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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

母というひと

2020-07-02 | 思い出
人のブログを読むとどんな家庭に育ったか、よくわかる。
あえて嘘を捻じ曲げて事実でもないことを書く人もいないだろうが、創造意欲のある人は小説を書けばよい。
理想の家庭を想像して書いて、気持ちが晴れるなら捏造もありだろう。
大概は実際の家庭を少しデフォルメして書いたり語ったりすると思う。
意図せず、良いように覚え違い、記憶違いなんてことはよくある。

詐欺師などは、スラスラとなんでも演じるようだが。
今まで、詐欺師の人とは接点がないのであまりわからないが、詐欺しようとしてしているのではなく、苦し紛れについた嘘が嘘を呼び、がんじがらめになることはあると見られる。

遠い親戚にもそういう人がいる。
立派な学歴を持ち、知名度の高い大企業に勤務しているため、信用はあるが、そこがクセもの。
よくよくルーツを遡ると、その人のお父さんもそんな人だった。
貸したそこそこの額のお金が返ってこなくて涙を飲んでいる近親者は少なくないと思われる。
ある意味、DNAも影響しているのかも知れない。
人は見かけによらないから要注意である。

と、しょっぱなから話が逸れている。
真っ白な紙に好きなことを書いていいよ、と言われたら、、、
絵を描く人も字を書く人も、折る人も切る人も、色々いるだろう。
(食べる人はいないとしても)
わたしの場合は、文字を書く。
好きなことを自由に書く場合は、やはり書いていて自分が楽しくなるようなことだろう。
中にはトラウマになったことや悩みを書いて、セルフカウンセリング療法、ガス抜きする場合もある。
ミュンヘンブロガーKさんは、素晴らしいお母さんに育てられ、大切で満たされた時間を過ごされたようだ。
それがその後、生きていく上での糧になるのは、親としてこれ以上の幸せはない。

さて、わたし。
うーーん、、、と唸る。
母、、、。
幸せエピソードは、一個か二個ぐらいしか思い出せない。
不幸せエピソードなら、山のようにある。
なにしろ、この母と離れたかったことが結婚して家を出る理由の一つだった。
じつは、実家を離れ、こころの底から喜びが湧いてきた。
なんて自由なの!!!と、それはそれは嬉しかった。
が、その後に起こる色々な事柄は、想像もしていない、そんな時期が一番幸せの絶頂というものだろう。

が、女の一生を知る上では大変参考になった。
人間の本質がそのまま顕に現れたストレートな見本。
危険につき、お取り扱い注意だ。
手本ではないが、一つのサンプルとして。
母は反面教師でもあるが、残念なことに、わたしも反面教師になってしまっている。
修行が足りない、、、。

誰にも色々な面がある。
どの面が表に出ているか、の違いだ。
感情面だけでなく、奥底にあるものは、本人ですら無自覚、無認識なことがある。
折り合いをつけ、うまくコントロールするのが知性であったり知恵であったりする。

母などは、未だに無自覚なまま。
「こんなことがあったよ」と周りが昔話をしても、本人は、「へえ、そうなの?」とどこ吹く風。
認知症の症状が現れる前からの、生来のキャラクターである。

本人はストレスゼロだろう。
溜め込まずにその場で外に発散しているから。
「永遠の18歳」を自負していた。
周りはモロに、それを被る、浴びる。
周りはうまく避けたり逃げたりする方法を身につける。
本人を変えようなどとしても無理。無駄なことはしない。
母は強い星のもとに生まれたのだろう。
今もガハガハ大きな口を開けて大声で笑う。
しかめっ面の怖い顔で睨まれるよりはずっと健康的だ。
長年、ストレスをその場その場で発散し続けていたせいで、ストレスが溜まることはなく何も残っていないのではないだろうか。
幸せな晩年である。

昔の恨みはとうに消えた。
自分もおばあさんになり、母はあんなに羨ましい人生が送れて良かったね、と思う。
あとは無事に天寿を全うしてくれたら、完璧なハッピーエンドである。
わたし自身もいずれそうなりたいと思っているが、まだあまり実感は湧かない。

ほどほどの幸せがいい。
激動の家庭は気が休まらない。
欲を出すとその分、ストレスも大きい。
大きな望みを持つと、大きな努力が必要で、維持しようとするとまた更に努力が引き続き必要になり、また、うまくいかないと失望も大きくなる。
当たり前のことだけど。
クラークさんが言っている。
少年よ大志を抱け、と。
少年じゃないので、わたし。
少女でもない、おばあさんです。

かといって嘆いているわけでも、絶望しているわけでもない。
おばあさんになるのは当たり前。
むしろ、この歳まで長く生きてこられて有難き幸せだ。
とは言ってもまだ一般的天寿年齢には少し若い。

母にしてもらえなかったことを子供たちにしてあげたか?
出来てない。毎日、育てるのが精一杯。
祖母として孫に慈愛の目で接しているか?
出来てない。同じレベルでケンカしたり競争したり。

慈悲に満ち溢れた観音如来様のようになるのは、人生設計としては、あと40年後の予定である。
あ、目標達成はあの世で。
現世では誰も見届ける人がいないから、口約束だけで観音如来様になってなくてもバレないし。
バチあたりか?

