濡れ枯葉
2013-11-27 | 人生
英語教育について。
あんまりたいしたことは、わたしは書けない。
が、とあるブログを読んで、なるほど、と納得した。
べつに、目からウロコガ落ちたわけではなく、いつも自分が感じていることと同じだった。
英語は、目的ではなくて手段であるということ。
どう話すかは、まあ教育、教養のほどが示されるが、何を話すかが大事。
・・・
何十年か前、英会話のグループレッスンを受けていた。
そこで、最初の挨拶の後、[What's new?]と先生が生徒一人一人に聞く。
当時の生徒は、ヒマヒマなご婦人ばかり。
お上品な奥様が口をそろえて、ゴルフに行ったコトやら、遊びに行ったコトやらを話す。
いつも同じ。
まあ、つまらんこと、つまらんこと。
せっかく英語を習っているんだから、ちょっとは表現を変えるとか、内容を変えるとか、
なんなりと変化をつければいいものを。
あれじゃあ、自慢大会。
NEWって、ぜんぜん、NEWでもなんでもない。
今日のNEWS、トレンドとか、そういうのがNEWだと思うが。
奥様方。
小柄で白いAさん。細いBさん。太くて赤い顔のCさん。縮れっ毛で色黒顔のDさん。
わたしは、こころのなかでは、もっと呼びやすい、二文字か、三文字で呼んでいたが、
的確に特徴を捉えたその呼び方は、ここで文字にすると、差別用語になってしまってはいけないので、書かない。
彼女たちは、同じ学校ご出身。
地元では、裕福な商人系のご子弟たちが通う一貫制私学。
わたしは、あのメンバー、顔ぶれで、その学校に対する偏見がしっかり固まった。
脳内で自動的にデータ検索が始まり、偏差値が、ちゃかちゃかちゃかと、はじき出された。
英語だから、表現しにくいので、手っ取り早い、自分が話せる内容にしているとしても、
レッスン後の日本語でのおしゃべりも、似たり寄ったり。
他に考えることは、ないのか?
一見、表面は乾いているようだが、
ぷすぷすと、幾十にも積み重なった、濡れた枯葉に足を突っ込んで歩いているような気になった。
一人だけ、まともな生徒、Eさんがいた。
わたしは、当時、子育てが一段落して、進む道を模索中だった。
彼女に、「自分は、なにをしたいかわからない。夢中になれるものがない」と、こぼした。
「一旦やりたいことを一通りして見つからなくても、
何順も何周も、繰り返しやっていたら、そのうち、だめだと思って捨てていたものの中から見つかるわよ」
と、彼女からのアドバイスを受けた。
他のカルチャーセンターに行ってみた。
眠ったようなお年寄りばかりに見えた。(実際、彼らは講義中、眠っていた)
カルチャーセンターにいた熟年の皆さんは、
それまで一生懸命働いてきて、退職後やっと手に入れた余裕の時間を、好きなことに使っておられた。
自分は、老後の中にいる、と感じた。
それには、早過ぎる。年齢が、若すぎる。
当時、無職の主婦も、そう珍しくなかった。
老後までの、たっぷりある時間を、自分なりに充実させようと、試行錯誤した。
自分のしたいこと(理想、要望)と、できること(現実、要請)の、すり合わせ、調整。
わたしの道は、途中、止まったが、きゅい~んとカーブし、自分の行く道に向かって歩き始めた。
・・・
で、話も、きゅい~んとカーブし、
微分積分、漢文、古典、・・・勉強なんか、実生活に何の役にも立たない。
(方程式は、役に立っていると思うが)
日本を出ないかぎり、英語もそう。できなくても困らない。
ただし、仕事としての英語に関しては、
英語だけ出来ても、英語のプロや、通訳や翻訳家になるのならいざ知らず、
中身(英語以外の専門)がないと厳しい。
社会に出ると、知識だけでなく、知恵が必要になる。
学問だけでは、どうしようもない。
