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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

男の美学に反する、オトコ

2008-11-26 | 読む人々には興味ない話
ここで言う「男性」とは、家族ではない人。
つまり、一般の、そこらへんの男性。

一方的になりゆきでお見かけした、海外派遣中の企業人男性。
長期海外滞在されているということで、ちょっと素敵だなぁ~、なんて思った。
しかも、私を含め、女性たちが憧れるヨーロッパに単身赴任。
当然、日本にいるご家族とは、別居。
奥様を愛しておられるとか。
いかに離れていても、強く愛しているか・・・とのことだ。
それは、とても結構なこと。感心、感心。

しかしながら、その割には、奥様がおられるとは思えないようなコメントをされる。
その人のアタマとカラダは別もののようだ。
「妻を愛する自分」という理想を、
ご自分で、呪文みたいに唱えておられるだけのように、私には映った。
あるいは、いい思いをした後、面倒な展開を避けるために、
初めから、既婚者であることを強調しているのか?
遠く海外への単身赴任の期間に、家族とは離れ、日本人が憧れる地で、
この絶好のチャンスを生かさないでどうする!とばかりに、
(婚外女性と)遊ばないと損!みたいなニオイを感じてしまう。

そういうのって、実に、あか抜けない。
いっそ、いいカッコしないで、ズバっと本音を出すほうが、ずっとマシ。
ずっとずっと、そのほうが男らしい。
(まあ、それはそれで、女性たちは、ドン引きなのだが)

海外に憧れる女性たち、一人旅を計画する女性たちに対して、
下心ありありの心が透けて見える。
私は、そういう男性は、本当に、サエナイ、モテナイ、ダサい、と嫌悪する。
ま、私には直接も間接も、全く関係ない人なのだが、
私のカンに障っただけのことである。
学業や仕事に追われ、遊びなれていない、不器用な善人なのかも知れないが・・・。
そういう人が、へんに遊ぼうということ自体が、そもそもの間違いだと思う。

私のイメージする「男性の美学」に全く反する、
最もカッコワルイ典型的パターンだ。

自立について

2008-11-23 | 読む人々には興味ない話
自立には、経済的自立と精神的自立がある。
自立に必要なものは、健全な心と、お金。
そのなかで、まずは、「お金を得ること」の意味、目的、大切さを知ること。
得たお金は、何に使われているのか、整理してみた。

【基本編】
お金を払って行うこと(得ること)・・・自分では出来ないことをやってもらう。
衣食住費、光熱費、税金、通信費、運賃、医療費、教育費、生活支援関連など

お金を得るための行為・・・おもに仕事
専門分野、一般分野
自営、正社員、派遣、パート、アルバイト、お手伝い
相続、贈与、不労所得

得る金額も、払う金額も、人それぞれ、差がある。
一般的には、収入額が多いと、支出額も多い(生活水準が高い)
収入額が低いと、支出額も低い(生活水準が低い)
能力による差、階層による差も含め、
今は、格差社会が社会問題にもなっている。


【余裕編】
お金を払って行うこと・・・娯楽費、サービス料
自分は、お客様。ちやほやしてくれる。ガマンしなくていい。
成果や結果は、求められない。

お金を得るための行為・・・仕事
お金を払う人が、お客様。ご機嫌を取らないといけない。
お金のために、嫌なことでも辛抱する。
試練、鍛錬の場にもなる。

例えば、お金を払って趣味のことをすると楽しいが、
趣味の分野でお金を得ようとすると、その道のオーソリティでなければいけない。
イバラの道。
お金を得ようとすると、大変なのだ。

娯楽にも、高くつくものと、そうでもないもの、いろいろある。
比較的高くつくもの
高額旅行、高価なショッピング、高くつくお稽古、高くつくイベント、
際限ないギャンブル、サロン的お付き合い、高くつく趣味、高いお店での飲食
比較的安くつくもの
低額旅行、廉価なショッピング、スポーツ、アウトドア、釣り、読書、映画、展覧会、
安めのテイクアウト、市民サークル、安くできる趣味、自宅または安いお店での飲食

欄外として
嫌なこと、したくないとこと、できないことは、お金を払って、自分に代わって人にしてもらう。
→家事代行、介護、保育

セレブ→お金持ち、成功者
いろいろな欲求を、お金を払って満たす。
満たされる欲求のレベルは高く、支払う対価に比例する。
庶民はガマンしていることも、涼しい顔で実行できる。
妬まれる。(麻生さん発言も、このあたり、ヤリダマに。。。)

