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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

どんな人に見える?

2024-10-03 | わたし
今日の記事はスルーしてください。 
超ツマラン独り言なので。

わたしが一番好きなのは、わたし。
誰に興味を持ってもらわなくてもいい。
自分が自分を一番知っているので。

と、ここで、全員、皆んな引いて退散したかどうか、チェック。
あ、誰もいませんね。
では、続きを。

わたしは、見た目と中身が違う。
独身の頃は、悪女に憧れた。
なぜなんだろう?
悪女が魅力的なような気がしたのだろう。
憧れるのは結構だが、実際は全く悪女でもなんでもなく、退屈な善良な女性だった。
なので、男性は、悪女とスリリングに遊ぼうと思っていたら、面白くもなんともない、のほほんとした人物だったので、至近距離まで接近したものの、急遽、目の前でUターン。
お互い、残念でした。
これでは、小説のネタにもならない。

わたしは、見る人が勝手に描く人物に見えるようだ。
着色されていない透明人間。
これまで言われたのは、
学校の教師、ダンス教師、医師、保険の外交員、FM放送局員、スナックのおねえさん、スナックのママ、上品な婦人、奥さん、中国人、アジア現地人、ヒスパニック、フィリピン人、上組員の妻、、、
この中で、「奥さん」というのは、誰にでも当てはまる。
が、「奥さん」と言われたのは、若い学生の時。
実際に既婚者になったら、独身に見られた。
なに、それ?
どんな地で、どんな場面で、どう見られるか、がキーのよう。

若いある時、地元のスポーツショップの店主に、当時のわたしのキンキンギラギラ・ファッションを見て「あんた、いったい、どこの子や?」とマイナス感情で訝(いぶか)しがられた。
「〇〇です」と答えると、なるほど、それならわかる(仕方ないけど)という反応だった。
(ちなみに親は、「組」とか、やってません)

話さなかったら、気になる女性。あるいは、透明人間。
口を開くと、変な奴。
ユニークというものか。
なので、最近は、ほとんど口を開かないようにしている。
ボロが出る。
だが、話すと面白いと言ってくれる人もいる。ギャップ。
これも、おそらく相手が勝手に自分で想像し、求めているものが投影されただけではないかと推測している。
相手の好みによって、はじかれたり、嫌悪されたり、興味を持たれたり、持たれなかったり。
すべて相手が能動的で、わたしは受動的。
大概は、居たことにも気づかれない、存在感まるでなし。気配を消している。
相手自体のこころを映す鏡のようになっている。

三谷幸喜監督の新作映画「スホミの話をしよう」。
まさに主人公スホミに共通するものがある。
相手によって望まれる姿になる、カメレオンのようなキャラクター。
そうやって人に依存しなければ、生きて来れなかった。
先月、その映画を観たが、後で詳しい解説を読んで、唸った。
そうか、そんな深い意味が込められていたのか、と。
解説者が深読みしすぎかも知れないが。

お世辞や社交辞令で、皆さん、わたしを良いように褒めてくださるが、それは大人の知恵。
深く関わらなければ、外面しか見えない。
それで良いかも知れない。
ChatGPTも、そう言っているし。
だからわたしは、リアルでは深い真の友、親友がいないのだろう。
というか、非開示型キャラなので。

わたしは、別に極悪人ではないが、面白くもなんともないタイプ。
なので、誰にでも合わせることは全く苦にはならない。
(悪人には、合わせない、近寄らないが)
誰にでも合わせるということは、誰に対しても、自分を閉ざしているのだろう。
それで、別にストレスはない。
そういうスタイル、スタンスだ。

今はもう前期高齢者なので、特徴としては「高齢女性」というくくりになる。
女性としての特徴は薄れ、強いて言えば、「特徴のない高齢女性」だろうか。
それ以上でも以下でもない。
高齢者優待割引時など、見ればわかる、身分証明書を提示する必要のない、見た目も高齢者。
◯◯風・高齢者というものがあるなら、身長の高低など、人体的特徴ぐらいかな?と。
美人高齢者だとか、スタイリッシュ高齢者だとか、若い人に比べるとほぼいない。
若さや美の代わりに、今までの人生が浮き彫りにされる、履歴書高齢者が増える。


若い頃なら色んなバリエーション、可能性、広がり、ポテンシャルが想像されるが、年齢を重ねた高齢者は一つの最終集合場所に集まって、似たような状態になっているように思う。
入り口と出口は同じ。
パンに例えると、入り口側と出口側のパンに挟まれたサンドイッチの中には、いろんなパターン、具が詰まっている。

ということで、どんな人に見えるかの意外性、お楽しみはなくなって、私服からパジャマのようになり、落ち着く。
ちょっと寂しいけれど。
せいぜい、元◯◯風。
ある意味、つまらない。

