goo blog サービス終了のお知らせ 

蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

蛇足とはこのことか

2019-07-03 | 思い出
今朝、早起きし過ぎて、(行動パターンとしては)いつもの朝の時間がやってきて、二回目の朝を迎えている。

で、アタマが天国の人が、さっき朝ごはんを食べたばかりなのに、「まだ今日は食べてない」、といって、さらに食べ始める、そんな感じで、二回目のブログ記事を書いている。

でもブログは、文字で残るから、いくらまだ書いてない、と言い張っても、、、
「いや、これはわたしが書いたのではない」なんて、言い出しやしないかしらん、わたし。

まあそれはいいとして。
早く起きたご褒美はケーキだったわけだが、洗濯、二杯目コーヒーを挟み、二度目のブログに取り掛かっている、ハッピー・アタマのわたし。

さて、夫。むかし、むかし、、、。
彼はわたしとの新婚旅行の帰り、飛行機を降りて、一言。
「こんなに(スローが)アホやったなんて、、、知らなかった」
ぼそっと漏らしていたが、わたしはその瞬間だけ、あ、こりゃいかん!と、ピリッと緊張したものの、いつもモードに戻ってしまうのに時間はかからなかった。

言わせていただくが、
新婚生活を始めてすぐに、わたしは夫がこんなに幼稚だとは知らなかった。
まあ、お互い様である。

「アホ」と「ガキ」の結婚。
(でも、子供たちや孫たちは、まともだ)
わたしがなぜ、夫のことを幼稚だと思ったか。
マンガとテレビが大好き。
少年漫画誌を毎週、購入して読んでいた。
成人漫画誌ならまだしも、少年誌!
まあ、手塚治虫みたいな尊敬すべき人もいるので、頭ごなしに否定はできないが。

日曜日の日中は、囲碁のテレビ。あとは、水戸黄門さん。
全く接点がないことを知った。
それは、夫もだろう。
懐かしいと言えば懐かしいが、それが二人の原点であり、現在も同じなんじゃないかと思う。
人は一人一人違う。
自分と同じであるわけがない。
共通点を探すには、目が二つ、鼻が一つ、口が一つ。
共通語は日本語で、共通貨幣は円。
それぐらいかな〜。
同じ空気を吸う、同じ星(地球)の住人である。
全く違う個性の二人は、お互いを理解できないまま、異分子として今日まで来ている。
アクシデントでもない限り、きっと来世まで続くことだろう。

て、これが、二回目のブログ記事?
ケーキ効果が明らかに薄れてきている。
二杯目に飲んだコーヒーも二番煎じで薄かった。(淹れ直そうか)

余計なエネルギーは、時として、出さずにしまっておいたほうが、駄作を生み出さなくて良いという、典型のような内容になっている。
まだまだ続きを書こうと思っていたが、突然、嫌気がさしてきた。
出し惜しんだところで、たかが知れているので、アップしてしまおう。
「蛇足」とはよく言ったものである。
(「駄作」が正しい?)

目を閉じると故郷の田舎が?

2019-06-25 | 思い出
突然、アクセス数が上がり、びっくりしている。
心臓に悪い。
S子軍団の仕業か? 悪い冗談。

さて、(今日は前置きが短い。なぜなら、時間的余裕がないなら)
時間がないのに、こういう時に限って、子供の頃のことを書きたくなる。
頭と現実が、斜めバイアス状態。うまく繋がっていない。

まあそれは良いとして。
関係ないが、昨日、ファミリーヒストリー、賀来千香子だった。お嬢様だったんだ。
でも不思議なことがある。
お嬢様なのに、しかも私より少し若いのに、そして教育熱心な家系なのに、なぜか、親ごさんは、彼女に女性の自立、キャリアの道、レールを引いていなかった。
これは、絶対に不思議。
わたしの年齢で最後の、古い価値観の絶滅種女性だと思っていたのに、わたしより若い彼女が更に絶滅種の年齢を下げている。
それにしても、お母さん、怖そう〜。
あんな怖そうなお母さんなら、わたしのノーテンキ脳みそツルツル母の方が、マシか?
いや、どっこいどっこいか。
90歳を超える、かくしゃくとした、まだまだ現役風のお父さんには、好感を持った。
ちょっとわたしの父に似ていないこともない。

