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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ブログ読者実数

2021-07-03 | ブログ
目心体、痺れました。
すごくすごくすごくよく理解できる。
ただし、わたしの悪い癖は、パクることだ。
無意識のこともあるし、意識している確信犯であることもあるし、あとから気づくこともある。
コピーではなく、影響を受け、取り入れる血肉化なら許してもらえるだろうか?

10000冊の本を読むより、1冊の本との出会い。
しかし、その1冊の価値は、10000冊を読んでこそ深みがわかる。
なかには、100000冊読んでも(※0ひとつ増やしてます。ミス入力ではない、とわざわざ説明するミス多発自覚の哀しい色合い)さっぱりわからない人もいて、ああ、自分はわからない人なんだ、、、と、わかればそれで意味がある。得るものがある。
なぜだ?なぜだ?なぜだ?と闇雲に読み漁る時こそ、脳細胞がすごい勢いで分裂している。
(学生時代、理数系教科書問題を前に、なぜだ?なぜだ?なぜだ?と延々向き合い、自分は理解できない脳だということが理解できた実体験あり)

分裂しない、ツルツルのお花畑、ただただ快適な化繊の衣類を無意識に纏っているのは、、、まあそれはそれで、純粋で美しい。
不純と純粋って、見方によると、真逆。明と暗。
両方あるから、両方意味をなす。
片方だけなら、無なのではなかろうか。
自分への取り入れ方、自覚の仕方だと思うが、千差万別、人の数だけある。
大きくグループ分けは出来ると思うが。


さて、話はころっと変わる。
ブログ村、わたしのブログにOUTのほうがINより多いのは、、、

ブログを始めた頃からそうだった。
正統派ではなく、清く正しく優等生的ではないからだろう。
真正面ではなく、斜め切りだから仕方ない。
わたしのボヤキ、何いってんだかさっぱりわからない人も多いことだろう。

人間には二種類ある。
○自分を正しい賢いと思っている人。(本当に賢い場合と、そうでない場合がある)
○自分はバカだと思っている人。(本当にバカな場合と、そうでない場合がある)

賢いことを自覚している人が、バカな人から「あなた、それ、前と後ろ、反対ですよ」などと言われようものなら、松の廊下になる。
殿中でござる、殿中でござる。(昭和とか、古いとかのククリはもはや無い)
何だと?と、斬りつけられる。
万人が認めている賢い人に言われたら素直に納得して聞くが、アホな人に言われると、ブチ切れる傾向にある。

「お前が何を言う!!」
と凄い剣幕。
どうどうどう。はいどうどう。
はい、あなたは正しい、はい、はい。
と、なだめなければポキンと折れてしまう危うさ、脆さを持っている。
なので、アホにはアホの役割があり、偉い人に機嫌よく(アホでは出来ないような)仕事をしてもらわなければならない。

まあそういう偉いタイプの人はわたしのブログは大嫌いだろう。
正面玄関から、いいね!チャイムを押す人はいたって少ない。
だが、勝手口に回ってみると、あなた、アホでちょっと可哀想だけど、わかるわぁ〜と、大根やら白菜やらを置いていってくれる人がいる。
ごくごく稀にブログ人生でほんの稀に、宅急便で商品券を送ってくれる人もいて、商品券は使わず眺めるだけで、人生の宝物にしている。
(これは比喩表現。
「商品券」を本当にホンモノの商品券だと捉える方には、申し訳ありません。
わたしは、演出表現をよく使います、、、と、とりあえず説明を)
ふぅ、、、。
アホ(わたし)とカシコの間には橋渡しをしなければならないので、時折、説明が要る。

わたしは、たくさんの賛同は必要としない。
一人や二人、実数で十分である。
そして、、、自分がアホなくせに、わたしは賢い人が大好きで、賢い人々の中で自分がアホやっていると、なんだか落ち着くのだ。
アホ同士では、泥沼試合になる。

というわけで、表玄関からのINポイントは少ないのだと推測する。
マイナーな感じで憚られるから隠れるようにこっそり応援してくださる方もいて、こちらもこんな愚ブログ、照れ恥ずかしい。
表舞台で華々しく応援していただくと、わたしは「カタツムリに塩」みたいに溶ける、潜在的自意識過剰マイペースタイプなので。
(ナメクジにすると、わたしがちょっと可哀想なのでカタツムリ)

