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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

幼稚な老熟した中学生

2016-12-01 | 思い出

とても久しぶりにブログを書く。
毎日、毎日アップしていた頃もあった。
今は、チマチマ、スマホでチビチビ、非常に小さいスケールで、背中を丸くして、指を細くして、世界とつながっている。

自由に外に飛び出しても、家に居ても、入院していても、やることは、同じか?
監獄に入れられたら、スマホは持ち込めないんだろう、おそらく。

想像するに、差し入れしてもらえるのは、書籍や絵本。
だとすると、読書習慣を今から身につけねば・・・。もう手遅れ。
それより、わたしが投獄されるとすると、交通事故のえげつないのを起こした時ぐらいだろう。
犯罪は、性に合わず嫌いなので。
だから、閉じ込められるとすると、老人ホームか、サービス付き高齢者住宅あたりだろう。
意外に、イキイキした創造性あふれる文章を書いているかも知れない。
難しそうな言語をググったり、肌感覚でぐっとくる表現をパクったりしながら。

昨日、台所横に続く、物入れの整理整頓をした。
で、中から出てきたのは、何年か前に実母から手渡された、わたしが中学1年の時から書き始めた日記の束。
12冊ある。万年筆で、きちんとした字で、びっしり。
№11から読み始めた。
ちょうど、高校2年。
で、いきなり、№1に移った。
さらに、№12の真ん中あたりで、とりあえず、終了した。
長時間、読むのが、しんどくなったのだ。

あれだけ長いと、ちょっとした小説になっている。
しかも、毎日、毎日、書くことがよくあるものだ。
何時から何時まで、これして、あれして、○さんから電話があって、×さんと遊びに行って、と、延々と描写してあった。
中学~高校2年までだが、中身は小学生日記である。
文体に特徴があり、書き方に、一定の法則があった。
当時も今と同じ視点を持っているのには、驚くやら納得するやら、進歩がないのやら。
自分ながら、面白いが、ずっと読むのは疲れた。
へんに老熟していて、でも幼稚なコドモの中学生に出会うのは、エネルギーがいる。

№11には、高校2年の時にお付き合いしていた、男子のことが、書かれていた。
相手は、大学1年。
大学生にもなると(大人なので)、高校生みたいなガキんちょは、相手にしないだろう、みたいなことを書いていた。
しかし、2歳しか変わらないではないか。
どうも、手も握っていないで、電話や、お店や外でのおしゃべり、一緒に買い物に行ったり、長時間過ごしていたようだ。
「ようだ」と書くのは、わたし自身、その人のことはお付き合いしていた人物リストからすっかり外れ、忘却の彼方だったからだ。

なので、「ああした、こうした」叙述は、はじめて知るような、ドキドキ感があった。
たった、1か月ぐらいの出来事を、ああも綿密にみっちり詳細に書けるものだなあと感心した。
というか、受験期になにやってんの、わたし。
いつも少し書き足らないようで、次のページに移ってしまったページ冒頭に、「勉強しなければいけないのに、新しいページに移ってしまったからには、また(見開きで)2ページ追加して書いてしまいそうだ」と自己嫌悪に陥りながら定文を定位置に添えている。
まともに勉強はしていないようだ。(わかりきっているが)


親に特定の大学受験先を言い渡されている記述内容もあった。
父、母、姉が、しょっちゅう登場していた。
毎日の出来事を羅列しているわけだから、家の近所の喫茶店名や洋服店名や地名も、いっぱい。

当時、わたしの部屋のお金がなくなるということが度々あったのだが、それも書かれていた。
後に、わたしの父が封筒に入れていた高額なお金もなくなり、その場に居合わせた、わたしの友人Mが犯人であると断定されたのだが、わたしの部屋でなくなったその時は「おかしいな」程度で、まったく盗難とは気づいていない様子だった。

(彼女は手癖が悪く、わたしの部屋からだけでなく、姉の部屋からも、何度も洋服や金品を盗んでいた。
我々は彼女に聞いたが「知らない」と言う。確たる実証拠がない。
友人なので、うやむやなまま、警察沙汰にはしなかった。
そのことは罪に問われないまま、明るみにもならないまま、彼女の親兄弟、家族にも知られないまま、その人は、後には人を教育する仕事に就いたのだが、人はわからないものである)


日常のやり取りで、父の何気ない一言に傷ついたり、姉や友人の言葉に一喜一憂したり、多感なお年頃のようだ。
読むまで、そんなことがあったとは、ぜんぜん、覚えていないことも多い。
末端の枝葉のことはその時、書いた瞬間に消え、大きな幹の部分しか、こころに残っていないのだろう。

日記は、12巻中、最後あたりの巻と、最初の巻を読んだので、真ん中はもう読むこともないだろう。
かなりの気合を入れないと取り出しそうもない、物入れの一番、奥の、下の箱に入れて、保管した。

次は、わたしが、老人ホームに入る前段階で、もし、元気なら、その時、捨てるだろう。
恍惚の人になっていたら、子供が捨てるだろう。
それまでの時期に、万が一、なにかの異変でもあれば、また読むかも知れない。
ひょっとすると、今週末あたりに、続きを読むとも限らない。
時間と気力と持続力と、これまで歩んできたことへの執着力、そして何よりも、自分への愛が必要だ。

今のところ、自分を肯定しているので、さらっと読めるかも知れない。

 

