昨夜見たEテレ、20時から放送のテレビ番組「人生レシピ」。
ダントツに熱心に見る「ファミリーヒストリー」の次に、ちょっと好きな番組だ。
鶴瓶の旅番組は、見ない。なぜか、ノイズになる。
人が紹介する旅はあまり好きではないし、鶴瓶の旅番組は、人情味や家族愛、ほのぼの温かさが売りなのだろうが、かえって、わたしにとっては息詰まり、暑苦しい。
さて、昨日の「人生レシピ」。
いつなんどき陥るか分からない人生の苦境を、誰の中にも備わっている“レジリエンス”を引き出し、乗り越える方法を紹介する内容だった。
「レジリエンス」、、、聞きなれない言葉。
たぶん、覚えられない。
レジデンス、レジエンス、って言いそうだ。
まあ、なにしろ、それを興味深く見た。
安藤和津さんが出演していて、一昨年まで鬱だったようなことを言っていた。
末期ガン宣告された、元タカラジェンヌが、深い絶望から這い上がるプロセスも紹介されていた。
人がどう思うとか、人にどう思われる、とかではなく、自分がどう思う、自分がどうしたいかを軸に、ものごとを考えるキッカケになったようで、過去の呪縛から解放され、病気になる前より、今が楽しく充実しているとか。
わたしにも思いあたるフシがある。
人がどう思う、ではなく、自分がどう思うか、、、。
かつて、母が、「世間なんか人のことを言うばかりで、何もしてくれない」と怒っていたことを思い出す。
わたしが人間関係のことで少し悩んでいた時に、姉に言われたこともフラッシュバックする。
「あんたの悩んでいる人たちは、人がどう思うか、それが基準になっていて、自分が無い。すべて、人に映る自分。
○○したいが、▲▲さんに非難されるからできない、というのも。
▲▲のせいで、わたしは、○○できない。
非難や反対意見を恐れては何もできない。
自分が考えているのではなく、他人が考えていることに自分が振り回されている。
自分は悪者になりたくないから我慢する。
自己犠牲と引き換えに、非難されない自分を手に入れる。
かわいそうな自分、と、皆んな言ってくれる。
「○○できないのではなく、しようと思えばできるのに○○したくないだけだ」と姉が言った。
できない理由を他者のせいにする。
受動的、被害者意識が強い、自分を悪く言われるのが怖い、ただの臆病者だと。
こころを落ち着かせて、静かに自分の気持ちに耳を傾ける。
何、言ってる?
自分はどうしたいの?
他人のノイズはさておき、自分は?
この発想法にシフトすると、余計なものは削除され、とても気持ちが軽くなった。
自己責任で自己選択する。
したいことをすると逆風とセットになるが、同時にリスクも引き受けて、突き進む。
リスクなしで、自分がしたいことは出来ない。
リスクを少しでも軽減したり、自分のやりたいことをどうしてもしたいのに邪魔が入った場合は、策略を練る。
子供みたいに、「あれ買って〜」とダダをこねたり、どうしても欲しいからと、人のものを取ったり、手段を選ばないのは、やはり非難されて当然だ。
よほど周りや世間の皆さんが同情、共鳴、応援してくれるような気の毒な状況なら別だろうが、出る杭のような、他人がしたくても出来ないことを、自我を出して一歩進むことは、良く思わない人も必ずいる。
非難されてもいい勇気とセットで、やりたいことをする。
(ただし、知恵付きで)
評価の目を気にすると、評価されることを目的にして主客転倒した行動をするのであって、それは本当に自分がしたいことなのか。
自分の胸に聞いてみるといい。
純粋に自分は評価されたいことをしたい、それがどんな辛いハードなことであっても、自分がしたいことだ、というなら、それでも大いに結構だ。
したいことをしたら、結果的に評価された、なんていうのは理想だが、なかなかそんなうまい話はない。
番組では、福島の原発事故で家も土地も失った一家が、前を向いて暮らしを再建させた様子も映し出していた。
「後ろを振り向くな、前だけを見ろ」と、旦那さんが言っていた。
彼がかつて、よく親に言い聞かされていた、「全力で前だけを見て走る、後ろを振り向いてはいけない」という教え。
宗教ストーリーでは、教えに背いて振り返った妻は塩の像にされるのだが、そういう宗教的寓話が信念の中心にあったかも知れない。
宗教でなくても、こころの柱があると、ぐらつかない。
わたしで言えば、「自己チュー教」か、はたまた「自分教」か。
教祖、兼、信者、一人のみ。
一人だから、コロコロ意見を変えても、誰にも文句を言われない。
文句を自分に言われたら、自己嫌悪が伴うにしても。
末期ガンが治癒され、快復するわけではないが、精神的に回復すれば、それが一番の救いか。
末期ガンは、他人が見た、同情すべき状況だが、本人のこころは、解放されている。
ただ、他人にはわからないだろうが、本人が良ければそれでいい。
他人にわかってもらおうとするから、お互いしんどい。
自分がわかっていたら良いのでは?
