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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

東京駅

2024-10-29 | お出かけ
東京駅周辺は綺麗。
ゴミもないし、世界に誇れるのでは。
無機質と雑踏と、インバウンド。
駅の前は皇居。
人工的スケールが大きい、大都会。
ビジネスマンが多く、遊ぶエリアではないところが、へんにザワザワしなくて、邪魔にならなくて、スッキリ落ち着く。

昨日は午前2時、就寝。
明日は6時にホテルを出るのに、まだ寝ずに、だらだらしている。
なんだ、家に居る時と同じじゃないの、と可笑しくなる。

おひとり様でホテル宿泊は、じわじわ満たされる。
非日常も良いものだ。

かやぶきの里

2024-10-22 | お出かけ
今日は朝早くからお出かけだというのに、就労時間ぐらいの長さのロングLINEを夜更けまでしていた。
途中、居眠り休憩あり。
まあそれにしても、なんと長い。

昨日一緒にウォーキングしたご近所さんと、別れ際にLINE交換した。
で、今日はありがとう、とLINEした。
向こうからも絵文字ペタペタ返信。
が、最低限度に留めておいた。
LINEが長くなりそうだからだ。
わたしも知恵がついた。
長くなりそうな気配を察した途端に手を打つ。

昨夜のロングLINEの人は、なかなか離してくれなかった。
いい加減、疲れた。
が、プラスもある。
それに、わたしは、人が気分がノっている時には流れに任せてお付き合いする主義。
どこまでもお付き合いしたら、ミッドナイトを突き進んでいた。
何かしら、そういう時があるのだろう。
わたしはお付き合いするのみ。
疲れるなら、やめたらいいのに。
わたしも嫌ではなかったのだろう。

今日は、元同僚とドライブ。
美山かやぶきの里、京都のあたり、南丹市。






わたしは横に座っているだけ、超かんたん、便利。
と乗る前は思っていたが、この人の運転、マインドフルネスならぬ、超ストレスフル。
ではあるものの、運転、ご苦労様。
元同僚さん、ありがとう。 
万歩計は、さほどカウントされなかったが、ドライブだから。
それはいいのだが、途中で頭がキーンと痛くなった。
やはり寝不足か、風邪でも引いたか。
上手い具合に、行かない。

帰りに京橋駅(大阪市)で、日本共産党の志位さんが熱弁。
京橋は、JR、京阪、地下鉄の多くの路線が乗り入れ、交差する地域なので、平日通勤時の演説には効果があるだろう。
いっ時、どーっと響めきが上がり、聴衆、けっこう盛り上がっていたが、サクラかも?なんて、根拠なく勝手に思った。
私はまだ誰に入れるか決めていない、浮動票。








お墓がズラリ

2024-10-01 | お出かけ
「虎に翼」、同じ感想でも、優れた立派な素晴らしい解説、感想が書かれたブログ記事があり、頭脳の良さが嫌味なく自然に露呈されている。
それに比べて、わたしの蝶ブログは知能指数が低いのがバレバレである。
蘊蓄の数々、解説は興味深く答え合わせのごとく、インプットは出来ても、わたしは客観的なアウトプットが出来ない。
つまり、具体的事象や正確な知識は、理解するプロセスの段階で消化されてしまって、残っていない。
人に理路整然と説明できない。
で、結局どうなったの?と、結論重視。
まあよい。
劣ったものがあってこそ、優れたものの良さが際立つ。
不味いものがあってこそ、美味しいものに舌鼓を打てる。
持ちつ持たれつ、お互い、相乗効果。

さて。
高野山。
わたしは何度か訪れている。
直近では、つい1週間前。
しばらくは、高野山の写真が続きそう。

写真を撮ろうと思ったのだが、お墓の写真は1枚だけ。
しかも、墓とは言えない、書いたものを供養する?「楽書塚」。
まさにムダ書き散らし蝶ブログの供養。自分向け?
それはさておき。
なぜお墓の写真を撮らないかと言うと、今年4月に参加した「歩く会」で、三田(兵庫県)にある白洲次郎とそのご先祖様たちのお墓を訪れた。
その際、お墓の写真をどんどん撮ったら、お墓から出た直後ぐらいから、急に頭痛に襲われた。
やっぱり、お墓の写真はダメなのかなと、頭キンキン痛いなあ、と刺さる痛さをもって、わたしに(墓主が)訴えてきた。
それ以来、お墓の写真を撮るのには慎重になっている。

