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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

幸せ病、重篤化を避けるために

2024-05-24 | わたし
不満に火が着いた。
江戸に仇を置いたまま、長崎まで来て、石垣島までやって来た。
(→「比喩表現です」といちいち書かなくてはならないのか、自問中。まだ自答には至らず)

破れているジーンズに「あ、破れてますよ」と親切に真面目に真摯に指摘する人がいる。
「ファッションです」とは言えず「ありがとうございます」と頭を下げる、、、
誰も悪くない。善人ばかり。
だが、高齢の場合、破れ穴あきズタボロ・ファッションはオススメしない。(お節介とは思うけれど)

わざとしていることなのに、気づかないでやっていると思われ、指摘されることがある。
(ズタボロが高齢の場合、周りはへんに気をまわして口に出さないことも)
言われた側は、説明するのがジャマくさい。
悪意はお互いにない。
こういうことは、よくある。
他人ならまあ笑い話。
職場やサークルの人なら、眉毛ピクピク。
家族なら、、、不快感を拭うトレーニングの積み重ね成果で、いちいち気に止めず、スルー。

スルーできない場合もある。
生理的に受け入れられないような、音だったり、癖だったり。
(精神、信念、生き方、ハート、頭脳などとは別次元)
その時は自分の神経を自分で切断する。
相手がわたしでなければ、そこまで悲鳴をあげて騒がないだろうし。
見ない聞かない、そこに不快なものは断じて無いと自己暗示をかける。

ちなみに、わたしは、何かを食べる時、ぺちゃぺちゃクチャクチャ音と、前上歯と前下歯が直接カタンカタンとぶつかる音、入れ歯がカチャカチャいう音が、大の苦手。
これは相手ではなく、勝手に感じるわたし側の事情。
父も他人の入れ歯音が大嫌いだったので、父からの嬉しくない負の遺伝。
耳が良すぎるのは自滅の元となる、、、が、そう遠からぬ日には確実に聞こえが悪くなるだろう。
これもシニアワールドからの、神様からのプレゼントの一つ。
プレゼントの日まで待てないなら、耳栓か、ワイヤレスホンで自己防御するとよい。


それとは別に、音ではなく、同じ仕草を別の人がしていても気にならないのに、特定の人物がその動作をしていると、とても不快になる類もある。
なぜなんだろう???
仕草そのものが嫌いなのではなく、仕草をしている当の本人が嫌いなのでは?
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
「亭主の好きな赤烏帽子」の正に逆。
なぜこんなことに、なってしまったのだろう。
おそらく、本人はそんなに憎まれるようなことはしていないはず。
ではなぜ、こんなに憎い?
なぜ?なぜ?なぜ?
鬱積、不満が積み重なり、もつれ、何がなんだかわからないが、何しろ憎い。
(隣人トラブル事件や、親戚事件などは、こういう種類のものかも知れない。
国家間になると壮絶悲惨、解決困難)
個人レベルなら、わたしが解脱する日には、すっかりわだかまりもなく、仲良しになっているとは思うが。

愛憎という言葉もあることだし、愛の裏返し?
余計に益々理解できない。
感謝しなければならないことばかり。
なのに、日常ではなぜこんなに嫌いなんだろう。
嫌いになってはならない。
なのに、嫌い。
なりたい自分と、現実の自分の間にはギャップがある。
自分に言い聞かせる、持つべきではない感情に蓋をする。
蓋をしても、蓋が内部からの得体の知れない魔物パワーで突き上げられ浮き上がる。
幸せ病の重篤パターンに陥っている。

気持ちを切り替える努力を色々試し実践し、リセットしよう。
必ず晴れる。
次の瞬間、きっといい日になる、いい日になる、いい日になるだろう。
同時に歌のメロディが、反響、重なる。
歌は、明日はきっといい日になる、だけど。
明日ではなく、今日、今。
明日まで待つことはない。

全く感情移入できず

2024-05-22 | わたし
ボツ(蝶)記事(非公開)が、なんとここ立て続けに4本も。
かと言って、ボツにせず公開した記事も、たいしたことはない。
ボツ記事も公開記事も、ほぼ似たようなものだが、自分で嫌か、さほど嫌でないか、その程度の違い。
気分屋。