ほんとに可愛げがない。




美しい絵物語というわけにはいかない

2021-06-23 | ブログ
ランダムにgooブログユーザーに訪れる、自分のブログをアピールする「アピールチャンス」、前に見たブログ記事が、いくつも連なってそのまま編集画面の上部に現れた。
同じブログが、複数。
同じ人にアピールチャンスがやって来て、同じブログを引き続きプッシュしているのか?
ちょっとしたデジャヴに陥った。
わたしは、アピールチャンスが訪れると前に一度出した記事とは別の記事を推す。
よほど自分が気に入った記事なら2回推す場合も稀にある。
あるいは、あまり更新していない時は仕方なく同じ直近記事を2回、出すこともあるが。

アピールチャンスを利用して他のブログを閲覧している人は少なくないようだ。
わたしも、その一人。
未知のブログと出会うことは楽しい。

せっかく訪れていただいた方のブログに、わたしはあえて行かないことが多い。
あえて、なのだが、失礼をしています。
人のことが気になると、マイペースが乱れるため、足跡を残してくれた人のブログに一向に顔を出さないわたしに不快な気持ちになっている方もおられるだろう。

わたしは、大勢の方々と交流するのはハナから諦めている。
元々、大勢の方々の目にも留まらないから、取らぬ狸の皮算用的な色合いがあるかも知れない。
が、負け惜しみの気持ちはあまりない。
わたしは、わたしで、感覚をシェアしてもらおうなんて厚かましい思いはない。
娘にブログ記事と同じことを話しても、無反応に近い、面白くも興味あることでもないようだ。
年齢も一世代違うと、ギャップがある。
第一、娘をネタにしたブログを書いていることもあるので、あまりうかうか喋れない。

いつも読むのは二つのブログ。
それ以外の他のブログを読むことはあまりなかったが、最近はタイトルに惹かれたりして読む。
(というよりは、ネタ探しに読んだりする)
が、ブックマークすることは、ほとんどない。
(毎日の数々あるリアルタイム社会ニュースや記事の中から、ブロガーさん個人のフィルターでピックアップしているブログを一つだけフォローしているが、毎日のように更新されているため、読んだり読まなかったり)

というわけで、せっかく蝶ブログにお越しいただいているのに不義理をしている。
一期一会のご縁を大切にしなければならないのに、そしていつも読んでいただいている人には有り難く思っているのに、行動に移さないで、不徳の致す限りだ。


ちなみに、、、
ブログに書いていると、スッキリするが、次女に同じようなことを話すと、「直接、本人に言えば?」と釘を刺される。
愚痴は聞いてくれない。
ピシャリ。
しかも、ブログではいつも一人で完結していて、めでたしめでたし、、、なのに、「それは違う」と反対意見を唱えられる。
スッキリどころか、モヤモヤの霧に迷い込む。
まあそれで良いのだが。
勝手な思い込みは考えに偏りを生じさせる。
全く同じ価値観や感性の人と、ぴたっと一緒にいるのは良くない。
危険だ。

次女と話していると、家族はお互いを思いやるというよりは、何かあった時に互助会システムが機能して責任が生じるため、家族に厄介や面倒をかけてはならないと感じる。
病気になったり怪我をしたり、事故を起こしたりして家族の義務を増やしてはいけない。
身を案じて言ってくれているのではなく、各自、負担を避けたいためか。
多少は身を案じてくれるのだろうけれど、面倒を起こされると困るという、自己防衛スタンスが見える。
まあ、理想の美しい家族愛、キレイゴトでは済まないよね、と思うわけで、ちょっと冷水で顔を洗うかのようで、いい歳して美しい絵物語を夢見ているのもどうなんだろうと、へんに納得したりする。







お元気でなによりです

2021-05-18 | ブログ
去年、突然、ブログから姿を消したケイコさん。
彼女は異国で奮闘中のギャラリスト。
コロナ渦の中、旅行を目前に、この時期、行ってもよいものかと悩んでおられた。
その旅行、行ったのか行かなかったのか、どうなったんだろう、、、と待つこと数週間、数ヶ月、ついに、一年以上が経過した。
それまでは毎日ブログ更新され、いつもブログ村エッセイ注目記事では1位2位3位をケイコさんの記事で独占されていた。
が、ある日、ブログ村を脱会されたものの、書いておられたので、わたしはブログ村を経由せずに引き続き愛読していた。
にもかかわらず、何も言わずに、ある日、いきなり、、、。プッツーン。