まあ、それはそれとして。
全く賀来千香子とはなんのつながりもないが、わたしが思い出す、幼い子供時代は、、、
四季折々、静かな農村風景、時代錯誤感ありありの田舎の家庭、、、
祖父、祖母、近くの親戚、近所の子供たち、、、
畑や庭の花々で色水を作って染めたり、おままごとをしたり、生っている果実をもぎ取って、そのまま食べたり、ニワトリや魚に餌をやったり、産みたてほかほか卵に触れたり、野山や小川で遊んだり、、、
祖母たちは、カマドでご飯を炊いたり、薪、木々の小枝を焚べて、へっついさんで煮炊きもの、大豆から味噌を作ったり、もち米を炊いてお餅やおかきを作ったり。
お風呂の追い炊きは、祖母の仕事。小枝で温度を調整する。
梅干しを庭いっぱいゴザに並べて天日干ししたり。
井戸にスイカを冷やしたり。
夏は、水を打ち、室内では、夏用の建具に入れ替え、のれんを出して涼を呼ぶ。蚊帳の中で、なかなか寝ずに遊んだり。
冬は掘りごたつ、火鉢。灰の中にミカンを埋めて、焼きミカン?を作ったり。
色々、思い出す。
あれこれ手作りで賄ってくれた。
祖母は、私たち兄妹がバス通学していたため、見晴らしのよい高台の橋の上に行き、バスが遠くから来るのが見えたら、走り帰り、道路に面している場所に位置する台所の壁を叩いて、バスの到着を知らせてくれた。
ドンドンと壁に振動と音がすると、朝ごはんを一気に流し込んで、わたしたち兄妹はバス停に駆けて行った。
祖母は自家製野菜でわたしたちを育ててくれた。
当時は毎日同じメニュー、野菜ばかりで不満だったが、今思えば、感謝しかない。
健康な体に育ててくれた。
でも、グルメじゃないかも。

まあよい。
田舎でのびのび育ったことは、わたしはとても良かったと思っている。
便利な世の中になっても、原点は忘れない。
その割には年を取って、あかんたれになっている。
過酷な自然は無理、アウトドア レジャーもノーサンキュー。
軟弱になっている。
ただ、自然に接した生活をしていたことは、わたしの原型を作っていることだろう。
精神面においては、その後の、あまり上等とは言えない街の生活が大きく影響していると思う。
逆ベクトル、同時の、どちらも合わさって、今の、けったいなわたしが形成されている。
こんな江戸時代となんら変わらないド田舎はイヤ、と若い頃、わたしは思っていた。
今は違う。が、若い頃は切実に思っていた。
父の仕事の関係もあり、小学生高学年の頃に街に引っ越した。
ただし、田舎の家には祖母を残して。
中学生になるまでは、毎週末にお稽古ごとの練習のため、、田舎に帰っていた。
平日は街、土日は田舎。

両極端のわたし。
その環境が、わたしをわたしにした。
まあ、そういう人がいても、いいんじゃないか?などと、安易な〆をしようとする。
ああ眠い。
続きはまた今度。

日常から引っ張り出される過去体験

2019-05-10 | 思い出
蝶ブログ、どなたかにアクセスされた、わたしの過去記事を読む。
けっこう面白い。いろんな意味で。
今と全く変わっていないようにも思う。

わたしが高校入学時に、親戚から入学祝いをいただいた。
そのお礼を書いた手紙(当時15歳?)をある日、発見した。
中味、思考、感性、感覚は、今と同じ。
歳を重ねても同じってこと。
(そういえば、成績最悪、最低だったけど、「思考力」項目だけは、高評価だった)
風貌も、年齢による自然老化はしかたないにしても、過去のわたしを知る人たちから「全く変わってないね」と、よく言われる。
わたし自身は、小学生高学年あたりから、変わってないように思う。
老けた小学生だったわけだ。
だから、同級生が子供に見えた。
当時の同級生に、「スローさんは、我々と違って大人だった」と最近の年賀状に書いてあった。
マセガキ、ひねガキ、かな?
(またまた、思い出したが、長女が幼稚園の時に、「子供っぽいことばかりやらされて、面白くない」とか言ってたような、、、。