夫の実家の仏壇前にお供えした、お盆の里帰りご先祖様への(記録のための)お膳料理写真もそう。
何か写ってないか、恐々見てみるが、何も写っていない。今のところは。
ご先祖様の皆さんからはクレームはない、とわたしは受け取っている。
この夏から、なんと、ノリタケの新古品デミタスカップ&ソーサーで、淹れたてコーヒーを(ついでに)(自主的に)お供えしている。
コーヒー好きは、義父(舅)だけなんだけど。
夢の中にニコニコ笑顔は現れないが、期待もしていないからよい。

自分の家はよいが、やはり、他人様のお墓には気を使うようになった。
コラコラ!人の聖域に土足で踏み込むな、という頭痛パンチのお見舞いは、鈍感で無信心なわたしにも効いた。



ムーラン・ルージュ! ザ・ミュージカル

2024-09-15 | お出かけ
ミュージカル「ムーラン・ルージュ! ザ・ミュージカル」を観た。
地方公演は、大阪が初らしい。
しかも昨日が公演初日!
良い音響、良い舞台。

ただし、ご招待だったので、知り合いご夫婦を3組見かけた。
しかも、隣はガタイのデッカい旦那さんだったので、圧迫感を感じたが、観ているうちに隣の存在は忘れ、没頭した。
素晴らしかった。
特にビートの効いた歌とダンスは、直接、目から心臓に響く。
さすがに歌が、上手い。
ダンスは、血が騒ぐ。
(書けば書くほど、稚拙で平凡な表現になっていく、、、、)

ちなみに、大都会、梅田。
超久しぶり。 
土曜日の夜ということもあり、すごい人。
わしゃわしゃと、どこから降って湧いて出て来るのか、若者いっぱい。
ではあるが、梅田芸術劇場に集まる人は、そんなに若い人ばかりということはなかった。
落ち着いた年齢層の人々もいて、すこし安心した。

梅田は庭のうちの一つではあったのに、もう遠い昔のよう。
田舎ネズミで、強烈な方向音痴、そこにグレー・プレ認知症のわたしは、ちゃんと会場に行けるかしらと不安になった。 
自信がなかった。
だが、身体で感覚を覚えていたようで(子供の頃、乗れた自転車には、ブランクがあっても乗れるのと同じ)、全くロスなく一歩も間違えることなく現地に着くことが出来た。
待ち合わせの時間まで30分近くあり、人間ウォッチングをして待っていた。

ある面識のない女性二人に、いきなり、スマホで二人の写真撮影をお願いされた。
しかも、すみません〜、とかではなく、不躾に、ツアーの添乗員に頼むかのように当然な感じで頼まれた。
人にものを頼む態度ではなかった。
二人とも洗練された格好をした熟年なのに、礼儀がなってない。
単にスマホ撮影など、誰でも簡単に出来るが、わたしは自分のスマホを片手に持っていたし、バッグも抱えていたので、けっこう、モタモタした。
しかも、シャカシャカ敏速に行動するタイプではないので、自分なりには、負担だった。
何枚かシャッターを切ったが、その画面を確認した二人は「まあいいんじゃない?」と、たいして礼も言わず、目の前からいなくなった。 
引き続き、待ち合わせ場所である会場建物(梅田芸術劇場)の玄関前で待っていると、また二人はお互いに写真を撮っていた。 
田舎ネズミのわたしは、都会では、立派な良い歳をした熟年になっても礼儀知らずな人はいるものなんだなあ、、、と思った。

座席場所はわかるかしらと、じつは、ドキドキしていた。
というのは、わたしは飛行機では何回か座席番号を間違えて座っている黒い経歴がある。
前と後ろの座席を勘違いするのだろう。
なので、人一倍、ナーバス、慎重、そして自信がなかった。

なにしろ、グレー・プレ認知症になってからはほとんど新しい場所には切り込んで行っていなかったので、感覚がどんよりしていた。
最近は、広々した自然に接することで、身も心も解放されていたついでに、脳みそも緩んでいたのではないかと危惧していた。
でも、まだ、大丈夫みたいなので、とりあえず、安心した。
だが、またいつ、ポカミスをするか推測できない。 
有名人の名前がアタマに浮かんで出てこない不安に特に今、駆られている。
が、皆さんたぶん、通る道。 
グレーのまま、ずっと行く可能性だってあるわけで。