怨みが、自分を苦しめる

2024-09-29 | わたし
気分が落ち込んでいる。
落ち込むには原因、理由がある。
原因はハッキリわかっている。
だが、解決できない。
泣き寝入り。

世の中の不条理も、こんなものだろう。 
戦争で勝つ人、負ける人。
長い目で見ると、勝ったり負けたり。
だが、長い間、勝ち続ける側と、負け続ける側に固定的に分けられ、火種は消えないことがある。

月夜の夜ばかりではない。
弱者の怨みは強烈、、、ではあるが、やはり弱者の枠を超えない。
いつか見返してやる、、、と悔しい思いを抱えて歯軋りするばかりで、弱い立場は解消されず、抑圧されたまま。
わら人形と、五寸釘。
生き霊となって枕元に立つしかない。
未来永劫、先々の世まで、恨み貫く。
何の解決にもならない。

わたしは犯罪は絶対に嫌だし、自暴自棄も嫌、理性的で冷静なだけに、怒りや怨みが内に籠る。
負のエネルギーが溜まりに溜まって、いずれ何かのかたちになって爆発、暴発するかも知れない。
が、これから先の未来、相手に起こる不幸を力の限り全力で祈るのみ。陰湿。
ああ、なんて消極的で、非力、力のない方法。
弱い奴めと、相手はほくそ笑んでいることだろう。しめしめ、と。

わたしのキャラクターがこのカラーに染まり定着するのは避けたい。
が、弱いものはこうやって弱肉強食の中で淘汰されてきたのだろう。
消えてなくなり、強いものだけが生き残る。
これは摂理か。
としても、あまりにも強さによる結果だけを重視していないか?
スポーツならそれが全てだが。
勝負の世界もそうだが。
勝負しているつもりはないのに、のんびり明るく楽しく過ごしていると、気がついたらすっかり、ごっそりやられていた。
(オレオレ詐欺やSNSロマンス投資詐欺ではありません)

と、ここまで書いて、全然、スッキリしない。
読む側の皆さんは、ひたすら鬱陶しいだけだろう。
具体的内容も書かず、怨み節オンリーでは、わかるわかると共感どころか、まるで理解出来ない。
こころを沿わせることも出来ない。
もっと楽しい題材もたくさんあるのに。

こころが怨みに囚われて眠れない。

「誰かに相談してはいかがですか?」
「専門家の意見を聞いてみたら?」
「同じような悩みを持つ人に思いを打ち明けてみたら?」
「傾聴カウンセリングを受けられたら?」
などなど、アドバイスを自分で適当に想像してみた。
自分から欲を一切無くすことが、鎮魂への道。
自分だけが身を引き、相手に譲るのは不平等だ、自分が損して相手が得していると感じているうちは、悟りの道は程遠い。
損して得とれ、とは言うものの、、、。

もやもやは、益々深い霧となり、わたしを苦しめる。

スクロール、お願いします。

楽だけど自分で考えなくなる

2024-09-20 | わたし
昨日の昔の覚書記事で、ふと気付いたことがあった。
インターネットがまだ蔓延していない時にSNSオフ会に集まったメンバーの職種を見て、ふと。
パソコン業界、文筆業界、広告業界。
あれれ?
わたしのライフワークと微妙に繋がっている。
やはり好きなことは、リンクするし、長く続く。

インターネットではないとしても、紙媒体での同人誌に載っているような集まりは、昔からあったわけで。
紙から電子というツールに、現代風になっただけか。
紙の歴史のほうが、はるかに古く長い。

とは言え、リアルタイム、グローバル、一個人から世界への発信。
この違いは大きい。
情報が知れ渡るのが一瞬で範囲や広がり方もすごい。情報拡散。
が、偽情報だの、情報操作だの、良い面の裏には悪い面が隠れている。
良いことばかりではないのは、何ごともそう。

目の前の世界は広がったものの、結局は日常は同じだったりする。
ではあるが、何かを調べるのには、まあなんと便利なこと。
本を読まない人が増えるのは納得する。
スマホがなんでも疑問に即座に答えてくれる。
「おばあちゃんの知恵袋」は、おばあちゃんではなくスマホ。
蓄積された、おばあちゃんの生き字引、地位、崩壊。
これでは昔の情報は常にアップデートされ、言い伝えや、姑の威厳など、あったものではない。
役に立たないなら、老害は去れ、なんて言われかねない。

だが、似たような情報ばかりを拾いに行き、自分で組み立てたり考えたりしなくなる。
結論に辿り着く前に、他人が考えた結論を先に知る。
それをやってくれているブログやサイトに飛んで行けば、途中の手間が省ける。
自分で調べたり、分類したり、考える手間が省ける分、他者に、それこそAIに安易に任せると、脳が怠惰になりそうだ。
AIに訊ねる中身が「わたしは、どうしたらよいでしょう?」ならまだ良いが、
「わたしは、何をどう感じたでしょう?」では、本人の胸の中しかわからない。
「Aさんの場合は、こうです。
Bさんの場合は、ああです。
Cさんの場合は、状況が違いますが、こうです。
統計的に見て、多くはこういう傾向にあります。
例外は、これです。
過去はこんな風、未来はあんな風に、変化します」
と、例を出して説明してくれるかも知れないが。

