知人の娘婿。
「僕、食べる人」なんだそうだ。
家事はしない様子。
夫婦でお互いが納得していれば、外野は全く出る幕はない。
その娘婿は、わたしの娘婿とほぼほぼ同年代。
娘さん(奥さん)も、働いていて夫婦共働き。
わたしの舅世代ならいざ知らず、若いにも関わらず、世の中には色んな夫婦がいるのだなあと驚く。
他人の家庭なので全く関与しないが、びっくりするのみ。
ひょっとして、家事の中で食事作りだけが妻の役割分担で、その他全てを夫がやっているのかも。
赤の他人、すこぶるどうでもいい話。
ただ、全くわたしとは何の関係もないが、なんとなく嫌な気持ちになった。
知人自体も、何かと、あまりよくわかっていないで話をする人なので、益々、深く話を進める気にならない。
話題はお天気の話で良いのかも。
最近、その知人の嫌な面ばかりが目につくようになった。
だが、わたしに原因があるのかも知れない。
嫌われる勇気がなかったとでもいうのか、嫌われることを避け、わたしは自分の気持ちそのままを出さなかった。
だが、最近、自分の意見や感想を言い、したいようにする傾向にある。
「何でも受け入れて聞いてくれ賛同する人」をやめた。
それで、嫌われて知人が去って行ってもよいと思った。
無理して頑張って仲良くする必要を感じない。
今まで嫌な面も我慢していたが、我慢するデメリットはあってもメリットがない。
わたしが変わったのだが、相手にしてみれば、わたしに今までと違う態度、行動を取られ面食らっていると思う。
相手に責任はなく、わたしが我慢するのをやめただけ。
気の毒だろうか。
昔から長らく知っている知人なのに、わたしにとって大事ではなくなったということか。
わたしの人生スタンスが変わってしまった。
悪いわねえ。
モノは断捨離できないくせに、人は抵抗なく断捨離できる。
これからはシンプルに。
無理してまで、合わさないことにした。
年賀状辞退のように、長年の慣習を継続するか辞めるか、自分に関わることを見直そうという時期なのだろうか。
姑が亡くなり、なんだか頭に載っていた人生の重圧がなくなったような気になった。
人の価値観に無理やり合わせていた。
が、合わせなくてよくなったら、目に見えるものが、ぐっと明るくなった。
自分の価値観を基準に、嫌なものは嫌!と拒否、拒絶することの気持ち良さに気づいた。
しかしなあ、、、人生のキーマンが姑であって、夫ではないところが、実に想定範囲内だ。
なぜなら、夫もやっとママ(姑)のマインドコントロールが解け始めたようなかんじなのだ。
姑という特定の人物に決め込むのではなく、古い価値観を擬人化してママ(姑)として表している。
二人共、古い価値観に囚われていた。
先に解放されたのは、わたし。
まだ夫は解放されてはいないが、ママ不在になり、やっとママにいちいちお伺いしなくても自分で考えるのでは?
(わたしにお伺いを立てているのは何故?)
二人共、順調に歳を取ったということだ。