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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

享楽的生活

2009-07-11 | 読む人々には興味ない話
○○で美味しいものを食べた、▽▽で素敵なものを買った・・・
これは、決して自由なのではなく、お金やモノに縛られているだけだ・・

そうおっしゃる方も、いるそうだ。なるほど・・・

私の考えは、こうだ。

お金を尺度にしない見方。
お金があろうが、なかろうが、
美味しいものは命を延ばす反面、命を縮める。カロリー高いから。
モノは、買った分だけ、捨てるものが増える。今、流行のエコの逆。

客観的な現象として捉えてみた。
なので、決して、お金だけに縛られているわけではない。


また、欲求の充足を、「お金」という側面から見ると
お金がなくて、ガマンしているケースと
お金はあるけれど、別に、行動に移らないケースがある。

人に羨ましがられたくて、目に見えるカタチでお金を使うケースと、
自分の満足のために、人知れずお金を使うケースがある。
また、そのMIXバージョンで、外からは見えない使い方で、お金を人知れず使うが、
実は、心の中では、人の気を惹いたり、羨ましがられたり、人に勝ったりすることで、
満足を得るというケースもある。

お金を使うことによって、ストレス解消をする場合もある。
お金を何に使ったかではなく、お金そのものを使うことで満足しているケースだ。

お金をあまり使わずに、思いを遂げるのは、ハードなのかも知れない。
多くの場合、成功への近道は、やはりお金か。

お金とあわせて、頭、体、心を使うと効果倍増だが、
それら全てを使っても、できることと、できないことがある。


いずれにしても、
お金は、金額の多い少ないによらず
殺人事件や、ありとあらゆるトラブル、悩みの種にもなる。
お金に振り回される、ということは、お金があるなしにかかわらず、
人間の持っている業のひとつだ。
業が深すぎて、自滅しないように、各自、セルフコントロールする制御装置が、
人間に備え付けられているはずなのだが
時として、壊れている人もいる。


自分が主体か、お金が主体か。
お金を使っているのか、お金に使われているのか。
知らず知らず、お金に振り回されていることもある。
欲求の根本を見極めること。
自分の心の声をきくこと。


マリー・アントワネットは、キュートで大好きだが、
私の目標ではない。マネをしてみたいわけでもない。
享楽的生活は、本当に楽しいのか、
積み重ねた結果や、将来のこと、ただぼんやり考えるのではなく、
足をちゃんと地に着けて、しっかり考えてみるべきだ。

でも、マリー・アントワネットもそうだが、
環境や境遇によっては、いくつになっても、そういったことが出来ないケースもある。
学習の仕方そのものがわからないと、その効果も、見当もつかないだろう。
類は友を呼ぶので、同じような人ばかりが集まっている中では、
新しい考えや、見方、発想はできないだろう。
深く物事を考えてみると、また違う世界が広がると思うのだが・・・。


自分が、本当に求めているものは、何?
知っているのは、自分だけだ。

愛は、打算です。

2009-05-25 | 読む人々には興味ない話
ある夫婦の日常。

夫。
キムチ鍋で、汗だらだら。
汗をタオルで拭くでもなく、下着のシャツの裾をビローンとめくり上げ、
顔の高さまで引っ張って、顔の汗を拭く。
何度も何度も、そうやって汗を拭く。
裾はビロビロ。
そのシャツで、明日もそのまま仕事へ行くのだろう。

妻 「その汗の拭き方は、正しい拭き方なの?」
夫 「奥さんが、そっとタオルを傍らに差し出してくれて拭くのが、
正しい汗の拭き方や」
と、平然と、のたまう。
妻 「・・・」 (あほかっ! あきれ返って声も出ない)

静かに、食事は進む。

養ってもらってます。
離婚すると、路頭に迷います。
自活できません。
自立できません。
能力ありません。
気力ありません。
清貧生活、自信ありません。

なので、ちゃぶ台をひっくり返すほど(ダイニングテーブルだけど)、
ハラワタは煮えくり返っても、
ピクリとも表情を変えずに、黙々と、キムチ鍋に箸を運ぶ。

ごく普通の、平和な日常。
こうやって今宵も、妻は自爆する。

でも、ちゃんと生きている。



今度生まれたら、絶対、美人に!!!