セレブを夫や親に持つ妻・子供は、自動的に妻・子供もセレブ。
一般の女性が一生懸命労働して稼ぐお金よりも、うんと多いお金を、ダンナさんからいただく。
セレブ的優雅な暮らしを否定するのではなく、憧れる人もいるだろうが、
そういう人は、そこそこ今の生活に満足している人。
さらにステップアップを夢見て、憧れる。または、ライフスタイルを参考にする。
あるいは、心を豊かにする工夫を心がけ、モノと心の均衡を保ち、バランスをとる。

ダンナさんが、お金持ちではないと、生活は厳しい。
男性も同じこと。
自分が働いて得たお金も生活費に。きちきち、カツカツの暮らし。
必死で頑張っていても、先が見えない、不安がぬぐえない、余裕もない。
そんなときに、無神経に優雅な暮らしぶりを見せ付けられると、
きっと反感を買う人もいるだろう。

不公平。
社会の閉塞感。行き詰まった政治、経済。深刻な不景気による、雇用状況の悪化。
厚労省の元お役人と家族が殺傷された事件も、そういう背景があると言われている。

勝ち組、負け組みも、オセロゲームのように、翌日には逆転。
ただし、逆転して勝利を得ても、未来永劫に持続する保障はない。
本当に不安な世の中である。

自立した生き方とは・・・と、私なりに考えてみた。
そういう不安要素を抱える社会の中で、自分の立ち位置を熟知すること。
そこから始まると思う。
社会の荒波の中で、どう泳ぐか、そのコツを掴むには、失敗も必要だ。
がむしゃらに頑張る人、余裕で頑張る人、頑張らないけれど、現状に満足している人、
頑張ってるけれど、頑張れない人、頑張らなくて、不満爆発の人・・・。
自分は、どういう種類の人なのか?
どうして、その立ち位置なのか?

「自分のまわりは皆、自分と同じようなことを言ってるし、してる」
と、小さな範囲、楽な基準だけで自分を正当化する。
類は友を呼んでいることに気付いていない。
そのあたりの出発地点が、かなり重要なターニングポイントだ。
まわりに流されるのが、普通だ。
誰だって楽なほうがいいに決まっている。

自分はどういう立ち位置にいたいか。
諦める前に、まず目標を立てること。小さなカンタンな目標でもいい。
流されて生きるのと、意識して生きるのとでは、全然、違うと思う。


今、幸運にも、なんの不安なく、ゆるぎない立場で、自立して生きておられる方々には
全然関係ない話となりました。
でも、そこに行くまでの努力、維持する苦労は、あるはずです。

私は、いつも、不安定。ゼロを意識して生きています。



ヒマの定義

2008-11-05 | 読む人々には興味ない話
「ヒマ?」と聞かれることがある。
「退屈?」なのか、「時間、あいてる?」なのか。
答えようによっては、気が進まないことを押し付けられる場合もある。

ヒマの定義が、人や場合によって違う。
ヒマ→退屈、何もすることがない。
ヒマ→時間の都合がつく、特別に予定が入っていない自由時間。

ヒマという言葉の捉え方の違い。
私は、自由時間は、ヒマなどと思ったことはなく、大いに楽しんいでる。
ヒマ→自由時間。だから退屈することは決してなくて、自由時間は短い。
なにかと制約があり、拘束されている場合は、中途半端だ。
仕事の上での「ヒマ」は、また違うが。


ぼーっと何もしないのも、することがないからなのか、
それとも、あえて、何もしないのか、
受動的なのか、能動的なのか、それが大事。
したいことが、したくてもできないから、ぼーっとヒマしてるのか、
したいことも別になくて、ぼーっとしているのか、
ぼーーっとすることを、こよなく好んでいるのか。

ベトナムの人々が、道端で、ぼーーーっと、延々と道行く人を眺めていたり、
何をするのでもなく、たむろしているのを見て、
彼らは、いったいどういう心境なんだろう・・・と思った。
くつろいでいるのか、何もすることがないのか、退屈しているのか、
何も考えていないのか、・・・その心の中は?
国民性気質の違いもあるだろう。


受動的行為と、能動的行為。渋々しかたなくなのか、自発的か。
買いたくても、お金がないから買えないのか、それともお金があっても、買わないのか、
結婚したくても、できないのか、それとも結婚したくないから、しないのか、
学歴は自分にとって必要ないから、進学しないのか、就職希望だから、進学しないのか、
勉強が嫌いだから、進学しないのか、なんにも考えないで流されて、進学しないのか、
経済的事情で、進学できないのか、学力の問題で、進学できないのか、
選択肢があるか、ないか、意識しているか、してないか、そういうあたりが違う。