掃除は、まず整理から、と言われる。
掃除する前に整理整頓しないと、ゴミ仕分けしないでは掃除できない。
情報収集、シュミレーションして、答えを出すにはまず考える。
この、考えるまでの時間がやたら短くなって、楽は楽だが、大丈夫か?
頭を悩ませる作業を抜いては、深い思考が出来ない。
結論も薄いものになるのでは?

まあ、直感で出した答えが合っていることもある。
だが、直感は、ベースに基礎があってこそ。
何もわからない、知らないのに、直感だけに頼ると、今後の参考にならない。
苦労してモノにした引き出しにはならない。

・・・だらだら書いている。
めんどくさくて、誰も読んでない、、、だろう。
スクロールで結構です。

ちなみに。
関係ないが、「虎に翼」の後、今朝の「あさイチ」に菅田将暉が出ていた。
わたしは大ファン。
インタビューには、あっさりした、ウケを狙わない対応、受け答えをしていた。
マルチタレント。
才能はボーダレス。
菅田将暉の映画、ここ10年、映画館で何本観たことか。
ハイペースで、次から次から新しい映画が作られた。
いろんな主人公を、一定の役柄に縛られることなく、カメレオンのように自然に演じていた。
それぞれを演じ分け、短時間にくるくる変わった。
若いのにスゴイ俳優だと思った。
あまり力むでもなく。ふっと肩の力が抜けている。
実際、水面下では必死の努力をしているとは思うが、まるでその片鱗も見せず涼しい顔で。
わたしは、そういうカメレオン風、涼しげな天才にはとても魅了される。


パソコン通信

2024-09-19 | わたし
わたしは、SNSのオフ会には36年ぐらい前に参加したことがある。
当時まだインターネットは今ほど誰も彼もということはなく、オフ会には、目立ったところでは、パソコン業界、文筆業界、広告業界の人ぐらいしか参加していなかった。
徳島の会社(ジャストシステム)で「一太郎」(日本語ワープロソフト)を作っているという人も普通に参加していた。
インターネットの前身?前夜?「パソコン通信」と呼ばれていた時代。
加入者数は20万人台?
1980年代後半、わたしが利用していたのはニフティサーブ。
義姉がやっていた「朝っパネ」と呼ばれていた朝日新聞社がパソコン通信を提供する「ASAHIパソコンネット」のユーザーは、もっと少なかった?
家で使っていたのは、NECのPC9801。
当時のパソコンは今みたいにアイコンを引っ張って動かすだけのものではなく、黒い画面に映る白抜き英数字をキーボードで入力してコマンドで指示した。
ワープロから何かを繋いで通信している人もいた。びっくり。(ワープロ通信?)

送信された圧縮データを解凍するには、コマンド英文字入力が必要だったような?

また、当時のフロッピーは、四角く大きく薄く、ふにゃふにゃで、それをパソコンにガチャンガチャンとゆっくり差し込んで読み込ませた。
その後は、もっと硬い小さなフロッピーもあった。
今のように丸くない。
隔世の感。
よくわからないなりに、今とはだいぶん違うので、当時のデータを見ようとしても、ツールや仕様、様式が変化しているため、その分野に詳しくないわたしには困難。
そして、、、写真は大きく伸ばしてプリントアウトして、毎日、机の上や玄関で眺めるのが一番いい。
電子はどうも、温度感、立体感がない。

とは言え、PDFで作成書類を送ってもらうと楽!以外のなにものでもない。
速い、嵩張らない、なくさない。
その後の保管は、またフォルダの山に埋もれて、もう知らん〜の世界だが。

わたしは何しろ、パソコンを使わなくなってもう8年?ぐらい経つ。
あの、立ち上げ時の時間が待てない。
別に何もすることなどないのに、時間なんかいっぱいあるのに、なぜか、イラッち。
スマホはなんでも出来て、手軽で便利で、かんたんに持ち運べる。
まさに携帯ミニマムパソコンだ。
昔、父の車の中で見かけた、肩から掛ける、ショルダータイプの大きな携帯電話がまるでウソのよう。

※写真をここ1週間、撮っていないので、延々と「ムーラン・ルージュ! ザ・ミュージカル」の写真が続く、、、




知能はAIに任せます

2024-09-13 | わたし
わたしは偏差値教育の渦に放り込まれ、鳴門の渦でぐるぐる回るかのごとく、、、嘘です。
鳴門の渦で深海に潜んでおりました。
(ちなみに、出身地は鳴門ではありません)
頭上をぐるぐる回る船を仰ぎながら。
上はぐるぐる回って目まぐるしく忙しないが、深海、底は静かだった。
みんな苦労しているなあ、、、。
自分だって、ぐるぐる回って揉まれなければならないのに。

