確実だ。
自分が生んだ子供を自分たちで育てる。
母親が核となり、子供たちがいて、母の母もいて、母の姉もいて、男たちは(どこかに)いる。

動物もそうだが、優秀な子孫を残すためには、メスは優秀な遺伝子を持つオスを厳選する。
オス同士も戦い、メスを手に入れる。
ダメなオスは、負ける。
メスは、この、見極めが要だ。

しょもうないオスの子を生んで苦労しないよう、動物的勘、五感、六感を駆使して、
さらに各種情報を手に入れ、メスは、よいオスをゲットし、自分の身を守り、繁栄させる。

よいオスは、引く手あまたで、あちこちで、優秀なDNAをばら撒きまくり、
周囲には、そのオスの子孫だらけとなる。
しかし、優秀なDNAなので、滅亡することはないのだろう。

とすると、オスのやりたい放題を認めるカタチになる。
が、違うのは、優秀な遺伝子を持つオスに、その特権がある。
優秀ではない、メスに相手にされないオスは、やりたい放題する甲斐性はないはず。
なのに、しょうもないオスが、あちこち、しょうもないことをして、他のメスを泣かせる。

メスも、しょうもないオスなら、相手にしなければいい。
一時の気の迷い、と思って、切る、捨てるべきだ。

第一、今は、石器時代でもなければ、封建時代でもない。
そんな、古代のことにさかのぼり、優秀なオスは、あちこち、ばら撒きまわってもいい、なんて、
もし、本気で思っているオスがいるとすると、石器時代に戻るべきだ。

新興宗教なんぞで、ハーレム状態の集団もあるようだが。
宗教がからむと、わけがわからない。
一般常識を振りかざしても、なんの役にも立たない。

文明社会になっている近代、男性のそのような行動は、女性にとって許せるものではない。
それを堂々と、許しているのは、女性も悪い。
お互い、ギブアンドテイクで、お金さえもらえば、あとは、どうでもいい、
と割り切っている場合なら、各家庭の事情で、それぞれが納得しているのだから、
まわりが、どうこう言う筋合いではない。

ただ、それは、その家庭の内情である。
そんな内情ではない家庭では、同じ考えを持たない。
なので、冒頭に書いたことは、一般論かも知れないが、わたしは、許容範囲を超えている。
そんな男性とは、縁を切る。

縁が切れない事情は、各家庭にあるだろう。
経済的なことが、いちばんにあることだろう。
離婚して、生活の質を落としてまで、苦労はしたくない、ということもあるだろう。
なので、外野、部外者は、なにも言えない。

各人は、各人の道を進むべきであり、他人が関与するには至らない。
わかりきったようなアドバイスは、時として、うっとうしい。
アドバイスどおりに、できれば、とっくにしている。

しかし、時機が来たら、おそらく、なんらかの展開が開けると予測している。

女は、怖い。
コップの水が徐々にいっぱいになって、溢れる日まで、
じっと刃を研いで出番を待っている。

 

 

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ゆる友

2013-08-09 | 日々のこと

朝の恒例、ネットチェック。
別SNSの趣味系だけでなく、わたしには、またひとつ、項目が増えた。
それは、「古民家」。
そういうコミュがあるので、入会した。
すると、そこには、いろんな人々の生き方模索のようなものが見え隠れしていた。


わたしは、興味を抱いた。
もともと、古民家に関心があって入会したのだが、
単なるハードとしての古民家ではなく、暮らし、生き方、人生、ライフワーク、家族などなど・・・
そういうものと、大きくかかわってくる。


趣味系のほうは、時間がないのに、コメント返しはあいからわず続いている。
(日記をアップした直後よりは、数は、少なくなったものの)
なので、人のブログを読むのも面白いが、
テーマに沿って、人々のお知恵を拝借したり、討論、議論したり、情報を共有したり、
そういうことは、実際の生活に有効に活きる。
情報や知識は、活用してこそ価値がある。
アタマの中だけの妄想でおさまらず、カタチとなり、行動となって動き出す、その種まき、苗育て。
多くの氾濫する情報のなかで、必要とする有効な情報を抽出、チョイスが、ポイント、重大であるが。


同じような悩みや、考えを持った人が集まり、知恵を出し合う場を偶然、発見した。


ということで、日ごろ、もやもやと、具体的にどうしたらいいのか、どうしたものか、と、
アタマのなかでぐるぐる回るだけで、出口が見えないことが、トンネルの向こうの一点の明かりらしき、
胎動のようなものを感じた。



・・・・・・・

あれこれ、あれこれ、あれこれ、生活と人生、
点と点は、つながり線になり、線と線は、接して面になり、面と面は、合わさって立体になる。


自分の人生は、核を持っていると、そして、あきらめず、持ち続けてこころのなかで暖めていると、
知らず知らずのうちに、それに沿って動いていくようだ。



年がいってから、新しいことに挑戦するのが良いという意見と、そうでない、という意見がある。
ものごとに、よると思う。
趣味などは、いろんな意味で刺激になると思うが、
引越しや、家の売却、他人とルームシェア・・・
生活の基盤となる、そういう大きなことは、高齢になってからでは負担が大きい。
環境の変化にも適応しにくくなっている。
新しい環境で、新しいお友達など、そうカンタンにはできない。


「ゆる友」を作るのが、いいそうだ。
ゆる~い友達。
大まかに、おなじ方向を向いて歩いている人。
この大まかは、かなり大まかでよい。


世の中には、いろんな知恵のある人がいるんだなあ、と感心した。
ゆるゆる、ただただ、時間つぶしをしてるだけではない、
ゆるゆるの中に、求めているものを見つけたりする。


すごく高齢になる前に、自分のできる行動範囲を広げておくのも、いい。
あとは、年とともに、できることは狭まっていくだけだから。削減、減少。
そういう意味では、したいこと、できることをスタートしておくのは、よいことだ。
超高齢になってから新しい流れを確立するのは無理で、
超高齢になったら、それ以前に確立していた流れの波に、そろっと、ふわっと乗る。
そろっと降りる、軟着陸でもいい。

ゆるゆると、先を歩いておられる方を参考に、ライフデザインを描き、
自分の道も、カーブをつけるなり、一段、上げるなり下げるなり、階段やらスロープやらをつけるなり、
ちょっと行動の時かなあ・・・と、時の転換期みたいなものを感じた。




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