と、どうでもいい話は、さておき。
昨夜、NHK TV歌番組「うたコン」。
出演していた中村雅俊、若い頃のかわいかったことったら、、、50年の年月はすごい。
でもスタイルは維持、素晴らしい。
今までの年月の長さより、これからの年月の長さを思うと大変だ、、、と、彼が一言。
確かに、、、。

それはまあよいとして、演歌を聴いた。
歌っているのは、わたしより若い演歌歌手。
石川さゆり、天城越え。
他にも、紅白歌合戦、けん玉男性歌手、三山ひろしの歌。
愛する人への激しい情念。命をかけるらしい。
歌詞の内容が全くアタマにも、こころにも入って来ない。どうしても。
歌っている人は、若いなりにも歌詞の意味を理解して、感情移入できるのだろうか。
歌詞の主人公が憑依して、別人格になりきって歌うのだろうか。
わたしが、ヘンなのか?
言語の下、裏、底、行間に隠れた言語外の意味を読み取る、読解能力、皆無か?

なんで、あんなに好きな人に対して、あつくるしい情念を燃やすんだろう?
(LGTBQの観点からすると、異性とは限らない。アセクシャルなんていうのもあるようだ)
好きで好きで、たまらないのはわかるが、あんな熱い感情をぶつけられたら逃げたくなるのでは。
好き好き好き大好き、愛の激情ではあるが、その相手やその親と一緒に住んで、何人も子供や孫を育てたら、恋心なんか吹き飛んでしまう。
子供もどんどん産まれ増えているのに、子育て協力温度も低く、、、。
(家事や育児、「協力」という、お手伝いサブ的感覚がたまらなく不愉快)
一千年の恋も冷める。ミジンもなくなる。
あんなに好きだった相手の「癖」、亭主の好きな赤烏帽子も大嫌いになって、鳥肌が立つことさえ。
(江戸の怨念を長崎まで持ち込んでいる、、、わたし。まだ仇は討てていない)

恋は一瞬の流行病だ。病気。
なので、演歌の歌が、全く理解できない外国語のように感じる。
わたしが、おかしいのだろう、、、か。
アバタもエクボ。
アバタはアバタでしかない。
が、エクボに見える瞬間がなければ、少子高齢化に歯止めがかからない。

しかし、なんでこんなに演歌情念を毛嫌いする?
なんの反動だろう?
ちょっと思い当たるフシがある、、、。

作者は男性。
女性からの愛のかたち、理想を想像の世界で創造しているのだろう。
(インパクト、破壊力のある歌を作ろうと頑張っておられたのはよくわかる、、、としても)
幻想、幻覚、幻聴、錯覚、誤解、誤認だと思う。
本当にあんな情念が実存するとしたら、猟奇殺人事件に発展しかねない。
アベサダさんのように。(例えが古い)
情念を向けられた人は怖くて安眠できない。
わたしが、熱い愛を発しない、発火しない、可哀想な女性なだけなのか?
なんでそもそも、熱い身を焦がす情熱など感じる???
やっぱりわたしが、冷血人間なのだろうか。

ろくなオトコに出会ったことがないからか?
出会った男性たちは全員、魂が震えるような愛を感じた、、、の真逆。
リスペクトする部分があるのは必須であるものの、全く情念を感じない。
(だが、全員、真面目。ダメ男は嫌い)
わたしが、そういう相手としか縁がなかったからか?

答えは、イエス。
燃える相手では、身がもたない。
自己ペースが乱れるのは避けたい。
わたしは、追うのは嫌。追われる側をチョイス。
無駄な力は使いたくない省エネスタンスは、こんなところにも強く現れる。
だから、情念を感じないのだ。そうに決まっている。
絶対に追わない。
中学1年の時に、2年先輩を追ってフラれてからは、追わない。
(ここで盛り上がっていた大人の話は、一気に急降下してオコサマモードになる、、、)
湿気ったまま火が点かない。
やはり、可哀想な女性だ。
高望みさえしなければ、選ばれた中から選ぶと摩擦が少ない。
等身大・自己評価型、合理性重視)
なので、演歌が、とんと理解できない。