デイケアセンターで、子供っぽいゲームや体操で、プライドを傷つけられるお年寄りみたいなかんじか?
「意識、理想」と「実際、現実」がギャップがあるんだろう)

だが、歳をくわないメリットがある。
最初から歳いってるから。
かわいげない。
子供げない。

気がつけば、こうだった。
もっと遡れば、幼稚園児の時からこんなかんじかも知れない。
いったい、無邪気な時期っていつ?
まあ、それなりに、アホっぽいとか、マヌケさは、三つ子の魂百までパターンを維持している。パーフェクト天然。

で、突然、関係ないが、、、
わたしは主婦である幸せを享受していると思うのだが。
その一番、絶頂感、瞬間は、、、
朝、天気の良い時に洗濯物を干す時。
(さきほどだった)
洗濯洗剤のCMにあるような、真っ白なシーツをグリーンの広がる場所、青空の下で干すシーンを連想しながら。
好きだわあ、この感覚、と、へんに感激しながら。
しかし、夕方になると洗濯物を取り入れバタバタ疲れる。
特に所要で時間が遅くなり、あたりが暗くなってしまった場合。
同じ一連の行動なのに、気持ちは変化する。

1日で、短縮版の人生劇を少し体感する。
あんなに楽しいことも、楽しくないこととセット。
遊びの後には、お片づけ。
人生も、絶頂期があれば、下り坂があり、お片づけの終末期がある。
色が七色に変化するように。

オーロラみたいな、立体的、色の変化も面白い。
まあ、自分の人生。
自分で面白がるのが、楽しいかな、と。
朝の洗濯ひとつで、こころが弾んだ。

しかし、これを書いていて、子供時代の辛い過去、洗濯体験も蘇ってきた。
祖母が井戸の横にある洗濯場で、洗濯板を使ってゴシゴシ洗濯していたシーンも。
良いことも、良くないこともワンセット。
それで帳尻が合う。
そんなかんじかなーと。

過去、現在、未来。
良いこと、悪いこと、楽しいこと、楽しくないこと、、、
善悪、偽善、後悔、色々混じって今日に至る。



小学生のころ

2019-01-23 | 思い出
小学生になった時の思い出。
はじめて開いた教科書。
理科の教科書で見た「菜の花」が、印象に残った。
国語の教科書、「さくら、さいた」が、優しく目に映った。
担任のH先生は、わたしが幼稚園の時からレッスンを受けていたピアノの先生。
上品で柔和な優しい先生だった。
先生は、地域では高級住宅地とされる高台に、お姑さんとご主人と息子さん2人でお住まいだった。
長い階段を登って行くのに、子供ながら息が切れた。
門をくぐり、庭の中をまっすぐ歩くと、裏玄関があり、そこから入って右に回ると、先生のお姑さんが習字を教える和室があった。
和室の前は、一面に裏玄関まで通ってきた庭が見える。
わたしはお姑さんに書道も習っていた。
さらに、その和室を出て、応接室のような部屋で、ピアノのレッスンを受ける。
お姑さんも上品で柔和な方、ご主人も背の高い、アメリカドラマに出てきそうな上品で素敵な男性、子供たちも、超おぼっちゃまだった。
わたしは、小学6年まで、その先生の家に通っていた。
ただし、習字は、小筆になってから、全然うまく書けず、脱落した。
筆が細いため、付けた墨が続かないのだ。
先生は、一度墨を筆に付けると、さらさらと何文字も書いてお手本を見せてくれる。
だが、わたしは、一文字、やたら太くなった無様な文字。
枯れた文字など到底書けず。
で、辞めたわけだ。
辞めることに対して、親は、どういう反応だったか忘れた。
バレエも珠算も、自分から言いだして習った。(正確には「習わせてもらった」)
小学生高学年から6年生ぐらいまで。

