ものすごく超々久しぶり、4年ぶり?に、パソコンを開けている。
電源はどうにか入れることは出来た。やれやれ。
あとの作業は、まあもたもたと、ありえないぐらいモタついている。
そもそもなぜ、いつもスマホからの投稿、そして閲覧なのに、パソコンに挑んでいるのか?
それは、ある人が、半世紀以上前の写真画像をJPEG加工してUSBを郵送してくれた。
今の時代、通信!!!で、と思いつつ。JPEGまで加工したなら、メール送信でもよいと思われるが、なんらかの事情で郵送になったようだ。
おそらく受け手側の通信音痴を察してのことだろう。
「郵送しました」とグループラインで言ってきたが、わたしではないもう一人の人物は、どうやらまだ画像を開けていないような気配。
でもLINEでは、開いた様子がうかがえず、「ありがとう~」のみ。
開く気はあるのだろうか。
わたしは、郵送された当日に、ちゃんと開いてみた。
が、USBの扱いに、まごついた。
あまりにも久しぶりだったので、いったい、どうやってするのだろう、と、パソコンの画面を食い入るように見つめた。
しかし、脳も目も指も、フリーズ。
使わないと、人間、こういうことになるんだなあと、むしろ新鮮な気分。
やがて、、、、、出る出る、50枚近くの昔のモノクロ写真。
あ、おばあちゃん、おじいちゃん、父、母、親戚の顔、顔、顔、、、
黒詰襟学生服に、学生帽の、きりっとした若い父がいた。
令和の現在の今と全く変わらない家、庭で、出征前の軍服姿の独身の父が、父の両親や姉妹と写っているものもある。
ロングコートにロングブーツ。外国の戦争映画に出てくるような恰好。
若い、ふっくらした母も後に登場。
前庭に停められた自家用車に乗ってはしゃぐ幼い兄。
時代は、行ったり来たり。
わたしは、小学高学年でやっと顔が出てきた。
今も覚えている、あつらえてもらった、白地に細かい赤の格子模様のジャンパースカートを着ていた。
あの服は、記憶にしっかり残る。
日頃、小学校は制服だったので、外出用の私服はほとんど必要なかった。
といっても、なにかしら着ていたのだろうけれど。
おばあさんばかりの自宅での記念行事の集合写真が多かったため、わたしたちは若すぎて浮いていた。
両親さえも、若くて浮いていた。
最後のJPEG最新写真は昭和56年ごろ。40年近く前である。
いやあ、参りました。
若すぎる自分に出会って、びっくり。
若い時は、誰も美しい。兄も姉も、変テコではない。
こんなにわたしが自分が好きだなんて、ちょっと予想はしていたが、なんと自己愛に満ちていることか。
他人からの評価を気にしたり、他人と比べたりする気は全くないが、自分が自分に対する自己評価はかなり高い。
うっとり。あくまでも、自己比なんだろう。自分と自分を比べる。
時系列で自分が出てきて、おもしろい変化、推移を楽しめる。
今、現在の(ぜんぜん若くない自分の)写真も、きっと遠い将来の自分の目を悦ばせることだろう。
今から期待している。
※せっかくパソコンからの投稿だから、USBからのお気に入りの写真を張り付けてもいいのだが、絶対にそんなことはしないわたしである。
しかし、最低より最低はないわけで、結果的には、悪くない。
教育現場での落ちこぼれは、まあよいとして、、、
わたしは精神が丈夫なようで、ピリピリメソメソしている人の気持ちが理解できないと思われる。
脳がまともに動いてないからである。
隅から隅まで24時間マックス稼働していたら、故障のモト。
まあそれはよいとして(なんども使うワンパターン句)、ノーテンキな脳のおかげで、結果的には、ずいぶん救われている。
(幾度となく「結果的には」と書いているが、ワザとです)
10歳の頃は、学校だけでなく、家庭でも最悪bottomだった。
これを真っ暗な家庭というのか、と、10歳のわたしは思った。
(ブログにも過去に書いている)
父親が深刻な病に冒された。
(後に生還したが)