目と足、無くてはどうしようもない

2024-05-10 | わたし
スマホ中毒から逃れられそうだ。
だがしかし、代償がある。
目と引き換えに。
早い話、目の調子が悪い。
スマホと遊ぶ時間が制限される。
目の神様からの、キツ〜い、警告。
素敵なプレゼントではなく、爆弾。
目は命。

度を越すと膝が痛くなるため、歩数が制限されるようになった。
痛くなるちょっと前に、歩き終えなければならない。
さじ加減が難しい。
目、足、使える制約があると、好き放題できない。
歩数、時間、帰りの分を保存しなくてはならない。
哀しいけれど、思いついたら、なんでもかんでも手当たり次第ではなく、本当にしたいことを厳選するようになる。
かえって、満足度が増すかも?
いや、気分屋のわたしにはツライ。

※写真。街(ウブド)の、この電線、スゴイと感心した。

落ち込み

2024-04-30 | わたし
脱力感というとまだいいが、虚無感、無力感に見舞われている。
ぽかっと空洞が出来たようなかんじ。
何もする気にならない。
時間を持て余す。

キッカケは、ある。
だが、それは本当のキッカケではなく、たまたま、表面的な糸口だったように思う。
自分が追い求めているものは、自分が未熟なせいで絶対に手に入らないものだと実感した。
原因は自分にある。

自分の性格を大改造しない限り、自分以外に解決を求めてもダメ。
では自分が変わればいいではないか。
自分は変わらない。変わりたくない、変われない。
仮に変わろうと努力すると、土台から潰れてしまう。
今まで積み重ねてきたものをリセットすると、土台ごとなくなり、わたし自身が壊れる。
そぉっと、上のほうだけ変えたらいいではないか。
あるいは、最小限の芯だけ残して、大改造。
または、大々的な改造でなくても、ミニミニマイナーチェンジするか。
だが、自分が足を引っ張っている。
どうにもこうにもならない。

さらに考えられるのは、努力したからといって変われるわけではない。
期待する結果が得られるわけではない。
努力もせずに、架空で言っているわけではない。
努力はした。
よく言われる日本人的特徴としては、プロセス重視で、結果より、到達するまでの努力を評価するらしい。
が、、、諦めるという結果もある。
目標から手を離す。
諦観、解脱の心境。あと一歩。

そこで、般若心経読本。
あまり役には立たなかった。
気を鎮めたり自分を立ち直させたり、全然しない。
よけいに落ち込んだ。
何をしてもダメなようだ。
こういう場合は、何もせずに時を待つ。
が、待っている間は結構、苦しい。
こんなことは、今まで初めてだ。

とは言え、思い起こせば、かつても経験したように記憶する。
1回目の無気力は18歳、2回目は40歳代だったが、特に40歳代の無気力はただ「楽しいことをしたい、という、自発的&活発な意欲がない」と自覚するだけのもので、さほど気になるほどでもない、うんと軽い症状だった。


FMラジオではDJの元気な声。
わたしはほとんど内容は聴いていない、まさに、イージー・リスニング。
こうやって、意味を見出さない時間は、意味を求めないことが意外に癒やしになっていくのかも知れない。


※写真は、さきほど、今朝の、たくさん落ちたハナミズキの花びら。
家の前の道路に広がる花びらも、せっせせっせと拾って掃除した。

憂さ晴らし

2024-04-24 | わたし
「姉さん」に対応する言葉は「弟」になる。
弟って??想像もつかない。

わたしは、末っ子なので、だからといって「下に弟か妹を産んでほしい」と母に直訴しなかった。
自分が1番下なので、年下の人に対して、ニュアンスがよくわからない。
接点がある知人たちは、99%年上。
(娘婿たち世代は除く)