全部、中途半端で終わった。
自分から習いたいと言い出したくせに、軟弱にも2〜3年ほどで辞めている。
ただ、家庭教師だけは、わたしには充てがわれなかった。
兄にも姉にも家庭教師がいたのに。
兄や姉が家庭教師が来た年齢になると、自分も当然、順番が来るものと思っていたが、一向に気配がない。
で、一応、わたしもー、と親に頼んだような気がするが、どうもスルーされたようだ。
末っ子なので(あるいは見込みのないものには投資しない、合理主義か?)、明らかに手を抜かれた。
母は仕事に追われ、末っ子の声を聞く余裕がなかったとも考えられる。

その頃のわたしは、小学校では成績は最下位クラスで底辺で蠢いていた。
個人面談では担任の先生から母は、もっとわたしを家でも勉強させるようにと注意を受けたと聞いたが、母はその指令を無視し、見事に逃げた。

そのあたりから、わたしの学業不振の根源があるのかも知れない。
その後、成績が振るわなくても親のせいに出来るネタを掴んで、何かと不利な状況に陥れば、そのネタを持ち出し、自分を慰めた。
その一方で、母に、ぎゃーぎゃー勉強しろとうるさく言われない状態に胸を撫で下ろし、妙に安らいでいた。
身に覚えが有る無しにかかわらず、自分の不出来を、他のせいにするシステムを自分で自然に構築する傍らで、自分のマイペースな居場所を確保し、涼しい顏でのんびりしていたのかも知れない。
放任主義って、ラッキーだなあと、後先のことも考えずに、意外にのびのびしていた。

(5年生後半あたりから、担任の先生のスパルタ方式が功を成したのか、成績はぐーんと伸びたようで、笑い話で済むものの)

話は、戻る。
ピアノの先生であり、小学1年の担任だったH先生。
想像するに、昔は公務員も副業が認められていたのだろう。
H先生からの、受け持ち小学生としての初めての通知表。
先生直筆の小さな美しい文字で書かれた、わたし評価は、「大人しく優しいが、芯はしっかりしている」だったような。
これ、ブログに何度もしつこく書いている。
気に入っているんだろう。

幼稚園に入った時は、父が信号機の見方、横断歩道の渡り方を、現場でわたし目線になるよう父が、しゃがんで教えてくれた。
父がちゃんと1対1で接してくれたのは、それぐらいだ。
あとは、食事中のマナーが悪いだとか、こんなことも知らないのか(知識がない)だとか、叱られてばかり。

父が帰宅する車の音がするや否や、それまでうちで遊んでいた近所の子供たちは、蜘蛛の子が散るように、一斉に駆け足で逃げて帰った。
ガラの悪いガキ大将や、ハナタレ小僧の嫌いな父だった。
自分の息子に、彼らからの悪影響が及ぶのを嫌がった。

わたしは、末っ子で、しかも女の子だったので、あまり期待もされず、力も入れられず、野放しに近い状態で育った。
逞しく雑草のごとく育ったと多分思うのだが、見かけはフツーに大人しげだったようだ。

【補足】
長々長々、延々と調子に乗って書いてしまい、本人は気持ちよく酔いしれているだけだろうけど、まあ、真面目に真剣に読む人はない、という日記でした。
書くことによって今日も元気になる、ブログ・セラピーである。
自分を救うのは自分!
皆さんもどんどん、ブログを書きましょう。
(さすがに自己陶酔しすぎて恥ずかしくなったのか、なぜか行き先、方向が変わってきている、、、)

イジメの思い出

2018-10-10 | 思い出
わたしの幼稚園の思い出。
同じ学年の男の子には、ブランコを漕ぎながらイジメられた。
不思議なイジメられ方だが、なにしろブランコ。
どうやってイジメられたのか、思い出せないが、なにしろ、いつも、ブランコを使ってイジメられている感はあった。
想像するに、揺らし過ぎるだの、スピードを上げるだの、ぐるぐる回されるだのではなかろうか。
まあ幼稚園児だから、ブランコは日常ツール。
(ブランコイジメのイジメっ子は医師になったはず)