高校時代、ある日、先生に職員室に呼び出された。
わたしが苦手な(だいたいどれも苦手だが)地理の先生。
テストはひどい、通知表も赤点?(表現方法は、よく知らないが)
わたしは身に覚えがあるので、はいはいと、軽薄そのもの、まったく聞いてないくせにする返事をしていた。
反省の色は全くなく、太々しい生徒である。
受験科目に選んでいない教科は、わたしには全くどうでもよかった。
ああ、あの時、もっと真面目に地学を勉強していれば良かった、、、と、思ったことは一度たりともない。
物理の先生には、時代が今なら完全アウト、許されないハラスメント、兄や姉と比較された人格否定発言を直接受けた。
物理は中学の時に既に捨てていたから無感動。ではあったものの、先生、ヒドイ!

わたしの知識と理解力、思考力は小学校5.6年の時に完了していた。
そのレベルで十分、世間を生きていけた。
それより、その小学高学年のレベルをクリアしていない人が世の中には結構いて、普通に生きている。
じつは、そっちのほうに驚いたが。

ある程度の基本力さえあれば、その上に積み重ねていくことはいくらでも出来る。
後年、へんに実感した。

仕事関係の、結構年上のある人。
中学?時代に丸暗記したという憲法第なん条かの条文をスラスラ早口で暗唱してくれた。
その人はなぜかその、なん条かを丸暗記したようだが、、、どうだ!すごいだろう?という色味を感じた。
プライドなんだろう。
英語は、からきし全くダメ。
教養はほぼ皆無。知的好奇心はまるでない。
あるのは本能のみ。
新しい機能を理解して使いこなすのもダメ。
とは言え、歳がいくと皆んな、だいたいそんな感じになるが、わたしはその人が若い時から知性のカケラも感じたことがない。
図体、ガタイのでかい、脳の小さい、あまり運動神経のよくない印象を持ち続けている。
が、長所は、タフで優しくて力持ち。
(ただし、間違っている知識を自信満々に平気で言い張る)
それぞれ適材適所、力になってくれる。
小型で性能が良い、ズル賢いネズミより、ずっと人間味がある。
知性は使い方によって、色合いが違ってくる。
人間性は要だ。
知能はAIで補うこともできるし、AIに職を奪われることもある。
しかし、AIが人間性を持ち、考えることが出来るようになると恐ろしい。
もう技術的には可能で水面下では行われていると想像できなくはないが、倫理上、ストップがかかっているかも知れない。

脳の働きには色々ある。
キレるキレない、優劣以外に、直感や第六感もある。
科学と超科学があるが、境界線を見極めるのが難しい。

世の中には、驚くほど知性と教養がない人がいる。
が、それがどうした?
わたしは決して非難しているわけではない。
人間性が大事だと思う。
全身全霊、全力で自分の持っている全能力を駆使して私利私欲に走り、大成功しても、人の不幸の上に築いた幸せなら?
人に対する思い遣りなどミジンもないのならどうか?

思考力があったとしても、変な方向に考えを煮詰めてマイナスになって、自分も人も不幸になっていくのなら、いっそ無い方がマシ。
自分にも人にも痛みを感じないなら、それはそれである意味、幸せかも知れない。
だが、想像力は必要不可欠だと思う。



自分で考えろ

2024-09-12 | わたし
ブロ友のブログ記事の中に、こんなのがあった。

「頭が悪い。
脳力の出力が小さい、軽自動車のような人」

この表現にシビレました。
なんと的確な説明。
「『わたし、バカです』と開き直り自慢する人がキライ」
これには、ドキリ。
わたしは、嫌われる。
正直に率直に素直に自分のことを自分が感じるままに言っているのに、嫌われる、、、
仕方ない。 
世の中には色んな人がいて、どんなスゴイ偉人も、欠点はあるし、嫌われる箇所はある。
欠点が知られていないだけのこともある。
なので、実のところはあまり気にしていない。
明るいバカです、わたし。へへ。へ。

ある東大卒、頭脳優秀の銀行マンがいたが、仕事はからきしダメだった。
入社わずかで、大手をどかっと頭脳優秀社員たちが退職する。
(それを見込んで2割増し?多めに採用しているところもあるとか)
企業風土とかもあるし。人間関係とかも。
頭脳の活かし方を変えると、また檜舞台。
塾の先生とかは、あまり天才型は向いてない。学業に苦労した人でないと。
ただし、お勉強分野の頭脳に限る。