2009-05-18 | 読む人々には興味ない話
私・・・
顔の美容整形してみたかったかも?
でも、しなかった。
失敗や副作用が怖いこともあるけれど、
少々いじったぐらいでは、美人になんかなれない程度の、親からもらった顔。
私のことを「ブス」と言う人も、「美人」と言う人も
「派手な顔立ち」と言う人も、「印象薄い顔」と言う人もいるけれど、
180度評価が分かれるということは、見る人サイドの見る目に、問題があるようだ。
要は10人並みの顔。
自分で見ても、写真で見ても、整っているとはとても言えない顔。
女優さんじゃあるまいし、そんなに顔にお金かけて気合入れて頑張らなくても、
人並の顔で、そう不満足ではなかった。
それに、若い時は、、、それだけで、ちやほやしてくれたから。
美人でなくても、若いだけで男性は寄って来るもの。
(お目当ては、女性としての若さ。実にわかりやすい)

美人に変身して、オトコを手玉に取り・・・遊んでみたかった・・・
と、誰もが一度は憧れるかも知れないけれど、
根っからの悪女でもないし、才女でもないから、限界がある。
一人ひとりお付き合いしていったら、時間はいくらあっても足らないし。
第一、人を傷つけることになっては、なんの楽しいこともないから。



しかし、時は過ぎ去り、今では、酔っ払いオジサンも避けて通る・・・立派なお年頃に。

自分の顔に責任を持て、と言うが、なるほど、そうかも知れない。
ある程度年齢を重ねて、若さを失ったとき、どういう顔になるか、だ。
顔だけでなく、体の老化も、どんどん進み、さらに、アタマがまた、悲惨。
これらの自分の変化に慣れるのに、
どれだけショックを感じながら、自分に言い聞かせながら、現実を受け止めたか・・・。

しかしながら、どうにかこうにか、次の人生を歩いている。
気持ちの切り替えで、また、いきいき、輝くものも見えてくるものだ。
若くない自分も、悪くないかも?

私は、人から見ると、シングルを謳歌しているように思われることもあるのだが、
お気楽な性格と行動からだろう。
理想としては、じわーっと滲み出る、内面の美しさを醸成できるようになること。
夢や目標を持って、努力すること。
とりあえず、目の前にぶら下がっている現実的な目標は、
あと一歩で泳げるようになるクロールの達成。(→小学生?)
夢を実現するための健康維持。(→お年寄り?)
それと、一日でも長く平和に生きること。(→神に召される直前?)

リアルな今日一番の恐怖は、流行の豚インフルエンザ。
神戸・大阪、まさに私のお膝元。
世界中から、不安の要素が少しでもなくなることを祈っている。

で、唐突に、まとめ、です。
自分の顔に責任を!!
責任を持てば、どんな顔も味が出てくる、
顔の美醜よりも、生き方が顔に表れるのだ、・・・きっと・・・たぶん・・・。

しかし、ほんとは、美人に生まれたかった・・・

いい年して、もっと他に考えることはないのか???)




もやもやの霧のなかで

2009-04-29 | 読む人々には興味ない話

自分への疑問解消が続きます【Ⅲ】
いつになれば、「ぜひお読みください」という内容になるのでしょうか・・・
いつものようにスキップモードで、どうぞ。


豊かさとは?
国の豊かさ。インフラ充実、教育、保健・福祉、あれこれ、国民の快適な暮らし
生活の向上による、こころの豊かさ。
→自治体が発行する冊子のような内容になってしまってます。

もっと具体的には?