することがないから、ゴルフをするのではなく、ゴルフするために働いていると言う知人。
趣味や、自分の希望にそった自由時間の使い方をする。
ヒマだから、何もすることがないから、ではない。

なのに、「ヒマだから、あれこれしているんでしょう?」と、いつも私に言う人がいる。
私のことをこれっぽっちも理解してもらえていないことに、とてもうんざりしている。
自分がそうだからって、同じように考えないでよ!と、私は憤慨する。

どうして、わかってもらえないのだろう。
私は、ヒマだからではなくて、したいから、してるんです。

基本的には、私はヒマつぶしは嫌いだが、
仕事で煮詰まった時など、貴重な締め切り時間をまるで関係ないことに時間を費やす。
自虐的ヒマつぶしの結果、意外な発見があったりもする。
締め切りに間に合わないこともあるという、リスクつきだが。
ゆったり、たっぷり時間を使った、普通のヒマつぶしでも、
焦っている時には見つけられないようなものに出会うこともある。

小学校高学年の時の担任の先生が、
「人生、死ぬまでのヒマつぶし」とおっしゃっていた。
小学生には理解不能の言葉だが、私の頭には不思議といつまでも残っている。

しかし、「ヒマの定義」など、わざわざ書いている私のことを、
「ヒマ人」と言う人がいても、しかたないような気もする。


ふわりふわふわ、自由な発想

2008-10-08 | 読む人々には興味ない話
「あなたも夢を実現!」とか、「まるで普通の人が億万長者に」とか、
「こうやって成功した、ノウハウのあれこれ」、
みたいな類いの、人の気を引くフレーズをよく見かける。

日常に満足していない人への気分転換に、とか、
モチベーションを上げる、とか、夢をあきらめない、とか、
そういう意味では、とても魅力的なことだと思う。

私は、凡人あるいは、それ以下なので、
もともとモチベーションそのものがない。
なので、自分を中心にコトは動いていないことは、よく知っている。
つまり、客観的に、社会的に、他人を納得させる既成事実がない。

やたら熱く語り、夢に向かってひた走ろう!!
などとブログ(日記)に書いて、ネット内で通りすがりの人の
共感を呼んだりしている若い人を見かけることがある。
そういう人が自ら明かす、これまで歩んできた道を見ると、
学校は途中でリタイア、専門学校もリタイア、仕事もリタイア、
自分探しの旅の途中に、やっと熱くなれるものを見つけたとか。
目下、夢の実現に向かって走っているそうな。
なにひとつ、今まで客観的になにも成し遂げたものがない人が、
いくら熱く語っても、、、、、ねえ。
気持ちだけでは通用しないのが、この世の中。
そういう場合は、なにも、経歴とか載せないほうがいいと思うのだが。
あえて赤裸々に告白することによって、自らを奮い立たせ、
一からの出直し、というスタンスだろうか。
とりあえずは、公表できるような実績を、まずはひとつでも作ることが
第一のステップだと思う。

私の場合、なにひとつとして人様に自慢できる、客観的な経歴がないので、
書きたくても書けないのだが。
ただ、客観の世界とはまた別の、主観の世界を確保して
自分の感性を軸に、いろんなものを感じ取る。
感性は、自由なのだから。
なんの束縛もなく、全てから解放される。
そんな現状に、とてつもなく満足している幸せモノである。

人の持っていないものを持つ人は羨望の的だが、

お金はあっても、教養がない人。
教養があっても、品性のない人。
地位はあっても、友達がいない人。
今はよくても、未来がない人。
頭が良くても、努力をしない人。

実にもったいない。

なにもなくても、希望がある人。
飛びぬけてなくても、充実感がある人。
そのほうが、幸せだと思う。

私が幸せなのは、理想のレベルが低いから?
いえいえ、実はそうでもないのだ。


この人こそ、まさに、私の理想、という人がいる。
私がはっきりと想像できない理想のイメージを、具現化している人物。
小学&中学の同窓の同期生、○○君だ。
しかし私は、彼の私設広報担当者でもなんでもない。
勝手に、ひとりで外野で感激しているだけだ。