(さらに欲を言えば、ごく近い身内だけがわかってくれたら幸せ。
身内がいない人もいるし、いても断絶している人もいる)
物分かりのよい自分にするには、日頃から自分ととことん話し合っているほうが、いざという時に手間がかからない。
わたしの場合、自分との長々しい対話は、もしかの場合に備える危機管理かと言えば、そんなのでもなんでもない、たんなる、趣味なんだけど。
ブログに救われてます。
ダントツに熱心に見る「ファミリーヒストリー」の次に、ちょっと好きな番組だ。
鶴瓶の旅番組は、見ない。なぜか、ノイズになる。
人が紹介する旅はあまり好きではないし、鶴瓶の旅番組は、人情味や家族愛、ほのぼの温かさが売りなのだろうが、かえって、わたしにとっては息詰まり、暑苦しい。
さて、昨日の「人生レシピ」。
いつなんどき陥るか分からない人生の苦境を、誰の中にも備わっている“レジリエンス”を引き出し、乗り越える方法を紹介する内容だった。
「レジリエンス」、、、聞きなれない言葉。
たぶん、覚えられない。
レジデンス、レジエンス、って言いそうだ。
まあ、なにしろ、それを興味深く見た。
安藤和津さんが出演していて、一昨年まで鬱だったようなことを言っていた。
末期ガン宣告された、元タカラジェンヌが、深い絶望から這い上がるプロセスも紹介されていた。
人がどう思うとか、人にどう思われる、とかではなく、自分がどう思う、自分がどうしたいかを軸に、ものごとを考えるキッカケになったようで、過去の呪縛から解放され、病気になる前より、今が楽しく充実しているとか。
わたしにも思いあたるフシがある。
人がどう思う、ではなく、自分がどう思うか、、、。
かつて、母が、「世間なんか人のことを言うばかりで、何もしてくれない」と怒っていたことを思い出す。
わたしが人間関係のことで少し悩んでいた時に、姉に言われたこともフラッシュバックする。
「あんたの悩んでいる人たちは、人がどう思うか、それが基準になっていて、自分が無い。すべて、人に映る自分。
○○したいが、▲▲さんに非難されるからできない、というのも。
▲▲のせいで、わたしは、○○できない。
非難や反対意見を恐れては何もできない。
自分が考えているのではなく、他人が考えていることに自分が振り回されている。
自分は悪者になりたくないから我慢する。
自己犠牲と引き換えに、非難されない自分を手に入れる。
かわいそうな自分、と、皆んな言ってくれる。
「○○できないのではなく、しようと思えばできるのに○○したくないだけだ」と姉が言った。
できない理由を他者のせいにする。
受動的、被害者意識が強い、自分を悪く言われるのが怖い、ただの臆病者だと。
こころを落ち着かせて、静かに自分の気持ちに耳を傾ける。
何、言ってる?
自分はどうしたいの?
他人のノイズはさておき、自分は?
この発想法にシフトすると、余計なものは削除され、とても気持ちが軽くなった。
自己責任で自己選択する。
したいことをすると逆風とセットになるが、同時にリスクも引き受けて、突き進む。
リスクなしで、自分がしたいことは出来ない。
リスクを少しでも軽減したり、自分のやりたいことをどうしてもしたいのに邪魔が入った場合は、策略を練る。
子供みたいに、「あれ買って〜」とダダをこねたり、どうしても欲しいからと、人のものを取ったり、手段を選ばないのは、やはり非難されて当然だ。
よほど周りや世間の皆さんが同情、共鳴、応援してくれるような気の毒な状況なら別だろうが、出る杭のような、他人がしたくても出来ないことを、自我を出して一歩進むことは、良く思わない人も必ずいる。
非難されてもいい勇気とセットで、やりたいことをする。
(ただし、知恵付きで)
評価の目を気にすると、評価されることを目的にして主客転倒した行動をするのであって、それは本当に自分がしたいことなのか。
自分の胸に聞いてみるといい。
純粋に自分は評価されたいことをしたい、それがどんな辛いハードなことであっても、自分がしたいことだ、というなら、それでも大いに結構だ。
したいことをしたら、結果的に評価された、なんていうのは理想だが、なかなかそんなうまい話はない。
番組では、福島の原発事故で家も土地も失った一家が、前を向いて暮らしを再建させた様子も映し出していた。
「後ろを振り向くな、前だけを見ろ」と、旦那さんが言っていた。
彼がかつて、よく親に言い聞かされていた、「全力で前だけを見て走る、後ろを振り向いてはいけない」という教え。
宗教ストーリーでは、教えに背いて振り返った妻は塩の像にされるのだが、そういう宗教的寓話が信念の中心にあったかも知れない。
宗教でなくても、こころの柱があると、ぐらつかない。
わたしで言えば、「自己チュー教」か、はたまた「自分教」か。
教祖、兼、信者、一人のみ。
一人だから、コロコロ意見を変えても、誰にも文句を言われない。
文句を自分に言われたら、自己嫌悪が伴うにしても。
末期ガンが治癒され、快復するわけではないが、精神的に回復すれば、それが一番の救いか。
末期ガンは、他人が見た、同情すべき状況だが、本人のこころは、解放されている。
ただ、他人にはわからないだろうが、本人が良ければそれでいい。
他人にわかってもらおうとするから、お互いしんどい。
自分がわかっていたら良いのでは?
(さらに欲を言えば、ごく近い身内だけがわかってくれたら幸せ。
身内がいない人もいるし、いても断絶している人もいる)
物分かりのよい自分にするには、日頃から自分ととことん話し合っているほうが、いざという時に手間がかからない。
わたしの場合、自分との長々しい対話は、もしかの場合に備える危機管理かと言えば、そんなのでもなんでもない、たんなる、趣味なんだけど。
ブログに救われてます。