教授などの専門職が、派閥争いに巻き込まれたりすると、専門分野を生かすこととは程遠い流れ、結果となる。
知恵は、単純なところから生まれることがある。
思いを伝えたくて、複雑でも高度でもなんでもない、単純な繰り返しを積み重ねて、成功する場合もある。
・・・
なんの役にも立たないこともある、学校の勉強であるが、勉強の仕方、脳の使い方を経験する。
それは、経験した人と、していない人とでは、ぜんぜん違う。
脳のトレーニングの一種だ。
若いときに集中的に、「やった」と「やらない」とでは、これまた脳の差が大きい。
究極の自分流の方法を考え出す人もいるだろう。
わたしの場合、勉強は、苦手中の苦手で、大嫌いだった。
その不得意中の不得意の分野で、競争させられ、ちょっとやそっとでは克服できない劣等感を植え付けられた。
(単純にいうと、アタマが悪い、ってことなんだけど)
でも、そうやって苦労して挫折して報われなかった思いが、たっぷり蓄積されていて、
あんなに苦労したのに、その経験をこのまま無駄にしては、ばからしい、と、
転んでもタダでは起きない精神が、むくむく湧いてきた。
で、負のエネルギーは、子育て時に強制的に養われたエネルギーと合わさって、増強され、
いつの間にか、正のエネルギーとなって蓄積された。
なので、なんにも考えない、ちゃらちゃらしている生活はしたくない、と、自分のコースを選んだ。
しかし、それは、うんと若い頃。
今では、なんにも考えないのは似たようなものだが、
「ちゃらちゃら」の代わりに、「ゆったり」「のんびり」だ。
・・・
勉強すること、苦手なものに挑戦すること、これは人生経験として大事だと思う。
それを経て、ある程度、年をとると、苦手分野はもう無理と潔くあきらめ、
得意分野を伸ばす方面だけを見て、自分を甘やかす。
で、「のほほ~ん」になりすぎて、もうすぐボケてきそうなのが、非常に深刻に心配である。
あんまりたいしたことは、わたしは書けない。
が、とあるブログを読んで、なるほど、と納得した。
べつに、目からウロコガ落ちたわけではなく、いつも自分が感じていることと同じだった。
英語は、目的ではなくて手段であるということ。
どう話すかは、まあ教育、教養のほどが示されるが、何を話すかが大事。
・・・
何十年か前、英会話のグループレッスンを受けていた。
そこで、最初の挨拶の後、[What's new?]と先生が生徒一人一人に聞く。
当時の生徒は、ヒマヒマなご婦人ばかり。
お上品な奥様が口をそろえて、ゴルフに行ったコトやら、遊びに行ったコトやらを話す。
いつも同じ。
まあ、つまらんこと、つまらんこと。
せっかく英語を習っているんだから、ちょっとは表現を変えるとか、内容を変えるとか、
なんなりと変化をつければいいものを。
あれじゃあ、自慢大会。
NEWって、ぜんぜん、NEWでもなんでもない。
今日のNEWS、トレンドとか、そういうのがNEWだと思うが。
奥様方。
小柄で白いAさん。細いBさん。太くて赤い顔のCさん。縮れっ毛で色黒顔のDさん。
わたしは、こころのなかでは、もっと呼びやすい、二文字か、三文字で呼んでいたが、
的確に特徴を捉えたその呼び方は、ここで文字にすると、差別用語になってしまってはいけないので、書かない。
彼女たちは、同じ学校ご出身。
地元では、裕福な商人系のご子弟たちが通う一貫制私学。
わたしは、あのメンバー、顔ぶれで、その学校に対する偏見がしっかり固まった。
脳内で自動的にデータ検索が始まり、偏差値が、ちゃかちゃかちゃかと、はじき出された。
英語だから、表現しにくいので、手っ取り早い、自分が話せる内容にしているとしても、
レッスン後の日本語でのおしゃべりも、似たり寄ったり。
他に考えることは、ないのか?