10歳のわたしは、後に生還することなど知らず、ただただ毎日、父親がイライラする真っ暗な家庭にいた。
学校も落ちこぼれ。
(普通は10歳では落ちこぼれないのだけど、特殊事情のため致し方ない)
ちなみに、
揚げ物をする時、油が適温かどうかを見極めるのは、衣を一度底に落ちて再び浮上したら、オッケー。頃合いである。
その、一旦、底が10歳。
もう少し待てば、揚げ時がやってくる、、、のだが、10歳のわたしは、天ぷら博士でもなんでもなかったので、ひたすら鍋底で沈んでいた。
この鍋底理論は、どのピンチにも応用できる。
苦節何年、もうだめだ、と思ってしばらくすると浮上する。
皆さん、よく体験されていると思う。
わたしの人生、2度目の苦しい時期は、婚活時期だった。
あの時もなかなかうまく行かず、耐えて底から浮上したから結婚できたが、結婚したらしたで、何度でも苦境はやってくる。
そんなものだ。
しかし、これは苦境とは言い難い。
たんなる節目、起伏である。
嘘ではないが、しかしまあ、ネタは、そこかしこ、どこにでも落ちているなあ、、、と感じる。
街でコンビニを探すかのごとく。
と、今日もそれなりに普通に生きている。
※補足
だけど、今日のブログは、つまらない。
オチ部分を書いている時に、待ち合わせ、待ち人来たるで詰められなかった。
※補足の補足
しかしながら、言い訳を補足するあたりが、じつに器が小さく、潔くない。
たんなる能力の限界を、時間制約のせいにしている。
ある意味、善良で嘘がない?
というか、相変わらず、大げさだ〜。
しかし、0〜10歳と90〜100歳は、嘘がないと思われる。
5分の4の人生は、嘘だらけ。
自分自身も嘘人間。
じつは、9歳ぐらいの時にはもう、しっかり嘘を平気でついていた。
小学校で書いた、父親をテーマにした作文。
最後の〆に、皆んなが〆る共通フレーズのように「わたしは、おとうさんが大好きです」と書いた。
家で父を前にして、作文を読んだ。
父の顔をちらりと見たら、父も決して笑顔ではなかった(ように見えた)。
嘘を見抜かれたかも知れない。
これは、複雑な父娘関係であるが。
作文当時は、あきらかに、オベンチャラで父を喜ばせようとして書いた。
子供の浅知恵だが、まあそんなもの。
が、色々なことを知るにつれ、成人してからは、ずっと父を尊敬していた。
しかし、ファザコンではない。
ただ、男性を父と比べてしまう。
そんなことをされると、世の中の普通の男性は一人も対抗できない。
父は、真面目で努力家で仕事熱心で、知的で、文系理系を併せ持ち、趣味も格調高く、家族想いで、家事もし、お金もたくさん稼いだ。
(滅多にないことだが、思いっきり自慢している。
ここで気がついたが、本気で自慢しているのに、ここまで賞賛、褒め称えて書くと、かえって嘘っぽい)
だが、堅物すぎて、柔らかい人が良いと思ったが、柔らかすぎるのは良くない。
結婚して実家を離れるまでは、明らかに煙たい存在だった。
男尊女卑、時代遅れの価値観を押しつけ、偏見と差別意識の塊だった。
女子は嫁に行ったらそれでおしまいだから、可愛がってもしょうがない、と、いつも苦い顔をして言っていた。
その割には、結婚後、女性が家に引っ込んでいる必要はない、と、女性の社会進出応援派だった。
良いところも、嫌いなところもあったが、わたしには偉大な父親だった。
昔の人はパワーが違う。真似できない。
と、話は大きく外れている。
あ、そうそう。
嘘だらけの人生の、一端が父親へのオベンチャラ作文だったというわけだ。
が、当時は照れながらも、本気も混じっていたと思う。
ひょっとすると本気なんだけど、照れて嘘っぽくしていたのかも知れない。
いや、あの頃のわたしは、自分の人生の中では最も低飛行していた時期の前夜だった。
10歳で、低飛行前夜って、マセている。
が、そのままの温度を半世紀以上保っている。
嘘だらけなのか、嘘がホントになったのか、ホントが嘘になったのかわからないが、とりあえず、今日も生きている。