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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

受け狙い

2018-02-07 | ブログ
今、あるSNSの自分の日記に少し熱をあげている。
交流があるからだ。
蝶ブログとは、書く内容を分けている。
趣味に関することで、幅広い人と共通点のある内容を、あちらに書いている。
蝶ブログは、あちらには書けない、超個人的な内面。
あちらでは、良い人ぶりっこをしないといけないので、表現にも気をつけている。

こちらは、自宅。
外出着を脱いでホームウエアに着替え、ほっとする。誰もいない。
あちらは、誰かが常駐しているが、日記の内容によっては閲覧数が少ないこともある。(最近はなぜか増えてきたが)
閲覧数は否応なく公表されていて、非公開には出来ない、恐ろしいシステム。
空振り日記の時は、その滑りっぷりを自分で受け止めなければいけない。

その点、蝶ブログは気楽。
誰も何も(ほとんど)言わないし、静かに閲覧数などの解析データがあるだけ。非公開だし。
すごく少ない閲覧数でも平気。へっちゃら。
自分との対話にもってこいだ。

あちらで、その閲覧数で滑った結果を受け止めきれない、または、反論に耐えられない、ある人、Aさんが、わたしの日記のコメント欄に、色々思いを綴ってくる。
わたしは、来る者拒まず、去る者追わずスタンスなので、オッケー。
なんでも書いてちょうだい。それで気がすむのなら。

そこで、気がついた。
わたしは、いろんな人の考えは、それぞれの人数だけあるので、それぞれを認める。が、これって決して迎合はしていない。
「あ、そうなの。そういう風に考えてるのね、あなたは」という、寄り添うように見えるが、実は寄り添っていなくて、個人の考えを自身で確認するお手伝いをしているだけ。
Aさんが、共通のネット知人を貶したり愚痴ったり口撃したりする。
話は聞くが、同意はしない。
懺悔を聞く聖職者。
これは、一見、懐が広い、博愛主義的だが、超自己チューなのではないだろうか。
究極のところは、自分しか認めていないから、他の人を認められる。
競争しないのだ。
深いところを探れば、誰に対しても別に同意はしていない。
よかったね、それで自分がよければ。
という気持ちなのだが、最後の、「それで自分がよければ」の部分が、言外、行間に込められている。
それを読み取る人はいなくて、自分の言い分が認められたかのように思う。
わたしは、他者を否定はしないが、同意もしない。
人それぞれだからだ。

しかし、なんで人に同意を求めるのだろう。
自分が良ければそれでいいではないか。
自分が良くなくても、他者が思う通りにするのか?
社会で生きている限りはある程度、他人の思惑も推しはからなければいけないが、他者と自分との折り合い、バランスが非常に難しいと感じる。

ちなみに、あちらのSNS日記には、かなり受けを狙った、打算的意図が臭う。
やだねー。

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