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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

脛にキズ

2013-07-17 | 思い出

わたしのブログ・・・つまらんねえ。

エッセーにランキングされているブログは、正統派。
わたしのは、ちょっと、エッセーっぽくない。

自分のことばっかり書いている。

そもそもわたしは、自分の位置を見誤っている。
それは、幼少時代からである。

小学校~中学校と、クラスに秀才がフツーにごろごろ混じっていて、
学校も、全国の教育機関のトライアル試験校みたいなもので、
先生達が全国からぞろぞろ視察や研修にやってきて、新しい試みを先駆けてやっていた。
生徒は、モルモットだ。
で、モルモットでガキんちょのくせに、先生やら教育をなめていて、
そのくせ、自分(わたし)の成績は、めちゃめちゃ悪くて。

自分は、落ちこぼれなんだけど、まわりは、どうも、普通とは違うようなかんじ。
つまり、世間一般的なスタンダード、真ん中がない。
勉強はするものの、デキはイマイチ、という学生はいても、
人生を捨てている不良は、いなかった。

ほんとうは、いたのだろうけれど、
成績上位にいる人は目に入るが、下位にいる人は、発言もしないし目立たないので、目に入らない。
下位の子は、学校では不良にはならなくて、卒業して学校から消えていってから、
どこかで不良になっているのかも知れない。
少なくても、在籍中は不良にはなれない、そういう雰囲気だ。
彼らは卒業してから一度たりとも姿を現さないし、音信不通だ。
学校の適正基準からはみ出し、学校が大嫌いだったと思われる。
わたしも、はみ出していたけれど、学校のほうが、家より、まだマシだった。

というわけで、下位の人々は、存在感がなく、いないようなものだったので、
視界に入る、まわりには、フツーに偉い子がわんさかいるが、
いざ、自分の実力を実感すると、奈落の底。ひゅーん。どっかーーん。
普通の、明るい無邪気な、あどけない、お嬢さま笑顔とか、小さい頃から無かったというわけだ。

このヒネ根性。
お金ではない。親の職業でもない。ルックスでもない。性格でもない。運動神経でもない。
成績に支配される社会・・・ううう・・・
純粋に自分だけの力で、競争。
成績絶対主義・・・・落ちこぼれ・・・る・・・
なかなかトラウマが、治らない。


なので、ママ友たちの争いとか、ぜんぜん、ぴんと来ないし、どうでもいい。
わたしの観点と、まったくズレまくっている。(わたしが、ズレている)
家がどうとか、服がどうとか、食べ物がああ、とか、まったくといっていいほど、どうでもいい。
競っている人たちを見ると、宇宙人を見るかのごとく。
だが、トラウマが成績部門だからといって、子供の進学や成績で競うかというと、そんなことは、しない。
自分と子供は、別人格。
あり地獄、砂に呑まれてしまうようなことは、しない。
興味の対象は、自分。
自分は、どうなのか?ってこと。

まあ、誰でも脛に傷を持つ。
とっくに定年退職した男性たちも、リタイア生活を十二分に満喫している人も、
まだ、とうに過ぎ去った現役時代の、会社での不満がくすぶっている人がいる。
自分への評価に,納得がいかない。
もう、済んだことなのに。

それと似ている、わたしも。
もう済んだことなのに、いまだにうなされている。
一生、そうだろう。
歪んでしまったものは、なかなか直らない。

 

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わたしのママ友は、どこ?

2013-06-15 | 思い出

ママ友。

わたしに、ママ友などというものが、いたのだろうか??
いったい、いずこに?
公園で、子供を抱いたわたしは、どんな顔をして、なにを話して、どうしてたんだろう?
お砂場などで、遊ばせていたのだろうか?
その時の、ママ友たちの反応は???

公園デビューした経験は、あるのだが、残念なことに、その公園には人がいなかった・・・。
出没したり、集まったり、ママ友を選別したり、されたりする、そんな、肝心の「ヒト」そのものがない・・・

そういう不毛の時期を経て、・・・

ママ友と呼ぶにはあまりにも、カビが生えているかも知れないが、
わたしにも、不思議なことに・・・いたんです、
というか、その中のひとりとは、今も時々、いっしょにウォーキングしたりしてるけれど。
ご近所さんでもあり、自治会、いっしょ(=おなじ)、子ども会、いっしょ、
学区、いっしょ、PTA、いっしょ、同じ地区での子供のお稽古事、いっしょ。
そういう人々が、何人もいた。

今も、自治会主催の町内掃除の時に顔を会わせたら、ご挨拶。
おしゃべりすることもある。
そのうちの一人は、1年半前、デパートで偶然会って近況を話したら、娘の結婚祝いをくださった。
自治会の役員になったりすると(順番制)、顔見知りの人が必ずいる。
このままいくと、老人会も、顔見知りの方々が何人もいることになるだろう。

べたっと付き合わない。
付かず離れず。
といっても、もう何年も会ってない人がほとんだし、
ごくごく、ご町内の近くなのに、年賀状だけのやりとりの人もいる。
そのうちの一人などは、引越ししたことも知らないぐらいだし。
引越しの案内状で、詳しい住所を知った。

冷蔵庫の中身まで知ってるなんてありえない。
職業、学歴、年収、実家は何してる、なんて、言いたい人が言えばいい。
言いたくない人は、言わない、そして、そんな人には聞かない。
結局、自分の学歴や実家周辺事情を決して言わない人は、2~3人いた。
子供の最終学歴も知らない人も、何人かいた。

言いたければ言えばいいし、言わないんなら、聞かない。
そうすると、一方的にしゃべる人と、一方的に聞く人に分かれる。
でも、ご近所さんや、ママ友なんて、しょせん、そんなものだから、いいんじゃないかと思う。