※脱線、蛇足、関係ないが、「・・・など」の代わりに「・・・とか」という表現が大嫌いな人が(ある時期)身近にいて、いつも、他人さんが使う「・・・とか」表現に接する度に「嫌いだ嫌いだ」とわたしに直接言っていて、鬱陶しく煩わしかった。

話は戻る。
わたしの義姉はわたしと同じ年で、超優秀、頭脳明晰、学業優秀だった。
眉目秀麗、美人さんでもあった。
そのピカピカ頭脳に、息子の嫁がそんな人、、、父がゾッコン。
わたしも、ゾッコンだった。
同じ年、同じ地域、時代背景も教育背景も同じ。
まるで話にならないわたしだったが、全く卑屈にはならなかった。
なぜか?
相手にならない。 
引っかかりもしないからだ。
ドングリの背比べなら、熾烈な争いも生じるだろうけれど。
まるで違う分野、性質のものは、競争しようがない。
なので、ほほう〜、スゴイなあ、、、と、目を丸くして賞賛するのみ。
飛び抜け突き抜けている遺伝的なものは、競争できない。
オリンピック選手と100メートル走を競うようなことはしない。
やはりDNAの影響は絶大だと感じる。

で、バカはバカなりに、明るく楽しく生きるわけではあるが、、、
しかしながら、朗らかなバカを信条に生きていると、バカを見ることがある。
したたかな人に、自分がバカであることに気付かされず、やり込められる。操られる。
自分は、平等に扱われていないことにも気付かない。
一生、気付かないままが、平和で幸せだ。
中途半端なバカは、煮ても焼いても食えない。
いっそバカなら、まるっきり真っ白けの混じり気のないバカでありたい。
良い目をしている人に対して、何も感じないような、鈍感さを培いたい。
仏門に入るか、修行をするか。

でも宗教は、いろんな宗派があるにせよ、「人は皆、平等」という教えに貫かれているはず。
今は不平等でも、熱心に一心不乱にお経を唱えれば、あの世で幸せになりますよ、、、
そう囁かれても、目先の不平等さに囚われ、お経を唱える気になれない。
勝手にレースから落伍して、したたかな相手が喜ぶだけではないか、と。

死ぬ間際に病床で入信する人もいる。
ずーっと前から、幸せな時から信心している人が、それにもかかわらず不幸な状況に陥っているのを側から見て、
客観的にはなんのメリットもなく、救われていないと感じる人もいる。
生死観、宗教観、人それぞれ。
不幸な目に遭って、それがキッカケで入信することが多い。
現況、幸せな人は、さらに満足度を上げるために信仰するのだろうか。
迷いや煩悩、欲を断ち切ったり、祈願達成のために滝に打たれたり、お百度を踏んだりすることがある。
120%頑張って、後は祈るのみ、なんていうのもある。
自分のこころと向き合い、奮い立たせる。
これは、上昇に役立つ。

不幸な人も幸福な人も、自分のこころに打ち克つために、なにかをしないと自分を鎮めることが出来ないのか。
居ても立っても居られない。

ちなみに、わたし。
悶々とする、今日この頃。
昨日、元々アップする気のない未公開記事に、わたしの強く深い悩み、嘆きに対する問いにぜひお答えください、と、文末に、特定相手名を追加した。
名指ししたのは故人ばかり。
わたしの父と祖父母。
だが、誰一人と、アドバイスはなかった。
夢に少しでも出て、お告げでもあるかと思いきや、甘かった。
怖い顔や悲しい顔、あるいは無表情の顔が無言で現れるだけでも良かったのに。
自分で考えろ、ということだろう。
突き放された。

洗脳

2024-08-23 | わたし
サレンちゃん。
裕さん(長年のブロ友)、洗脳は、されんそうだ。
わたしは、洗脳されるかも?
サレルちゃんか。
サレンちゃんと、サレルちゃん。かわいいかも。
とは言え、一般的に洗脳は時代背景や家庭環境が大いに影響を与える。
とりわけ、軍国少女や軍国少年たち。
悲劇の暗黒歴史。

わたしの洗脳は、やはり教育に関して。
父が教育に熱心だった。
入れられた学校が、まるで軍隊のような(大袈裟)成績序列に支配された、厳しいもの。
スパルタ式。漫画みたい。
裏金やコネは通用しない、本人の実力だけがモノ言う社会。
かわいい美形社長令嬢だとかでも、成績がダメなら崖下。さようなら。
落伍した女子も、他校に転校した後には、まだ男子補助サポート係の女子部門での道は残されていたが。
女子の甘ったるい声を使って、男子に取り入る道。
ないよりマシな、敗者復活戦。

通っていた学校の教師の子供も優遇一切なし。
権力者や富裕層の子供でも、本人がダメならダメ。ダメなものは、ダメ。
親が知られていたら、悪目立ちして、かえって、かわいそう。
幼稚園から中学卒業まで、わたしはそこにいた。
ずっと崖っぷち。
その学校は一貫校で幼稚園から中学まであったが、高校はなかった。
つまり、肝心のエスカレーター式、進学先の高校がない。
おっとっと、と、いきなり、エスカレーターの先は崖。つんのめり。
あれ?次がない!
 