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一期一会の顔

2016-06-05 | 思い出

フランス、ドイツでは、えらい雨、らしい。
セーヌ川が氾濫などとは、想像もできない。
ずいぶん前のいつか、フランスに行った時も、
「このラインまで水が浸かりました」と、建物に残る浸った跡を指して、説明を受けた。
先月、ドイツに行ったが、豪雨に遭わなくて幸いだった。

 

ハナシは、ごろりと変わる。

わたしの年齢、見かけで、「初対面の人とお会いする」と仮定する。
当然、よほどの何か、大きな取引や儲け話でも持ちかけない限り、なんの魅力もインパクトもない。

ましてや、男性であれば、ご縁があるのは、うら若き女性、妙齢の美女が好ましい。
しかも、わたしは、典型的日本人。
自分をアピールしない。
(日本じゃないんだから、当然ながら、もの言わなければ誰も自分をわかってくれないのに)
この年齢、容姿、語学力、発言力で、なんのアピールもしないと、誰の目になど映らないであろう。
ふと、わたしと接していたにもかかわらず、わたしのことなど、目に映っていなかったと思われる人々、シーンが、目に浮かんだ。

それはそれで、当たり前のことであり、べつにショックでもなんでもない。
わたしは、自分というものをとても客観的に見ている。

なにも特徴のない、人になんの働きかけもしないで、まして、自分がなぜ、そこにいるのか、なぜ、その人と対面しているのか、
そういう説明もなく(仮にあったとしても、興味を抱かれないと思うが)
そんな自分をアピールすることは、よほどのシチュエーションや熱意、意図がないと無理だろうと感じる。


5年前、パリの蚤の市で、商品の交渉をしている、すごいオーラを放つ、うら若き女性を見た。
おそらく、バイヤーであろうと想像する。
「パリで、一人で仕事やっているんだ!!」オーラである。
一生懸命の気持ちが全面に出て、攻撃的でもあり、必要以上に無理しているような、かえってキャパのなさを感じた。

わたしは、生まれてから今まで、本当の意味での深刻な切羽詰った状況に面したことがない。(鈍感なせいもある)
なので、オーラはない。
さびしいかといえば、たいして、さびしくない。
いまさら、殿方もさることながら、人にアピールしたいとは思わないし、相手がなにも感じないのは、お互い、無関心さを示す距離感の現れだと思う。

もう少し若い頃、アメリカにほんのちょっとだけ行った時は、ほんのちょっと、人を寄せ付けないオーラがしていた(らしい)。
本人は、必死で頑張っているのである。
でも、結局は、最後は、依存モードまるだしで、人様の好意に甘える格好になってしまった。
その頃には、人を寄せ付けないオーラは、完全になくなっていたことだろう。
あのオーラは、虚勢だったように思う。

蚤の市のバイヤー女性も、相手に見くびられないよう、必死で虚勢を張っていたのかも知れない。
それが、まぶしい、とか、輝いている、とか、素敵だ、とは思わず、
なんだか、追い込まれた悲壮感のようなものと、負けん気とが合わさったような、痛々しいほどであった。
商売には、それぐらいは必要なんだろう。


わたしは無理にアピールすることもなく、同じ周波数を傍受する人だけ、わかってくれたらよいと思っている。
決して、ぱっと一目見て、どうこうというタイプではない。
長い時間がかかる。
興味を示してくれない人に、興味を示してもらおうと、あえて働きかけるのは、ビジネスだけでいい。
興味を感じてもらえないということは、同じものを持っていないということで、
それから共有する時間が無駄になる前に、事前の面談で振り落とされているようなものだ。

もし、何度か、会う機会が重なれば、会話も増え、最初のイメージとは違うこともあるだろうが、
一期一会の場合は、そんなこともない。

まあ、それで、いいのではないか。
ふと思い出す、顔、顔。ワンシーン。
一期一会も、あっさりしていて、うす塩味仕立てで、
こってりした濃厚な思い出の合間、合間の、箸休めの彩には悪くない。

 

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自分を知る

2015-12-27 | 思い出

年末の慌しい真っ最中に、まったく急がない内容のブログ記事を書く。

gooには、自分の「ブログ人気記事ランキング」というのが、ご丁寧に設定されていて、
懐かしい記事が入っていたりすると、それを読むのが意外に楽しい。

中身は自分のことなので、自分の記憶とぴったり鮮明に一致している(あたりまえ)。
年々、記憶が衰えているし、はっきりちゃんと細かく描写する意欲が薄れてきているので、
過去の記事を読むと、今では忘れてしまっているような当時のことを思い出させてくれて、ありがたいような気さえする。
ありがとう、筆マメのわたし。
ついでに、提供者のgooさん。


わたしは、自己評価が低い。
真の自分の力を知らずに、自慢しているひとほどみっともないものはない、
謙虚は美徳だと、無意識のうちに思っているからかも知れなかった。
(本来は、適正な自己評価が望ましい)

ところが、それは謙遜ではなかったということに気づいた。
これは、ある人に指摘されて気づいたことであり、指摘されなかったら、一生、気づかなかっただろう。

努力するのが嫌だから、低めに自分を設定しているらしい。
なるほど、頑張らない自分の快適な特等席を、自分で作っているということだ。
実は頑張ればできるのだが、超サボりのため、頑張らない。努力嫌い。
じゃあ、目標設定を下げよう、ついでに自分の評価も下げとこう。
そうすると、楽々、心痛まなくサボれる。
という、カラクリであって、決して謙虚でも、謙遜でも、なんでもなく、サボりの裏工作のようだ。