こうやって、真っ白な紙(=ブログ)に好きなことを書いて日々歳を重ねていくのだろう。
何が事実で何が創作で、何がなんやらわからないことを一生懸命書いていることだろう。
そんな日々は楽しいと想像する。

書いても書かなくてもよい話

2020-05-28 | 思い出
若き日々、親友だったYちゃん。
学生時代、YちゃんはA君と付き合っていた。
わたしは高校を卒業したばかりの春休み、短期バイトを通して知り合ったボーイフレンドがいた。
やがて彼が一浪して入った大学での同級生がA君だった。
A君も一浪していた。
A君に初めて会った時のことは今も忘れられなく、A君の表情を鮮明に覚えている。

ま、何しろYちゃんのボーイフレンドA君は、嗅覚が独特と思われるが、わたしを一目見て化学反応を示した。
それをわたしのアンテナが敏感にキャッチしたのだが、残念ながら、わたしはA君の友達と付き合っていた。
我々は平和主義なので、ややこしいことは避け、極力、平和維持に努めて掻き回さない。
なので、何ごともなく2組のカップルはお互い仲良く交際を育んだ。
が、やがて、世の中によくあるように、2組ともあっさり別れた。
別れたからといって、もう一度バラバラに組み替え再編成し直すかといえば、しない。
あれから半世紀弱は経っているが、皆さんどうしていることやら。
40年も経てば中性になっている(はず)。
A君はわたしのことなど微塵も覚えていないだろう。
若き青春の儚い爽やかな思い出の一つである。
ぱちんとシャボン玉のように弾けて割れた。
夏の花火とはちょっと違う。
火がついてないから。
湿っているから着火しないわけでもない。
このあたりの微妙なニュアンスは、書ききるにはわたしの筆力では100年早い。
て、しょうもないことは書きたがる。

Yちゃんはその後に結婚を前提とする男性とお付き合いしていた。
お付き合いの様子は(見たくて見たわけではないが)目の当たりにしっかり見えた。
が、別れた。
簡単に書きすぎかも知れないが、これまた世の中にはよくあることだ。
なぜ破談になったかはわたしはわかるが、書かない。
まあ色々ある。
この婚約者は、わたしがよく知っている人。
ご両親もよく知っている。
で、別れた後、Yちゃんは別の人と結婚した。
わたしは結婚式に呼んでもらい、新婚家庭にも友人たちと遊びに行った。
ではあるが、幸せはあまり長持ちしなかった。
これまたよくあることだ。
どれをとってもよくあることなので、わざわざ文字に起こす必要があるのだろうかというぐらいである。

でも、ちょっとだけ触れようかとふと思った。
だが、そういう思い出は、書かないほうが楽しく美しい。

それと、、、結婚はほんの少しのタイミングで、相手が変わる。
誰と結婚しても、さほど大きく変わらないような気にもなっている。
Yちゃんの元旦那さんが、そう言っていたのを思い出した。



北風と春風

2020-05-27 | 思い出
母はバリバリ働きものだった。
労働するために生まれてきたような、前世は馬車馬か?
昭和一桁生まれの戦中派なので、戦争を知らないわたし世代のようにヘナチョコではない。
サボっている時間は爆睡している時ぐらいか?
だが、自我キャラクターが強烈で、強欲、直情型で協調性がなかった。
お山の大将で、折れなくてもいい環境にいたため、人にアタマを下げる必要性はなかった。
自分一本やり、自分中心に世界は回っていた。
幸せで結構なことだ。
精神的ストレスはないだろう。
だが、人に好かれていたかというと、嫌われてはいないが好かれもしていないかも知れない。
嫌われていなければ上出来だ。
家族以外には。

家族であるわたしは、激情、ヒステリーの嵐、、、神経にビリビリカンカン痛く刺さって精神摩耗が激しく、大嫌いだった。
更に父は超真面目・優秀働き者人間なのは大いに素晴らしいが、短気を絵に描いたような癇癪持ちだったので、いつも家ではわたしはビクビクしていた。
鞭打ちではなく、父の舌打ち生活にわたしは息も絶え絶えだった。
家の外に出ると落ち着いた。
家庭ではこころが縮んで硬くなって安らげなかった。

高校以降は、小学校からずっと同じ学校の親友Yちゃんの家に入り浸っていた。
Yちゃんのお父さんは大型船(タンカー?)の船長で、年に数回、自宅滞在する期間があるが、あとは外国の洋上にいた。
大黒柱オヤジが居ない家は、開放的で好き放題の勝手したい放題だった。
Yちゃんには弟がいて、弟の友達とも顔を合わせることがあった。

弟は自堕落な子だった。
友人たちも似たり寄ったり。
だが、時間が来ると「勉強の時間だから」と後ろ髪を引かれながらも引き上げる友人男子もいた。
彼は数年後に医学部受験を控えていたように思う。

まあ遊ぶ子は遊び、律する子は律し、Yちゃんの家ではいろんな自堕落生活が送られていた。
Yちゃんの母親は、戦後没落した人種のようで、シニカルな価値観を持っていた。
幼少時代「お嬢様」と自分のことを呼んでいた、それまで仕えていた人々に、ある日、突然、「あんた」と呼ばれたショック。暗転。
それが彼女の人生のベースになっている。
「結婚はビジネスよ」が彼女の口癖。
在宅期間が終わり、父親が家から出る瞬間に、見送る側の家族の顔がガラリと変わった。
ある意味、可哀想なお父さんである。
が、本人は、突然、フェイントで後ろを振り向かない限り、皆の顔の激変には気づかないから、幸せといえば、幸せだ。
大なり小なり、父親に対する家族の思いは底流には共通するものがあるかも知れない。
知らぬはオヤジばかりなり。
世の中には知らないほうが幸せなことは、いっぱいある。
最も身近な、羽を休める家庭でさえ。
人には人の家庭があり、首を突っ込む筋合いはない。

が、よく泊まりに行ったりもしていたので、わたしの母は快く思わなかった。
わたしにすれば、天と地の差ほどある、ノールール、デタラメ自堕落そのものの安らげる場所だった。
不良の溜まり場になっても不思議ではないが、母親が居ることと、この母親は愛嬌たっぷりの結構ユニークな人だったので、不良たちには親しみやすい反面やりにくい、居心地の悪さがあったように思う。
そして不良たちは、家の中で出来ることといっても、たかが知れている。
暴走族は、車を暴走させてこその暴走族。
家の中で出来る不良行為は?
せいぜいお酒やタバコ、漫画を読みふける、、、今のネットカフェみたいなものだ。
(シンナーや麻薬などは無縁。そしてなぜか、女っ気ゼロ。かわいらしいものだ)
喧嘩や暴力はしない大人しいメンバーだった。
血の気はあまりない、普通の子が多かった。
理由は家庭背景だろう。
暴れるほど悲惨な家庭の子はいなかったから。(わたしを含め)
各家庭の経済と教育がベースにあると思う。
どちらか一方が欠けても、成長過程には複雑でハードな足枷となる。
もちろん、乗り越え立派にやっていく人々も多数いる。
逆境に打ち勝つ精神力や努力には頭が下がる。
とまあ、不良にはなりきれない準不良予備軍みたいな子供たちが集まっていた。
が、自由な自堕落空気を思いっきり吸い込んで、また自分の厳しい家に自主的に帰っていく。