個人によってまちまち、それぞれ。
価値観によるところも大きいが、経済的背景も大きい。
価値観は、そもそも経済的背景ぬきでは語れないのでは?
きれいごとでは、すまされない事柄がいっぱいあり、
あえて、政治家や金持ちはそれをほじくろうとしない。見て見ないフリ。

社会の色々な人々が幸せを感じる、こころを救済するには、宗教しかないのかも。
個人ブログで、こんな差し障りのないことを言っても、
なんの発信にもならないし、効果もない。
第一私は、形式はさておき、実質的にはほとんど無神論者だし。

私は、なぜか怒っている。ご機嫌ななめだ。
しかも、どうでもいい、自分には全く関わりのないことで。
そんな自分の感情の理由が知りたい。
また分析癖が始まった。

前置き、長すぎて、ごめんなさい。(いつも、こう)


私は、あるブログに接すると、いつも気分を害する。
甘すぎるケーキを食べたような、女性週刊誌を読みすぎたような、
自分でも分からない、気分の悪さを感じる。
なぜ?

幸せの尺度が、「似て非なるもの」だからだろうか。
いっそ全く違っていると、気にならないし、むしろ刺激、起爆剤になる。
それなら、見なければいいのに、なぜか見てしまう。
気になるのだろう。
なぜ、気になるのか? 堂々巡り。

ほぼ理由はわかっている。
だから、ご機嫌ななめになる。
認めたくないのだろう、その理由を。自分がミジメになるから。
自分の生き方、方法は一般的でないと感じるから。

自分は自分。
人と比べてどうこう思うなんて、この年になって、お笑いだ。
でも、いくつになっても、頭のなかみ、小さい人は小さい。
それが自分でもあるのだが。

気分の悪いものには近寄らなければいいのだ。
あやしい食品は、食べないのが賢明、と同じ。
悪人やキケン人物、キケン地帯には、近寄らないのと同様に。

もやもやは、はっきり解決しないまま、文字数ばかり、いたずらに増えるので
とりあえず中途半端に撤退、ということになりそうだ。
と言いながら、なんとなく、もやもやの原因が見えてきた。
冷静に、冷静に、冷静に考えてみよう・・・・どこが気に入らないの??

うわべ、見た目、表面は、素晴らしいのだが、カンに障るところが数箇所。
その根っこにあるものが、見え隠れするとき。
驕り。
自分では謙虚な表現をされているが、それは自分でも気付いていないだけ。
無意識下の驕り。
しかし、そういったものは、人間にはどんな人にもあるだろう。
表面に出てないだけ。あるいは、出る機会、きっかけがなかっただけだ。

そして、冷静に考えてみると・・・
私にも明らかに驕りがある。
驕りは自分の意識下にあり、公に曝け出すには、嫌悪感を抱かれる醜いもの。
なので、その驕りのある分野は
あえて不特定多数の人々が見るかも知れないブログでは話題にしない。
不適切だと感じるからだ。
驕りと自信、自慢と自負は、微妙に違う。


なあんだ、そういうことか。
なんとなく、胸につかえていたものが取れたような気がした。。。。















むかつくのは、なぜ?

2009-04-24 | 読む人々には興味ない話

今回は、自分の疑問解決、頭の整理のためだけに、綴りました。
読んでくださる側には一切立っていませんので、長いだけで全然面白くありません。
しかも生活に全く関係ないことです。
スキップされることをオススメします。




驚いたり、感動したり、不快感を感じたり、絶賛したり、・・・
人それぞれ、感性は違う。

特に、芸術に関しては、生活に密着していないので、触れることがあまりない。
全く芸術に関心のない人もいるし、
芸術愛好家であっても、感性、好みはそれぞれ違う。
芸術にもいろいろある。
ヘビメタが好きな人、クラシックが好きな人、音楽は嫌いな人、無関心な人
言い出すとキリがない。