いちばん上の子が4歳になるまで、転勤で、毎年、住所を転々と変わっていた。
マンションにいたこともある。
スレンダーで、和風・色白美人、女優さんみたいなモダンなファッションの人がいた。
この人の子供は一人っ子(まつげクルンの男の子)で、うちの子供の1歳年上。
彼女とわたしは、相性が合わないというか、接点はまるでなく、でも、同じマンションで、同じ年頃の子供がいるので、
マンションの中庭や、同じマンションの子供たちと遊ぶときに、いっしょになることもある。
5人きょうだいの家の子の、真ん中の子と、その一人っ子とが、同じ年。
一人っ子は、5人きょうだいの子と、いつも遊んでいた。

いやはや、この女優さんみたいなママ女史、いい思い出はない。
(書けば長いので、またの機会に)
しかし、この地に2年住んでいたが、こんなわたしにも、2人、ママ友ができた。
現地のみ、2年間限定のお付き合い。
今は、年賀状だけのお付き合い。


転々とした赴任地は、いつも、行ったこともない、縁もゆかりもない、まるで知らない地。

いちばん上の子が1歳の時に住んでいた地では、悲惨な状況だった。
まわりは、牛が、もぅ~と鳴く、超・のどかな田園地帯。
公園に行っても、子供の姿なんぞなかった。
農家のおばあちゃんが、孫の子守をしている家が、うちから、ちょっと歩いたところにあった。
その家の庭(というか、敷地内の空きスペース)には、ブランコなんかもあり、幼い姉妹が遊んでいた。

また、そのおばあちゃんは、のどかな、おおらかな典型的農家のおばあちゃんタイプではなく、
田舎にもこんな、せせこましい人がいるのか、という、
人の生活やらなんやらに興味津々のお方だった。
しかも、わたしとは同世代ではなくて、親世代の方なのに。
なので、引越しの時も、お手伝いしてくれるわけでもなく(当然、こちらも期待なんか全くしてないけれど)
ただただ、好奇の目をぎらぎら光らせて、人の家に上がり込んできたことを覚えている。

うちの家の中には、平気で入り込んでくるのに、むこうの家の中には入ったことがなかった。
べつに、入りたいと思わなかったので、なんの問題もなかったが。
強いていえば、うちの家に入ってきてほしくなかった。

というか、このおばあちゃん、社宅である家に、前に住んでいた人の後任として入ってきた我々に興味を抱いたんだろう。
前任の方のご主人サマと、このおばあちゃんちの嫁さんが、なんやらオトコとオンナのヤヤコシイことになったらしく、
ご主人サマが、おばあちゃんちの嫁さんの旦那さん(おばあちゃんの息子)に、慰謝料を払ってとりあえずは、解決したらしい。

そんなオドロオドロシイ出来事が、つい、直前に起きた、その後に、同じ社宅に我々が入ってきたものだから、
うちの家の、ま隣のおばちゃんも、興味津々で家の中を覗き込んでいた。
田舎なのに、・・・田園は広がり、土地は広々、牛も広々なのに、
なぜか、この社宅のある場所だけは、2軒がぴたっと寄り集まるように建てられていて、
こちらからは、向こうは見えないが、向こうからは見えるようだった。
わたしが、子供を背中にオンブして、掃除機をかけていたりすると、
ばぁ~と、ガラス越しに赤子をあやしてくれたり、
こちらの意思とは関連性のない動きとして、よく、そのおばちゃんの顔が近くにあった。

まあ、赤子が喜んで、おばちゃんも、楽しければ、それでもいいんだけれど。
その時は、気付かなかったが、ちょっと接近しすぎじゃない?
しかも、うちの夫の行動について、注意すべきこととか、教えてくれる。
親切、丁寧に。

あの、農家のお嫁さんは、これこれかくかくしかじかで、前任のご主人と、これこれあれあれになったので、
あなたのご主人も、気をつけなさい、
あの女性は、これこれこう、だから、こういう場合は、こうしなさい、ああいう場合は、ああしてはいけません、などなど・・・
前例を具体例に出して、教えてくれる。

人のためを思ってやってくれてるんだか、面白がってるんだか、
みなさんに、格好の娯楽の素を提供したようなかんじだった。
テレビのエンタメや芸能人のゴシップなんぞより、ずっと面白いことだろう。

ママ友などの騒ぎではない、年上の、世話好き(別表現では、お節介ともいう)ご近所さんに囲まれて、
あっという間の1年間の赴任期間は過ぎた。

近くの公園には数回行ったきり、しかも、人に出合った記憶なし。
あとは、牛が鳴く牛舎を横目に、ベビーカーを押して、だんだら坂を降りて、市街地に用事に行っていた。
食料品とか、どうやって調達していたのか、ちょっと覚えていないところが、
非常にわたしも、不謹慎である。
かんじんな生活の基準となることを覚えてないなんて、けっこう、いい加減というか、
はじめての子育てに、そっちのほうが、印象が強すぎたのだろうか。
で、子供の食事とか、どうしてたんだろう?
う~ん・・・

あの頃は、1歳の子供(長女)を抱えて、まるで知らない地に赴任、引越し、
新生児(長男)がいて、ついでにお腹にも子供(次女)がいて、
なにがなんだかよくわからなくて、ひたすら、毎日が過ぎ、あまり記憶にないのだ。
特に第二子(長男)、新生児から半年ぐらいにかけての記憶がない。
よほど手が、かからなかったんだろう。
(あるいは、夫の実家にしばらく居たのかも? 覚えてないところが、いたって、いい加減だ)
あの新生児、だんだん大きくなって夏には6ヶ月になっていて、出産祝いで姉にもらったベビー服を着せて、
じいちゃん、ばあちゃん、義姉さん一家(夫婦と子供たち)と、みんなで旅行したんだった。
ただし、お腹に子供がいたので、すごく熱い、暑い夏だった。
秋頃には、新生児(長男)は抱っこするぐらいに大きくなり、ずっしり感は覚えているが、
年末には、また見知らぬ地である赴任地に引越し準備と出産。
引越し荷物のダンボール箱がひとつ増える度に、子供が一人増えた。