一見、表面は乾いているようだが、
ぷすぷすと、幾十にも積み重なった、濡れた枯葉に足を突っ込んで歩いているような気になった。
一人だけ、まともな生徒、Eさんがいた。
わたしは、当時、子育てが一段落して、進む道を模索中だった。
彼女に、「自分は、なにをしたいかわからない。夢中になれるものがない」と、こぼした。
「一旦やりたいことを一通りして見つからなくても、
何順も何周も、繰り返しやっていたら、そのうち、だめだと思って捨てていたものの中から見つかるわよ」
と、彼女からのアドバイスを受けた。
他のカルチャーセンターに行ってみた。
眠ったようなお年寄りばかりに見えた。(実際、彼らは講義中、眠っていた)
カルチャーセンターにいた熟年の皆さんは、
それまで一生懸命働いてきて、退職後やっと手に入れた余裕の時間を、好きなことに使っておられた。
自分は、老後の中にいる、と感じた。
それには、早過ぎる。年齢が、若すぎる。
当時、無職の主婦も、そう珍しくなかった。
老後までの、たっぷりある時間を、自分なりに充実させようと、試行錯誤した。
自分のしたいこと(理想、要望)と、できること(現実、要請)の、すり合わせ、調整。
わたしの道は、途中、止まったが、きゅい~んとカーブし、自分の行く道に向かって歩き始めた。
・・・
で、話も、きゅい~んとカーブし、
微分積分、漢文、古典、・・・勉強なんか、実生活に何の役にも立たない。
(方程式は、役に立っていると思うが)
日本を出ないかぎり、英語もそう。できなくても困らない。
ただし、仕事としての英語に関しては、
英語だけ出来ても、英語のプロや、通訳や翻訳家になるのならいざ知らず、
中身(英語以外の専門)がないと厳しい。
社会に出ると、知識だけでなく、知恵が必要になる。
学問だけでは、どうしようもない。
教授などの専門職が、派閥争いに巻き込まれたりすると、専門分野を生かすこととは程遠い流れ、結果となる。
知恵は、単純なところから生まれることがある。
思いを伝えたくて、複雑でも高度でもなんでもない、単純な繰り返しを積み重ねて、成功する場合もある。
・・・
なんの役にも立たないこともある、学校の勉強であるが、勉強の仕方、脳の使い方を経験する。
それは、経験した人と、していない人とでは、ぜんぜん違う。
脳のトレーニングの一種だ。
若いときに集中的に、「やった」と「やらない」とでは、これまた脳の差が大きい。
究極の自分流の方法を考え出す人もいるだろう。
わたしの場合、勉強は、苦手中の苦手で、大嫌いだった。
その不得意中の不得意の分野で、競争させられ、ちょっとやそっとでは克服できない劣等感を植え付けられた。
(単純にいうと、アタマが悪い、ってことなんだけど)
でも、そうやって苦労して挫折して報われなかった思いが、たっぷり蓄積されていて、
あんなに苦労したのに、その経験をこのまま無駄にしては、ばからしい、と、
転んでもタダでは起きない精神が、むくむく湧いてきた。
で、負のエネルギーは、子育て時に強制的に養われたエネルギーと合わさって、増強され、
いつの間にか、正のエネルギーとなって蓄積された。
なので、なんにも考えない、ちゃらちゃらしている生活はしたくない、と、自分のコースを選んだ。
しかし、それは、うんと若い頃。
今では、なんにも考えないのは似たようなものだが、
「ちゃらちゃら」の代わりに、「ゆったり」「のんびり」だ。
・・・
勉強すること、苦手なものに挑戦すること、これは人生経験として大事だと思う。
それを経て、ある程度、年をとると、苦手分野はもう無理と潔くあきらめ、
得意分野を伸ばす方面だけを見て、自分を甘やかす。
で、「のほほ~ん」になりすぎて、もうすぐボケてきそうなのが、非常に深刻に心配である。