小学校の時は、一学年上の男の子二人に、いつもちょっと遠くから冷かされたり、半分ちょっかいをかけられるような、かけられないような、イジメと言えるのかどうかわからないものを受けていた。
高学年になると、同級生の男の子に毎日、教室の隣の席で、イジメられた。
後に仕事を通じて再会した時は、イジワル少年は普通の常識ある大人になっていた。

おとなしい、目立たない女の子にも、わたしは一時、プチ意地悪をされていた。

中学では、可愛い人気者の女子をほんの一回だけ、イジメとは言えない程度の嫌がらせをした。
(直後に、自己嫌悪に陥ったが)
静かでおとなしい地味女子たちをスルーしていた。
アプローチされ、付き合っていた男子もいた。

どれもこれも、かわいいプチ思い出。
イジメたり、イジメられたり。
なんなんだろう?
意外に、おとなしい子がイジワルだったりする。
相手を見て、抵抗して来ず、自分より弱そうだったらイジメてくるのだろう。

といっても、かわいいものだ。
男子がイジメてくるのは、「好き」「好奇心」の裏返しで、女子の、イジメたり、イジメられたりは、「嫉妬」と、わたしは捉えている。
あるいは、子供の持つ自然なイジメてみたい欲求だろう。

3歳の孫の保育所同級生に、悪ガキがいる。
見るからに、誰が見ても悪いことを堂々とやってのける。
親の顔がみたい、と思っていたら、その子のお母さんは、あちこち、悪事の火消しに回っておられる。
すみません、ごめんなさい、と。
たいへんですね、とお母さんには笑顔で挨拶するが、そうとう悪い子供で、うちの孫に深刻な被害が及ばないかと、わたしも手を焼いている。

子供は正直で、自分の欲求に従おうとする。
が、動物と同じというわけにもいかないので、躾や教育が大事、ということになる。

わたしがイジメられるには、イジメたくなるような要素を持っているのか?
思春期以降はイジメはない。
あんまりイジメられる要素がないのかなあと。
中途半端で面白くないに違いない。
中途半端でよかった、、、のかも知れない。
成人して、社会に出てからは、悪知恵を付け、イジメられないように自己防衛した。

昔は今のイジメのように、陰湿、陰惨、悲惨ではなかったようだ。

美化しすぎの青春の日々

2018-08-29 | 思い出
スマホの速度が、あり得ないぐらい遅い。
蝿が止まる?
家族メンバー、グループでシェアしている。
いつも月末になると、使用容量オーバーのお知らせが契約携帯電話会社から届く。

で、犯人の嫌疑をかけられた。
わたしではない!
そう直訴するが、信じてもらえない。
わたしは、動画も見ないし音楽も聞かないし、家ではWi-Fiだし、そんなに消費しない。
なのに、いつも必ず疑われる。

しかし、今回ばかりは違った。
次女が名乗り出た。
インターネット環境のないところで、パソコンに繋いだそうだ。
そんなことしたら、減りますわ〜。
疑いは晴れたものの、速度が遅くてイライラ。
まあ、今月もあと少しで終わるので、それまでの辛抱である。

と、ここでブログ記事が終わると、面白くもなんともない。(わたしが)
アウトプット吐露したい感情がある。もやもやの想いが。
趣味SNSの会員さんの日記を読んで、もやっときた。
熱い青春の恋愛日々を綴った日記だった。
他の会員さんたちは、文才を絶賛していたが、申し訳ないけど、全然感動しなかった。
視点が違うのかな?
わたしは、エッセイ部門で長く書いているからかどうかは知らないが、ベタなのは、ノーサンキュー。
行間の味わいが欲しい。
それにさー、(なぜか関東弁風)、なんかさー、キザで気持ち悪い。
青春の1ページってさー、美化しすぎ。
男性はとかく美化したがる。
女性目線では、ただシラケるだけ。
悲劇のヒーロー、俳優みたいな気になっておられる筆者のおじいちゃん。
あんたに言われる筋合いはない!と逆ギレされそうなので、ここ、蝶ブログで感想を書いて鬱憤を晴らしてみた。
わたしとは感性が違うのと、現実を明らかに美化して誇張表現しているのが、アリアリとヒシヒシと感じられる。
この方には恨みもなんにもないけれど、なんだか、わたしの機嫌を悪くするマイナスの神経に触れてしまった。
だから、どうやねん!ですが、男性と女性は感性が違うって、つくづく思うのである。