絵画もそう。
動かない平面的な絵など、つまらないと感じる人、人生をかける人、無関心な人、
好き嫌いがある人、その他いろいろ。
芸術だけでなく、どんな分野も、同好の人と感想を語り合うのがいいようだ。

私は、芸術はド素人。
小学校、中学校の授業で、ザザッと習った程度の知識。
見識が浅く、鑑賞歴も短く、専門性は全くなし。
同好の人と語る、というレベルにも達していない。
なので、鑑賞したものを自分のブログに書き記して、コレクションしているだけのことだ。
その方法は、今の私には適しているし、まあ気に入っている。

へんに、ほんの少しだけ好きなものだから、自分と同じ低レベルの人が気になる。
例えば・・・


数年前(調べてみると9年前)、3~4時間も暑い中(季節は夏)、
西洋人有名画家の絵を見るために、大阪市立美術館に並んだというTさん。
「何という作家ですか?」
と聞いても「忘れた」と答える。(9年も前だから無理ないか?)
「感想は?」
「ポスターみたいな大きさで、あまりにも想像より小さいので、びっくりした。
遠くで、しかも、ぞろぞろ人の波の中、ゆっくり、近くで見ることはできなくて、
あまりよく見えなかったけれど、遠路わざわざ運ばれてきて、そこに実物がある、
という(物理的)存在感に感動した」
とのこと。

かの有名なフェルメールなのだが、(といっても、私もたいして深くは知らないが)
絵は、サイズの小ささにびっくりした以外には、絵自体がどうこうというのではなく、
絵の内容より、本物が目の前に置かれている、という事実に感動したという。

膨大な時間、体力を消費して得た感動は、人それぞれ。
絵を見に行ったのに、絵はたいして見えなかった。
それは本人のせいではないから、仕方ないとして、
作者の名前も忘れるような、そんな熱情って、なに?

まあ、それはいい。それはそれとして、
「私は、目も悪いし、ルーブル美術館でモナリザを見たときは、
(Tさんの見たフェルメールと同じように)あまり見えなかったから、
感動もなにも、絵、そのものがちゃんと見えなくて、鑑賞以前の問題でした。
Tさんは、そんなに時間をかけて見られたのなら、作者の名前ぐらい覚えておかれては。」
と言うと、Tさんは、突然、キレた。
「目が悪い、なんか、知ったことではない。作者の名前を覚えてなくて、どこが悪い。」

目が悪くて(遠くて小さくて、混んで押し流されたこともあるが)あまり見えなかった私と、
遠くて、押すな押すなで、あまり見えなかったTさんとでは、
見えないという点では、そう変わらない。
私はよく見えなかったので絵をしっかり鑑賞できなかった、と感想を言っているのに、
Tさんは、自分も絵そのものの鑑賞ができていないことには触れず、
人のハナシは聞かない。
会話にならない。

むかついた。

作者の名前を覚えていないことを指摘した私が、悪いのだろうか??
他人と、ここまで会話が続けば、まだマシなのかも知れないが。

グルメって?

2009-03-14 | 読む人々には興味ない話
良いもの、悪いもの、美味しいもの、不味いもの、
手間がかかっているもの、手抜きのもの、
素材で勝負しているもの、技術で勝負しているもの、
希少価値のあるもの、ないもの、高いもの、安いもの、
どれも食べたことがあるし、食べることができる。

美味しいものは美味しいと感じるし、不味いより、美味しいほうがいいに決まっている。
栄養のバランス、味、食感、組み合わせ、旬の材料、素材、見た目、量、鮮度、
調理法、ctc…
そういった要素の総合的判定基準は、自分なりに持っているものの
例え総合点数が低くても、別に絶対的な大きなこだわりは持っていない。

ということで、私は多少の個人的好き嫌いはあるが、許容できる範囲が広い。
それをきっと「グルメではない」と言うのだろう。
まして、自分で作るものなら、基準点数はうんと甘い。
(自分で作れないのに、家庭料理にあれこれ文句を言う人は、嫌いだ)