その赴任地のマンションにいたのが、前述の女優女史だった。

と、延々、長くなるので、ここで終了。
思い出、四方山ばなしをしはじめると、これは年がいった証拠であります。

 

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ごめん。逃げます。

2013-05-17 | 思い出

書き続ける意味。
折れそうだが、なぜか、書き続ける。
訪問数が減ろうが、なんであろうが、書く。


おや?と疑問に思ったり、くじけそうになっても、慣性の法則が働く。
つまり、止まらない。
たんなる、制御のきかない、壊れかけの旧式の機械である。
激突するまで止まらないのは、長年、付き合ってきた、自分自身の性格であることは、よくわかっている。


と、まあ、それはそれでよい。
(自分自身のことだから)


で・・・話は変わって、


自分の子供を虐待したことはあるか?
答え・・・は・・・、たぶん、ないと思う。
子供に対して気に入らないことがあると、ガミガミと気が済むまで怒ったりした記憶はある。
子供は、黙ってしまう。口を閉ざす。
口を開かせたくて、なおさらガミガミ言う。
さらに子供は、口を閉ざす。
そういうことをしていた。


二番目の子には、感情をぶつけられて、弱った。困った。
わたしは、被害者だった。
末子は、こちらがほんの少し聞いても、ほとんど口を閉ざしたままだった。
絶対に口を開かない。
最初から最後まで、貝のようだった。


子供とはコミュニケーションは、あまりうまくとれなかったように思う。
仲良し親子、あいあいファミリー、という雰囲気ではなかった。
子供をぎゅっと抱きしめた記憶が、あまりない。
ダンゴ状態の年子3人、
年の似通った子供同士で仲良く遊ぶから、子供の遊び相手には不自由しない、
こりゃあ、楽、と、ほったらかしにしていた。
親子間では、お互い、すごく距離感を感じていたに違いない。



いま、真後ろに上娘がいて、ちょっと聞いてみた。
「ねえ、子供の頃、わたしに叱られたこと、覚えてる?」
彼女は、答えた。
「子供といっても定義が広すぎる。
いつ、何歳の頃を言うの?」

「うーーん・・・小学校高学年になる前ぐらい?」


口から出まかせ的に、中途半端な設定をしてみた。


彼女は言う。
「子供は親を見て育つんやで。つまり、両親、夫婦。
夫婦のあり方が、どんなんかって、こと。それを敏感に感じるものや」
「建前と本音を使い分ける、とか、いろんなこと、学ぶんちゃうか」
「いちばん小さな社会は、家庭である・・・って、知ってた?」
などなど・・・

何を言い出されるか、わからない。
いきなり、未熟な親であるわたしが傷つけられるようなことを切り出されるかも知れないと感じ、
ハナシを進めるのが、恐ろしくなって、そこでこの話題、ストップした。
くわばら、くわばら。


脛に傷持つわたしは、逃げの一手。
正々堂々と胸をはって、「どうだ!!わたしの子育ては。完璧じゃろうが!!文句があるなら、言ってみい!!」
などとは、口が裂けても言えない。
ビクビクものだ。
わたしを糾弾する、非難の言葉の凶弾が、がんがん、びゅんびゅん飛んできそうになる前に、
卑怯にも、一目散に逃げる。


勝てないものには、逃げるが、勝ち。

これが、わたしの、卑怯人生、貫き通したポリシーである。


ということで、じつに情けない親だ。


親の姿を見て子が育つとしたら、まさに、反面教師という、そんな姿しか見せられなかった。
反面でも、一応、教師は教師なので。
たたき台があってこそ、良いにしろ、悪いにしろ、見本があってこそ、
自分の考えや感情が、わきあがってきて、固まってくるのである。


時間が経ち、自分も年齢を重ねると、親に対する目も変わってくる。
自分が、そうであったように。

とりあえず、事故なく、怪我なく、無事に、成人するまで育てたんだから、
それでいいとしてください、です。


 


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イジメられた、あんな日、こんな日。

2013-01-25 | 思い出

わたしは、少しだけ、いじめられっ子だった。
幼い時は、近所の悪ガキに、幼稚園の時は、同じ年の子H君に、
小学校の時は、1つ年上の男子、2人(チビとデブ)に、
そして、特に低学年の時は、同級生の幼なじみT君に、
高学年の時は、これまた別の同級生F君に。
いつも、いつも、男子。
小学校高学年の時に、一人だけ女子に、靴箱で顔を合わす度に嫌なことを言われ続けていたことがある。
でも、中学以来、その子とは、それっきり。
クラスも違うし、話もしない。
嫌なことの内容が、思い出せないのが、複雑なところ。
忘れてるってことだ。

一人の幼なじみのいじめっ子・T君は、彼のお母さんがわたしの母と女学校でクラスメートで、
さらに、同じバス路線を利用し、いつもいっしょに帰っていたこともあり、親しい雰囲気だった。
ただし、それは、幼稚園の時。
小学校に入ると、彼は、いじめっ子に変身した。

中年になった彼は、ある日、同窓会で逢った時に、こう言っていた。
「スローさんは、親が決めた僕の許婚(いいなづけ)で、結婚しないといけないって思っててん。
それでか、なんでか、わからないけど、イジメてたんかも知れない」
鳩に豆鉄砲。
はぁ?と、目を真ん丸くしたまんま、わたしは固まってしまった。
あまりにも、ありえない発想で意外すぎて、コメントのしようがなかった。
今となれば、笑える話だ。

彼は、小学校高学年になって、ぴたっと、わたしをいじめなくなって、やれやれだったが、
代わりに、別の男子F君が、毎日、いじめるようになった。
毎日、毎日、卒業する日をわたしは指折り数えた。(中学も同じだけど)
まあ、彼には、その後に、仕事で新規クライアント開拓の時、お世話になったので、まあ、許してやろう。

中学になってからは、さほど、いじめられることはなかったが、
人気の美人クラスメートが男子達にチヤホヤされ、
わたしは、その他大勢の外野として冷遇され(多少の被害妄想感あり、は否めない)、
ヒネてスネることは、あったかも知れない。