一人だけ、少し年下の頑張り屋女性が知人にいる。
もう30年近い、長いお付き合いなので、知人以上、友人未満か。いや、友人に昇格か。
彼女とは1年に1回、紙の年賀状のやり取りと、クリスマスなど歳時に、誰かが作った音楽付き動画をLINEで送ってきてくれるぐらい。
お互い、自宅には行き来している。(しかし、30年の間に双方2回ぐらい)
コンサートや行きたいお店などにも、ほんの数回行ったことがある。(これまた30年に2〜3回)
もはやこれは、エピソードである。
わたしは、このパターンが少なくない。
長い時間を経ているのに、実際に行動を共にするのはほんの少し。
だが、点と点はつながっていて、あの時、彼女のお腹にいた子が、次は2歳になっていて、さらに中学生になっていて、さらにもう社会人になっている。
わたしは、そんな様に長年ほとんど会わない彼女ではあるが、友人だと思っている。
わたしは変人なのだろうか。

どこに住んでいて、どんな家族で、どんな風に暮らしていて、、、それだけ(起点)がわかれば、あとは長い時間を乗せていく。
だから、ほんの、点と点の接点になっても、点と点は長い線になって繋がっていく。

普段は、わたしはいつも一人行動かというと、そうでもないのだが。
だが、スタンスははっきりしている。
女同士のどうでもいい話はしない。聞くだけ。
世間話は、世の中の、たまたま、わたしの近くにいた人々から聞く。
盗み聞きというと悪い言い方になるが、あっち(話す人)が、こっち(近くにいるみんな)に聞こえるような声で言っているからそうなる。
最近も、めちゃくちゃ興味深い話を、映画館の劇場内のわたしの隣の席で聞いた。
高齢二人連れの友人同士。
彼女の妹さんは、世間を全く気にしない人らしく、誰に何をどう思われても構わないとか。
人付き合いもしないから、誘ってあげないとのこと。
あらま、わたしみたいな妹さん。
そんな、世間体ばかり気になる姉さんに声をかけてもらわなくても結構、と、妹さんの心情になって、こころの中でわたしは呟いた。
映画なんか、誘ってもらわなくても観たければ一人で観る。
帰りにおしゃべりに花が咲くのだろうけれど。

わたしも、姉と用事で行動を共にした後は、ベラベラベラベラ長話をする。
喫茶店に入ろうとしても、混んでいて席が近い場所しか空いてないと(両隣は、一人で読書やノートパソコン作業していたりすると)、おばちゃんのペチャクチャは、絶対にうるさがられる、疎まれる、ウザがられること間違いなし。
なので、もっと余裕空間のある、空いたカフェを探す。
が、なかなか見つからないと、カフェ難民になる。
実家で喋るのが1番良い。
誰の耳もない。
コーヒー、お菓子付きだし。
ではあるが、そんな機会は滅多にない。
女性のおしゃべりは、じつに、はた迷惑。
よくよくわかっている。
実際に直接、車内に居合わせた高齢のご婦人に注意されたこともある。

と、おしゃべりする相手は、姉とだけ。
他人さんには、姉もわたしも話せないような実家事情がたくさんあるから、他人さんには知られたくないし、自己防御策である。

お喋りしなくても、わたしはブログで発散する。
ブログにしか書けないようなことを書いて鬱憤を晴らす。
そんな鬱陶しい話など、人に聞いてもらったら、それこそ気の毒だ。
読んでいただいている方々に対して、わたしはいったい何を思っているのだろう。

蝶ブログ、スルーか、あるいは興味あるワードだけ拾って、あとはザザザーっとスクロールしてください。






一生、癒えない傷

2024-04-13 | わたし
「フラッシュバック」というタイトルの蝶ブログ過去記事。
どなたかが引っ張り出して読まれたようだが、その記事を読んだ。
またまた、フラッシュバックした。

一度や二度ではない、フラッシュバックの引き金は、、、
突然、やってくる。

夫は、高校卒業後、親元を離れ賃貸住宅に単身で住んでいた。
そう書くと、自立した人のように聞こえるが、とんでもない。
大学の学費、住居、生活費、全て親持ち。
さらに近隣の市に住む叔母の家に、(自宅に家電一式、洗濯機も親に買い揃えてもらっているのに)洗濯物を持っていき、そして食卓を囲んでご馳走になっていた。
実家からは下着だの衣類やその他が、どんどん送られていた。
夫は、叔母家での大好きなメニューがある。
それを普段の今の生活で、キッカケがあると嬉々として夫は話す。
その瞬間に、わたしの脳内は瞬間的に爆発する。血管がブチギレる。
洗濯をしてもらい、ごはんをご馳走になり、生まれた時から知っている叔母一家、楽しい明るい暖かい家庭で好意と愛情に包まれ過ごす。
無邪気に素直に、何の憂もなく明るく育つ。
美しい光景。
(わたし以外は)全員が良い人々で幸せな時間。