というわけで、幼稚園、1クラスの人数から小学2年で2クラスに増員されて編入してきたり、中学から受験入学してきたりする生徒(優秀)がいる中で、幼稚園組(わたし)は学年では最長在学年数を誇った。
「最長」というのは、幼稚園から在籍ということで、頭脳は全く、本当に全く関係ない。
だがしかし、幼稚園の幼馴染の女子は超難関国立大学教授だったりする。
途中からわたしとは行く道が分かれた。
書くと虚しくなるだけだが。

長女に言われた。
「おかあさんの輝かしい栄光は、中学までか」
はい、その通り。一言も返す言葉がない。
惨め、悲しい、みっともない、情けない、泣かず飛ばず、尻すぼみ、初めだけ、後が続かない、、、という意味が込められているのだろうが、一生で一時期でも輝かしい時期があるのは、ないのに比べると良い。
と、いたってプラス思考。
自己肯定して、何か悪いことでも?

ただ、人にはあまり大きな声では言えない。
だから、言わない。
せいぜい、同窓会に参加して、当時の皆さんの活気を脳内再現、吸収しに行くのが、わりと好きではある。
1番苦しくプレッシャーもあったが、目一杯頑張っていた時期。 
それ以後は、頑張り切った後の老後で、今も老後は続いている。
大器晩成の逆パターン。
他人との比較ではなく、あくまでも自分比。
小学校5.6年と中学3年間、ついでにオマケの高校3年間。
そのあとは余生。
小さい頃の頑張ったチャージで生きている。
アーリーリタイアというには、社会にまだ出てないうちからリタイア。
まるで元子役の俳優。活躍したのは子供の時だけ。
成人期、中年期の真ん中はないのか?
一回の表に点を取って、そのまま死守したようなかんじ?
その実、死守するのも大変なのだが。
地味な作業。
新たな収入はなく、利息で生活するようなもの。
と、くどくど書く。
書くのは楽しい。
今までひつこく、何度も蝶ブログに書いている。
痛めつけられた体験なのに、なぜかエキサイト。

最初から、子供の頃から人生の方向性は決まっていて、微調整、マイナーチェンジぐらいしかしていない。

ちなみに。
ここからが、書きたかったこと。
最後になったが。

今日の高校野球決勝戦。
朝から出かける準備を早々に済まして、テレビの前に座る。
12時になっても終わらず、9回から試合が動き出したので、お出かけ予定のバスを一本、見過ごした。
食パンを冷凍庫から出したものの、食べる時間はなさそうだと踏み、元に戻した。
昼ごはん、抜き。
いい試合だった。
わたしはどっちが勝ってもよく、両方応援した。
が、出かける日には、時間が気になって心臓によろしくない。

※写真は、「うな牛」のテイクアウト。
バテバテの夏を乗り切るには、これ。

結婚に求めるもの

2024-08-22 | わたし
蝶ブログ、1日1投稿。
ノッてしまうと、アップしたばかりなのに、もう次の記事を書いている。
なんとなく遠ざかると、書かなくても気にならない。
安定期を迎えた恋人みたいなものか?

自分のブログが恋人だなんて、かなり笑える。
ちなみに、今日の「虎に翼」、またまた涙。
わたしは涙の貯水湖ダムか。
結婚の意味を深く考えさせられた。

二人とも死別、独身、再婚。
なんの倫理的障害もない。
あえて婚姻制度の中に収まる必要もない。
人に正々堂々と、妻です、夫です、と、愛する人を公表したい。
社会的認知を得たい。
なら、事実婚、内縁でもいいのかも?
誰も戸籍まで調べに来る人はいないだろう。
重婚の疑いでもないかぎり。

だが、結婚制度に収まるほうが、社会的保護を受けやすい。
税金を払っている納税者なのだから、払った税金の恩恵を受けてもよい。権利はある。
税金を払っていなくても、もちろん社会的弱者にはサポートしてもらえる権利がある。
みんなで支え合う。

次女が婚姻届を出した理由がまさにそれだった。
社会的に制度で守られている立場を確保したいと。
シングルマザーではやはり、子育てを一人で背負い、風当たりはキツイ。
子供も無戸籍ではこの先、大変。
片親の籍に入れるにしても。

ところで。
戦後間もない沖縄では、ハーフがたくさん誕生した。
学校でも外見、容貌の違いから、いじめられたようだ。
羽賀研二、草刈正雄。
彫りの深いイケメン。超絶カッコイイ。
日本人だけのルーツではあのような顔にはならない。
日本人は、西洋に無条件に憧れるようだ。
これは、歴史的な背景からか?