いずれ、ああなる

2018-04-05 | 思い出
小さい頃の思い出。
時代背景によって、異世代では多少違う。
食べ物の思い出が強烈に脳裏に張り付いていることが多いようだ。
家庭環境によっても違う。
同じ時代、同じ家庭環境、同じ親、同じ学校、でも、個人によって違う。

我々、きょうだい。兄、姉、わたし。
全然違う。
ほとんど歳も離れていないので、同世代であるにも関わらず。
男と女では、違う。
だが、姉とわたし、同性でも、全く違う。
しかし、二人とも結婚し、子供も孫もいる、おばあちゃんであることは同じ。
子供の数、性別比率も同じ。
孫の数は昨年、わたしが姉を上回った。
どうだっ!
でも子供の結婚率は負けている。
まあ時代の流れだ。

姑のところに行くと、娘をはやく結婚させろと、うるさい。
息子をはやく地元に帰って来させろと、うるさい。
当の本人にも直接、はやく結婚しろと迫る。
たぶん、夫以外は、わたしたち家族は全員、うっとうしがっていることだろう。
昔は親や親戚の押し付けに近いお節介、介入で、結婚していたりした。
今は違う。
その時代背景を理解しないで、頭ごなしに行く道を押し付ける。
結婚もさることながら、仕事にまで口を出す。
本人に任せていたら良いではないか。
倒れたら顔を見に駆けつけてくれるだろうし、葬式だってしてくれると思う。
ただし、倒れるか、あの世に行かなければ帰って来ない。
元気なうちは、あてにできない。
そう、わたしは思っている。
子供を自分の思い通りにしようなんて、何故思うのか、わからない。
自立させるまでが親の役目、努め。
あとは、自由意思。
親が期待や希望を述べるのは構わないが、押し付け、強制するのは、もってのほか。
自分が自立できないで弱ったら、今度は子供がわたしの道を押し付けるだろうから、自分で先に決めておかねば。


最近、わたしは姑のところに行くとすごくストレスを感じる。
前は、姑の話を聞いていなくても聞いている風に相槌を打っていたが、今はわたしは相槌が打てない。
姑は一方通行で自分のことや思いしか話さず、人の話は一切聞かない。
わめき回ったり、周りに迷惑はかけていないので、助かっているが。

歳を取ると脳もカチカチになる。
認知症の一種だと思うが、まともに取り扱っていると、こちらが壊れる。
いい加減に手を抜いて取り扱っていても、ストレスが溜まる。
自分の行く末を見る。
自分もああなる。



若き日は、けしからん日々

2017-12-10 | 思い出
わたしは若い頃は、非常にけしからん人間だった。
人のものを欲しがるわけではないのだが、なぜか、親友の付き合っていた男性や夫とのトラブルで、親友を次々と失った。
何人も重なると、自分に欠点があるのではないかと気づかざるを得ない。

平気で人の彼とデートしたりするからだが、彼も同罪だと思う。
被害者は親友たち。だが、彼を引き止めておけない親友たちにも非はある。
ひょいっと女性が現れて、フラフラするようでは、絆が弱い。
あるいは、友人とわたし、女性としてのレベルが同程度で、どっちもいいなあと迷いが生じたか?
はたまた、二股かけるような男性の誠意のなさレベルが、友人と人間性レベルとしては同レベルだったか?
そういう人と友達だから、わたしも同レベルということか。類は友を呼ぶパターン。
それとも、若い頃にはありがちな、理性より本能が先走る動物としての特性か。

いずれにしても、わたしは友という友を完全に一掃(された)わけで、、、。
同性の友達は、それ以来、できない。
わたしが努力しないせいもある。
別に女性にしかわからない悩みとかを打ち明けてシェア、などということはないし。
懺悔室で神に打ち明ける?
そんな神は要らない。自分が神様だから、自分が赦す。
だいたい、わたしは人は信じていない。自分も信じていない。
と、傲慢というか、独りが大好きなので、どうってことはない。