ケイコさんの遠征はギャラリーオーナーさんとの旅行だった。
お一人様、独身バツゼロ、一人住まいのケイコさん、、、ひょっとして、、、オーナーさんはビジネス戦友、親友とは言うものの、異性。
何かしらの展開があって、自分の気持ちに正直なケイコさんのことだから、心の整理がつくまでブログは中止されたのかと勝手に想像していた。

さて、わたし。
この度、スマホの機種変更に伴い、画面に貼り付けているケイコさんのブログを画面から消そうとした。
どうせ更新されていないだろう。
もう一年あまりも私のスマホ画面に貼り付けてあるものの、必要ないと思い、その前にとりあえず、開いてみた。
あ、つい最近、更新されていた。びっくり。
そして記事を遡り紐解くと、1年近く放置されていた理由、経緯も説明されていた。
そうだったのか、、、
別のところで書いておられたとのことだった。

わたしは放置された日まで遡って、ブログ記事を読んだ。
お元気だったし、ケイコさんの日常には変化はなかった。
今もギャラリー作品の紹介をしながら、精力的に書いておられる。

そもそもケイコさんとわたしは、人気ブロガーさんと、1読者の間柄に過ぎない。
当然ながら一面識もない。
わたしは一方的に記事を読む側。
だが、わたしは以前のような熱い気持ちにはなれなかった。
ブログには表さない、現れない、ケイコさんの性格の一端を見たような気がした。
決して非難ではない。 
ある種の失望である。

読み返した記事の中で、ある日、それまでの「ギャラリーパートナー」という表現が、ごく普通に「パートナー」という言い方に変わっていた。
一度、「パートナー」という表現になってからは、「ギャラリーパートナー」という言い方には戻っていなかった。
この男性は、ケイコさんが日本にいる時から、そして異国行き、異国での仕事、その後のギャラリー運営に最初から関わっておられる方だと推測する。(あくまでも推測に過ぎない)

なんでも誰でもいいのだが、わたしは深くブログを熱心に読み込んでいただけに感情移入も彼女への理解もしていたようだ。
(読解ミス、読み間違えもあるだろうけれど)
ただ、ブログ更新にすごいエネルギーを投じておられていたので、このボルテージ、持つかな、続くかな、とは危惧していた。

筆者がブログを更新し続けると、読者は幾つかの反応に分かれる。
いつまでもファンで居続けるか、飽きるか、嫌いになるか、時間を置いてまた戻ってくるか。
筆者は書いているその時その時の気持ちや考えを書いているわけで、主義主張が変わったからといって、責められるものではないと思う。
クロワッサン症候群然り。

少し距離を置いて粗熱を取ってケイコさんのブログをまた読み始めると、わたしが彼女に対する感想は、以前の憧れや全肯定や思い入れは薄れている。
ひょっとして、サポーター気分は、なくなっているかも知れない。
ファンというものは実に気ままだ。
後々まで責任を持ってフォローなどしない。
気分次第で、ふわふわ浮遊するものである。

さてさて、、、
わたしは読み手であると共にブロガーでもあり、、、わたしの愚ブログに関しての考察、その他は、書くのも恐ろしいので、書きません、、、。
ただ、10年前に書いたものも1日前に書いたものも、半世紀前に書いたものも、あんまり変わらない。
ブレないとも言えるが、成長がないとも言える。

ブログ音痴

2021-02-27 | ブログ
ブログというものは、本当に千差万別。
で、自分のブログを一番面白がっているのは自分。
他のブログは、いつも読むのは、たった2つだけ。
あとは、ブログ村エッセイ部門の中で、稀にタイトルに惹かれて読むことがある。
が、閲覧数が記事内に書かれていたり、公表設定になっていたりして、その閲覧数を知る。
あるいは、いいね!などのリアクションで、皆さんの反応がわかる。 