そこそこ頭がいい人は多々いるが、その中でも、元々頭がずば抜けて良い。
そこへもって不断の努力家。
先見の明がある。
運もいい。恵まれてもいた。
高い学力、教養、ネイティブの専門家と互角以上にディールできる語学力を身につけ、
 さらに専門スキルがある。
自分のビジョンを明確に持っている。
熟考家。判断は私情に振り回されず、情報を立体的に組み立て、醸成して。
人を切る時は、温かく、しかし冷静に。
ビジネスでは人脈づくりは、ビジネスを作り出すためであり、
 お友達を作ればいいというものではない。
 大企業からの留学社員は、後ろ盾に安心して、(留学先では)人脈を切り開く気力に欠ける。
波の乗り方を覚えるには、何度もの失敗経験が不可欠。
自分の生き方を自分で切り開く。
目標となる人、モデルがない場合は、自分自身をモデルにして創造する。
人格者。お金に振り回されない。
退路を断つ、迫力と意気込み。
人当たりのよい柔和な性格。
誰もが認める力量の持ち主で、リーダーシップを発揮する。
適材適所、人を活かして起用する、人材の使い方がうまい。
いつも決まりきったパターンではなく、時流を読んだ柔軟性をもった判断、方法。
嫌味なく、自分の現状を語れる。
 (謙遜するばかりが能じゃない)
力量に見合ったステータス(社会的地位、信用、交友、富)を保持。

現代の日本において、成功者の一人、
そのモデルとなる人物だと思う。
白洲次郎をもう少し、専門スキルを磨いて、頭を良くしてマイルドにした感じ。

他人の成功話なんぞ、聞いてもなんの面白いこともない、
と多くの人は感じると思う。
知り合いの自慢は、ひいては、自分の自慢でしょ?と思う人もいるだろう。
きっと理解してもらえないと思うが、
大好きな冒険小説がいくつかあって、
さらに今まで読んだことのない大作を読んだような感激、とでも言えばいいだろうか。

私は、成功話が、大好きなのだ。
それも、「濡れ手で粟」、といった類のもではなく、
偉人による偉業、という、正統派のもの。
それが現代人で、今もまだまだ活躍中、となれば、
私が釘付けとなってしまうのも、仕方がない。

なによりも、成功した人のパワー、オーラは、
(私は実業界の住民ではないが)、実に心地よい。






お目にかかりたくても

2008-10-06 | 読む人々には興味ない話
一昨日入手した情報に従い、◯◯君、いつも出るわけないよね、と思いつつ
昨夜、眠い目をこすりながら、番組が始まる夜10時まで待った。
三谷幸喜がコメンテイターとして出ていた。

コメントは、おちゃらけも、いいところ。
真面目に見ている人の失笑を買っている。
すべっている、とは、まさにこのこと。
ニュース番組としての質を明らかに低下させている。
お笑いバラエティ番組ではないのだから、シャレにしても笑えない。
基本的知識があっての上ならまだしも、とてもそういう風には見えなかった。
明らかにプロデューサーの人選ミスと言えそうだ。
三谷幸喜も被害者かも知れない。
(「ザ・マジックアワー」はおもしろい作品だったが)

◯◯君は、エコノミストとして現状の解説、今後の成り行きなどを予測していた。
素人にもわかりやすい説明で、とてもよかった。
いつもながらの、優しい微笑みは、余裕のなせる技。

しかし、あの番組は、山本モナが当初やる予定の、鳴り物入りで始まった番組。
司会の伊藤アナウンサーも、なんだか、おふざけムードが全身から漂い、
真面目なニュースには不向き。
ウエンツ君は、まあ頑張っていたが、あのコメントは本当に自分の脳から出たのかな?
自分の言葉なのかな?と思ったが、彼は努力家で頭は良いそうなので、オリジナルだろう。
深い読みや洞察などのない、単なる進行と感想、と言えなくもなかったが、
お笑いも志しているという、若いマルチタレントにしては、大きなミスもなく
はきはきしたストレートな言葉は、耳に触りがよかった。

三谷幸喜が、複雑な顔をして、ウエンツ君のコメントを聞いていた(ように思えた)。
受け売りや、不確かなことは、口にせず、笑いで表現する自分の方が謙虚だ、
とでも思っているかも知れない。
彼の場合は、いかなる時も、あのスタンスだろうけれど。
ウエンツ君は若いから、なんだってできてしまう。怖いもの知らず。
中年になると、怖いものがいっぱいあって、下手なことは言えないのがツライ。

公認会計士の女性コメンテイターは、なかなかしっかりしたコメントが多く、
ふむふむ、なるほど・・・と好感を持った。

しかしながら、あの番組は、中途半端で不快感が残った。
お笑いバラエティ的味付けが、どうも気になる。
私は初めて見たのに、三谷幸喜(を起用したプロデューサー)のせいでもある。
プロデューサーは確信犯的に、ああいうテイストの番組をあえて作りたかったのだろうか?
三谷幸喜は、自分の作品(おそらく、自分自身も作品のひとつ)批判を目にすると
創造意欲が減退するため、インターネットは見ないそうだ。
ここで少々辛口で攻めても、彼には届かないだろう。