が、このエピソードは、反省の材料になっていない。自慢の材料にもなっていない。
今日の自分が形成されたプロセスの一部に過ぎない。
開き直り、自己肯定。
少しは検証して修正した方が、人間として磨かれるのだろうけれど。
もう磨いたところで、別にそれがどうした?である。
何事も意識しなければ改善しないだろうが、改善を目的に意識するのではなく、自然な気付きで改善されるのが望ましい。(テキストなしで学習は、時間がかかり能率が悪いだろうが、自分自身がテキスト。時にはわたしの親が、反面教師のテキスト)
わたしは、順序にこだわる。

そういえば、3歳にして早くも客観の目を持つ、真ん中の孫、なんだか、順序にこだわる。
わけのわからない、本人独特のルールらしきものがあり、親やわたしに、めんどくさがられている。
三つ子の魂百まで、だろうか。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ


思ひ出ちょろちょろちょろちょろ

2017-03-21 | 思い出
アカの他人の育った家なんぞ、どーでもいいだろうと、ちらと脳裏をかすめるものの、いや、大きく強く直訴してくるが、書く。

増改築、改修された家に長く住んでも、改築前の空間をよく覚えている。
すっかり建て替えてしまったとしても、毎日暮らしたイメージは強く残る。

幼い頃、暮らした間取りや、庭には、特別な思い入れがあるのだろうか。
思春期頃に暮らした家も、よく覚えている。
成人になってからや、結婚してからの家もである。
毎日の生活と密着に関わっているからだ。
暮らしには、人が関わり、衣食住全てが関わる。

昨日は、自分のアップした記事を読みながら、幼い頃、過ごした田舎の家の空間を詳細に思い出していた。

玄関を出て、真っ直ぐ行くと、厠がある。
昔の家は、トイレは一旦、屋外に出て、ちょっとしたところにある。
お風呂も少し離れていた。
水回りは、住宅が傷みやすいから切り離されたのだろう。

突き当たりにある厠の右手側に、2メートルぐらい低い、見下ろす位置に畑がある。
畑を右手に見ながら、緩かやなスロープを下ると、前に、また畑がある。右にも畑、前にも畑。
この前の畑では、小学校低学年の頃、夏休みの宿題である自由研究で、大根の種を植えて、苗を育てる観察日記を書いた。
なんのヒネリもない、ただ、だんだん苗が大きくなっただけの記録。
あれは、得点が低いだろう。
もし評価するとすると、毎日、毎日、(水やりをしたかどうかは忘れたが)見に行って記録しただけの皆勤に対して。
誰にでも出来る、決して高度なものではないが、物事の基本かも知れない。
今もわたしは、愚直なまんまである。

まあ、それはそれとして。

その愚直観察畑の前を右に曲がると、ユキヤナギや、腰ぐらいの高さに茂る植物群を左手側に見ながら、小さな家に着く。
この小さな家は、厠から見下ろしていた畑と同じ高さに位置する。
小さな家は、地元の小学校に新任教師が赴任する毎に、ここに住んでいた。
昔で、田舎なので、賃貸住宅がないからだが、祖父の地元での働きの一環として、離れを新任教師の住まいとして解放していた。
和室二間に、土間の台所とお風呂があった。(お風呂、あったかな?正確なところは忘れた)
玄関横から和室Aの前には、半間の廊下があり、格子の枠付きガラス窓からは、陽光が降り注いでいた。和室Aに続く和室Bには腰から上の高さの窓があり、その少し前には小川が流れていた。

やがて新任教師が住まなくなって、その家は、畳を上げ、木の板の上に、収穫したジャガイモをゴロゴロと平たく並べて保存していた。
いつ行っても、その家にはジャガイモがあった。
ジャガイモ専門倉庫になっていた。

そのジャガイモ倉庫と化した家の横には、大きな米倉庫があった。
米倉庫と同じ高さに、畑が繋がり、視界は全面、畑が広がる。
家屋寄りの場所に、イチジクの木があった。
畑の前には禽舎。
禽舎の横の小屋には、牛か馬を見たような記憶があるが、かなり私が幼い頃には、いなくなったと思われる。