高校では、クラスの男子や、同学年の男子とは、ほとんど話さなかったように思う。
いじめられることもない代わりに、わたしという生徒がいたことも、さほど皆の記憶にもないことだろう。
志望高校に進むのが精一杯で、
以後、成績のぱっとしない、勉強嫌いのわたしにとって、拗ねている時代、暗黒の時代かも知れない。

今、思い出してみると、
いじめられるといっても、べつにケンカをするでもなし、大きな暴力を振るわれるわけでもない。
ただ、鬱陶しいだけである。

爽やかに、力のある独裁者に対抗する、正義の味方みたいなヒーローとは、程遠いが、
優秀で真面目、お利巧さんのクラスメートは、いつも先生に可愛がられるのを、
遠巻きで、拗ねて見ていたように思う。
嫌な子供だ~。


しかし、
お金持ちの子供が優遇されることは決してなく、PTAの会長の子供が一目置かれるわけでもなく、
スポーツや、五教科以外の科目で活躍しても、五教科が良くないと、
たいして注目も集めず、
ただただ、本人の成績が良い、優秀な子が、素晴らしいとされていたように思う。
お金持ちや権力者の子供でも、デキが悪いと、それまで。
ある意味、背景は関係なく、本人だけの実力主義で、気持ちいいかも知れない。
親のせいにできない。

が、塾や、サポートは、やはりお金の力によるところが大きい。
成績も、あるレベルのあたりでは、お金がモノを言うかも知れないが、
一定以上では、お金や背景、環境は、ぜんぜん、役に立ってくれない。
そのあたりが、面白いような、ざまあみろ、のような、潔さがある。
(わたしは、どうせ、レースには関係ないので、気楽なものだ)

子供ながらに、子供同士、実力で勝負、という厳しさを味わったような気がする。
(かんたんに負けてるところは、良くないけれど)

すべての条件を整えられて、同じ条件にして、さあ、闘え!!と背中を押されると、
案外、キツイかも知れない。
自分のせいではない理由を見つけてきて、言い訳が出来ないから。


いじめられたことは、あんまり根に持ってなく、さほど苦にもしてなかったように思う。
今に見ていろ~、と力むわけでもなく、それをバネに強くなるわけでもなく。
わたしにとっては、イジメよりも、問題は別のところにあって、
淡々と自分の力というものを見せ付けられ、思い知るだけだったような。
そして、家の外のほうが、家庭内に比べたら、楽々な世界だと感じていた。
それに、状況が変わって学校で顔を合わせることがなくなると、自然消滅していた。

鈍感だっただけか?

なんか、だらだら、綴っただけの、メリハリのないものになってしまった。
時間限度、ここでいっぱい。
だらだらのまま、おしまいです。

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透明人間になった宇宙人

2013-01-18 | 思い出

さて、今日も真っ白な半紙に、太い筆に墨をたっぷりつけて・・・
どんな文字を書こう・・・

教官は、今日も甲斐甲斐しく、老夫の世話を焼き、今は、ま隣で、教官の妹の世話を焼いている。
二人が出勤したあとは、ちょっとした時間の後に、わたしが出る番が来る。

この墨つけタイムでは、まだ、外は、真っ暗。
しばらくすると、しらじらと空が白み始め明けてくる。
ああ、この風景、光景。
パリのアパルトマンの窓から、毎日、見た色の移り変わり、グラデーション。

夜中に起き出し、明け方まで、ごそごそ、・・・さらに、ブログを書いたり、当日の出歩き予定を考えたり。
結局、部屋を出るのは、午前11時ぐらいになってしまい、また、一旦、引き返す。
さらに、ぐずぐずして、やっと出るのは、お昼の12時。

こんなに遅く出るのに、帰ってくるのは、異常に早い。
夕方には帰ってくる。
早い時には、4時ぐらい。
ちょこっと外に出ただけだ。
帰ってくると、スーパーや総菜屋で買ってきた食品をもそもそ食べ、
これではいかん、翌日のスケジュールは、その前日には考えておこうとガイドブックを開いたまんま、目は、とろん。
とりあえず・・・調べ物の続きは明日にしようっ、と、ばたん、早々に寝てしまう。


何しに、わざわざ遠路パリくんだりまで行っているんだろう?
若い、感受性のピリピリしている時期ならともかく、こんな年になって。

しかも、日本にいる間は、延々、長々と、ぼーっと分厚いガイドブックの上っ面だけを見て、イメージしているだけで、
アタマになんか全然まったく入っていない。
文字は、一字も脳内に浸透していない。
で、現地でガイドブックを必死で読んで、当日、出かける真際に、行き先、行き方を考える。
覚えた内容は、アタマのなかで4時間ぐらいしかもたないので、すぐに帰ってくる。
わたしの脳の記憶装置の電池切れ、バッテリー切れ、気合切れだ。
記憶装置の電池が切れると、思考装置も連動して止まる。
お人形さんになってしまい、ピノキオみたいに、両手両足が、突っ張るように、ピコピコ不自然な動きをし、
疲れて一目散に部屋に帰ってきてしまう。

せめて、いっしょに夕食をとってくれる人がいるといいなあ、と思った。
現地で、ケータイ電話を借りるときにお世話になった、
劇団員の夫(フランス人)と暮らしている、フリーライターの日本人女性と接する機会があった。
わたしは、自分の、活動的でない引きこもり滞在の雑感を述べ、
次の滞在では、彼女に、カンタンなお店の案内を頼もうかと、ちょっと予告めいたことをほのめかしておいた。

わたしは、フランス語は、絶対に出来ることはないと、強く確信したし、
現地で溶け込むことは、ありえないし、
お遊び以外では、
企業駐在員の妻として、日本人グループに入るなりして、現地で居場所、ポジションを得ることもあるだろうが、
わたしの場合は、それもありえない。
自由自在な、旅人、異邦人として、縦横・斜めに飛び回ることも、不可能。
(読めない、話せない、聞こえない、理解できない、ハンデキャップを背負う)
だとすると、現地に、実際は居るけれど、実体は、網の目から零れ落ちている、
誰の目にも見えない、透明人間、異邦人としての、わたし。