わたしは、もともと、ひとり遊びが大好きなので、他の人の閲覧数が多いブログを読んでも、ちっともこころが動かされない。
なぜ、こんなに多くの人々が反応するのか、全くわからない。
琴線に触れないし、あまり興味もない。
だから、ブログは読者こそが千差万別の目を持っていると思う。

そう言いつつ、自分のブログへの反応にはあまり興味がない。
が、他のブログへの反応を見ると、首を傾げる。
もちろん、反応の多さ、影響力の大きさに納得のいくブログもある。
が、そうでないものを見ると、気が抜ける。
あるいは、自分が皆んなとは違う感覚を持っているとのだろうかと思う。
多数派ではないようだ。
そう強く思う。
わたしは感覚が世間の皆様とは少しズレているようだ。
ピントがぼけている。
面白いと感じることが、多数派の皆さんとは異なる。
わたしにとってのピントは、世間の皆さんのピントとは違う。 
お互い、違う、合わない。
時々、わかってもらえないと感じて虚しく哀しくなることがある。
が、べつにわかってもらわなくてもいい。
わからなくてもいい。
で、孤立してしまう傾向にある。
孤立感を感じる時は、こういう時。
何度も言うが、自分のブログに人気がないのは全然平気なのだが、閲覧数が多いブログを読んでみると、いったいどこがいいのか、さっぱりわからない。
難儀だなあ。
(超人気ブログは、わかる、納得できるが)

そんなことを書いても何の役にも立たないのに、わざわざ書いて、解せぬ気持ちの空気抜きをしている。
これこそ、つまらないブログの極め付け、典型だろう。
ほんとに。
自覚症状あり。


キツ〜いコメント

2021-01-22 | ブログ
gooブログユーザー向けのアピールチャンスが何度も何度もやってくる。
ブログ記事を更新していないのに、前の記事をしつっこくアピールしつつ、こころが痛む。
新しい記事を書いていないのに、アピールしてもなあ、、、
古アピール、更新してないアピールになっている。

ひとつには、ブログ更新時間が取れない。
起きるのを10分早めにたらよい話だが、ぬくぬく布団は魔力があり、ギリギリまで抜け出せない。
それと、趣味系の別SNSに思いを吐露し、皆さんからのコメント返しに追われている。
コメントをいただいたままでは、他の記事は書けない。気になって。
そのSNSでは、寄せられたコメントにコメントを返さず、ほったらかしたまま次の記事を書いている人もいる。
あるいは、こちらがコメントを付けたのも忘れた頃、コメント返しがあったりする。
すっかり、冷えた、覚めた頃のコメント返しは、わたしとしては避けたい。
料理は温かいうちに召し上がっていただきたい。

新しい記事を書く文頭に「コメントも返さず新しい記事を書いてごめんなさい」と謝っている人がいるが、わたしはシラケながら読んでいる。
人それぞれ、考え方や感性は違うから良いし、お遊びなんだし、とは思う。
だが、わたしは嫌いなのだ、そういうのは。
後片付けもせず次々散らかしていくのは。

とかなんとか、、、
「いろいろ書いてるけれど、こころの中を吐き出してるだけなんじゃないの」と、キツ〜いコメントをいただき、オタオタしている。

スマホ体操

2020-09-28 | ブログ
さて、今日も真っ白い原稿用紙、あるいはカンバスに、書きます、描きます。

モノクロかも?カラーかも?
線画かも?油絵?水彩画?
平面でなければ立体もあり。

その点、原稿用紙は、パターンが極端に少ない。
文字オンリー。
でも、誰にでも出来るし、用具も要らないし、手軽で便利。

ただ、問題は、読んでくれる人はいない。
にもかかわらず、ブログにアップすると、ある程度の閲覧数が確認できる。
だが、畏れ多くも「読者」などという表現は、わたしの性格上、使えない。
とは言うものの、お付き合いいただき、ありがとうございます。
きっとこれが、わたしを支える源なんだろうなあ、、、と。
どなたか存じませんが、たとえ指が滑って間違ってクリックしてわたしのところを開いてしまったとしても、数字は数字。
嬉しく思っています。