わたしは当時、あんな楽園みたいな家がある一方で、なんでわたしの家はこんなに厳しいのだろうと、北風より春風に惹かれていた。
母にすれば、家のルール、厳しい躾が緩むのはいともカンタンなので、嫌だったのだろう。
しかし、実家が居心地が良いと家を出て自立出来ないと思うので、気に入らない実家で良かった。

だが、後にYちゃんの家庭は、一家としては壊れなかったが、子供たちはそれぞれ自立できなかった。
春風が気持ち良すぎたからか?
Yちゃんも弟も自分の家庭を作ることに失敗した。
一度も結婚しない、生涯独身の男女が大勢いる現在では、失敗とは見なされないが。
価値観の多様化が進んでいる。
Yちゃんたちは、結婚して破綻、その後はもう結婚の道を選ばなかった。
ほぼ育児放棄しているかの弟の子供は、姉や両親が育てているようなもの。
どんな子供に育つのか、わたしには関係ないことだ。
人には人の家庭、家族があり、首を突っ込むものでもなければ干渉するものでもなく、興味本位で見るべきでもない。

ただ、わたしは、春風そよぐ楽園だと思っていたものが、浦島太郎のお土産玉手箱や、シンデレラ姫のカボチャの馬車、チルチルミチルの青い(黒い?)鳥のように、一瞬のうちに姿が変わり、元のものが見えた。
キリギリスのように歌ってばかりでは冬は越せない。
自分に合った、自分の芯、核は、自分の両親から受け継いだものだと感じた。
ヒステリー母と癇癪オヤジではあるが、その逆ベクトルにはそれらを引き起こすだけのエネルギーがあった。
何もしない人にはエネルギーも小さい。省エネの法則。
爆発的に頑張る人には、反作用も同時進行して抱える。
振り子の振幅の原理。

何かしらほころびを補強せずに、無理矢理引っ張って継ぎ合せると、他の正常な部分に負荷がかかり、歪んだり破れたりする。
正しい考え方の上に正しい働き、生活が乗っかり動き、機能していくのだと、Yちゃん家のメンバーが次々に破綻していく様子を見て、当時のわたしは思った。
わたしはお世話になっておきながら、春風を受けにきて元気になると、北風の自分の家に戻っていたようだ。
基盤は北風の自分の家。
良いとこ取りをして、良い目だけを享受し、寓話の結論を目の当たりに見て学習したわたしは、じつに悪いヤツである。
何ごともうまい話はないということを思い知った。
基本が大事。

ただし、基本は人によって違う。
Yちゃん家の基本と、わたしの家の基本が違うだけであり、どちらが良いとか悪いとかではない。
自分には自分の道、YちゃんにはYちゃんの道。
お互い幸せにその後は歩んでいると思う。

蛇足。
久々ぶりの同窓会で会っても遠くから会釈するのみ。
いずれヒマになり、あの世が近づいてきたら、もう少し二人は近い距離で話すことだろう。
コロナ禍が過ぎた頃よりは、早い?遅い?

さあ語ろう。10歳から15歳までの自分。

2020-04-25 | 思い出
お馴染みブロガーさんの記事によると、認知症予防には、10歳から15歳の記憶を思い出したり、人に話したりすると効果があるらしい。
その頃は、思春期、大人になる重大な過程で、一番、心身共に変化する。

さて、自分は、、、
小学4年生から中3。
ぴたっと当てはまる、あの時期。

おそらく自分の一生の中で一番、頑張った時期である。
たまたま、認知症予防にこの時期がチョイスされたとすると、自分の体験時期とぴったり重なり驚く。
たまたまこの時期、たまたまわたしは、、、ではなく、万人に対して、この時期は激動の時期なのだろう。
なにしろ人が、子供から大人になる前段階、礎が形成される時期だから。

よく聞いてくれました!
話したくて話したくて、ウズウズするような時期である。
たぶん、皆さんもそうだろうけれど。
時代背景や家庭環境も大きく影響する。

さてさてさて、わたし。(前のめりに、えらくノッている)
一生のうち、その5年間しか活動しなかった。
一生懸命、余裕なく、全ての力を出し切ったかんじ。
力を出しても出しても、まだまだ、まだまだ、、、頑張れ頑張れ、もっと出せとお尻を叩かれる。

もう後は何もしなくてよい。何もエネルギーが残っていない。
15歳からの人生、残りは余生である。
わたしは大げさではなく、そう思っている。

早熟だったので、10歳は身体はもう大人だった。
精神的にはかなり暗かった。いや、お笑い系でもあった。
両方持ち合わせていた。
家庭の中は、大黒柱である父が大病に冒され大ピンチ時期だった。

勉強は、義務教育の中身をぎゅーぎゅー脳みそに目いっぱい詰め込んだ時期。
それ以後、脳みそは、うんともすんとも、びくともしない。
勉強脳波というものが仮にあるなら、上下の波は無く、横にツーっと静かに動きなく今日まで来ている。
これ一生続きそう。
すごいプレッシャーでスパルタ教育を受け、最も不得意分野である勉強部門で頑張らさせられた。
二度と戻りたくない。
わたしが勉強したのは、10歳から15歳の間だけ。
濃縮、凝縮のひと時。