サボりは、前々から自己認識していたが、無意識の美徳であろうはずがなく、
策略、ずる賢いと評価された。
人にどう思われてもよく、ただただサボりたいだけのこと・・・。
さほど努力しないで、最低限度の頑張りで、目標値に達するための、言い訳であると言える。

そこで、思う。
世の中の皆さんは、いったい、なにを基準に自己評価しているのだろう。
60歳ぐらいで初めて壁にぶち当たった人もいるとか。
まあなんと、幸せな・・・。

わたしは、なんの言い訳もできない状況で、いくら頑張っても自分の能力がはっきり見えた原体験がある。
それは、子供のとき。
社会のせいにしたり、家庭事情のせいにしたり、自分の身体のせいにしたり、
そういう外的要因を取り除かれた状態で、状態が整えられた滅菌、無菌室で、
よ~し、頑張るぞ~と、勉強に挑んだ。
なかなか、結果が出ない。
頑張りなさい、と、背中を押されて頑張らされた。
小学校の高学年の頃から、勉強に関しては雲行きが暗くなりそうな気配はあった。
苦しい脂汗をたらしながら、どうにか乗り越えたものの、中学で、またその波が襲ってきた。

別にプレッシャーでつぶされたのではなく、完全に能力の無さで、自分の敗北を知った。
それは、中学2年の時の理科。頑張るだけ頑張ったが、だめだった。
返されたテストを手に、涙が出た。悔し涙ではない。現実を受け止める涙。
そして、高校2年の時の数学。
これは、完璧にアウト。
わたしの芯、核は地中深く埋もれたまま残っていたとは思われるが、
外に見えるものは、そこで完全にゼロになった。
無からの出発である。
自分の能力を知った。

(小学校の社会科や、高校の時の日本史や地学などは、
どうしようもない、すごい悪い成績だったが、これがまた不思議に、けろっとしていた。
努力していなかったので。
一生懸命、苦手なことに挑戦して力の限りを振り絞ってやったことが、だめだった場合においてのみ、愕然となる。
努力して報われなかったことを受け入れることを知った。
だめなものは、どうしたってだめ、ってことだ)

精神的に、自己を形成する誇りは、無一文になったということだ。

幸い、一家離散したわけでも、不幸な事柄に見舞われたわけでもないので、
その後も、物質的にも、精神的にも、普通の人生を送っている。

というわけで、子供の頃に、一度、無になっているので、わりと打たれ強い。
自分のことを気づくのが早い年齢だと指摘する人もいる。

勘違いしている人を見ると、みっともなく我がことのように恥ずかしい思いに駆られる。
でも、勘違いしないと伸びない。
勘違いする時期は必要であるし、大事だ。
勘違いしたままの人生が、ほんとうのところは、幸せだ。
勘違いが妙に揺らぐと、ややこしい。
うっすら気づいても、気づかないふりをして、一生、突っ走ったほうが、楽だ。
残り時間のほうが短くなっている今の年齢で、自己・大改革を行っても、成し遂げる体力が無い。
だましだまし、ぼちぼち行くのが、よろしいかと。

と、またまた省エネ、サボりのススメとなってしまった。

追憶すると、
わたしの頑張りは、子供時代の後、あと3回あった。20代中半&後半、40代。
あとは、動物園のクマのごとく。
頑張る時には頑張らないと、たんなる、どうしようもない人である。

さらに、追加。
兄や姉のように、家庭教師をつけてもらっていたら、ちょっとは違っていたかも知れない。
(アウト!の最期が延びるだけだと推測できるが、いや、ひょっとして・・・? 進路が変わっていたかも?
甘いか)
が、親は見抜いていたと思われる。
わたしには、砂に水をやっても、溜まらず、漏れ抜け落ちるだけだということを。
実際のところは、もう、面倒になったのだろう。
あんまり一生懸命、わたしのことを考えていない可能性も大いにある。
早い話、手をかけてもらっていないことが、結果的には早く自分を知ることになった。

 

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もとに戻る日

2015-08-03 | 思い出

自分で、自分の過去の記事を読んで、癒された。
ジャンルは、「展覧」と「思い出」。

今では、もう書かない、いや、書けないだろう。

特に「展覧」は、最近、あまり行かないし、感動しても、ブログに書かない。
ブログに書こうと思うと、名前や事実を間違わないないように、ちゃんときっちり調べなくてはならない。
感性だけで書くわけにはいかない。
なので、そういうプラスアルファの余分なエネルギーが、ここのところ激減している。
自分だけ楽しめたらよい。その場だけで、昇華。
そう思うに至った経過としては、
人に知らせようと頑張ったところで、さして読んでくださる人も減少したので、
ブログに対するモチベーションが、すっかりなくなっている。

何年か前は、一生懸命、熱心に書いている。
自分でも、あのころは、力が入っていたなあと、懐かしいぐらいだ。
なにを伝えようとしていたのか。
今、思えば、記事の内容はさておき、自分という人間を第三者に知ってほしかったのだろう。

自分は、受け入れられたのか、受け入れられていないのか。
コメントは、ごく稀にいただくが、コメントが無いほうが、私としては安らかな気持ちだ。
わたしの毒舌に反応され、「コメント=苦情」といった構図が出来上がりつつあるので。