だが、言葉以外は、聞こえる。
文字以外は、見える。
人々の様子も、見ることができる。
最悪の場合、なんらかの手段で、人の助けを借りることもできる。
双方向でコミュニケーションを取ることは、できないが、
一方的に見たり、考えたり、予想したりすることはできる。
宇宙人が、恐る恐る、地球人の暮らしに、そおっと入り込んでいるようなかんじ。
見かけは、地球人と同じの、宇宙人。
コミュニケーションさえ取らなければ、自分は、なにも出来ない、わからない人だとは、バレない。

ある意味、これは、日本でも同じようなことが言えるような気がしてきた。

自分が無能だということがバレていない、と思っているのは自分だけで、
じつは、皆、そんなこと、とっくに知っていて、今さらながら、口に出さないだけかも知れない。
しかも、口に出したところで、なんの進展も、効果も、役にも立たないとすると、
無益なことにかける時間が惜しいことだろう。

しかしながら、今まで、わたしは、不思議なことに、
外国で、現地の人に、現地語で、道を聞かれたり、話しかけられたりすることが、けっこう、あった。
馴染み過ぎているのか、息を殺しすぎているのか。
おとなしすぎ、主張しなさすぎ。風景に溶け込みすぎ。

わたしは、宇宙人の立場で、地球を楽しんでいたのだろう。
自分の世界と、目の前にある、別の世界が、同じ空間にあり、同時進行し、
テーマパークの劇場型シュミレーションを体感するよりも、もっともっと、現実に近いものを、
リアルタイムに同じ温度で感じることができて、

わたしの全五感が、とても喜んでいたように思う。

 

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だが・・・
ほんの一年前のことなのに、なんだか遠いような、そうでもないような・・・。
記憶装置自体、劣化の進行が激しい。


ブ○の涙

2012-12-08 | 思い出

他人の言葉で、傷つけられたことがある。

一番、多感な年頃・・・中学生か、高校生ぐらいの時。(高校生の可能性が高いか?)
道で、男子(高校生か、それ以上)2~3人連れと、すれ違いざまに、
背後から「ブスっ!!」と声がした。

思春期で、最も、自分が女の子であることを意識し、見かけや美に対して、神経をとがらせている頃だ。
あの時の、オトコどもは、今頃、どうしているのか?
わたしの人生をむちゃくちゃに、しおって・・・
ぷりぷり。


中学のとき、かわいくて、美人の同級生の女子、Kさんがいた。
めちゃめちゃモテていた。
男子という男子は、メロメロだった。
追っかけまで、やっていた、オタク系のFクン。
熱狂的ファンの真面目なYクン。
おちゃらけ不良っぽいOクン。
たいして、がり勉しなくても特進コースを歩む秀才のHクン。
などなど、書ききれない、ファングループ、取り巻きがいた。

ま、それで、さー。
わたし、・・・ブスって、いわれちゃって、さー。
誰にかっていうと、真面目なYクンに。
はっきり言われたわけじゃないんだけど、さー、
kさん以外は、女じゃない、みたいなこと、わたしに言って、さー。
むかついたわけよ。

で、です、ね。
前々回の同窓会で、彼に、当時のことをネチネチと涙ながらに訴えたわけです。
「あんた、さー、ひどいやん。自分の言ったこと、覚えてる?」
「うん、ごめん。
僕は、当時、子供だったから、思っていることをそのまま言ってしまったんや。
今でも、そんなとこ、あるから、気をつけんといかん」
そうやって、謝ってくれたんだけど、これって、謝ってもらっても、ちっとも嬉しくなかった。
時を経て、自分の言ったことを肯定してるだけではないか。
ま、いいですどね。
どうせ、 十把一絡げ(じっぱひとからげ)の、その他の女子ですから。わたしなんか・・・。


そうやって、思春期の頃は、ずいぶん、傷ついたものだ。
学業面でも、先生には、さんざん、きつく怒られ、これまた、やる気と自信を失ったものだ。
(一番、欠如していたのは、学力と能力)
でも、なぜか、その傷は、人生の過程のうちの、ひとつのポイントではあったが、
点であり、線には、なっていないような気がする。
(負け惜しみ、かなり、入っているが。すっぱい、ぶどう)

美人→人生での勝者
成績優秀者→人生での勝者
の確率は、高いもののの、必ず、絶対に、全員がそうなるとも限らない。
限りなく優秀な同級生で、若くして山で亡くなった人もいる。
国内トップクラスの才能を持つ先輩も、重い病気にかかり、若くして退職して療養されている人もいる。
贈賄かなにかで、新聞で、お目にかかる人もいる。

モテモテ美人さんのその後は、けっこう、平凡である。
結婚して、それでおわり。子供のハナシしかしない。
同窓会に行っても、話のネタがない。

女子のハナシは、わたしにとって、つまらないことが、多い。
当たり前のことを、当たり前に、話す。
わざわざ、同窓会に来て、そんなこと、話しても、おもしろくもなんともない。
男子の話を聞くほうが、興味深いこともある。

わたしの、聞き手としての、姿勢が悪いんだろうけれど。
もっと、相手の、目に見えない良い部分を引き出せるように話を持っていかないからだろう。
もう、いちいち、めんどう。
人に引き出してもらうのではなく、自分で、プレゼンしてください。
人間も年をとると、可愛げがなくなる。(これ、わたしのことです)
ほんと。

オトナになって、しがらみのない、大勢の不特定多数のいる、リアルな場(パーティ)に出入りすると、
いろいろな発見があって、おもしろい。
アカの他人に、どこまで自分を見せるか、出すか。
真実の自分か、ええかっこしーの自分か、まわりは、自分のことを全く知らないので、演技し放題。
その場だけ、一度限りならよいが、ずっと出入りしていると、化けの皮が、はがれることもある。
演技し続けて、息が切れないのか、はたまた、演技することが快感なのか、人による。