最近は、あまりにも内容のない独り言はアップしなくなっている。
こだわりとでもいうのか。
たんなる気分屋ではあるが。

さらさらくるくると指がするする動くと勢いがあり気持ちいい。
一筆書きのようなもの。
逆に一文一文、止まると、流れが悪い。

何を書くのかが肝心ではあるが、それ以前に文体は玄関口、入り口である。
好きな文体と嫌いな文体がある。
そして、書き手の性格に対しても好き嫌いがある。
中でも一番肝心なのは、読みたくなるか、読みたくないか、その内容。
ホラーが好きな人や、コメディ、純文学、教養博識・政治経済系、倫理宗教系、実務系、だらだら系、色々好みはある。
なにしろ、ブログは素人の日記なので、そのメリットもデメリットもある。

以上は、昨日の電車内、行き帰りの移動時間に指のスマホ体操をしたもの。
超つまらないものになった。
自分で、つまらない日記はアップしないと書いたばかりなのに。
舌の根の乾かぬうちに、、、

〆に困っている。
どう軟着陸すればよいのか。
とりあえず、〆ずに終了です。

こんな日もある。





一方的ソウルメイト

2020-08-10 | ブログ
ぽっかりこころに穴が空いた。
あの人のいない、ここ。
あの人は出て行っても、ちゃんといつものように本日のブログをアップしている。
ミュンへンに元気よく暮らしている。
何も変わらないではないか。
でも、わたしの虚無感は何だろう?
日々の慌しいタスクや日課に追われてまたいつもの日に戻るのだろうか。
また新しい人が彗星のごとく現れるかも知れない。
さようならは、こんにちは、の始まりか。

なぜか、意味なく、くよくよしている。
日常には何の変化もないくせに。

蛾は、ぼやくらしい。
博識ブーツ先生がおっしゃっていた。
しかし、蝶はパタパタ粉は散るようで、はた迷惑だ。
イメージが良くない蛾じゃなく、蝶になりたい、、、。
でも、蛾も蝶もあんまり変わらないようだ。


ミュンヘンのあの人の今日のブログにあった内容。
友人がうんと歳下の20代の男性と同棲を始めてラブラブらしい。
お姉さんの結婚の際、「寂しさを埋めるための結婚はダメだと、父親に強く言われた」と、あの人は書いている。
結婚はダメだろうけれど、同棲ならいいかも?
「結婚でも癒しがあるなら結婚もよい」と、あの人のお母さんは言ったとか。

うーーん、、、わたし、、、
同棲経験ナシ。
癒しの結婚経験ナシ。
今ではどんな好きな人とも一緒に暮らしたくない。
娘や孫とも。
別居が良い。
究極の自己中。

ずーっとずーっと一緒にいたら、息が詰まる気がする。
目的がある時に集まるのがいいなあと。
目的なく、じっと一室でいると、たとえ愛しき娘とでも会話に詰まる。
愛情と会話は、別物だろう。

まして、愛する男性と暮らしたら、一週間でバテそうだ。
破綻する。
愛が強すぎる。

わたしの愛は、日常の生活には不向きである。
非日常のイベントで盛り上がる。
日常は静かな暮らしが好き。
大音量や、アンチ省エネは勘弁していただきたい。

若い頃に一緒に暮らしていたら、どんな風だっただろう?
「姑」「舅」「姑の姑」とは一緒に暮らしていた時期がある。
といっても、「姑の姑」は、別棟に住み、家計も別だった。
わたしの実家でも母と兄夫婦は一緒に住んでいたが、階数が何階もあるので、一日中、顔を合わせないこともあるだろう。
だが、いくら距離空間は上下に離れていても、お互い、些細な生活様式で気に入らないこともあると思う。

逆に居住地が離れていても、こころは繋がっていることはある。
ただし、わたしの場合、数時間以内で往き来出来る、距離範囲内でなければ、繋がりがピンと来ない。
飛行機に乗らないと行けない場合は、むしろ、ソウルメイトになる。
それも人生で片手の指でカウントできる人数で収まる。
そうたくさん、何人も要らない。


その、勝手に一方的ソウルメイト認定していた、ミュンヘンのあの人。
あ〜あ、、、
コンタクトしようと思えば出来るだろうけれど、わたしは消極派なので、もたもたして機会を逸することだろう。