しかし、同級生や先輩、後輩たちは産官学界で活躍するメンバーがそこそこいて、今、彼らの活動を対岸から見て楽しんで応援している。

15歳で無事、地獄のような中学を卒業して高校に進み、晴れてプレッシャーから解放された。
高校受験は、当時は内申書制だったように思う。
受験日当日のテストではなくて、中学2.3年の頃の成績を元に合否を決めていた(んだったっけ?)
なにしろ、一発勝負みたいなテストはなかった。
その代わり、中学の学期ごとに行われる中間テスト、期末テストの成績が重要になる。
化学、物理、ちんぷんかんぷん。
丸呑みしたけれど、丸呑み、丸暗記でどうにかなるものではないのはご承知の通り。
一生のうちで、真剣に勉強して、ひどい結果に文字通り涙したのは、あれが最初で最後だった。
よほど悩んだのだろう。
皮肉なことに、わたしが良い点を取ったのは高校受験日に実施された思考力テストだけだった。
つまり、教えられた科目は一切全滅に近く、自分で考え出したことだけが地中からちょっとだけ顔を出したということだ。
よくあれで志望校に合格できたものだと、今思う。

まあとりあえず、自分の人生の礎コースで頑張ったせいで、あとはオマケ、付録の人生。
基礎作りのあとは、何をしても、どうなってもよい、と思ったのか、15歳以降は手抜きの人生である。

今でも時々、悪夢にうなされることがある。
それは、その苦しかった10歳から15歳の時ではなく、その後、手を抜いてピンチに陥りそうな事態を自らが招いて。
高校の数学のテスト直前に全く勉強できていないで自室の机で呆然となっている夢だったり、単位を取得できずに卒業出来ないのが確定された夢だったり。
えらいこっちゃ、えらいこっちゃ、どうしよう、どうしよう、、、と。

ピンチ寸前だけのワンカットシーンの夢ではなく、手を付けずに徐々に追い込まれていく時間の積み重ね、焦りの後に来る最後の決定的瞬間を迎える正に直前。

そんな夢。まあ、平和だと思う。
幼い頃、母がスーツらしき正装で、新幹線に乗ってどこかに行ってしまう夢を見たことがある。
母恋し物語か。
現在の母と比較して、時間の早送り、リプレイ、そして自分も今は祖母となり、、、(話、脱線)

なにしろ、必死で全く余裕なく選択肢なく何かにガンガン取り組んだのは、10歳から15歳の間ぐらいなんじゃなかろうか。
不向きなことを無理やりやらされて、緊張のゴムが切れてしまったのではないかと思ったり。
一番苦手とする分野で頑張らさせられて評価させられた経験。

じつは、この経験のパート2がある。
専業主婦になった時、専業主婦は一番苦手な家事で能力を評価されると思った。
こりゃあかん、と感じた。
あの10歳から15歳の頑張りは何だったのだろうと我が身を振り返った。
全然、自分の経験は生きていない。
かといって、塾の先生になるわけでもなし、お勉強は最も苦手分野、二度と近寄りたくない。
自分の道をずいぶん探した。
やはり10歳から15歳が礎になっているように思う。

苦手なことを頑張って克服した後に、次の輝かしい舞台が待っている。
のであるが、挫折したまま、迷宮入り。
輝かしい舞台は一生来ず。
苦手分野で自分を活かすのは、無理がある。
得意分野を作る、見つけると良い、と教科書には書いてある。

わたしの得意分野は、サボること。
サボることによって生み出されるような、素晴らしい生産性のあることは何も無い、、、と思っていたが、、、
今みたいなコロコロコロナ軟禁状態には打って付けではある。
おそらく、世界中の皆んなは、コロナ後の新しい価値観を生み出すと思う。
生活、人生そのものに向き合うことを余儀なくされる。
わたしは、15歳でカチカチに何かが固まったかも知れない。
自分の礎。
自分がやって来たことは、必ず自分に跳ね返ると実感する。

礎を築いていない人もいると思われるが、「礎を築いていない」キャラ、そういう礎があっても、それはそれ。
礎自体が、人には言えないようなマイナーな礎もあるだろう。
それぞれの礎。
だが、法を犯したり、人に迷惑をかけてはいけない。

10歳から15歳、不得意な分野一筋。
ではあるが、初恋、初失恋、初告白、ボーイフレンド出現、、、などなど、可愛らしく、いたって真面目な純情エピソードもそう言えばあったなあ、、、と。
書き出したら止まらない。

今日はこのあたりで。
認知症防止にはかなり役立った。
情報提供、ありがとう。

思いは行ったり来たり、楽しい想像

2020-04-11 | 思い出
Stay home!
は、homestayとはちょっと違う。
大いに違う。

大阪府の吉村知事の強い訴えにより、今、わたしは自宅軟禁されている。
あの美しいキラキラした目で呼びかけられると、(やや疲弊色あり)、自宅に留まらないわけにはいかない。

「大阪府は莫大な借金を抱えていて、橋下さんと松井さんと僕(吉村さん)で、少しずつ返しているところ」で、東京都のように、お金がないそうだ。
医療も補償もお金がたっぷりあってこそ出来ること。

「ですから、今は、何よりも、皆さんが出来ることは、自宅にいることです!」
難しく説明をし始めるとどうも吉村知事の口はモタモタする、か、あるいは「早口・事務的上滑り棒読み」になるとわたしは感じる。
美しい人は、口は立たないのが常。
顔だけでアピールできるから。
「顔で当選したんじゃないの?」と、娘の趣味悪ジョーク。
若く美しいと、余計なパンチをくらうようだ。

でもまあ、複雑な事情説明は専門家に任せ、若く美しいリーダーは、切に府民に心情論で訴える。

お金ないから仕方ないやん。
せめて、バタバタせずに被害を最小限にとどめてね。
という、無い袖は振れない論。
補償とセットに出来ない要請、苦しそうだが、それが現実だから。

というわけで、吉村さんに訴えられる前から自宅にいる、わたし。
長期入院のよう。
ところで、白浜アドベンチャーワールド生まれのシロクマ、神経をやられていた。
狭い檻の中で、行ったり来たりを病的に繰り返す。
かわいそう。
と同情しつつ、自分たちは動物園を楽しんでいるではないか。
かわいそうならビーフステーキを食べるな。
卵だってそうだ。
ふわふわスポンジケーキなどスィーツも。
じゃあ植物は良いのか?
キリがない。