10年以上の長い目で見続ける人々も大勢いるので、人物評価が、あちこちで、聞こえてくる。
「あの人は、こんな人だから、注意してね。誰々さんも、たいへんだったらしい」
「この人は、あーだから、いい人。みんなも、そう言ってる」
いろんな噂が飛び交い、どれが、本当か、よくわからない。

自分を守るためには、嘘と真実を見分ける目も大事。
人間を見る目は、かなり鍛えられる。


自立と共存。
これが、テーマである。
自分をしっかり持ち、他と関わる。
しなやかに。


なんて、最初の、ブスって言われて傷ついた話から、どんどん遠くなっている。
なんか、強がりばかりのイタい人みたいになっている。
傷ついても、事態が進むと、いろんな方向にコトは運び、ひとつのコトが、永遠に決定的にならない。
なかには、トラウマになるケースもあるだろうけれど、カウンセリングや、心療内科など、専門家のケアを受け、
風穴をあけ、自分だけで、抱え込まないようにしたほうがいい。
そんなことは、百も承知。
それでもうまくいかないから、悩むわけで。

ああ、仙人の出る幕はない。

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思ひ出、ちょろちょろ

2012-11-13 | 思い出

さあ、今から、早足、更新、時間内で終われるか?
どきどき。

と、とたんに、キーを打つ指が止まった。
なんと、気ままな指であろうか・・・。

読者数、限定。
わたしは、それでもいい。
多くの、不特定多数の方々が訪れてくれるようなブログでは決してない。
そんな、わかりきっていることを、わざわざ文字を使って表現する意味は、まったくない。
有名人、特にアイドルやタレントさんのブログなら、どんなにつまらない内容でも、閲覧数はすごい。
経済の専門家や、その他、その道のプロのブログも、参考になる。(ニュースしか読んでいないけれど)

自分の好きなことだけ書く。
お、指がだんだん、動き始めた。

さ、内容に移ろう。
(この時点では、まだ、考えていない・・・助走時間、長いなあ。
せっかく前倒しでスタートしたのに意味がない)

今日のイントロ、長かった。しかも、無意味。

ここのところ、わたしは、家族やら、家庭やらに関する内容が減っている。
日常生活の、つまらん内容は、書く。
はやい話が、なんの問題も抱えていない。ストレスがない。
機嫌のいい赤ちゃんみたいなものだ。

わたしが、赤ん坊の頃は、お花畑に、ちょこんと座らせていたら、機嫌よく、にこにこと、おとなしくしていたらしい。
いつまでも、じっと、ずっと、お花畑にいたそうだ。
この幼少期のエピソードは、わたしは、じつは気に入っている。
いかにも、わたしらしい、と自分では思っている。
たんに、ハイハイできないので、こりゃ、しめたもの、と母親に、手抜きで置かれて、ほられて、放置されているだけか?

アクの強い、わたしの母は、田舎生まれの田舎育ち、田舎が大好きな、田舎モンである。
よく、近所の野山やら、道なき道の険しい遠い山々やらに、連れて行かれた。
ちょっと小高い原っぱなんかも、好きだったようだ。
そういう自然の風景、幼い記憶が蘇る。
近所の子供達と、小川で遊んだり、野山に遠征に行ったりした。
わたしが、いちばん、小さかったので、
年長の近所のお姉ちゃんの小指をしっかりつかんで、付いていったような記憶がある。
(これは、シッカリモノの後をちょろちょろ着いていく、今もそういう傾向がある)

田んぼや、川原、あぜ道、そういうところで、つくしを採ったり、田舎モン街道まっしぐらの、幼い日々を過ごした。
(「田舎モン街道まっしぐら」は、この場合、適切な表現ではないが、あえて、入れておく。
ああ、めんどうだ、こんな、説明)

家の畑や小さな池や鶏小屋、納屋、農具小屋、わたしの原点は、田舎の自然。
庭の草花で、おままごと用のご飯の「ふりかけ」を作ったり、押し花や染色をしたり。
家と地続きの畑から毎日、野菜を採って、祖母が、食事を用意してくれた。
野いちごや、いちじく、ぐみの実も、庭になっていた。
木や地面から、むしって、ぱくり、むしゃりと食べる。
産地直送、直食だ。
採る人と、運ぶ人、食べる人が同一人物で、しかも、同時。
流通、手間、時間、ゼロ。シンプル。

ま、田舎モンなんですね、わたし。

 

 

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涙、涙、涙・・・涙で字が読めない

2012-08-15 | 思い出

父が書いた自叙伝もどき、昔の思い出・作文を、先日、実家でもらってきた。
タイトルは、「私の履歴書 ~思い出すままに~」、
父の法要の記念として、義姉が簡易製本してくれたものだ。
実家で古い初代ワープロを処分するにあたって、データをパソコンに取り込めるようで、
パソコンに詳しい義姉が、残っていたデータを復元してくれた。

もう、3ヶ月ほど前にもらっていたのだが、読む気がすぜ、ほったらかしにしていた。
今日は、お盆行事からの解放され、今度は、娘夫婦を迎えるための準備をするために、
部屋の片づけをしようと、そこらあたりの書類から手をつけた。
で、さっそく、その文書を手にしたとたん、そうだ、こんなもの、あったなあ・・と読み始めた。

父が72歳の時に書いたものだった。
父は、文章を書いたり、写真を撮ったりするのが好きだったが、なかなか上手いなあ・・・と感心した。
というか、特出した文才はないかも知れないが、読みやすい、わかりやすい、
文法的誤りがない、誤字脱字がない、客観的事実に誤りがない、忠実な客観的描写が、きちんとされている、
テンポがよい、リズムがある、語彙が豊富、・・・などなど・・・
さすが、生まれつきの文系人間だと、いまさらながら思った。