でも、一方的ソウルメイト、国外を始めとして、関東にも、関西にも、他のエリアにも、皆さんが頭がクリアでブログを書く気力が続いている限り、わたしは勝手に一方的に繋がっている。
直接、コンタクトすると鬱陶しがられそうなので、時折、ブログ内にふと登場するような気がする。

わたしからの一方的ソウルメイトの皆さん、よろしくお願いします。


ご卒業おめでとうございます

2020-08-08 | ブログ
今朝は衝撃を受けた。
あの大好きなミュンヘン・ブログ、ブログ村を脱会するとのこと。
しかも一年前から決めていたと。

わたしはすっかりしょげている。
やはり若い人は動きがある。
大学生ワニ君も然り。
大手会社でも飛び抜けて優秀な人は辞める傾向にある。

わたしのように、ただただひたすら何十年も同じことをし、同じ位置に留まっていない。
よく姑が言っていた。
「十年一日のごとく」と。
彼女は代わり映えしない同じことを繰り返し行なっている自分に、自嘲の気持ちも込めて、そう口にしていた。
わたしも同じである。

若い頃から激流や急流を泳いで、やがて丸く角が取れる河原の石になるならいざ知らず、わたしは最初から最後まで河原の石。
動かないし、最初から丸い。
とんがった角自体がない。
なので、同じところに居続ける。
ひょっとして、見える丸い石の部分は氷山の一角で、その下に地球の裏側にも伸びる巨大な地下洞窟があるのかも?
いや、、、ない。

しかし、自己弁護するようだが、同じ位置に居続けるのにもエネルギーが必要だ。
それと、僅かではあるが、努力も。
何もしなくて、いつも同じ位置に居続けることは無理だと思う。

老化は食い止められないにしても、その減少に替わる新しい何かを補充しなければ、下降の一途になる。
下降を直視して受け止めるというのも、それはそれでエネルギーが消耗する。
少しずつ、省エネ傾向になり、ランニングコストを抑えるのも対策の一つだ。
若い人なら、時期が来たらチャージしていたエネルギーを一気に爆発させ新たな展開を迎えることだろう。
ステップアップ、拡大に向けて。
若くない人なら、それなりのカーブに応じての維持、縮小への軟着陸に向けて。
拡大、縮小ではない、質の変化という展開もある。

エネルギッシュな人たちが、去っていくのは寂しいが、新たな門出が待っていることだろう。
卒業をお祝いしなければならない。


今まで楽しませてくれて、ありがとう。
勇気や元気、活気、毎日の楽しみをもたらしてくれて、感謝しています。
ブログ村を離れられても、こそっと追っかけファンの一人として、ご活躍を期待し、応援しています。

馬耳東風

2020-08-03 | ブログ
別SNS。
趣味関係の会員さんたちと交流がある。
日記を書くとコメントが寄せられ、それに対して返信コメントしたり、
他の人の日記にコメントしたり、、、。
いわゆる、交流を目的にしたもの。
参加者は趣味関係リアル人がほとんど。
この蝶ブログとは目的、役割が違う。

蝶ブログをはじめ、エッセイカテゴリーは読むのみ。一方通行。
他のブログを見ても、いちいちコメントを付けていることはほとんど見当たらない。
書くとすると、メッセージ的に記事内に入れることがある。
というわけで、記事毎にはお互いのブロガーさん同士はあまりやり取りをしない。

そうではない、趣味SNS。
いちいちコメントが付くので、淋しい時や、おしゃべり、会話のやり取りをしたい時にはもってこい。
ではあるが、そのメリットも、面倒になることがある。
いちいち、一つ一つコメント返しをしなければならないため、コメントを溜めたりすると気が焦る。
それと、中には必ず、反論してくる人がいるので、その人を視野に入れて書かなければならない。
意外と厄介だったりする。

その、いつも反論コメントをくれる人は、どういう考えか。
わたしはあれこれ人々の様子を観察、ウォッチングするのが趣味なのだが、いつもその人は、「人のことばかり詮索して、あなた自身はいったいどうなの?」と、批判してくる。
わたしは、詮索しているつもりはないのだが、自分が興味ある面白いと感じたことを書いている。
人の振り見て、自分はどう思うか、どうしたいか、の参考にしたり、考えをまとめるために役立てる。
が、その反論の人は、人のことは書くな!と言ってくる。
なにも、秘密ゴトを暴露しているわけではなく、わたしが見た光景は、不特定多数の人々に隠すわけでもなくさらしている行動で(見たくなくても見える)、取り上げているだけなのだが。
アカの他人に見られ、とやかく言われたくなければ、密室で行動していただきたい。
どうもそれがお気に召さないようす。