地球を支配している者、人間の勝ちか。
忘れた頃に、自然災害などで猛威を振るい、神羅万象、全てのことには人間の力では及ばないことを見せつける。

話を戻す。
自宅療養中。ではあるが、病気ではないだけありがたい。
しかしながら、病気なら心身ともに弱っているから、自宅に監禁されても、さほどエネルギーは爆発しないだろう。
心身ともに健康なだけに、出口をふさがれると、詰まった煙突君が目を白黒させ真っ赤になるように、苦しい。
が、期間限定。頑張るしかない。

日頃、さぼっている掃除や片付け、やり始めると、残りの人生を全て使っても追いつかない。
もし、やり遂げてしまったとしたら、オー・ヘンリーの「最後の一葉」に見られるような、生きる活力の元を見失うかも知れない。→大げさ。
なので全部しない。タスクは残しておく。
とか言いながら、0.1パーセントのタスクも処理していない。
いつまでも死ねない。
というか、生きている間に、もっとこころの重みを軽減したほうが、爽やかになるだろうに。
生まれつきのナマケモノ気質は、コロナより強いようだ。

だが、あまりにも退屈で、掃除をした。ただし、ちょっとだけ。
ピカピカとは程遠い。
片付けものをした。ただし、冷蔵庫に貼り付けてある何年も前のメモ用紙を整理し、マグネットの位置を変えただけ。
きっと家族の誰も気づかないだろう。
だが、わたしのスッキリ度はスゴイ。
こんな小さなことで、こんなにスッキリするなら、、、と大断捨離を試みたりはしない。
菌とともに自分もろとも死んでしまう。
わたしは雑菌と共生共存している。
菌もわたしの一部なので、切り離せない。
(コロナ菌は遠慮、辞退するが)

毛布を洗濯してみたり、日頃しないことをゴソゴソやっている。
しかし、各人、住宅事情もあるだろう。

ちなみに、マイホームを買った頃、初めて実家の両親が遠路遥々、訪れた時。
父は家の中に入らず、敷地内の家の周り(外)をぐるりと一周しただけ。足で調査か?
母は、「なんと狭いダイニングキッチン!」と驚いていた。
さらに、当時、幼稚園年長さんの長女が伊賀忍者のように、廊下の壁と壁の間に両手両足を広げ、天井近くまでよじ登っているのを見て驚愕していた。
確かに、、、あれは、すごい。

そして、購入時は中古だったが、建て替えた時。
建築費を聞いて舅は、なんと高い!とびっくりしていた。
舅は市街地に一戸建て住宅やマンションを買ったり、実家の古い日本家屋を何度も修繕やリフォームしたり、その一角に新築住宅を建てたりと、家計をやりくりしながら、家をさわることが好きだった。
と言っても、独断で家族には相談無しだったようだが。
手堅い人だったので、同時に複数所有するのではなく、田舎から離れた文教地区に、最初は(たぶん)ローンで小さな一戸建て住宅を買い、それを売ったお金で次に住むマンションを買い、更にマンションを売ったお金で最後に住む終の棲家となる(といっても代々その地)実家の一部を新築したり、と、教育と仕事の両立を考えた地での住居を替えて行った。

なにしろ舅は、建て直した我が家が気になり、訪問日はまだかまだかと矢の催促。
荷物を入れて間もない(まだ荷解きされていないダンボールが山積み状態の)時に、舅姑は見学に来た。
今、思えば、舅は自分の残り時間が限られていたからだ。
訪問の半年ぐらい後に他界した。

で、残した一言。
「高いなあ」
姑の一言は、何言もあった。
トイレの色など、自分の年齢から見た健康に留意したマイナスの感想。
自分ならどうか、という目線。
二世帯住宅ではないので、そんな感想は胸の中だけで結構だ。

わたしの父は新築時はもうこの世にいなかったから感想は聞けず。
母は、どうだったか、、、?
あ、一つ、覚えているコメントがある。
ゴミ箱がプラスチック製の実用的な味気ないものだったのだが、それを見て、テイストに合ってないと指摘された。
確かに。
母は、インテリア空間と掃除に煩い。
一緒に家具工場に見学に行き、別注品オーダーをしたり、躊躇しているわたしの背中を押してくれた。
しかし、色々もっと大きな捉え方や感想もあるだろうに、また、なにそれ?とゴミ箱ピンポイント指摘で、転けそうだった。

新築するにあたって、住宅展示場のモデルハウスを色々見学した。
その中で、自分が将来、歳を取ったらこういう間取りがいいなあ、と思うものがあった。
設計時にはあまり老後を意識しなかったが、今、ぐるりと室内を見てみると、自分の理想の老後空間かも知れない、と感じた。
ただし、あと、20年後。
わたしの理想の老後は、20年ぐらい先にならないと訪れないという予感がする。
その頃は、自分の健康が気になって気になって、関心事は、それしかなさそうだ。
完全な健康オタクになりそう。
20年経つと今より衰えるのは必至で、健康が増進するわけがないので、20年後の自分を夢見るのもおかしな話だ。
でも、友人もいないし非社交家なのにもかかわらず、なんとなく、ぼわんとした、楽しい老後を思い描いているから不思議。

20年後にはコロナが終息していると多分思う。
(なんと悲観的な。もっと早く終息しているだろう)
有効ワクチンさえ出来れば怖くないわけで。
そんなに遠い日ではない。

今のまま友達もいない20年後は、コロナを気にせず雀卓を囲みたいなあ、と。
近所に麻雀する人いないか、今から探そう。
いや、対面しなくても、オンラインで繋がる麻雀でいい。
手元の麻雀牌だけ映して、ノーメイク、パジャマで髪もボサボサでも良いのが希望するところ。
それなら今でも出来ると思うが、楽しみはもっと後にお取り置きしよう。