読んでくださる人数は、減ったものの、だからといって、わたしは、わたしであって、中身は変わっていない。

郷里の田舎で幼い頃、育ち、幼稚園からは、街と田舎で同時に暮らし、
二極分裂、同時進行の基礎がそこにある、と、自分で分析している。

田舎と街。
ガチガチに古い慣習と、流動性のある住民による、合理的な暮らし。

田舎は人が少なく、人の出入りがほとんどないので、競争が少ない。
よほどのことがない限り、どのイエも、アップダウンがなく、同じレベルで推移。
街は、一発屋あり、成金あり。
失敗しても、住まいを移すので、いつまでも人々の生活には影響しない。

街には、多くの人々が集まり、特に子供の教育は、理念が反映されている。
わたしは、田舎で、のほほんと育って、周りには競争している人など見当たらなかった。
ほんの幼い幼稚園の時代から、急流の中に投げ込まれた格好となってしまった。
井の中の蛙に、なる機会もなかった。

田舎では、誰も競争しないので、レース自体が存在しなかった。
街の学校では、ぼーっとしていたら、
あなた、別のコースのほうが向いていますよ、と肩たたきをされる生徒もいた。
自分の能力だけが明白な判断基準の、競争社会への参加を余儀なくされた。

これは、けっこうキツイものがある。
なぜなら、金持ちであろうがなかろうが、親の威光も効かない、
ルックスが良かろうが悪かろうが関係ない、口が上手かろうが、愛嬌があろうが、関係ない。
皆、同じ条件で一斉にスタートラインに立たされ、結果を競う。
能力があるからといって、何もしないでいると、頑張り屋さんが、すごい顔をして追い抜きにかかる。

学業が最も苦手はわたしは、そりゃあ地獄のようなレースだった。
いちばんビリでも、持ち前の、厚顔無恥な雑草根性で、最終列の最終位置で、かろうじて着いていった。
後ろは、絶壁、谷底に落ちるのみ。
傍らで、社長令嬢や、深窓の令嬢の美少女たちが、コースを変えていった。
彼女たちは、その後、令嬢コース一本を歩むことになる。
ファッションや美容には敏感で、お勉強よりも、男性をゲットする術を磨く。
(もちろん、全てを備えた、文武両道、才色兼備の人もいる)

ああ、わたしと言えば、勉強はビリ、でも、コース変更宣告はされず、ビリのまま進む、
過酷なコース。
学校では先生に怒られ、家では親に怒られ、
かくして、二極分離の、美魔女嫌いの人間の原型が生まれた。

いっそ、トップをひた走り、先生の取り巻き連中のように優秀であれば、勉強コースは順風満帆であるが、
ビリで、でも、女子力磨きコースにも入れない、中途半端なわたしは、これは、ヒネくれるしかないのであった。

クラスメートたちの多くは、優秀難関校に進学し、社会では当然バリバリ活躍した。
そういう人たちに会いたいという思いもあり、同窓会にも、ほいほい行った。
自分は・・・といえば、自分が自分のためにだけ、好きでやっている仕事と、
家庭の両立に、寝るヒマも惜しみ、頑張っていた。
家族には迷惑をかけたが、
結果的には、子供たちに十分、手をかけることができず(サボりなので、たとえ暇でも手を掛けないと思うが)、
各自の自立を促すことになった。

同窓会には、わたしのような人も何人か参加していた。
社会では、まったく認められていないけれど、自分が好きでしている仕事や、活動を熱く語っていた。
社会からは、評価されていないが、自己満足の世界である。
あの人、自分では気づいていないけれど、わたしと同じ穴の狢(むじな)だと思った。
わたしには、痛く感じられた。
当然、そんな失礼なことは、ご本人には言わないが。
ひょっとして、こころの中で思っている人もいるかも知れない。
「で、それでギャラは、いったいいくらなの?」


あの時、社長令嬢たちと、女子力コースに行っていても、結局、またどこかで同じような道を進んでいるように思う。
というか、人生のある根幹部分で、女子力コースを選んでしまっている。
わたしは、時代としては最後の「女子コース優遇枠」かも知れない。
時代の先端ならぬ、最後方である。
今の女性たちには、自分の方法は通じない。


わたしは、相当、甘い。
甘くて甘くて、恥ずかしい。


あと数年すると、同級生たちも、リタイアするだろう。
天下りや、再就職した人は別として、それ以外の人は、肩書きは、ナシ。
学力コースを降り、卒業することになるのだろうけれど、現役の仕事内容によって、
リタイア後の生活に差が出てくる。
大手企業に勤めていた人や、そうでない人など、退職金や、貯蓄額に違いがあることだろう。
肩書きはリセットされても、過去の実績が、老後の暮らしに大いに影響があるように思う。

頑張っていたのに、倒産したり、リストラされたりした人もいるだろうから、一概に言えないが。

・・・で・・・
自分に関して言えば、
レースから降りて、もとの田舎回帰に向かうのではないかと、今後を予測している。
ただし、配偶者を引き連れて、故郷にUターンなんてことは、絶対にない。

もっともっと80歳を軽く越える頃になると、また展望は変わっていると予想している。
その頃は、遠くから孫子の成長を楽しみにしつつ、
コンパクトで合理的で快適な空間で、ひっそり、ちんまり暮らしていることだろう。


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「ばーちゃんと呼ばないで」というブログでも書いているかも知れない。

 


人に言えない、子供をまっすぐに育てる方法

2015-07-25 | 思い出

わたしが中学生の時、バスケットボール部に入っていた。
そのとき、1学年上と、2学年上(姉のクラスメート)のF姉妹が、同じバスケットボール部で活躍していた。
とても爽やかで、かんじの良い先輩で、大好きだった。