わたしはゴシップ記事担当の記者ではない。
人々や社会を斬る社会学者はどうなる?
コメンテイターは、コメントする資格はないのか。
(自分のコメントに責任を持たないコメンテイターは、世の中にはわんさかいる。
ブログなど最たるもの。
情報を受ける側は、自己責任で、多面的に調べ、正誤を判断、分析すべき)

いつも反論、批判されるので、嫌になるのだが、反対意見もあって当然であり、たまたま声に出してわたしに直接、訴えてこられるだけ。
なので、実際の自分を受け入れられない人の考えがリアルにわかる。
反意を知るのは、自分を知る上でも悪くない。
自分擁護の、自分に都合の良いことだけを聞きたがる、自分本位の希望的な思い込みが解かれる。

それはそれで良いのだが、そんなに嫌なら読んでいただかなくてもよいのに、さらに、わざわざいちいち、反論してこなくてもスルーしてくれたらいいのに、、、と思う。
反論することによって、議論になり理解が深まるのは良いが、度々非難されると頭の片隅に固く残る。
熱い火を燃やしているところに、ばしゃっと水をかけられるような気持ちになる。

なので、そのSNS日記の非公開数はすごく多い。
反応リアクション、閲覧数もリアルタイムで公開されるため、スベってもそのまま数字に反映される。
だから、アップするのに勇気がいる。
ハイリスク、ハイリターンである。

今日も書いたものの、さきほど手直しを重ねたあげく、非公開にしてきた。
そのほうが、こころが落ち着く。
寂しくなって交流したいと思っても、頭に載っかる重い石のことを考えると引っ込み思案になっている。

まとめは、ないのか?
蝶ブログは、落ち着くなあ、、、

子供の人生

2020-07-21 | ブログ
わたしのブログ。
胸のレントゲン撮影の時に、「吐いて〜、吐いて〜、吐いて〜」と息を吐き続けているようなもの。
「吸う」が無いので、ただただ一方的発露、吐露になっている。
よくまあこれだけ、「IN」が無くて「OUT」ばかりが続くものだと我ながら感心する。
自己中の性質はこういうのが多いように思う。
対外的には「めんどくさい性質」ではないはず。
ブログで発散してバランスを取っている。
これは公にするのはどうも、、、というモノは、非公開にする。
いわゆる、ボツ。
非公開もどうだかなあ、、、という、なんだか知らないが未練があるものは、一部、書き直して露出度を変更する。
だが、ネタは尽きることはない。
毎日、無意識に息をしているかの如く次から次へと、入力指は動く。
問題は、読んでくれる人が飽きるという点。
当たり前の流れだ。

ブログ記事を全部、非公開にしたら、胸のつかえは取れるかというと、ちょっと中途半端である。
閲覧数が10本の指で収まったとしたら、これまたモチベーションが維持できないだろう。
一種の露出魔なのか?


話はごろっと変わるが、、、
もし、自分の息子や娘が性的マイノリティなら、、、
彼らは、もういい歳をしているのだが、今まで浮いた話はまるでなく、(親に言ってないだけかも知れないが)付き合っている相手がいることに、まず驚くだろう。
その相手が同性なら、また2回目の驚き。
2度、びっくり。
それはあり得るかも知れないと、驚きを掻き消すように、自分で自分を納得させようとするかも。
まず最初は驚きであって、失望ではないと思う。
気持ちが落ち着いてきたら、、、あれこれぐるぐる考えて、きっと自分に都合が良いように解釈するだろう。
精神衛生上、良いように。
落ち込んだりはしないにしても、お相手であるパートナーの彼らとのお付き合いの仕方を試行錯誤しそうだ。