と、話は逸れに逸れて。
楽しい自己満足の時間となりました。



不良と遊んだ、非・不良

2020-03-18 | 思い出
学生時代。
わたしにとっては、幼小中までが学生時代のようなもの。
つまり、義務教育期間。
高校はオマケ。
それより以降は、もっとオマケ。
せっかく、のびのびと勉強できる黄金学習期なのに、勉学に勤しむことはなかったから。
もし、気づきがあるとすると、わたしの学力は、中学で終わっていることかなと。
それ以後は、何を注いでも、あふれかえって零れ落ちるだけ。
キャパを超える。
つまり、わたしのキャパは、盆栽のような小さな庭。
だが、盆栽は小さいから、手をかけやすい。
枯れたらゴミ箱行き。
大切に育て、いくつもの鉢を少しずつ増やしていく、、、わたしは、そういう丁寧なタイプではないようなかんじ。

なぜなら、、、頭に入らない。
理解できない。
正確に記憶できない。
脳が拒否しているのだろう。
ただ、咀嚼して身体に溶けてしまう場合もある。
プロセスは(どうでも)いいから、結局、情報の海の中で、その情報、説は、自分にとって有益か否か。
結果オーライ。
人やAIに演算させたり、調査、集計させたりして、その間は、ウサギと亀のウサギのように、お昼寝。
出来た〜?  まだぁ〜?
と、頑張っている人をせっつく。
そろそろ終盤かなと思える頃に、重役出勤のごとく顔を出す。

わたしは幸せだなあ〜。
こんな優秀な部下に囲まれて。
なんて自分のこころの中で思いながら、彼らには、知能指数ゼロと見なされている。
いいのだ。
知能指数ゼロは、ゼロな分だけ、「有効なものは何か」と鼻が効く。
自分が汗水流すには無駄とも思える演算は、寝ている間に済ませていただく。
ただし、自分を認めて欲しいとか、承認欲求がある人には不向き。
何もしないで認めてもらおうなんて、ムシが良すぎる。
なんらかの努力をした人は、努力を認めて欲しがる。これは、当たり前。
馬の目の前の人参。
モチベーションやご褒美がないと、人間は動かない。

わたし、ご褒美は要らない。
要るとすると、今まで生かしてくれてありがとう、その余波で今も生きてます。
これからも、そっと静かに生きることが出来たら、それがご褒美かな、と。

ちなみに、
学生時代の同窓会。
小学校は、幹事不在のため、一度も開催されず。
中学は、嫌というほど開催され、直近2回を除き、卒業間もない時期を始め、出席皆勤賞。
どんだけ、中学が好きなの?
たんに、幹事さんが、開催好きで、周りも参加好きな人が多いだけ?

一度も顔を出さない生徒も結構いる。
全く一度も見たことがない。
嫌だったんだろう、中学生活が。

生徒は学校を起点に、東西南北、かなり遠くから集まっていて、出身エリアは様々な市町村に多岐に渡り、かなり広がっていた。
延々と電車やバス、船に乗って通って来ていた。
その中で、わたしは、学校は、徒歩、目の前、という、至便の位置に家があった。
JRや私鉄、バスがストの時など、生徒には通学の足に影響があった。
が、わたしは全く関係なし。
皆んなが通学利用駅まで往き来する途中に、わたしの家があったので、ちょっとした休憩所のようになっていた。
同学年女子のほとんどの子は、うちに来たことがあると思う。
わたしの親もほぼ不在だし、いつもお菓子やジュースなど飲食し放題の息抜きにはもってこいだったのでは。
だから、その中学時代が好きだったわけでは全くない。
そんな時もあったなあ、、、と目を細めるのみ。
今のわたしとは、全然違う。

で。
同窓会に顔を出さないメンバーを思い浮かべてみる。
成績がパッとしない子、いじめられていたり、からかわれていた子、、、かなあ、、、と。
家が裕福でなくても、親ごさんが頑張っておられる生徒もいた。
お誕生日会は、親ごさんが、広々とした会館を借り切って催された子もいた。
たまたま、その子は、わたしと同学年、その子のお兄ちゃんは、姉の同級生。
その関係もあり、わたしも、姉も、そのお誕生日会に同日、参加した。
先日、姉とそんな昔話をしたが、そのお誕生日会の姉の感じた印象と、わたしが感じた印象は、少し違っていた。
姉とわたしは2歳しか変わらないが、年齢や性格によって感じ方は変わるもののようだ。

ちなみに、我々3きょうだいは、けっこうユニークで、悪い意味で目立っていたと思われる。
上から順番に、変人度が増していて、わたしは、一番下で、わりと普通に近い変人だった。
上2人がユニークすぎて、そのせいで、わたしは目立たないため隠れ変人とも言える。
姉は、当時、いじめられていたらしく、小学時代の思い出は封印している。 
が、中学から人が変わったように大変身して、体育系クラブ活動で頭角を現した。
勉学では、高校生になり学年が進むにつれ、上2人は優秀だったため、わたしは何かと比較され、サボっていると見なされた。
きょうだいと比較して、こんな失礼な発言をしたりする教師が普通に存在することに、新鮮な驚きを感じた。
普通の子なら、絶対にひねくれたり、非行に走るだろうと思った。
が、わたしは、非行の道には全く魅力を感じなかったのと、ひねくれるには性格が真っ直ぐすぎて天然、楽天家だったため、先生の言動に驚いたに過ぎなかった。
強靭な神経を持っていたのだろう。
ナイーブ、ナーバスの真逆。
無神経。

成績悪い、それがどうした?
なんか、悪い?
と思っていた。

補習的なことをしたり、カツを入れるため、先生のところに来るように直接言われたが、行かなかった。
なんで、行かなきゃならん?
行かない。

でも、全然卑屈ではなかった。
高校生活全てが、自分の属する生活ではないような気がしていた。
皆んなと、合わないなあ、、、と思っていた。
嫌い、とかではない。たんに感覚が違うだけ。
それに、非行の道は快適ではないし、美しさを感じなかったので、わたしは不良にはならなかったが、不良の子たちが友達だった。
これは、ひょっとすると、自覚がないだけで、わたしも不良なのか?
でも、わたしは違うと、自分で思っていた。
不良と遊んでいるだけで、本来の立ち位置にいつも戻っていた。
わたしは不良を目指さなかった。
不良に転がり落ちることはなかった。
が、優等生たちとは、水と油だった。
優等生ではない、不良でもない、不良と遊ぶ、一般生徒。
先生は、非行の道に転落してしまわないか心配だったのだろうが、全然そんな心配は不必要。
わたしは、不良には憧れていなかったから。