グルメを追求するにも、家庭では共働きで時間がない人に、手の込んだ料理は無理だし、
子供が小さいのに、手間暇のかかるメニューは大変だし、
何世代分もの料理を担当している大家族の人には、複雑なものは負担が大きいだろうし、
予算があって、一番削りやすいのが食費だとすると、予算上妥協はやむを得ないし。
予算、時間、材料、仕入れ、嗜好、力量など、制約を受ける要素がたくさんある。

最も尊敬するのは、家庭料理に精進している人。
手抜きをせずに、工夫して、愛情かけて家族のために、作るお料理は本当に素晴らしい。
それが、私には欠落している。
子供に対する「食育」も、ちゃんとできていない。
優先順位は、①栄養 ②バランス ③早く出来るもの 
で、味は重要度合いランクが低い。(料理がヘタなだけだが)
家庭内で「美味」を味合わせてあげていない点が、反省ポイントだ。

グルメ追求を趣味としているご夫妻もいる。
予算と相談しながら、仲良く、食べ歩き。
それはそれで、いい趣味だと思う。

つまり私は、生きていく上で、最低必要条件である意味での「食糧」は最重要視するが、
享楽、趣味という側面では、柔軟性があるということだ。
この柔軟性こそが、妥協を許してしまう、味の追求者にはなれない
「グルメではない」ということなのだろう。
あれこれ、考えていると、うーーん、、、
「グルメではない」のと、「味オンチ」とは、別のものかも・・・と思えてきた。

今のところ、私はアルコール類においては、味オンチなのかも知れない。
でも、ビールは、アサヒスーパードライ、焼酎は、断然、麦、
食パンは、フォションやドンクが好きだし・・・などなど、
それなりに好きな傾向が定まっているものもある。
とは言っても、芋焼酎も飲めるし、150円のスーパーの食パンも食べるし、
状況に応じて、何でも食べる。

美味しいものがあれば、喜んで食べるし、なければ、なくてもまあいい。
美味しいとラッキー、美味しくないと、美味しくないなぁと感じながら食べる。
ただ、それだけ。
別にそれほど、こだわらない。
年がら年中、美味しいものに囲まれていなくても
たまに、美味しいものを食べると、日常と、非日常のメリハリが楽しめる、
というW効果がある。

ということで、ワインに対しては味オンチ(目下、修業中)
その他のジャンルにおいては、単に許容範囲が広い「グルメではない」人なのだろう。
味への沸点が低いのかもしれない。





ポックリ希望

2009-03-11 | 読む人々には興味ない話
義理の親御さんと同居している人のブログを読んだ。
ものすごく苦労されている。
大変だと思う。

私は、子供が就学前に1年間だけ、同居の経験がある。
同居のエッセンス、ミニ体験コースのようなものだった。

ご苦労されている方々のブログに対して、
苦労していない私は、なんのコメントも発することができない。
「苦労は買ってでもしろ」と言うが、どうなのだろう。
その苦労やエネルギーを別の分野に、いい方向に活かすことができたら、
ものすごいパワーになるだろうに。

大事な夫の親なのだから、大切にしないといけない。
何かと大切に育ててくれた親だから、ご恩返しをしなくてはいけない。
これは理屈でクリアー。
しかし私は、同居は望まない。
少なくとも、自立した生活ができなくなる、その日までは。
その日が永遠に来ないことも、望んでいたりする。
世の中には、同居したくなくても、
各々の理由で同居せざるを得ないケースも多いだろうけれど。

親世帯も子世帯も経済的自立、生活の自立が理想だが、
なかなか絵に描いたようにはいかない。
私たちは、どうにかこうにか、円満に別居している。
病気になれば、当然、医療機関にお世話になる。
介護が必要になった時は、いよいよ同居になるのだろうか?