今回、一緒に行った次女は今、知的ジャンル、芸術鑑賞にとても興味があるそう。
直近ではバレエの舞台を観たらしいが、自分には響くものがなく、あまり次には繋がらなかったようだ。
わたしもバレエはロシアで観たが、まったく脳を素通りした。
昔、少し習っていたのがウソのよう。
次女が通っていた中高学校では、音楽や舞台など芸術鑑賞が行われていた。
知らない分野に触れる、良い取り組みだと思う。
それもあって、次女は、また脳が活性化され、子育て真っ盛りではあるものの、その合間を縫って、復活したのかも知れない。

わたしも、いろんなものに触れたいと思った。
若い頃にあれこれ行ったり観たりしているのだから、またエンジンが動くうちに活動したい。
まだ都会に出向けるところに住んでいる間に。
田舎ネズミが動ける間に。




体調悪化は、なぜ?

2024-05-12 | お出かけ
さて。
今日は疲れた。
毎日、そう言っている。
疲れた、と言わない日は、何もすることがなく退屈だった、と嘆く。
悪い状態だ。
やはり、ミニ鬱?
かなり体調が悪い。
医療機関に出向き、受診しようかと思うぐらい。

お墓の写真をバシバシ撮ったから罰が当たった?
12キロ、ウォーキング、白洲次郎のご先祖様を巡る。参加者は90人?
お墓のあたりから急に体調が悪化した。
「お墓の写真は撮ったらだめ、って言われてますね」と、参加者の女性の言葉が妙に引っかかる。
宗教分野、スピリチュアル分野は、ひとそれぞれ好みがあるから、何も感じていない人にとっては、鬱陶しいことこの上ない。

かつて、姑Aの「占い」に家族中、いや、親戚中が、振り回された。
わたしは、たまたま強いメンタル(無神経、鈍感)だったため、(それと打算=言うことさえ従っていたら、あとは全くなんのクレームももたれない)姑Aの占い内容に従った。
姉にも言うと、姉は、姑Aの占い内容を一切姉には知らせるな、とわたしに釘を刺した。
気が悪いからだ。
人の運命や行く道を、いちいち占いで指示されるなんて、鬱陶しい人にとっては鬱陶しいだろう。
指示に従わなかった人の運命の下降線を確かめて、生きた見本、材料にするあたり、本当に気が滅入る。
ほらほら、やっぱり事故、病気、不幸はあのせいだ、なんて、タチの悪い新興宗教のようだ。
あまりにも姑Aが熱心(うるさい)ので、皆んな、渋々従っていた。
やがて晩年、姑Aは自分の健康だけで精一杯、人のことに口を出すほどの余力がなくなって、占いどころではなくなったようだ。
家族のことを思う気持ちはよくわかるが、迷惑以外の何ものでもなかった。
家族の安全や無事を祈るのはお百度でも踏んで自分の行動で完結してくれるならよいが、「◯年◯月に、◯◯に移動しろ」などと、いちいち人の行動を指図されるのは有り難くもなんともない。
姑A自身の安心を得るため、不安を払拭するために家族は振り回されていた。
人には、なくて七癖とはよく言ったものだ。

断れば済むこと、拒絶すれば良いことなのだが、姉のような強い心を持っていないわたしは、姑Aが何も指示しなくなるのを待つだけだった。

舅も夫も姑Aの言いなりになっていた。
姑Aは真面目で良妻賢母で優れた良い人なので、ひとつぐらい意思を通す機会があってもよい、と考えた?(わたしも、そう考えたうちの一人)
それで、あとは丸く収まるなら。

大きな目で見ると、ささいなことかも知れない。
だが、ことあるごとに嫌な気持ちを思い出す。
やはり、不満、鬱憤、怨みを抱えたまま解決せず、後々、その後世まで持ち越されるのは良くない。
一代限りなら、当人が亡くなると鬱憤も消える。
けれど、人には良い面も嫌な面もあるのは、皆、同じ。
断り、拒否できなかった自分にも原因はある。
人間は弱いものだ。
ストレスの99%は、対人関係かららしい。