親(姑)は子(息子)に、過保護、過保護、過保護、過保護、過保護。
食事が出来たら右手にお箸だけ持たせ、食事が終わったら箸を鉛筆に持ち替えさせる。
教育ママ。
ボクちゃんはお勉強だけしていたらイイのよ。
(社会人になってからは、
アナタはお仕事だけしてたらイイのよ。
→家庭は妻の尽力による癒しの場の提供)

その幸せ溢れるシーンで、なぜ、わたしの血管がキレる?
一種の条件反射。癒えることがない病気。こころの傷。
おそらく、目が開いたのだろう。
自我の目。
目覚めても、どうすることもできない不幸が待っているだけなら、目覚めないほうがいい。
目覚める時期、タイミングにもよるが。

世の中には、不条理なことや矛盾がいっぱいごろごろある。
時代が違うと価値観も違う。
今頃なんだかんだ言っても始まらない。
なぜかいつも不機嫌な妻たちを見て、理由はわからないものの、触らぬ神に祟りなし、と、腫れ物、危険物注意の精神で夫たちは接する。
不機嫌、突然の激怒は、積もりに積もった鬱憤なので、どうすることもできない。
長い年月の間に、形や大きさ、形状が変化している。巨大な妖怪になっている。
今更、解けない、溶けない。
出口を失い抱え続けた弱者の怨み。
原発の汚染物質のようなもの。
地中、深く、埋めるしかない。

その一方で、、、自分だってそうだ。
同類。
人のことは言えない。
見方を変えると弱者ではない。
なのに、わたしは消えることのない不満を抱え続けているのに、なぜ相手は何も感じていないのか。
原因を解明できないが、妻が不機嫌な理由は自分(夫)にあるような気がするため、出来るだけ神経に触らないようにしているかも知れない。

2050年には独居老人が激増するらしい。
結婚しない、子供がいない。
人生ライフスタイルは個人の自由。
(老夫婦で死別もあるが)
結婚に求めるものが、複雑になっている。
結婚しないのも、よくわかる。
折れ合うことをしないと無理だ。
理解できない、納得できないものをそのまま抱えて進めない。
ではあるものの、生活は妥協なしには成り立たない。
自分を押し殺してまで結婚したくないのは一理ある、、、が。

身体に何も大きなトラブルが発生しなければ、2050年に、わたしはまだ生きているかも知れない。
たぶん、独居。
いや、ひょっとして、、、老人ホームの別階で別居?
あるいは、同じ墓の中で眠っている。


次に向かう兆し

2024-03-18 | わたし
先ほど、蝶ブログ記事を途中まで書いたが、途中でやめた。
公開したくなくなっている。
他人様に取っては、実につまらないプライベートな出来事。

と言っても、今まで書いて来たのは、どれもこれもプライベートなつまらないことばかり。
書きたいか、書きたくないかは、自分が書いて楽しいかどうか。
この土日、別の場所でイレギュラーな過ごし方をしていて、ブログ時間が取れなかった。

今、わたしは変わり時。
人生のステージを一歩、進もうとしている。
新しい局面を迎えようとしている。
歳は行っても、生きている限り経験は積まれ、常に新しい展開になる。
時は進み、次のステップへ移行する。
が、まだ揺らぎ中。
行ったり来たり。揺り戻しがある。
が、前に進んでいるような気がする。
あたかも電車に乗って移動していて、途中、長い停車時間の後、次第に再出発の時間が近づいているような感じ。
ではあるものの、うっすらとしか、まだわからないのだ。
次のわたしが、どうなっているのか。
変化の兆し、前夜。
ただ、変化は良い変化なのか、悪い変化なのかわからない。
だが、変化であることには変わりない。
不安はないのだが、かたちが見えるまで、なんとなく落ち着かない。