ある日、彼女たちの母親に、わたしの母が、「なんとか費」という、ちゃんとした名目で(名目、忘れました)、
すぐに返却するということで頼まれ、お金をお貸しすることになった。
当時のお金で20万円、けっこうな額だ。(半世紀近く前)

F姉妹のお母さんは、いつも、スーツをびしっと着て、胸には真珠のブローチをつけていた。
学校行事でしかお見かけしないので、家の近所のスーパーに行く時は、そんな格好はしないだろうけれど。
なにしろ、そういう服装で、恰幅のいい、がっちりした体格だった。
目のくりくり動く、表情の豊かな人、
当然、口もよくまわる。
行動派で、学校関連の役も、おそらく引き受けておられたのではないだろうか。

が、Fさんは、母にお金を返さなかった。
何度、請求しても返さなかった。
母もしつこく要請しただろうけれど、相手のほうが、大物で、根負けしてあきらめたようだ。

そこで、わたしは知った。
どんなに子供が素晴らしくても、親も素晴らしいとは限らないのだと。
F姉妹は、あっさり、さばさばしたタイプで、まっすぐ(見かけはそう見えた・・・)で、
素敵な姉妹だったが、自分たちの母親のそんな現状を知らない。
わたしは、知っていたが、F姉妹に告げることもなく、とても複雑な心境だった。

で、中学生の時に悟った。
見かけ、身なり、口・・・こういうものは、信用できない。
子供が立派でも、信用できない。

おそらくF姉妹は、そのまま、すくすくと育ったと思うが・・・。
わたしは、すくすくと育たず、あっちで、ごっつん、こっちで、ごっつん。
世の中の断片をいろいろ見た。

この話は、姉とわたししか、知らない。
世の中の誰にも言っていないので、F姉妹は、傷つくこともなく、美しい心のまま成長されたことだろう。

 


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センチメンタル

2014-10-07 | 思い出

わたしのブログは、いよいよ枯れてきたか。

否。

ほとんど心肺停止状態のようだ。

まあ、それもよかろう。

書く側と、読む側の間に横たわる、深~い河の存在は大きい。

 

以前、熱くなっていた趣味をもう一度、ぱらぱらと再確認してみる。
たとえば、パリ暮らし。
インターネットで、アパルトマンの紹介をつらつら眺めてみる。
また行きたい、暮らしたい・・・か?

三度目の正直?
仏の顔も三度?
二度あることは、三度ある?

一人で自力で行けるところは、限られていて、
誰かのお世話にならなければ、行きたいと思う好きなところには、自由に行けない。
自分で行けるところにしか、行けない。
サポートが必要なのだ。自立していない。

なんといっても、話せない、読めない、聞こえない。
三重苦。ヘレン・ケラー。
(でも、最低限度の知識と意思さえしっかり持っていれば、にっこり笑顔で、どうにかなることを知った)


毎日の予定は、その日の午前中に計画していた。
(いつまでも決めずに、ぐずぐずしていると、一日中、部屋に、こもりっ放し)
ある日、どこにも行きたいところがなかったのにもかかわらず、無理やりっぽい感覚で、あるショップを目的地に設定した。
地下鉄駅周辺工事のせいで、全くわからなくなっている駅を何回もぐるぐる回り、
若者たちが、たむろしている中、違和感を覚えながらも、やっと地上に出た。
その店を探してうろうろしていた。

あまり人のいない広場で、一人で来ている、旅人っぽい同じぐらいの年齢の女性を見かけた。
わたしもあんなかんじなの?
なんか、違う。
わたしの目指しているものは、ああいうかんじではない。

じゃあ、なになの?

パリは、一人が似合わない。
なので、もう、パリには一人で行かないかも知れない。
あるいは、こそっと、一度訪れたことのある邸宅美術館にちょっと行って、すんなり帰国するかも。

夜のエッフェル塔。
20時以降は、電飾イルミネーション・チカチカが5分間、綺麗なのだが、
(季節によって、日没時間に合わせるらしいが、わたしの行った9月~10月は20時だった)
エッフェル塔から徒歩2~3分ぐらいのアパルトマンに滞在していたのにもかかわらず、結局、行かず終い。
なぜか?

あんなロマンチックなところに、若くない女性が一人で行っても、絵にならない。
そう思ったから。
それと、どんな年齢になろうが、どんなに近かろうが、夜の一人歩きは、怖いので。

やたら大きな地図が載っている、パリのカラフルなガイドブックを見ると、懐かしい。
ミーハー気分は、十分に味わった。

秋になり、人恋しくなったわけではない。
ひとつの季節を卒業した、そんなかんじなのである。

でもまた、角度を変えた、別の味を求めて、さまようかも知れない。
自力で行ける場所を増やせるよう、力をチャージするのも、ひとつの方法だ。

 

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暮らし

2014-01-18 | 思い出
ある人、Aさんは、いつも夢に出てくるのは、自分が小さい頃、育った家、という。
今は別の場所、別の家に住んでいるが、夢では、昔の家。

4軒長屋で、中心に井戸があり、
長屋の両端にトイレがある。
子供の頃、夜中にトイレに行くのは、怖いし、寒いし、すごく嫌だったそうだ。

お向かいも4軒長屋。
一番左端が、○○のおばちゃん、二番目は○○さん、三番目は○○さん・・・
端っこの○○さんの家には、優秀な大学生がいて、いつも勉強を教えてくれたとか。
大学生のお母さんが、お茶とお菓子を出してくれて、無料で近所の子供たちの勉強を見てくれていた。
Aさんの親御さんは、時折、その大学生の家になにか(お礼の気持ちで)モノを持っていったりしていたらしいが、
お互い、そのモノは目的でもなんでもない。
互助会みたいなものだ。