◯◯君は見たいが、こんなムードの番組では、これから、渋々見ることになりそうだ。

遊ぶだけでは、おもしろくない

2008-09-12 | 読む人々には興味ない話
好きなこと・・・趣味を、追求する。
時間とお金と、エネルギーを堪能するまで、たっぷり注ぐ。
誰にも迷惑をかければ、なにをしてもいい。
はず、なのだが・・・

それも、内容による。
犯罪一歩手前の趣味や、健康上よくない趣味、
生活が破綻するような趣味はおススメできない。
逆に、研究や、健康にいいライフワークや、人のためになったり、
趣味が高じてプロになったりするような、好ましい趣味もある。

精進するようなものは、よいが、
どうも私は、享楽的な生活ができない。
浪費するばかりは、楽しくない。

かつて、東京に住んでいた時、毎日、毎日、遊んでいた。
出歩き回ったり、人のお宅にべったり居ついたり。
映画、観劇、コンサート、ホテルのディナーショー、展覧会、
ショッピング、グルメ、お酒、旅行、パーティ、ファッションあれこれ、
街探索、イベント、お稽古、スポーツ、・・・
何組かで合流したり、何泊もしたり、家族ぐるみのお付き合いもあった。
気の合う人と昼下がりに、ぶらり街歩きをしたり、
深夜の街に、出かけたり・・・

顔の広い人と親しかったので、その人と一緒にいると
いろんな方と出会った。
棚ボタ式、パラサイト依存交流も多々あった。

著名な方にも、お会いした。
有名なお店にも、行った。
大物政治家のお嬢さんを交え、よくいっしょに遊んだ。
(お子さん連れの時は、お付きのベビーシッター嬢も一緒だった)
豪邸にも、お招きいただいた。

当時、住んでいたところに因るものが、大きかったようだ。
東京は、さすが中央だと思った。
住民の顔ぶれ等を見ても、それを思わせた。
今、総裁選、渦中の人物名も聞こえてきた。
(ご親戚なのかも知れないが)
大手老舗企業の社長私邸の土蔵が、ま後ろにあり、
ドロボー騒ぎも起きたことがある。

そういう日々は、夫の転勤辞令が出て、東京の地を離れるまで、
2年間、続いた。

また遊びほうける日々を送りたいかといえば、
別に、そうでもない。
経済的理由からでは、ない。
浪費するばかりでは、おもしろくないと感じたからだ。

同じことの繰り返し。
両手からするりと、何かがこぼれ落ちるような
積み重ねても、実感がない、虚構のような世界。
若かった。
その時、その時は、おもしろいのだが、
それが続くと、虚しくなる。
点と点は、つながって、やがて線にならなければいけない。
何も残らず、点だけで、消えてしまっては、
あまりにも刹那的。
遊びの経験が少ない人にとっては、その、その場限りの
刺激がたまらないのかも知れないが。
何が好きなのかもよくわからない私には、遊びの洪水は、
若い日の、経験のひとつだった。

そんな日があってこそ、今の自分がいる。

今、私はこの年齢になって、
リタイアにはまだ早い、でも、そこそこの年齢の人で、
たっぷりの自由時間があって、
遊ぶ一方の人を見ていると、なにかしら違和感がある。
いくら趣味だからと言っても
今まで、よほど遊ぶ機会がなかったのか、
浪費するばかりの行動に、疑問を抱かないのだろうか。
どのぐらい続けると、もう十分、となるのだろう。

ひょっとして、ある日、突然、今までの遊びの集大成を
カタチとして発表、発揮する時が来るのかも知れない。
それはそれで、楽しみだ。

苦しみながら、無理矢理、浪費して遊んでいる、という同級生の話を
先日、Bさんから聞いた。
もともと綺麗な人であるが、さらに着飾り、お連れの人々を従えた
彼女の表情は、決して楽しそうには見えなかったらしい。
迫り来る何かの重圧に、抵抗するごとく、
苦渋に満ちていたようにも感じられたと、Bさんは言っていた。
彼女は、誰が見ても羨ましいような、
幸せそのものの生活を送っているはずなのに、
現実のどこかに「心の闇」を抱えているそうだ。
どこかで、バランスが崩れたのだろう。


やはり、遊ぶだけ、は、私には合っていない。
そう。
で、それで? その結果、生み出すものは?
それが、ほしい。