寒く暗い雨の朝

2024-03-12 | わたし
ある人と話していた。
30年来の知り合い。
「今はもう別に何がしたいというものはない」と、わたしが言った。
すると、その人は言った。
「もう、やりたいことはやったからでしょう?」
なるほど。
その通り。
かと言って、今はやる気がなく生きた屍というわけではなく、十分満足しているのだ。
あとはそのまま、すーーっとニコニコして生きていけたらいい。
わたしはまだまだ平均寿命より20歳も若いのに、皆さんには活力がないと思われることだろう。
だが、満足していたら、別に活力がなくてもいいと思う。
イキイキ、やたら元気に張り切って頑張らないといなければならないのか?
誰のために?
愛する家族たちはいて、こころの拠り所にしているが、今は見守るスタンスで関わっている。
いずれ、見守られる時期が来る。

頑張らない、頑張れない自分がそれで良ければ良いのでは?
活発な毎日を期待されるとすると、誰に期待されるのだろう?
静かに安らいで生活しているのは、わたしの年齢では理想的模範的ではないのかも知れない。
模範って、誰のために?
自分で勝手に理想像を作り上げて、へんに抵抗している。
迷惑をかけなければ、自分の満足いくようなスタンスで生きたい。
自分の理想像そのものが変化しているのだろう。
出力を減少、下げて行きたい。
世間(メディア)では、下げるな下げるなと圧をかけてくる(ように感じる)。

暗いニュースや災害特集が続く。
一瞬で積み上げてきたものが失われた絶望感、喪失感、虚無感は想像を絶する。

今日は朝から寒い雨。
食欲がないのと同様に、書きたくなる気力というものも、わたしの心身健康のバロメーターのようだ。
どんな状況であれ、生きていかなければならない。
また時間が変われば気も晴れる。気が変わる。

暗いブログ記事はアップしない方針の人もいる。
元気な時の自分しか表に出さないようだ。
読む人に与えるものを想像する、忖度。
マイナスの自分は出さない。
ゴミを散らかしては迷惑。
それもまたその人のスタンス。
人の数だけ考え方、感じ方がある。

ある人に「ズルい(逃げている)」と言われた。
わたしが結論を出さずに、のらりくらりしているからだ。
努力から逃げる。
やりたくないこと、向かい合わなければならないこと、対峙から逃げる。
暖簾に腕押し、2階から目薬、糠に釘。
一向に成果が上がらない。積み重ねようにもザルから溢れ落ちる。
確かにその通り。
わたしは、優柔不断そのもの。
何も好きでそうしているわけではない。
このわたしの性格、短所は大きな悩みの一つ。
潰れず持ち堪えられるか。
寒い雨の日は、古傷が痛むかのように、どんよりこころが沈んでいる。

自分だけの世界

2024-02-21 | わたし
19世紀のヨーロッパ。
社交界、サロン文化華やかし頃。
美しい名門貴族の婦人や、煌びやかなブルジョワたち。
毎日、ブログ村エッセイのブロガーさんが、絵画と共に紹介されている。

うっとりするような優美な世界、芸術、、、。
なんだけど、、、貴族は職業は貴族、収入は貴族階級ならではの不労所得。
では、ブルジョワは?
似たようなもの。
では、中産階級は?労働者は?奴隷は?

実は今、読んでいるのが19世紀に奴隷だった少女のお話。
単行本で大手書店の目立つ場所で売られていた。
その本は「買って買って!」と言わんばかりにわたしの目を引き、買った。

生まれながらに貴族の女性と、生まれながらに奴隷の女性。
同じような時代。
この、奴隷の少女の本はまだ10分の1ぐらいしか読んでいない。
19世紀、自らの体験を綴った自伝、半生。
150年近く前に書かれたということと、著者は作家ではないこと、翻訳されていることで、読みにくい文章ではある。
それは致し方ない。
が、明治時代後半の日本を舞台にした小説「橋のない川」に共通するものがある。
不条理な差別と、自由のなさ。
平等と尊厳。

しかしまあ、かたやその一方で貴族文化や芸術をもてはやす。
芸術はパトロンがいないと成り立たないこともある。
ブルジョワがパトロンになるわけで、芸術を支える。
プロレタリア文学とかもあるが。