まさに、古き良き時代。
わたしは、映画か、漫画か、絵、人形作品などでしか見たことがない風景だ。

しみじみ語るAさんが、
「あなたは上流だから、なんて貧乏な暮らしだと思うでしょうね」と淡々とした口調に変る。
「はあ? なにを言ってるんですか。
上流というのは、細川さんや、旧財閥系の人々ぐらいなんじゃないですか?
その他は、上流でもなんでもないですよ」
と、わたしが、これまた淡々と言う。
「じゃあ、中の上」とAさん。

都会と田舎、中央と地方では、ライフスタイルが違うし、
上の家庭でも、もめごとや、喧嘩ばかりの冷たい家庭もあるし、
下の家庭でも、一致団結、明るい笑い声の家庭もあるし、
仮に経済事情で上下を分けるとしても、一概に、上下だけでは、どちらが幸せと決められないのでは?
現に昔の長屋暮らしの思い出を、楽しかったと回顧されているのだから、良い思い出、ご家庭だったのでは?

などなどと言っていると、そんなもんですかねえ・・・的な、うやむやなかんじで、話がどこかにまた流れていった。

ちなみに、Aさんは、「いなか」を持ち出すと、
町暮らし人であるご自分が、いなかモンに対して、なんとなく優越感を感じることができるようで、
町・田舎の切り口は、けっこう、お好きなようだ。

・・・

わたしがいつも夢に出てくるのも、昔の家だ。
田舎の家。リフォームする前の家と、リフォーム後の家。
かなり昔の家なので、今風のライフスタイルに大改造してある。
それと、町暮らしの家。これも、今はもう、家という形態ではなく変貌しているが。

自分が子供だった頃、その当時の家をよく思い出す。
前半は、ただっぴろい田舎。
井戸水に加え水道栓を追加、一部、汲み取り式から水洗トイレに、燃料もプロパンガスに、
大幅な改良が行われた。
冷蔵庫や洗濯機も購入され、
我々子供たちの誕生もあり、第一次、近代化リフォームである。

子供部屋の様子。
きょうだい3人でひとつの空間。
わたしと姉は、勉強机は作り付けのカウンター続き。
姉の座る前は、窓、わたしの座る前も窓。
一面の窓からは、菜園が広がり、もう一面からは、前庭、その遠景には鶏小屋や農具小屋のようなもの。
姉とわたしは、90度違う方向(直角の位置)に座るときもあれば、並んで座ることもあった気がする。
兄は、別に離れて、学習机があり、我々とは、背中側。兄の座る目の前も窓。
兄の窓からは、中庭、小さな人工池、その向こうには、遠くに廊下が見えた。
今、思えば、窓だらけ、庭だらけ、畑だらけだ。

子供部屋には白いカバーがかけられていた、スプリングの効いたソファと、ピアノがあった。


わたしが小学校高学年の頃に、父の仕事や我々の教育のため、町の家に軸足を移した。
そちらは、駅から即の、いきなり賑やかな商業地。
中間がない。
のんびり田園風景から商業地へと、いっきに景色が変った。
なんで、こう極端なの? 住宅地というものに、住んでみたかったと、その後、よく思ったものだ。

田舎の家もそれから、また第二次リフォームを行い、現在も実存するが、現在の家や庭の姿をまじっと見ながら、
第二次リフォーム後には消えた、リフォームする前の子供時代の部分を、まぶたの裏で復元させている。
過去と現在を上手につなぎ合わせたリフォームになっている。

子供の頃の家、うっすら覚えている。
お風呂は、祖母が薪か小枝で焚いてくれた。皆、早く順々に入らないと、追い炊きが大変。
(田舎の家には、たいてい、手作り味噌を貯蔵しておく味噌部屋や、薪や枝木を入れる薪部屋、みたいなものがある)
どこかのタイミングで、ガスに切り替わったのかも知れない。
でないと、祖母が大変すぎる。

・・・

なんだか、思い出してあれこれ書いても、はっきりしない箇所も出てきて、
思い出すのに時間がかかる。
にもかかわらず、次のスケジュールが迫ってきていて、のんびり回顧タイムに浸っている場合ではない。
書くのに時間はかかるが、読み物としては、ぜんぜん、おもしろくないし。
自分だけ楽しいっていうことだ。

ということで、中途半端ながら、
本日は、書き逃げいたします。


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ふと

2013-12-04 | 思い出
わたしは、愛されて可愛がられて育てられた(らしい)。
一度も怒らずに、かわいいかわいい、と育てられた(らしい)。
これ、ほんと?
耳を疑いたくなるが、この、孫のいる歳になって、いまさらながら、恥ずかしい。
が、そうなんだそうだ・・・。

うえ~、キモチわる。
そう感じる方も多いだろう。
お目目きらきら、まつげクルンの無垢な少女ならともかく、
白髪混じりのバアさんが、「わたし、愛されて育ったんです」なんて、ぬけぬけと自分で言ったら、
引かれること間違いなし。
あくまでも、母とわたしのやりとりを見ていると、そういうふうに見える、と、人に言われただけである。
(それを聞くと、わたしのきょうだいたちは、大笑いすることだろう)

まあ、実のところ、あまり、甘い蜂蜜をたっぷりかけて、とろとろに愛された自覚はなく、
かと言って、虐待を受けた記憶もない。
末っ子であるし、放任ではあった。
両親は、わたしを野放しにしていたが、教育方針はピシッと芯があり、厳しかった。