本当に社会の闇の中にいる、純然たるバリバリの不良とは、当然、接点はない。
第一、接する機会がない。
自分は安全な場所に身を置く。
何が危険かぐらいは、子供でもわかる。

で。続き。
同窓会に出てこない同級生たち。
今頃、どうしてるかな?
そんなテレビ番組があるけど。

直近に参加した中学同窓会に、小学校の同級生が初めて来ていた。
すごい変人小学生だったが、変人大人になっていた。
社会的には、優秀、まともになっていた。
わたしは、変人が好きだと、たぶん思う。
だが、超ストレート優等生が、超エリートコースを歩んでいるのも、ミーハー的に大好きである。
自分とは一線を画するものに対するファン心理だろう。






時間が逆戻りして静止した

2020-03-16 | 思い出

ものすごく超々久しぶり、4年ぶり?に、パソコンを開けている。

電源はどうにか入れることは出来た。やれやれ。

あとの作業は、まあもたもたと、ありえないぐらいモタついている。

そもそもなぜ、いつもスマホからの投稿、そして閲覧なのに、パソコンに挑んでいるのか?

それは、ある人が、半世紀以上前の写真画像をJPEG加工してUSBを郵送してくれた。

今の時代、通信!!!で、と思いつつ。JPEGまで加工したなら、メール送信でもよいと思われるが、なんらかの事情で郵送になったようだ。

おそらく受け手側の通信音痴を察してのことだろう。

 

「郵送しました」とグループラインで言ってきたが、わたしではないもう一人の人物は、どうやらまだ画像を開けていないような気配。

でもLINEでは、開いた様子がうかがえず、「ありがとう~」のみ。

開く気はあるのだろうか。

わたしは、郵送された当日に、ちゃんと開いてみた。

が、USBの扱いに、まごついた。

あまりにも久しぶりだったので、いったい、どうやってするのだろう、と、パソコンの画面を食い入るように見つめた。

しかし、脳も目も指も、フリーズ。

使わないと、人間、こういうことになるんだなあと、むしろ新鮮な気分。

やがて、、、、、出る出る、50枚近くの昔のモノクロ写真。

あ、おばあちゃん、おじいちゃん、父、母、親戚の顔、顔、顔、、、

黒詰襟学生服に、学生帽の、きりっとした若い父がいた。

令和の現在の今と全く変わらない家、庭で、出征前の軍服姿の独身の父が、父の両親や姉妹と写っているものもある。

ロングコートにロングブーツ。外国の戦争映画に出てくるような恰好。

若い、ふっくらした母も後に登場。

前庭に停められた自家用車に乗ってはしゃぐ幼い兄。

時代は、行ったり来たり。

わたしは、小学高学年でやっと顔が出てきた。

今も覚えている、あつらえてもらった、白地に細かい赤の格子模様のジャンパースカートを着ていた。

あの服は、記憶にしっかり残る。

日頃、小学校は制服だったので、外出用の私服はほとんど必要なかった。

といっても、なにかしら着ていたのだろうけれど。

 

おばあさんばかりの自宅での記念行事の集合写真が多かったため、わたしたちは若すぎて浮いていた。

両親さえも、若くて浮いていた。

最後のJPEG最新写真は昭和56年ごろ。40年近く前である。

いやあ、参りました。

若すぎる自分に出会って、びっくり。

若い時は、誰も美しい。兄も姉も、変テコではない。

こんなにわたしが自分が好きだなんて、ちょっと予想はしていたが、なんと自己愛に満ちていることか。

他人からの評価を気にしたり、他人と比べたりする気は全くないが、自分が自分に対する自己評価はかなり高い。

うっとり。あくまでも、自己比なんだろう。自分と自分を比べる。

時系列で自分が出てきて、おもしろい変化、推移を楽しめる。

今、現在の(ぜんぜん若くない自分の)写真も、きっと遠い将来の自分の目を悦ばせることだろう。

今から期待している。

 

※せっかくパソコンからの投稿だから、USBからのお気に入りの写真を張り付けてもいいのだが、絶対にそんなことはしないわたしである。

 

 


昔話。先生嫌いの小学生

2020-02-18 | 思い出
小学校の話、続きが書きたくなった。
クラスの学級委員は、いつも勉強のできるお利口さんが選ばれていた。
真面目な性格。
小学生でも既に性格のベースはできているようだ。

一学期、二学期、三学期と、順々に人物は少しずつレベルダウン。
一学期に選ばれる子、二学期に選ばれる子、三学期に選ばれる子は、だいたい顔ぶれが決まってくる。
男女1名ずつなのだが、いつも休み時間などは先生の周りを囲んでいる子たちが多かった。

わたしは、先生が大の苦手なので、休み時間という黄金のリラックスタイムに、よくまあ先生に近づくなあと、その行動が理解出来なかった。
先生も、生徒も、相思相愛なのだろう、きっと。

成績が良くて真面目。この二本柱。
成績が良くて不真面目な子はいなかった。
成績が悪くて真面目な子はいた。(哀しいかな、わたし)

一学期の学級委員はだいたいT大コース、二学期も似たような医歯薬コース、三学期は国立大コース、みたいなかんじかと。
まるで、塾みたいな割り振り。

まあ、わたしが近寄らないわけが、おわかりかと思う。
勉強が出来ないと、先生にいつも非難されているような気になり、目が合わせられなくて、説教されそうで、先生との間に、バリアを張っている。
学校に教育実習生はしょっちゅう来ていて、生徒は実習生に慣れているが、実習生は一度きりの学生期間研修なので不慣れ。
わたしは、研修実習生にも、バリアを張っていた。
すると、ある実習生である先生の卵に、「なぜ、僕から逃げるの?」と聞かれた。
わたしは、答えなかった。
嫌いだから、なんて言えないし。