父は、紆余曲折の後に、理系に進んだが、文転ならいざ知らず、理転は、さぞやキツかったことだろう。
(偶然か、必然か、兄も同じ道を辿ることになった・・・)
学生時代の、文字どおりの死闘というかんじの、苦労だらけの勉強方法も記されていた。
平和な時代に生まれ育った、わたしなんか、比ではない。
学生時代の苦楽の様子や、当時の時代背景などもよくわかる、とても興味深いものだった。


というか、・・・
ちょっと読んでは、涙。
また、読んでは、涙。
ああ、もう無理。読めない。
席を立っては、涙。
うろうろ、動物園のクマみたいに歩きまわって、お茶を飲んで、
そして、また読む。
ティッシュで、なんども、涙と鼻をふき取る。
部屋を移動して、椅子を変えて、また読む。

父は、父の父(祖父)が72歳で亡くなったので、自分がその年齢に達した、72歳の時に、
その「履歴書」を書いた。
それを書いてから、6年後に父は、この世を去った。

履歴書は、昭和21年で終わっていた。
父が生まれてから、幼少時代~学生時代~出征~戦争が終わり、復員して日本に帰ってくる、その当日までだった。
まだまだ続編はあるだろうが、わたしは、今は、この時点では目にする機会に恵まれていない。


いちばん、涙が出て止まらなかったのは、
父が、祖母(=父の母)をお伊勢参りに連れて行ってあげたときの件(くだり)。
父の思いつきで、ほんの軽い気持ちで、大阪の上六の高級ホテルで一泊して、伊勢に祖母を連れて行ったそうだが、
祖母は、たいへん喜んで、いつまでも、何十年たっても、息子(=父)に、伊勢に連れて行ってもらったことを嬉しそうに人に話したそうだ。
父は、さして、たいそうな気持ちもなく、適当なノリでやったことが、
そんなに親孝行になったとは、自分自身でも、驚くような照れるような、複雑な心境だと、当時を振り返っている。

かくいう、わたしも、そういえば、祖母が晩年、もう90歳に近い頃、
「○○(=父)が、上六のホテルに連れて行ってくれて・・・」と、
珍しく無口な祖母が、嬉しそうに語っていたことを思い出した。
当時は、夫婦で旅行などできない時代だったので、息子に連れて行ってもらったことが、よほど嬉しかったのだろう。


下娘も、わたしの後に、これを読んでいだ。
「感想は?」と聞くと
「面白かった。特に、戦争のところが」
とのことだった。
わたしは、読むのに時間がかかったが(うろうろしたし、テッシュで涙や鼻を拭いたり、忙しかったし)、
彼女は、わたしが、このブログ記事を書いている間に、(しかもブログ記事の真ん中あたりで)あっという間に読んでしまった。
速読技術を取得した?
わたしが、とろいだけか?

わたしは、父の「私の履歴書」に、とても深いものを感じた。
この父親の子供でよかった、と、こころから思った。
いつも、わたしは、怒られてばかりで、楽しい思い出よりも、マイナスの記憶のほうが強烈だったが、
(梅ちゃんのお父さんみたいなイメージ)、奥の深さを感じた。
そして、父は、文中でも、祖父や祖母に感謝していた。
自分が、ここまで来られたのは、両親や周りの人のお陰だと記していた。

わたしが、今あるのは、両親のおかげ、両親があるのは、祖父母のおかげ。
順々に、感謝のスパイラルだ。

この想いを大切にして、自然なかたちで、子や孫に伝えたいと思う。

 

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サマータイム メモリー

2012-08-08 | 思い出

立秋とはいえ、まだまだ厳しい暑さが続く。
が・・・、さすがに、立秋。
今朝は、ひんやり涼しく、嬉しくなった。
窓を閉めなくてはいけないぐらい。

この季節、いつも思い出す。
20歳の時の夏休みに、イギリスに滞在した。
朝、ひんやりした空気のなか、毎日、ホームステイ家の近くのバス停から研修先に向かった。
まだ気温が上がらない朝、肌に気持ちよさを感じながら、家からバス停まで歩く。
朝の薄い太陽の光が、バス停に注し込み、その傾斜した、やわらかい光の先には、人々の顔があった。
いつも同じ時間、同じ顔ぶれが、バス停留所に集まっていた。

ホームステイ家の朝ごはんは、薄切りトーストと、インスタントコーヒー。
ホストファミリーのママが、毎日、サンドイッチのお弁当を作って持たせてくれた。
もうひとり、ステイしている学生がいた。
彼女は、ギリシャ人。
お父さんは、バンク・マンだと言っていた。
ギリシャ人といっても、今ならEUでお騒がせのギリシャだが、当時は、わたしのギリシャのイメージは漠然としていた。
彼女は、色の浅黒い、縮れ毛の黒髪、太目の女の子。
その友だちは、いかにもギリシャ人という、きりっとした顔立ち(わたしの勝手にイメージするところの)だったが、背が低かった。
彼らの友達たちは、ありえないぐらいの美男美女だった。

背は高く、スタイルは申し分なく、
第一、顔が・・・顔が、その場所で同じ空気を吸っているとは思えないぐらい、絵に描いたように美しかった。
といっても、わたしの人生経験や見識、知識は、あくまでも浅く、リアルな引き出しは皆無だったので、
漫画やテレビ、雑誌で、ちらりと見たことがある程度だったので、どう美しいのかも、まともに表現できない。

彼らは、わたしの存在など、まるで、ないかのように、(勝手に卑屈になって、自分でそう思っていただけ?)
伸びやかに、明るく、楽しげに、その存在だけで、十分、光り輝いていた。
わたしは、(若者にありがちな傾向そのままなのであるが)、見た目で人を判断していた。

彼らは、10代だが、タバコをぽいぽい路上に捨てていた。
わたしは、あんな今まで見たこともないような美しい男女、特に、若い女の子が、タバコを吸うということ、
しかも、スパスパ、スパスパ。
ヘビー・スモーカーばりに、吸っては、ぽい、吸っては、ぽい、に、映画かなにかを見るような思いで彼らを見ていた。