わたしが子供の頃、まだ専業主婦が多かった中で、
クラスで、母子家庭のY君と、わたしだけが、幼稚園の行事では、いつも母親は不参加だった。
母親に愛されているという実感は、まるでなく、だが、放置されているという感じるわけでもなく、寂しいわけでもなかった。
親子でペアになってするお遊戯の時は、いつも、先生が相手をしてくれた。

幼稚園ではお弁当を持っていくのだが、いつも、行きに街の店で、大好きなフルーツ牛乳と、菓子パンを買った。
そのフルーツ牛乳が、好きで好きでしかたなかった。
なので、母親不在、弁当ナシは、まったく気にならなかった。
なんの苦にもならなかった。

幼稚園児の頃から、プラス思考だったのか、はたまた、目の前のモノに惑わされやすかったのか。
ただ、幼稚園の、管理職にあたる女性の先生には、嫌われていた(と、感じた)。
その先生の、、白い顔、真っ赤な口紅が、わたしを見て歪められた、その表情は、今もしっかり覚えている。
わたしは、別に盗みをするわけでも、嘘をつくわけでも、
イジメをするわけでも、いじけていたわけでも、騒いでいたわけでもなかった。

園児の姿をしていたが、わたしは、じつは大人だったのだろうか?

もう一人の、担任の先生、瓜実顔で色白の、優しい美しい顔は、覚えている。
おぼろげな記憶がダブり、
その人は、うちに何日か滞在してくれた、母の学生時代のクラスメートだったかも知れないが。
彼女は、わたしのピアノの練習を見てくれた。
優しいキレイなお姉さんだった。


今までにもブログに書いたことがあるのに、また書いた・・・セピアの残像は同じシーン・・・。

今朝は、時間ぎりぎり追われるなか、なぜか、そんなことをふと思い出した。


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から雑巾

2013-11-23 | 思い出
今朝の気分は、から雑巾。
絞っても、なにも出てこない。

・・・

パリの日々・・・。


ある人に聞かれた。

「一人で行ったの?」
「はい」
「怖くなかった?」
「怖かったです」

これは、ほんとうの話。

ひとりっきりなので、室内で、なにかがあったら、どうしよう・・・、と、お気楽な反面、
実は恐怖に震えていた。
アパルトマンのお隣の部屋をノックしても、おそらく隣人は出てきてくれないだろうし、言葉も通じない。
これを書いていて思ったが、初日に「よろしく」と、挨拶に行っておいたほうが良さそうだ。

日本語サービス付きの海外旅行保険には入っているものの、病気や怪我の緊急サポート。
それ以外の、例えば、台風や、災害や、強盗やら、そんなことは、対応してくれるのか?
一度も電話したことがないので、その保険、通じるのかどうかもわからない。
今度、試しにシュミレーションとして、やってみておこう。

たとえば、ケータイが壊れたとしよう。
保険屋さんに電話もかけられない。いくら日本語が通じても、電話自体がつながらない。
iPadが壊れたとしよう。
誰とも、なんの連絡も取れない。
四方八方ふさがれた状態。
これは、今、思えば、非常に恐ろしいことである。


アパルトマンを紹介してくれた人が、フランス国内で使えるケータイを貸してくれた。
数回、知らない人からかかってきたが、わたしは持ち主でないことがわかってからは、かかってこなくなった。
わたしも、何度か、試しにかけてみたが、早口の、録音されたフランス語が、機械的に流れて切れる。

あとで、部屋を引き払うときに、ケータイを貸してくれた人に、つながらない状況を説明し、操作方法を聞いてみたら・・・
「あら。チャージできてないですね。お金が入ってない。通じないですね」
と涼しい顔。
わたしは、そのケータイを万が一のために、ずっと持ち歩いていたのに。
死んでいるケータイを頼りにしていたのか。
つながらないケータイを貸す人も貸す人だ。
日本人でも、フランスに長く住むと、フランス流になってしまうようだ。

ライフラインは、通信。
これが通じなくなったら、わたしは、どうしようもない。
部屋の外、屋外の街に出て行って、わめいて、おまわりさんにでも見つけられ、どこかに収容される?
それで、どうにか生命の維持ができる。

よくよく考えれば、
まわりは見知らぬ人ばかり、コトバも通じない、おそろしい日々を過ごしていたわけである。
なにかあっても、通信できなければ、
ほんの少しでも知っている人に、助けを求めようにも、まったくどうしようもない。

最悪の場合は、恥をかなぐり捨て、見知らぬ日本人観光客に泣きすがるという手もある。
人間、土壇場になれば、なんだってできる。
が、信用してもらえるか・・・?
そういう手口の詐欺と思われるかも知れない。
関わらないように、さっさと逃げられるかも知れない。
JCBなどの営業窓口に駆け込むか。
冷静に考えると、いろいろ方法はある・・・。


来年も、行けるかなあ・・・と、考えると、ちょっと固まってしまう。
自分の健康管理や、家族などの周辺事情が何事もない状態を保つのは、けっこう難しい。
なので、行けるときは、えいやっと、行く。
渡った後から後から、どんどん壊れていく橋を、後ろを振り返らずに、全力で走って渡る。
とりあえず、向こう岸に着くまで。
あれこれ考えていたら、なにもできない。
向こう岸に着いてから、またゆっくり問題点を改善したり、試行錯誤、フォローする。


といいつつ、パリでは、日々、ぼーーっとしていただけなのだが。


「また行けたらいいな」、
ではなく、ぜひ、行けるよう、努力しないと、行けない。


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サル回帰

2013-10-13 | 思い出
ここのところ、親や、その周辺のことが書きたくて、うずうずしている。
なぜなんだろう?