孫はもう複数いるので、次世代の顔が見たい希望は既に叶えられている。
そういう意味では、息子や次女は、気が楽だと思う。
自分の人生を歩んでくれたら良い、なんてキレイ事を言っても、なんだか白々しいかも知れない。
でも、彼らが決めたことなのだから口出しはしない。
「えーーーっ!驚いた!びっくり!」と言うだけだろう。
それ以上でも、それ以下でもない。
一人で生涯独身よりは満ち足りた人生になると予想する。

そういう事態にもなっていないのに、あれこれ仮定するのは時間の浪費だ、と言われそうだ。
その通り。

なにしろ、わたしは残りの二人には、結婚に関してはもう期待していない。
今は非婚はザラにいる。
自分には自分の道がある。
いくら親だからといって、あれこれ口を出すのは鬱陶しさ全開。
しかし、ニートや引きこもりの親御さんはさぞかし、こころを痛めておられることだろう。

とは言え、親から見ると、ニートや引きこもりと同じように捉えられようとするあたり、性的マイノリティに対して理解や認識が足りないように思うが。
何しろあまり皆さん、表に出さないのでよくわからない。
それぞれが他人に迷惑をかけず充実していれば良いのでは?
と、なんの役にも立たない、こころにも響かない、当たり障りのないフレーズを書く自分が、不甲斐ない。


話はまたまた変わり、、、
何にしても、わたしは完璧、完全は求めない。
理想はそうであっても、現実はそうならないことは多い。
自分の理想を他人に押し付けることほど暑苦しいものはない。
だが、同じ方向を向いている場合は別。
選手とコーチのように。

親に育てられた思い出や思いがある。
と同時に、子を持つ人は、親として子供を育てる思いがある。
さらに、子供が孫を育てるのを見て、過去の思いのいろんな断層に触れる思いがする。
さらに自分の親は老いて、朽ち果てる寸前。
自分も老いていくにもかかわらず、朽ち果てそうな親を見ながら、自分も同時進行で歳を取り衰えていく。
さらに同時に子供は孫を産み育てる。
孫はどんどん成長する。
スタートの生と、エンドの死が全て同時進行。
何重にも繋がったエスカレーターのようだ。

自分の子供の中には、結婚しない子も、子供を持たない子もいる。
それはそれで、一代限りで彩りを加えてくれる。

やいやい口うるさく結婚させようとする祖母もいる。
後継が欲しいと望むにもかかわらず、ただ欲しいと言うばかりで、ノウハウや方法、手段を考えつかないで終わってしまうこともある。
自分の望みを人に託すのは、よほどうまい手がない限り、無理。
自分のことは自分で。
ましてや、人の人生を自分の思い通りにしようなんて、とんでもない。
自分の人生すら、自分の思い通りにならないのに、人まで操ろうなんて。

皆さん、うまくいかずにあれこれ試行錯誤している。
最後には望みが叶うのか、出来ることは全てしたからと諦めるのか。

聞かれてもいないのに、人様に人生指南アドバイスする人がいるが、いかがなるものかと思う。
押し付け、お節介、余計な介入。
一生懸命取り組んで、どうしても上手く行かない人にアドバイスなどしようものなら、タイミングが良ければヒントや発想の転換になるが、渦中にいる時は、大概は「ほっといてくれ」と、アタマから火が吹くのではないだろうか。

悩みに悩み、やることは全てやって、あとは天命を待つだけ、という状態なら、どんな結果も受け入れられることだろう。
もがくと沈殿しているものが撹拌され、水が濁るが、やがて動きがなくなり落ち着いて静かになるとまた分離され、水は澄んでくる。
もがく間は苦しく、さらに結果が出るそれまでの待ち時間が長く辛い。

時間を置くと、また違う見え方にもなる。
長い時間をかけて諦めるという、そういう自然治癒みたいなことは多いと思う。


ちなみに、
決断がやたらびっくりするほど早い人がいるが、何ごとも遅いわたしにしてみるとスゴイなあと感心する。
早くても遅くても結果は同じだったりする。
にもかかわらず、自分流時間の取り方を人に強制するため、お互いストレスになる。
共通項目以外は、出来るだけ一緒にいないことが、解決方法かと思っている。


今日はなかなか終わらない、、、
〆られない、、、
急激な暑さからかな?なんて、急に明るく切り替えてみたりする、、、
汗がだらだら。
ブログもだらだら。