この畑の横の細い小道を上ると、増築した子供部屋が突き出している。

子供部屋の前にはまだ小道が続き、ミニミニ人工池があり、、、、

もう、疲れた。
読んでいる人などないのに、頑張って書いても仕方ない。
また、元気な時に書こう。
もうじき電車、下車駅が近づいてきた。
今日の車中のお遊びは、そろそろ終了です。

〆もまとめも結論もない、ただただ、思い出す風景を描写したのみ。
大根の観察記録がビミョーということと、祖母の野良仕事が大変そう、という、本日の感想。

中途半端は、次回のマトモな記事につながることを期待して。
電車、降ります。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村


古い自分に出会って、さあ、どんな挨拶をしよう

2017-01-18 | 思い出
わたしのブログは、超・中途半端である。

なぜなら、とても近しいリアル人が見にくるので。
(といっても皆さん、それぞれに忙しく活動的でヒマじゃないから、あまり気にしていないが)
なので、具体的なことを書くにも、話題を選別する羽目になる。

しかし、悪い面ばかりでもない。
ホンネそのものが、ブログには書かれているので、日頃、表現しないことが伝わる。
良い面も、悪い面もある。

どうしても知られたくない内容の場合は、ゴミ箱ブログに書く。
読む人はほとんどいないので、比較的安心しながら、鬱憤を晴らせる。
あるいは、趣味の内容の場合は、趣味SNSへ。
熱情を込めて必死で書いて、即、お蔵入りボツ、非公開にする場合もある。

また、人との接触を求めたい時は、人里離れた山から下りてきて、趣味SNS街をうろうろする。

非社交家の典型である。
孤高気取りの寂しがり屋。


来月行なわれる学年通しの高校同窓会に出席しようと、出欠・返信ハガキを出した。
高校同窓会には一度も出たことがない。
中学は皆勤。
この違いは?

どの学校、同級生が好きか嫌いか、だろう。好みの問題。
当時の自分が好きか、嫌いか。

年齢的に節目を迎え、心身の変化による価値観や好みの変化も出てくる。

で、各地から生徒が集まる、とんがっていた中学よりも、地元密着型の、ほんわか高校もいいかなあと。
そういう気になった。

当時のわたしは、中学校という高速洗濯機の中で、鳴門の渦潮に呑まれるかのごとく、全身全霊をかけ、毎日を過ごしていた。
危機感も、刺激も、悲壮感も、毎日が劇場。
高校に進学すると、周りは、ぽかぽか陽気の、しまりのない善人ばかり。
逆のケースもあるだろう。
中学では秀才だった人が、高校では周りも秀才ばかりで落ちこぼれて自暴自棄になることは、よく耳にする。
井の中の蛙、大海を知って、風船が萎む。プシューッ。
わたしの場合は、逆・井の中。
最初から鳴門の渦潮付き太平洋の大海。(矛盾強調表現。
地理には疎いですが、太平洋には鳴門の渦潮はないはず。知ってます、それぐらい)
あとから、ひねもすのたり瀬戸内海。

わたしは、陽だまりぽかぽかに、当時は何の魅力も感じなかった。
そのくせ、わたしの成績は、極寒のシベリア、凍てつく寒さ。
しかしながらグレることなく、悪すぎて笑える成績に、感覚はほとんど麻痺していた。
不思議と悲壮感は全くなく、不気味に、にたにたしていたことだろう。
先生も、叱り甲斐がなかったと思われる。
だから、(かどうか知らないが)高校の同級生で交流があったのは、学年ビリの子や、ヘンな問題児。
普通の生徒との交流はあまりなかったので、わたしのことを知っている人は、おそらく少ないだろう。

まあ、そういう、善良な高校の、一学年通しの同窓会に、なぜか、出てみようと思い立ったわけである。

突然変異?
変化のお年頃。
新しい自分が、古い自分を押し出し始めているのか?

楽しい老境まで、あと少し。
歳を味方につけるまで。

なんだ坂こんな坂、えいほっほ。
坂を超えると過酷な老後の現実が待っているなんて、知る由もなく。

知らない幸せ、今のうちに享受しよう。

にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村