ま、なんでもいい。

えっと~・・・

まず、祖父、祖母の思い出。
(読みたくもないでしょうけれど、書きたいので、書く)

田舎暮らし。
祖母は、自宅菜園で野菜を作り、毎日、それを採取して食卓に。
わたしは、子供で成長盛り。食べたいものは、野菜なんかじゃなかった。
が、毎日、毎日、野菜ばかり。
特に、菜っ葉の煮物、何かしら野菜の入った味噌汁。
来る日も、来る日もそれ。
よくまあ、飽きなかったことだ。(作り手は)
食べ手(わたし)は、うんざりだけど、残したりしても、他に食べるものもないので、完食していた。
時には、コロッケを作ってくれたりして、それは大好物だった。
井戸で冷やしたスイカも、みんなでワイワイ食べた。

母は、京都風の和食、薄味好みだったが、子供のわたしには、まったく、つまらない料理だった。
今のわたしは、ちょうど、そういうあっさり上品なテイストを好むが、
幼児や小学生には、ちょっと・・・好まれない。
というか、母は仕事で忙しかったので、ほとんど、祖母の作ったものを食べていた。
明治の女性、口数の少ない、おとなしくて忍耐強い祖母だった。


祖父。
晩年は、臥していた。
体が半身麻痺して動かず、祖母が世話をしていた。
わたしが、祖父の部屋に行くと、袋入りのお菓子を動くほうの手を使い、
不自由ながら、袋の口を切って、お菓子をくれた。
お菓子欲しさに、祖父の部屋にちょくちょく行ったように思う。

祖父のお葬式の日のことは、はっきり覚えている。
わたしは、3歳半だったが、
大勢の大人が集まって、いつもの雰囲気とは違っていたことだろう。
姉と、祖父の顔にかけられた、白い布をそっとめくったりして、いたずらして、はしゃいでいた。
人が亡くなるという意味は、まったくわかっていなかった。


うんと昔、今は中庭になっている、当時、井戸の近く、道具棚のある場所で、
わたしの目の前で鶏をきゅっと締めて、その日は食卓にご馳走が並んだ。
きゅっと締めたのは、祖父だったのか?
(父は、そういうことをしない)
そうすると、祖父がまだ臥していない元気な頃は、臥している時期よりさらに、さかのぼり、
祖父が亡くなった当時、3歳半だったわたしは、それよりももっと年かさの行かない年齢の記憶ということになる。
いくらなんでも、そんな小さい年齢で、覚えているはずがないと思うのだが、
なぜか、わたしには、鶏と祖父の残像が、どこかに残っている。

はたまた、記憶違いか・・・?
あの鶏をきゅっと締めた大人の男性は、誰だったのか?
やはり、祖父・・・??? いや、そんなはずは・・・??

・・・

田舎暮らしは、のどかだ。
四季折々、草花に囲まれ、自然と親しんで育った。
おままごとの、ご飯作りの材料には、ことかかなかった。
花びらのふりかけが、得意料理。
だから、今も、得意料理は、ふりかけごはん。(→うそ)

お花で、色染めや、あぶり出しをしたりして、遊んだ。
わたしの、のんびりものの原点は、この、のほほん田舎にあるのかも知れない。

祖父や祖母、両親、きょうだい、そして同居している人、大勢の人と暮らしていた。
その中で、わたしは、いちばん年齢が低かった。

祖父が寝ていた部屋、わたしが祖父にお菓子をもらっていた部屋は、今は母の寝室になっている。
廊下をわたって、トイレ(男性用、男女用)だったところは、今は、浴室・洗面所、トイレになっている。
前、お風呂だったところは、今はダイニングキッチンの一部になっている。

祖母が毎日、朝夕、玄関をふき掃除していたところは、今は少し形を変えて玄関を上がったスペースになっている。
3分の1ぐらい、リフォームをして形が変わっているが、昔のままのところもたくさんあり、
ひとつひとつ、その場に立つと、当時が思い出され、とても懐かしい。


と、こんなハナシ、おもしろくもなんともないだろうけれど。

幼稚園に上がるまでは、わたしは街には身を置くことがなかったが、
5歳から、のどかな田舎から、のどかな地方都市に通うことになる。
どっちみち、のどかである。
だから、こんなに、のんびり育ってしまったのだ。
のんびり屋さんは、その後、シャープな人々の中で、揉まれてしまうことになるのだが。
少なくとも、のんびり田園生活を送っていた、幼少の頃は、ひねくれてなかった。
それ以後のわたしは、二極に分離、同時進行することなる。


人生は、時計の逆回り。
ピークを過ぎると、また、元のところに帰る。
定年後、田舎暮らしをしたがる人や、故郷に帰る人も少なくない。
配偶者は、それまでの人間関係を切ってまで、相手についていくかどうか、
それぞれの夫婦の形があるだろう。

幼少時はともかく、若い頃は、わたしは、あんなに田舎を嫌がっていたのに、
今、なぜか見直しの時期にきている。
年をとったということだ。
原点回帰か。
でも、わたしの場合、二重・同時内包の原点である。

死ぬ頃に近づくと、何重にもなっていたピントが、ぴたっと合い、ひとつになることだろう。
サルが人間に進化していく過程の、逆をたどることだろう。




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