※写真は、昨日撮影、日本初の民間博物館。今は石碑のみで現存していない。








好きなことをしていると、ヘマも同時についてくる

2024-04-06 | お出かけ
「(年収200万円で)こころ豊かに暮らす」と、「(年収200万円で)豊かに暮らす」は、微妙に違う。
「豊か」は、人によって様々。
価値観や捉え方によって違う。
年収200万円でも、持ち家で、預貯金があり、健康な場合と、そうでない場合では大きく違う。
年金暮らしとあまり変わらないのでは?
タイトルに惑わされてはいけない。

お金と生活は切っても切れない。
暮らし方を見直すとしても、見直す前のライフスタイルが身についていたら、慣れたものから変えると苦しみが生まれそうだ。
特に生活レベルを下げる時は。
次第にまた慣れるが。
順応性がある種が生き延びるらしい。

自然体で出来ることが望ましいが、こんなことは当たり前過ぎてアドバイスにもなんにもならない、スパイスの効かない意見である。
というか、自分の志向への確認である。


さて、今日もまたまたウォーキング。
昨日はダンスに出かけた。
今夜から次女母娘が家に泊まりに来る。
これだけ書くと、他のブロガーさんのgooブログ記事に紹介されていた理想的老後パターンか。
わたしは別に目標をかかげて目指したわけではない。
目標を達成するために計画を立てたわけではない。
気がついたら、こうなっていた。
周りの景色を楽しみながら、自分が楽しいと感じることをしていたら、こうなっていた。
シャカリキになって頑張ってきたわけではない。
頑張らない道ばかりを選んだようだ。
あかんたれ、だ。

好きなことをするためには、多少なりとも嫌なことには目をつぶらなければならない。
苦手なこともしなければならない。
多少は。
苦手なことや、嫌いなことが好きになるかと言えば、そうとも限らない。
先ずは何を優先するか、優先順序が要かと思う。
最低限やるべきことはやってベースを作れば、あとは応用、オプション。

だが、「最期」はこうはうまく行かない。
一発逆転、人は皆、平等である。
最後の最後までわからないから、面白い、、、というか、手が抜けない。


・・・・・と、ここまで書いて、、、
乗っていた電車が方向違いで、しかも降りるべき駅を過ぎていることに気づいた。
今日のウォーキング集合時間には余裕を持って家を出たものの、、、冷や汗たらたら。
全員集合して一斉に歩くのではなく、各人でそれぞれに地図を片手に歩く方式だったため、集合時間に遅れることはなかったものの。
いつも、調理に例えると、蕎麦を茹でる手順で、沸騰してお湯が溢れそうになった時のビックリ水みたいに、スマホで何か夢中になると、必ずといっていいほど、電車のヘマをする。
アタマからシャワーを浴びる感覚。
学習能力ゼロをまたまた再自覚した。



妄想、幻想、現実

2024-04-04 | お出かけ
海外の親戚の住む地に滞在10日、良いなあ、、、羨ましい、、、。
1週間では短い、2週間では間延び。
ぴったりの長さだと思う。
わたしは、もう随分昔、2週間を3回、自由滞在した。
20歳の時は1ヶ月滞在。
遠い遠い過去の話。
その思い出を糧に、少しずつ貯めた体験貯金を切り崩すように、毎日を生きている。
なんていうと、まるで寝たきりか、入院中か、監獄に収監されているかのようだが。
ではあるものの、自分にとって素晴らしい記憶はいつまでも自分のエネルギー源になるということ。
チャージして繰り返し使える蓄電池みたいなものか。
時折、太陽からの自然エネルギーでチャージしなければならないが。
太陽は?
曇りの日も土砂降りの日も、自然災害と向き合う日もある。
太陽が照り輝く間に、思いっきり存分に光を浴びて満喫して楽しむ。
あとは、余波、チャージしたものや、日々の営みから安らぎを得る。
保存食で、しのぐ。
とはいうものの、あと一回は、ぜひ思い出づくりの旅に行きたい。