小学校前半は素直な普通の子。
後半は可愛げのない小学生ではあったが、わたしは今と身長もあまり変わらず、おませではあった。
高学年にもなると、大人の男性が、まさに子供から女性へと変化していく過程の女子に、好奇心あふれる目で見てきた。
時たま大人に声をかけられたりしたが、それも、なんとも言えなかった。

まあ、それはそれとして、、、

小学校最後の最後に委員をやらされた時は、嫌だった。
不適任、極まりない。
クラスの子たちは皆んな優等生に飽きたのか、気まぐれか、最後ぐらいは規格に収まった成績重視主義から解放されようと思ったのか?
しかも、二位の子と僅差。
選ばれたとは言えない、投票状態だった。
その流れは中学に進んでも引きずっていた。

10歳の鍋底

2019-10-20 | 思い出
なぜ、10歳が、わたしの人生の最低飛行時期だったか。
しかし、最低より最低はないわけで、結果的には、悪くない。

教育現場での落ちこぼれは、まあよいとして、、、
わたしは精神が丈夫なようで、ピリピリメソメソしている人の気持ちが理解できないと思われる。
脳がまともに動いてないからである。
隅から隅まで24時間マックス稼働していたら、故障のモト。

まあそれはよいとして(なんども使うワンパターン句)、ノーテンキな脳のおかげで、結果的には、ずいぶん救われている。
(幾度となく「結果的には」と書いているが、ワザとです)

10歳の頃は、学校だけでなく、家庭でも最悪bottomだった。
これを真っ暗な家庭というのか、と、10歳のわたしは思った。
(ブログにも過去に書いている)
父親が深刻な病に冒された。
(後に生還したが)

10歳のわたしは、後に生還することなど知らず、ただただ毎日、父親がイライラする真っ暗な家庭にいた。
学校も落ちこぼれ。
(普通は10歳では落ちこぼれないのだけど、特殊事情のため致し方ない)

ちなみに、
揚げ物をする時、油が適温かどうかを見極めるのは、衣を一度底に落ちて再び浮上したら、オッケー。頃合いである。
その、一旦、底が10歳。
もう少し待てば、揚げ時がやってくる、、、のだが、10歳のわたしは、天ぷら博士でもなんでもなかったので、ひたすら鍋底で沈んでいた。

この鍋底理論は、どのピンチにも応用できる。
苦節何年、もうだめだ、と思ってしばらくすると浮上する。
皆さん、よく体験されていると思う。

わたしの人生、2度目の苦しい時期は、婚活時期だった。
あの時もなかなかうまく行かず、耐えて底から浮上したから結婚できたが、結婚したらしたで、何度でも苦境はやってくる。
そんなものだ。
しかし、これは苦境とは言い難い。
たんなる節目、起伏である。
嘘ではないが、しかしまあ、ネタは、そこかしこ、どこにでも落ちているなあ、、、と感じる。
街でコンビニを探すかのごとく。

と、今日もそれなりに普通に生きている。

※補足
だけど、今日のブログは、つまらない。
オチ部分を書いている時に、待ち合わせ、待ち人来たるで詰められなかった。

※補足の補足
しかしながら、言い訳を補足するあたりが、じつに器が小さく、潔くない。
たんなる能力の限界を、時間制約のせいにしている。
ある意味、善良で嘘がない?
というか、相変わらず、大げさだ〜。

嘘かマコトか

2019-10-19 | 思い出
わたしの人生の大半は、嘘で固められている。
しかし、0〜10歳と90〜100歳は、嘘がないと思われる。
5分の4の人生は、嘘だらけ。
自分自身も嘘人間。

じつは、9歳ぐらいの時にはもう、しっかり嘘を平気でついていた。
小学校で書いた、父親をテーマにした作文。
最後の〆に、皆んなが〆る共通フレーズのように「わたしは、おとうさんが大好きです」と書いた。
家で父を前にして、作文を読んだ。
父の顔をちらりと見たら、父も決して笑顔ではなかった(ように見えた)。
嘘を見抜かれたかも知れない。
これは、複雑な父娘関係であるが。

作文当時は、あきらかに、オベンチャラで父を喜ばせようとして書いた。
子供の浅知恵だが、まあそんなもの。
が、色々なことを知るにつれ、成人してからは、ずっと父を尊敬していた。
しかし、ファザコンではない。
ただ、男性を父と比べてしまう。
そんなことをされると、世の中の普通の男性は一人も対抗できない。
父は、真面目で努力家で仕事熱心で、知的で、文系理系を併せ持ち、趣味も格調高く、家族想いで、家事もし、お金もたくさん稼いだ。
(滅多にないことだが、思いっきり自慢している。
ここで気がついたが、本気で自慢しているのに、ここまで賞賛、褒め称えて書くと、かえって嘘っぽい)
だが、堅物すぎて、柔らかい人が良いと思ったが、柔らかすぎるのは良くない。

結婚して実家を離れるまでは、明らかに煙たい存在だった。
男尊女卑、時代遅れの価値観を押しつけ、偏見と差別意識の塊だった。
女子は嫁に行ったらそれでおしまいだから、可愛がってもしょうがない、と、いつも苦い顔をして言っていた。
その割には、結婚後、女性が家に引っ込んでいる必要はない、と、女性の社会進出応援派だった。

良いところも、嫌いなところもあったが、わたしには偉大な父親だった。
昔の人はパワーが違う。真似できない。

と、話は大きく外れている。
あ、そうそう。
嘘だらけの人生の、一端が父親へのオベンチャラ作文だったというわけだ。
が、当時は照れながらも、本気も混じっていたと思う。
ひょっとすると本気なんだけど、照れて嘘っぽくしていたのかも知れない。
いや、あの頃のわたしは、自分の人生の中では最も低飛行していた時期の前夜だった。
10歳で、低飛行前夜って、マセている。
が、そのままの温度を半世紀以上保っている。
嘘だらけなのか、嘘がホントになったのか、ホントが嘘になったのかわからないが、とりあえず、今日も生きている。