まあ、それはそれで、いいとしよう。
わたしの関わることになった、担当の先生は、20代前半のイギリス人・医大生だった。
背はすらりと高いが、イケメンではなかった。
が、インテリではあった。
よく、青臭い、討論にもならないようなデスカッションもどきをしたように記憶する。

こういうと、あたかも、わたしが、英語ぺらぺらの才媛と勘違いされそうだが、
実体は、まったくそんなことはなく(声を大にして言える)、
同じプログラムに参加していたメンバーの中には、
アグネス・チャン風ファッションの(時代の色、出てますね)中学生の女の子や、
石原裕次郎のようなファッションの色白でぽてっとした、ちっこい中学生の男の子なども参加していて、
わけのわからない、国籍不明、不思議な宇宙人団体だったかも知れない。

この話は、書くと長くなる。
いままで、あちこちで、手を変え品を変え、書いてきたわけではなく、じつのところ、詳しく書いたことはない。
ほんの1~2行程度で、補足説明的に、書き添えたことはあっても、中身に触れたことはなかった。
こういう、昔の出来事を振り返ったり、書き記そうとするのは、充分、年をとった、ということだ。
しかし、まだまだ、その段階に到達していないかも知れない。
じっくり、ゆっくりは、またの機会にすることにしよう。
(そう言いつつ、ほったらかしの可能性、大)


手持ち時間が、いっぱいになってきた。
ラジオ講座・フランス語BGMの時間が近づいてきた。
この、時間制限がある限り、優雅に昔話を書いているゆとりは、ないように思う。
というか、小説、一昨昨日に更新アップできなかったし、そっちのほうをやらないと・・・
ああ、わたしは、無謀なことに手を出してしまったものだ。(後悔、半分・・・)

今朝も時間切れ。
そろそろ気温も上がり始めたようだ。
さて、ウオーミングアップも無事、終了。
1日の、スタートだ。

 

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こころの、あっち、こっちらへんに散らばっていること

2012-07-20 | 思い出

「いじめ」に、ついて。

小学生の頃。
うちの息子、問題児から好かれる。
誰も相手にしてくれないような、問題行動を起こす男子がクラスにいて
みんなは、被害を受けたくないから、距離を置いていた。

息子だけは、来るもの拒まずで、
みんなに嫌がられている子とでも、クラスで仲良くしていたようだ。
たぶん、他の生徒は、ほっとしていると思う。
厄介払いみたいなかんじ? 自分が被害を受けなくていいから? 息子に押し付けた?
息子ぐらいしか相手にしてもらえなかった、その男子は、けっこう、息子につきまとっていたんじゃないだろうか。

その男子のお母さんは、可愛いステキなお母さんだった・・・のに、なあ・・・。
あのお母さんと、あの息子さんは、結びつかなかった。
息子さんの行動が少し、変わっているから、悩んでいたかも?
(いまなら、それらしい病名がつくのかも?)
あるいは、息子さんの学校での一面をあまりご存じなかったかも?
深くは知らないけれど。
大騒ぎすることもない、成長の一時期、一過程かも知れないが。

今でも我が息子は、仕事でも、人の嫌がることを、
逃げ遅れて、あるいは、断りきれずに、(とわたしは、感じるが)、引き受けている。
本人は、大して苦痛でもないようだが、わたしの目から見ると、これ幸いと嫌なことを押し付けられているように思える。
世の中、要領のいい人と、分の悪い人が、いる。
息子が、さほど、苦痛に感じていないように見えるところが、問題だ。
本人は、苦痛だけどガマンしているのか、NOと言えないのか、それとも、さほど、苦痛ではないのか。

あんまり人がいいので、(NOと言えない?)
あんなので、社会でやっていけるんだろうか?と心配してくれる高校時代の元同級生もいるそうだ。

先日、東京に一同、集合した時に、
「嫌なことは、嫌だって、はっきり意思表示しなさい。無理しないで、自由に生きろ」
と、上娘に言われていた息子。
本人は、どう思っているのか、そのあたりが、よくわからないけれど、
もう、現在は成人なので、本人に任せて、ほっている。

同じく小学生時代。
下娘の個人面談で担任の先生に、
「○○ちゃんは、クラスの複数の男子に、いじめられているようです」
と言われた。
いじめられても、なにも反応しないので、反応を引き出したいために、もっといじめられているとか。
あの子らしいと思った。反応しないのは、家庭のなかと、おんなじ態度だ。
わたしは、そのままにしていた。(様子・経過観察)

また、個人面談の季節がめぐってきた。(3年間、同じ担任の先生)
「最近、○○ちゃんの様子を見ていると、描いている絵が、明るい色なので、大丈夫だと感じました」
「女子ともお話するように、なりました」
よかった・・・。
絵を描いているのは、家庭での行動と同じだ。

中学の頃。
下娘が、転校したい、という。
朝、学校に行く時に、そう言って出る時期があった。
わたしは、心配し、少しでも選択肢を広げてあげようと、転校先の候補の学校を選び、調べていた。
「○○中学は、どう?
転校するなら、そこぐらいしか、まあ、オススメできるところは思いつかないけど」

下娘の反応は、なし。

あまり、転校したいと言わなくなったので、そっとしていた。

先日、そのことを下娘に聞いたら、
「え? わたし、転校したいなんて、そんなこと、言った? 全然、覚えてないわ」
と。
親のこころ、子知らず。


わたし。

小さい頃、男の子に、よくいじめられた。
近所の悪ガキたち、同じ幼稚園の子、ひとつ年上の同じ小学校の上級生たち、同じクラスの子たち。
これは、けっこう苦痛ではあったが、彼らは、わたしのことが、好きで、子供ならではの、愛情表現だと受け取っている。
(ちょっと、前向きポジティヴ天然すぎるか?)

女子にも、いじめられたことはあるが、これは、嫉妬だと受け止めている。
(ちょっと、前向きポジティヴ天然すぎるか?)