所詮、庶民、一般人であるわたしは、訳もわからず上っ面だけを見てキョロキョロするのみ。
深くは、わからない。
自分の感性に響くものだけに対して、きゃあきゃあいっているミーハー。
時折、頑張ってお勉強として知識を得ようとするが、感性はついていっていない。知識も根付かない。
(これは、あくまでわたし個人のことであり、皆さんのことではありません。と、変に先回り)

自分が好きなもの、良いと思うものに触れたらよいのでは。
例え理解なんかしなくても。
東洋趣味を、時代や国をごちゃごちゃにしている西洋人のように、西洋趣味をごちゃごちゃにしている日本人のようであっても、自分フィルターで寄せ集める分には良いのでは。
学会で発表したり、人に教えたりするわけではない、自分だけの世界に浸るには、何でもよい。
ただ、少し深く知ると、味わいも増す。
自分の熱意が、自分に返ってくる。
自分に対するご褒美。

断言するが、、、こういう中途半端な感覚は、絶対に、頷いたり賛同したり共鳴したりする人はいないだろう。
ほんとうに、自分だけの世界を愉しんでいる。

悩みは優柔不断であること

2024-02-17 | わたし
自分の行動を選ぶ時、目的と難易度と適性を考える。
自分とはまるで関係ない雲の上のようなことでも、憧れ眺めるだけなら、自分の適性(能力)は関係ない。
自分もやってみる場合は、ある程度、適性(能力)が関係する。
その間に横たわるのが、難易度。
それを柔軟に跳ね退けるのは、熱意、どれぐらい好きか。

あまりにも適性がない場合、いくら好きでも、費用対効果や、能率、効率を考えてみる。
見通しなど、まるで無視、でも良い。
人それぞれの時間の使い方、労力の使い方、お金の使い方、エネルギーの使い方。

そう考えると、危険でハードな「登山」なんて、よほど好きでないと出来ない。
緊張感や達成感は何ものにも代え難いのだろうけれど。
わたしには無理。

わたしは、怠け者なので、何ごとにも、ぬるい。
緩い、温い。
最小限の労力で最大限の効果を期待する。
省エネ。
あまり無茶はしない。無謀な試みにはチャレンジしない。
手堅く行く。
ローリスク、ローリターン。
おそらく、満足の沸点が低いのだろう。
なので、なかなか行動には移らない。
活気がない。
感情の起伏が少ない。 
淡々としている。

人に押されて渋々動く。
しかし、動くからには効率を重視する。
期待が少ない。プラスがあれば、儲けもの。
なんでもいいのだ。
こういうのを覇気がないと言うのだろうか。
だけど、いつもだいたい機嫌は良い。
(でも、怖いものはいっぱいある)

ここまで昨日、書いて、ボツにしようとした。
が、今朝、捨てる前に読み直してみた。
このまま続けて書くことにする。
日が変わると気分も変わる。


わたしが最も苦手とするのは、自分から自発的に能動的に動くということだ。
自分で考えて自分で決断して自分で行動する。
この局面になると、途端に苦しむ。
受動態が楽。
どうしたい?わたし?
どうすればいい?わたし?
2択か3択。
①する②しない③保留

わたしは保留が多く、もたもたしている間に選択肢が狭まり、最後には選択肢がなくなる。
それは避けたい、と考えに考えるのだが、熟考しすぎて、決断できない。 
これを優柔不断というのだろう。のろま。
自分の性格は自分が一番よく知っている。

したいか、したくないか。二択。
これに、「別にどちらでもよい」が加わる。
すると、事態に流される、ということになる。
そうなる前に決めなければ。行動しなければ。
期限を気にしながら、ぐずぐずする。
最後あたりには、脳の空気が圧縮されて決まってくるのだが。

選んだことが失敗方向だったとしても、嘆くのは自分。
誰の迷惑にもならない。
自業自得。
あまり能動的な欲求がないため、困る。
そう言いつつ、損はしたくない。嫌な目には遭いたくない。
煩悩のカタマリである。
損得感情が動き始めると、たちまち躍起になる。
欲深い。

※写真は、吹田の地車(だんじり)
天保期(1830〜1843)頃の作だとか。