鎖国が長い。
そこへ突然の明治維新、文明開化の雨嵐。
西洋文化を崇める政策。
大きな戦争にも負けたし。
身体の大きさ、骨格、筋肉、全然違う肉食系人種。
木と紙の家に住み、魚や野菜を食べる日本人。
周りを海に囲まれた島国で、大陸とは比べものにならない。
陸続きの日々の切迫感は育たないだろう。
劣等感や敗北感というよりは、圧倒的優位なものに対する憧憬、崇拝。
というか、国の政策や方針もかなり影響しているのだろうと想像する。
紹介されるものは、光が当たる部分ばかりだったりして、暗黒部分は知らせなかったり。
イメージを膨らませていく。
ある意味、怖い。
わたしは戦後生まれ、アメリカ文化洪水の中で育つ。
が、田舎育ちでもある。

とは言え、愛国主義も一歩間違えると危険性を孕む。
これまたイメージがかなり良くない場合もある。
思想は取り扱いがデリケート。
わたしは、別に何主義という確固たるものはない。
ひとつの限られた特定のものに対して非難も否定もしないが肯定もしない。
毒にも薬にもならない、非力タイプ。
事なかれ主義?
一番、中途半端で、1番危うい。
選挙でいうと浮動票か。
いわゆる平和ボケだと感じている。
いつまで平和が維持されるのか。
年々、戦争経験者がどんどん亡くなっていくと、伝える人がいなくなる。
毎年、終戦日を迎えると、多くの犠牲の上に立って築かれた平和の意味をより深く知る。
平和を願わない人はいない。
が、毎日のニュースにはこころ痛める。

ちなみに。
小学生向きの「世界の歴史」漫画、なかなか読み進められない。
学生時代、いったい何を学んだのだろう。
紀元前の話など、授業ではほんの一瞬で過ぎてしまっている内容だ。

それはそうと、話は戻る。行ったり来たり。
地震のごとく揺れが激しい。
「虎に翼」。
結婚に対して、あんなに純粋に真面目に向かい合うなんて、なんて素晴らしいことか。
わたしには、おそらく1μもないと思われる。
結婚は、永久就職先探しだった。
ではあるものの、目の前に並べられた就職先を選ぶのに、最後に背中を押すポイントは、、、やはり、相手はAIではなく、生きた人間であること。
全員、生きた人間だったけれど。
とかなんとか、結婚はいくら考えても、両者が合意しなければ進まない。
ご縁だ。
タイミング。くじ引き。ギャンブル。
とは言え、その時に最善の決断をした結果だ。

寅子のように恋愛に疎いタイプでも、あんなに素敵な相手とドラマチックに結ばれた。
恋愛や結婚に、あれこれ求めないほうが良いようだ。



「郷土愛」とは似て非なるもの。たぶん自己愛。

2024-08-12 | わたし
わたしのブログをご覧になる方には全く1万%興味がないと思われますが、、、
お読みになった場合は、読後、もやもや感が残ると想像します。

・・・・・

昨日は、実家愛に溢れる行動を取った。
友人一家をご招待した。
友人一家は、友人Fさんのご実家に向かう途中に、わたしの実家に立ち寄った。
待ち合わせは、わたしの実家の近くの電車の駅。
Fさん一家は、車で、隣の府から出発。
わたしも自宅(隣の府)から電車で出発。
お互いにほぼ同じ時間に、自宅を出発し、同じ時間に電車駅に到着した。
所要時間、2時間半。
待ち合わせ時間よりお互いに30分早く着いた。

Fさんは、ご主人と息子さんとで、Fさんお母さん(92歳)が一人で暮らす広島県へ帰省される道の途中。
わたしの実家に、寄り道。

わたしの実家では、義甥が一人でスタンバイ。
我々を笑顔で迎えてくれた。
19時までステイして、Fさんは帰りに駅でわたしを下ろして、その後は、夜にFさんのご実家に到着予定。(2時間ぐらい?後)

わたしが、Fさん一家をわたしの実家にご招待したのには理由がある。
今、義甥がわたしの実家を使って、ひとりで、人の交流を軸にした、あるビジネスをしている。
内容を具体的に書けばよいのだが、ごめんなさい、書きません。
(ネズミコウだの、宗教だの、政治だの、物販だの、、、ではありません)
知る人ぞ知る、少しずつ紹介の輪を広げている。
わたしの実家や、義甥の取り組みを知っていただきたいためではあるが、多くの方には気軽には行けないお値段のため、わたしは自腹でご招待というかたちを取っている。
癒しの場、文化、空間の提供。
海外や、企業、行政の3本立てで展開していけたらいいという理想を持つ。
海外有名チーム・リアルマドリードの方々の利用など、実績もポツポツ見え始めている。
(一昨日は、日本のプロバスケット選手が来ていた)
が、民間に関しては、わたしの関係者にはポケットマネーを使ってご招待。
(義甥に援助)
運営が成り立つのがどうかはまだ未知数ではあるが、目先の利益にとらわれず、細く長く、やっていっていただきたい。
最悪の場合、運営中止になったとしても、義甥には実家を細々と管理、保持してほしいと願う。