伯母が今年、90歳過ぎてぽっくり、家族と同居する自宅で亡くなった。
伯母は翌日にお出かけ予定があり、着ていく服も用意していそうだが、
本人も死ぬなんて思いもよらなかったようだ。

死ぬ直前まで、自立した生き方ができれば、本人も周りも最高だ。
老化に伴う現象をを全く理解しないで、まるで汚いものにでも接するかのように、
厄介者のお世話をするのがいかにも嫌!というようなお嫁さんや娘、息子に、
自分が高齢になった時、世話をしてもらいたくない。
まだお嫁さんはいないから、お嫁さんの具体的イメージはわかないが、
子供たちにお世話してもらっている自分を想像すると、涙が出てくる。
涙が出るほど、ありがたいけれど、涙が出るほど、情けない。
させたくない、してもらいたくない。
彼らの生活のペースを乱してほしくない。
お荷物には、なりたくない。

私は、近い将来、親をお世話する立場でもあるし、
遠い将来、自分が高齢になれば、お世話される立場でもある。

自分ならこうしてほしい、という理想のパターンに、
親の世話に対しても、できるだけ近づければいいが、そう、うまくいくだろうか。

自分のしたことが、自分にも跳ね返ってくると思う。
嫁いびりをした姑は、嫁に逆襲されるだろうし、
姑を虐待した嫁は、自分も嫁に痛い目に遭わされる。
しかし、姑に尽くしたのに、嫁には邪険に扱われる不幸な人もいるだろう。
姑をいじめ、さらに嫁をいじめる強い人もいるだろう。
子供を一生懸命、愛情かけて育てたのに、子供に冷たくされる親、
手抜きで育てた期待しない子供なのに、その子に思いがけない手助けを受ける親、
その他いろいろ、方程式通りにはいかないこともあるだろう。
相性もある。

ひとつ言えることは、相手に見返りを期待したり、
周りの圧力に負けて不本意な思いで行動するのではなく、
自分自身の自主的な意志で、能動的に行動すること。
かつて自分が受けてきた親からの愛情を、
子供やその周囲の人たちにお返しすること。
恩や愛情の、順送りバトンタッチ。それは自然な流れだ。
(親に虐待されて育った子供は、負のバトンタッチ、児童虐待をする。)

頭ではそう考えていても、老化して、すっかり変わってしまった
別人のようになってしまった親に、愛情を持って接することができるだろうか。

自分は、介護ゼロで、ぽっくりいきたい。
誰もがそう望んでいるだろうが、でも、そんなに甘くない。
人の世話にならずに死ぬなんてことは、できないだろう。
せめて周りの負担を少しでも少なく、人生を終えたい。
しかし親には、そんなことを望んでは、罰が当たりそうだ。

悲惨な現実が襲ってきたら、全く違うことを言っているかも知れない。
頑張っている人には、頭が下がる。

不景気風、吹いてます

2009-02-25 | 読む人々には興味ない話
テレビ、新聞、その他から伝わる、うんざりするほど、お寒い政治、経済の実情。
毎日、まるで恐いもの見たさに突き動かされるように、ニュースを見る。

このご時世、景気のいい業種は何だろう?
天下のトヨタ、ニッサン、ソニーといった、車、電機業界、すごい赤字転落。
輸出で利益を上げる業種は、円高が命取り。
(まあ、体力勝負だろうけれど。)
世界中で、消費マインドはマイナス100度。冷える、冷える、凍てついている。

マネ、マネ、マネ~、と、ABBAの曲を歌いたくなる。
今まで何も感じてこなかったことが、むしろ奇跡に近い。

しかし、不景気なんてどこ吹く風、とまるで感じていない人もいる。
羨ましい限りだ。
というか
テレビは家にないのか? 新聞は取ってないのか?