話は変わるが、
「女性が描く理想の老後とは?」という内容のブログ記事を読んだ。
まだ30代や40代、50代の女性が想像する老後と、60代、70代が想像する老後、さらに、80代、90代が直面する現実の老後とは、少し温度が違う。
共通するものは、「心身の健康」と「お金」のようだ。
かつて何十年か前は、仲間や友人、家族という「人」も必須とされていた。(今もかも知れないが)
お一人様が増え、家族に代るものを必要とされるが、お互いに距離感を保つ。
もたれかからない間柄となると、それはそれで自制し、結構大変である。

京都・東山、ねねさんの終焉の場である「圓徳院」を訪れると、尼さんになってこんなところで、しっとり、ひっそり世を去るのは理想だと感じた。
超超超高級スペシャルVIP待遇老人ホーム。
豊臣秀吉の奥さんぐらいにならないと、例え平民であっても、無理だろう。
いや、大谷翔平の妻なら可能かも?
だが、わたしが大谷翔平の妻になること自体が不可能である。
残念ながら。
仮に、企業創始者の家族ぐらいなら、可能かも知れないが、これまた残念ながら空想、いや、妄想の世界になる。

理想は、自立出来なくなるまではギリギリまで自宅で通いのヘルパーさんに補助してもらい、補助は限界となったら、普通の老人ホームに入る。
自宅療養だとか、家族には無理は言わないつもり。
自分を犠牲にしてまで、身を粉にして、それだけの手間暇かけて家族に愛情を注いで来なかったツケとして、見返りは期待しない、というか、期待したらバチが当たる。
お互いに、じつに、あっさり。

TV(Eテレ)で自宅での看取り、美しい最期を紹介されていたが、余命数ヶ月の家族だった。
それなら、(看るのが)わたしなら全力で取り組むかも知れない。
(看られるのが)わたしなら、どうだろう?
自分に悔いが残るかどうか、である。

ねねさんが、圓徳院に移り亡くなるまで(58〜77歳)は、今のわたしと重なる年齢。
身体が動くうちは、夢いっぱいの幻想を抱ける、いろんな光景、風景を見て歩きたい。






と、妄想を膨らまし、幻想に耽って楽しんでいたら、、、
突然の電話。
今から行くから、昼食はミートソーススパゲッティお願いします、とのこと。
ものの10分もしないうちに、玄関から大きな可愛い声。
3人kidsの笑顔が現れた。
4番目孫は保育所があるが、それ以外は春休み。
今日も、昼食、夕食、連チャンになる。
春休み限定、おばあちゃん食堂。







スタスタ桜紀行

2024-04-03 | お出かけ
写真は昨日の和歌山城。
桜は満開。
今日は雨なので、少し散ったかも?
ベスト咲きの桜に出逢えて、大満足。
いっぱい写真を撮ったが、桜のシーズンが終わるとブログに使えなくなる。
せいぜい、ここ1週間は桜の写真を蝶ブログにアップしよう。

この1週間で、3箇所の桜紀行。
しかも、うまい具合に、奈良県、京都府、和歌山県と、3都を制覇。
桜スタンプラリーのようになった。

和歌山はあまり人は多くなかった。
京都のすぐ後だったため、比較してしまうせいもあるだろう。
客層も、インバウンド客よりも日本人が多かったように思う。
和歌山は暮らしている人々の姿があちこちに見られるが、京都では、観光業に携わっている人の他には、市民の皆さんにはあまり遭わなかったような気がする。
オーバーツーリズムで、うんざりされていることだろう。

京都はさすがに世界的にも一大観光地だが、和歌山城に足を伸ばすインバウンドの人は、相当渋い少数派。
平日ということもあるかも?

現地で入手したリーフレットを家でじっくり読むと味わい深い。
特に京都は、雅やかな上に、華やか。
リーフレットに書かれている、お寺そのものも素晴らしい。
しかしながら、秀吉と北政所を祀ってある高台寺の廟堂本、霊屋は、内部がちょっとボロボロすぎて放置されている荒んだかんじが気の毒なぐらいだった。
修復する費用と人材が不足しているのか?
重要文化財である創建当時の茶室(傘亭&時雨亭)は、あまりにもぼろっぼろで、食うや食わずのガリガリの、ひもじい仙人が居るのかと思われるぐらい。
いつも近代的な建物や設備の中で暮らしているから自然な劣化に、わたしの目が慣れていないようだ。
しかし、吹きっさらしの茶室なのだから、よくぞ原型が保たれたものである。
潰れないように最低限度メンテナンスはされているとは思うが、あえて過度に手を加えないことが、本来のままで、風情を醸し出すのだろうか。












