わたしは、エゴイストだ。
しかし、社会で一人で生きているわけではないので、仮面をかぶっている。
自分のことが、一番大事で、人は、二の次。
しかし、そういう人間だと、あからさまにわからないよう、努力している。
その努力が実る場合と、実らない場合がある。
バレてしまうのだ。
人は、バカではない。
わたしがエゴイストであるということを、よくご存知だ。
で、それでもいいから、と、接点を持ったりする。
おそらく、お互いにエゴイストなのだろう。
だが、わたしは、臆病者のエゴイストなので、徹しきれていない。
言葉や言動で、エゴイストではないよう、振舞おうとする。
が、メッキはすぐ、はがれる。
いっそ、本当に、バリバリの、なんの装いや取り繕いもしない、正真正銘のエゴイストのほうが、
突き抜けていて清清しいかも。
優しそうな外見に人は騙されるが、わたしは、優しくないし、気も利かない。
いちばんの特徴は、サボりで、アタマが悪いこと。
これで、エゴイストが加わると、まったく取り柄がない。
なので、自分で頑張って、そこらへんの安物の、自分でも出来そうな、中途半端なケチくさい行動を、
ちまちまっと加えて、
自分のダメぶりをごまかそうとする。
が、実際は、なんにもごまかせていなくて、お見通しである。
が、逆転の発想というものがある。
人間、ピンチに陥ると、なんなりと考えるものだ。
アタマが悪いので、それを逆手にとって、「考えなくていい方法」を考える。
案外、これは、アタマを使うのだ。
サボりなので、サボれる努力をする。
この努力は、ずっとし続けなければならない。
要領が悪いので、要領が良い人に、要領よく、お任せする。
どのあたりまで任せるのが要領が良いのか、要領良くやらないと、あとが大変になるので、見極めが難しい。
だが、小手先や、見てくれ、外側だけでは、薄っぺらい。
基本的に、信頼関係が成り立ってないと、無理である。
エゴイストで、サボりで、アタマと要領が悪い人であるわたしと、
どうやって信頼関係を結ぶというのか?
人間である限り、こころがあるのだ。
こころ、自分の思い、目標を掲げ、実行すると、それなりの伝わるものがある。
あきらめずにやっていると、手ごたえがある。
エゴイストで、サボりで、アタマと要領の悪いわたしの、今までやってきたことを振り返ると、
腹黒いけれど、芯のところは、愚直な善人であると自己分析する。
わたしは、人間、性善説を唱える派である。
気持ちの持ちようで、人は変わることができると思う。
じつのところ、どうしようもない悪人と接したことがないので、
わたしの言葉には説得力がない。
悪人は、不思議なことに、運良く、わたしの前や横を通り過ぎる。
正面にガッツリ立ちはだかれても、おそらく無意識に避けているのだろう。
お互い、正面向いて歩いていて、ぶつかったとしても、幽霊か透明人間みたいに
わたしとは、がつっとした手ごたえを感じることがなく、するっと抜けていく。
悪人である部分に触れることなく、浅いお付き合いしかしないのだろう。(もしくは、袖も触れない)
(ニュースを見聞きすると、善良な方が、悲惨な事件に巻き込まれる例もある。
本人に、なんの非もない被害者である場合は、不運、お気の毒としか言いようがない)
どちらかというと、わたしは、人の悪と闘うよりも、自分のなかの悪と闘うほうだ。
いま、アタマにいろいろ浮かんできているが、ここに書くのはやめる。
(最近、そういうことが多い)
さてさて、土日。
暑いけれど、頑張りましょう。(と、毎日、書いている・・・)