実のところ、ごくごく身近にいて、こちらの気苦労を全く感じていない。
ますます状勢が悪化すれば、どうなるのだろうと思いつめるほど、
こちらは悲鳴をあげているというのに。

将来、伴侶はたっぷりお金を遺してくれるだろうか。
伴侶はイマイチでも、将来、息子はたっぷり母親にお金をくれるだろうか。
・・・経済力がなくて人に頼ると、ろくなことがない。

不景気だ。本当に。
心も財布も、からっぽ。不景気の風は、冷たい~~~~。

しかし、それは私だけではない。
世の中、今、厳しい。
さあ、頑張って、やっていくしかない。





義理チョコ、オンパレ

2009-02-16 | 読む人々には興味ない話
例年のごとく、バレンタイン・デーには、義理チョコが、集まった。

最近は、チョコ戦線も、以前ほど仰々しくなく、こじんまり感がある。
前は、家人が職場のあちこちの部署に顔を出していたことと、
女性スタッフが結構多かったこと、
そしてチョコを競い合うかのごとく派手派手ブームだったこともあり、
食べるにも、ちょっとうんざりするほど沢山の量をいただいたこともあったが。
まあ、これぐらいなら、家族でいただけそうだ。

これって、日ごろ、お世話になっている人に、お礼の意味を込めて贈る
ビジネス版 季節の谷間ギフトみたいなもの?
中には、チョコに限定しない御品選びもあるようだ。
お中元、お歳暮よりは、予算的には重くない。

さて、妻から夫への本命チョコは???
ひとつだけ、写真に混じっている
一番安い、お粗末なチョコ。

愛情不足かしらん。。。

パサパサした関係

2008-12-10 | 読む人々には興味ない話
なんの関わりのない人でも、興味を持ったり、関心があったり、
気になったりする人がいる。

その逆に、お知り合いなのに、全く価値観も感性も、なにひとつ合わない人がいる。
(生き方や、生活態度がまるで違って相容れない、大嫌な人は、論外として)
フィーリングが合わないだけ?

そんなことは、ないと思う。

フィーリングは合わなくても、
ゲンキだったり、前向きだったり、一生懸命に生きていたりしているのを知って、
影響を受けたり、尊敬できたり、共鳴できたり、パワーをもらったり、
生きている人間同士だもの、そういうこともあるはず。

でも、そんな事が全くない、というのは、なぜだろう。
お互いになんの共通点もない。
それはそれで、ケンカするわけでもないし、無関心のスタンスで、
じっと、距離を保って生活していればいいのだろうけれど。

しかし同じ人間なのに、しかも知り合いなのに、
なぜ、こんなにも興味や関心や感性が違うのか?
それは、お互いに近寄ろうとしないから。
お互いをさらに知り合おうとしないから。
コミュニケートしようとしないから。

人は、感情や、本能的なものに突き動かされない限り
意識しないと、引き寄せたり、接近したりするパワーを発生しない。
近隣住民だったり、同じ職場だったり、出入りする場所が一緒だったり、
地縁、血縁が重なる場合、
かんじいい人だと、お互いに気に入ってもらおうとする努力をする。
その方法は、会釈や挨拶からのスタートでいい。
そうすることで、無関心だったものを、
コミュニケーション・エネルギーに転換することができるのだと思う。

(明らかに変人、嫌われ者に対しては、
わざわざ好かれる努力をする必要はないだろうけれど)

自発的なコミュニケーションの努力をしないと、
縁がある知り合いとでも、まったく、接点のない、
パサパサした関係になる。
知り合った後も、やはり、接点がないことがわかることもある。
お互いに全く、興味の無い、まるで理解できない人同士になる。
理屈ではなく、感情として相手を好きになれないからかも知れない。
悲しいかな、そんな人は、ごろごろいる。

そうでない関係の人々、
どちらかが、あるいは、双方が、
コミュニケートしたいと意識して接する人々は、
宝石箱に入れて、大事にしたい。