桜スポットはたくさんあるし、写真もバンバン撮ったのに、桜が写っていない、旬ではないこれらの写真をたくさんアップするわたしは、どうなっているの?
ハイシーズンの今しか見られない桜の美しさを堪能したその一方で、朽ちていきそうな重要文化財を見ると、とても印象に残った。

桜は散り際が美しく、日本人の美学とされるが、散ってしまうことなく、永遠に未来永劫に続くものは価値がある。
そんなものは、あり得ないだけに。





桜桜桜

2024-04-02 | お出かけ
それにしても急激に暑くなり、身体がびっくり。
次女一家は土日に東京に行ったようで、どこやらの海の岸辺で孫が水遊びをしている写真を送って来た。
紙おしめパンツ(2歳児)の位置まで、スカートをまくりあげていた。
潮干狩りかと思うような、泥の中に手足を突っ込んで楽しそう。

一気に春を通り越して夏、突入?
わたしは、知覚過敏ならぬ(寒暖差)気温過敏で、暑いの寒いのと、うるさい。 
ちょっとした気温の上下に調節できる服装でないと、機嫌が悪い。不快。
なので、季節の変わり目は気温が落ち着くまで、何段階にも調節できる服装でスタンバイしている。
荷物が多くて嵩張り、邪魔になる。
めんどくさい自分に、うんざり。
そして、いつも、季節の変わり目は、アレルギー疾患に悩まされている。

ちなみに。
写真は、京都、高台寺。


東山、人気スポットらしい。
まるでネットで拾ってきたような写真が撮れた。(Cマークを付けようか)
美しい静かなところだった。
拝観料を支払う必要がある場所は、綺麗に管理されていて、気持ちよく拝観できる。

京都は近い割に敷居が高くてあまり行くことがなかった。
この度は、思い切って行って良い思い出になった。

と、今のうちに、桜の写真を早くアップせねば、、、と焦る。
まだ京都の話はほとんど書いていないのに、今日はまたまた他県に桜を見に足を伸ばした。
だが、写真と記事を一致させなければ、ややこしい。
また明日、書くつもり、たぶん。
桜を撮ったばかりなので、撮りたてほやほやの写真を載せたいだけなのだが。







なんでこんなに暑い@京都

2024-04-01 | お出かけ
土日は京都。
まあなんと暑い。
特に日曜日は、清水寺までの道のり、階段状の歩行者天国、汗だくになった。
今更ながらだが、京都は東洋人より西洋人に人気があるようだ。
だが、声がやたら大きい女性、◯◯語だった。
やはり、、、。想像通りだった。
あのお日様カンカンの中、VUITTONのロングコートと、FENDIのロングコートのペアがいて、暑いのにお疲れ様。
東洋系の外国人とお見受けしたが、どんな気候のところで生まれ育ったのだろう。

清水寺は、実は4か月前に行ったばかり。
当時、秋、紅葉シーズンで、ものすごい人。
バス停で待つ、溢れかえる長蛇の列の人々を1人も乗せられず、すでに満員のバスが通り過ぎるのを何度も目撃し、オーバーツーリズムを体感した。
あれからまだ秋から春になっただけなので、そう状況は変化していない、、、が、秋よりマシだったように思う。
まだ桜があまり咲いていないからだろうか?
あるいは、一度、直前に人の山に驚きの経験しているから予習が行き届き、驚きが薄れたのか。
ではあるものの、狭い階段、ぎゅうぎゅう満員に、圧死事故が頭を過った。
この階段で、誰かが転倒したら、、、。
京都市は階段を歩く観光客の人数制限は行っていなかったから、対策を練らなければいつの日か事故が起きても不思議ではない。
あるいは、いつも日常茶飯事的に起こっていて皆んな慣れっこになっている?
またまたあるいは、わたしが「転ぶ前の杖」的老人なだけで、若い人は転倒なんてしない?

だが、秋よりマシとは言え、暑さは秋とはまた違う試練。
寺の上に到達するまでに一体どれぐらいの汗をかくのかと想像しながら歩くと、汗の量は1.5倍になった。

↑清水寺


※トップ写真は、東山、円山公園。