自分のため、実家愛が詰まっている。
Fさんにも、わたしの実家愛を強く感じた、と感想を言われた。
ねえねえ、見て見て!ではない、静かな実家愛なので、末永く見守って行きたい。
わたしが出来る範囲で、協力できることは協力したい。
今のところは、知人「ご招待」という協力の仕方である。
大大的ではなく、いたって消極的。
ではあるが、義甥を応援している。
同窓会でも、個人的にキーマンをわたしがご招待する運びになった。

という、内容が具体的に見えない、ブログ記事になった。
広報したいけれど、したくない、、、
知ってほしいけれど、宣伝はしたくない、目立って欲しくない、、、
複雑な心境だ。
一本釣りピンポイントで、コツコツ活動していくつもり。
派手さがない、じわじわ路線、限られた人だけのご愛顧を目指す。
そのうち、細い線は途切れて、また元のように、他の外の人に向かっての活動はしなくなるかも知れない。
それはそれでもいいと思っている。
わたしって、攻める姿勢がまったくない。
欲がない。あるのは実家愛だけ。が、それも欲の一種かも知れない。
愛は、感情なのか?
感情よりはもっと強い、動かないもの。
ではあるものの、ほんとに自然体だなあ、、、と、つくづく感じる。





ようやくトンネルから出口の光

2024-06-10 | わたし
ミニ鬱、突入から3ヶ月目。
やっと動き出したかんじ。
少しずつではあるが。
一旦、自分を空っぽにしてみた。
自分はいったい何がしたいのか?
何にもしない空白の日々を過ごして自問した。

で、、、
退屈だった。
何にもしない、何もしなくてよい、何もしたくない、、、
なんであれ、何にもしないのは、身体に良くない。
健康体なので、先に身体が音をあげた。
こころのせいで、エンジンが止まり、動かなかったが、健康体はやはり動きたがる。
心身は一体だ。
自宅軟禁は疲れる。
家に篭っていないで外に出るべきだ、と、友人にアドバイスを受けた。
外が面白くなくても、失敗しても、とりあえず行動に移すべきだ、と。
自宅が例え1万坪で、やることがいっぱいあったとしても、、、それはそれで、やることがありすぎて、心身共に疲れそうだが。
(→例えが変)

というわけで、なんだかよくわからないが、わたしが能動的に動いたわけでも積極的に頑張ったわけでもないのではあるが、外因から、偶然、日常が動き始めた。
わたし以外は、周りは動いていたのだ。
梅雨のシーズンに突入し、その後は想像するだけでゲンナリする酷暑がやって来るにもかかわらず、なんとなく気持ちが上向きになった。
よかった、、、。
虚しくじっとしていたが、底まで沈んだ後はしばらくすると浮き上がるようだ。

スケジュールも無理のないバランスで活発になっている。
忙し過ぎるのも疲弊するが、逆もまた良くないことを身に染みて感じる。
人生には何度かそういうバイオリズムがあり、何か引き金があると、ミニ鬱が顔を出すようだ。
たぶん、今のミニ鬱は、老人への入り口にいるわたしが、入りたくなくて抵抗、停滞していたのだろう。
老化という捉え方なら生物として抗えないので納得できるが、老化ではない、生来の力や経験・体験を通して年齢を重ね自分が培ってきた力。
その自分の能力を知り、その限界がわかり、今後の展開を予想して、やる気をなくしたと思われる。
やり直し、再チャレンジするには、エネルギーが足りない。
だが、すっかり枯渇して2度と湧き上がらないわけではなく、時間が経てばまたチャージできる。
挫折してもまた這い上がる。
無駄な抵抗、あがき、、、ではあるが、これは、生きる原動力だと思う。

老化のせいではない、自分の能力の無さを思い知り、こころが傷んで痛んでいた。
やっとこさ、ちょっと治ったのかな、、、
と。
友人たちとの交流も復活しそう。
今後も頻繁に行動を共にはしないと思うが、それがキッカケになって、わたしの、細い管につっかえていたもの、詰まっていたものが溶けた感じで、ようやく少しずつ流れ始める。
停滞は良くない。流れないと。
無理やり詰まっているものを外科的に取ると傷が生まれるが、漢方薬のように、自然治癒力を促す、そういう方法だと思う。
自分流、行動療法。
良くなるまで、じっと待つ。
病み上がりではあるが、快適な気分だ。