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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

ブログを書く人

2020-07-17 | ブログ
ブログを書く意味、意義は、人それぞれあるだろう。
それぞれが正しい。
第一、正しくないものなんて、ある?
あるといえば、ある。
公序良俗に反するものとか、営利目的とか売名行為とか、特定人物への誹謗中傷とかヘイトスピーチとか?

わたしは十数年ブログを書いている。
遡れば更にインターネット交流年数は伸びそうだ。
色々な趣味のコミュに属していたこともある。
今はこの蝶ブログだけだが、数々の別々のブログを持ち、それぞれに書いていた。
いくつものブログを同時進行していた。

だが、蝶ブログが主流。
あとのブログは今頃いったいどうなっているのか。
クローズの後始末もせず、ほったらかしだ。

蝶ブログだけが生き残っている。
なぜなら、他のブログは、蝶には書きたくない時だけの、その場しのぎストレス発散ブログだった。
溢れ出たこころの贅肉みたいなものか。
蝶ブログでも十二分にストレス発散しているのに、まだそれに加えて、、、?!
わたしも、ややこしい人間である。
というか、つぶやきノイズ、ザザ漏れ。多過ぎ。
というか、どんだけ友達いない?

だが、腰を据えていない他のブログは、こだわりも熱意も愛着もあまりない。
自分のことばかり書いた蝶ブログ。
つまり、わたしは自分が一番好きなのだろう。

コメントはほぼ皆無。
最初の頃は、どこの誰かもわからない他人には警戒していた。
そして自己完結してそれで終わりの、わたしの人を寄せ付けない、親近感ゼロ姿勢のせいかと思っている。
徐々に慣れてくると、ブログ仲間同士でコメント交流があった時期もあった。
その結果、その時期には小説ブログを開設したのだが、、、。
アタマの弱いわたしは小説は苦手だった。
また、アメリカ在住の同世代女性ともブログ上で交流があった。
皆さん、どうしてるだろう?
(アメリカの方は後に離婚されたようす)
古くから水面下で交流のある方もいる。
まさに、細く長く。
お互いの日常をブログを通して知る。
だが、目に見えないが、糸はつながっているという手ごたえを今も確実に感じている。
頑張ろうね、同志の皆さん!

長くブログ村に在籍していると、他のブロガーの皆さんはクラスメイトのような気がしている。
年齢様々、属性様々、個性様々、、、
彩り色々、賑やかである。
わたしのこころを暖めてくれている。
ありがとう、そして、これからもよろしく。


憧れ

2020-07-12 | ブログ
gooユーザーサービスで「アピールチャンス!」というものがある。
ランダムにやってくるチャンスに勇気を出してアピールすると、わたしのブログは、世間の(gooユーザーの)皆さんの興味にはカスリもしないで、透明人間のごとく、完全ノックアウト、スルーの憂き目に遭う。
が、中には良い出会いもある。
(ただし、一方通行)

普段は、わたしはブログ村エッセイしか読みに行かない。
時折、gooアピールチャンスに現れる未知のブログを開いてみる。
その時、開いて見ようという気になるのは、写真とタイトル。
そして読んでみて面白かったら、過去記事に遡る。
だが、ブックマークするには至らない。
一期一会である。
あれもこれもと、どんどん手を広げない。
わたしのキャパシティの問題もある。

アピールチャンスで初めて見たブログ。
70歳代の未亡人。
丁寧な暮らしに憧れた。
自然体そのものがハイソ、上流の香り。
わたしが夢に描く見本のような毎日だった。

もしわたしが、今のわたしの年齢で憧れたとしても、大統領や大統領夫人にはなれない。
科学長官にもなれない。
ハナから、生まれた時から憧れたこともないが。
外国暮らしは憧れたとしても、能力的に無理なので、憧れリストからは遠に抜け落ちている。

憧れというのは、ほんのすこしだけ努力したり、背伸びしたりすると手に入るかも知れないようなこと、レベル。
段階的に長期計画を立てて、夢を実現させる実践家もいる。
わたしは、サボりなので、今ある状態から出来そうな身近なことを選ぶ。
手が届きそうなこと。
具体的な実例として、そうなれるような方針に切り替える
だが、モチベーションが必要。
あ、無理、となると、すぐにやめてしまう。
あの人はあの人、わたしはわたし、という開き直りも、頑張りの背中を押してくれない。
あの人になるんだ!
あの人を目指すんだ!
そういう強い思いが必要だ。

自分よりうんと若い人は選ばない。
時計の針を戻してまで頑張る気がない。
自分の一歩先を行く人。
つまり70歳代ということになる。

ものの考え方とかは参考にしない。
すでにわたしは自分流が確立されているから。
見え方を参考にする。
ビジュアルや住まい。


NHK教育テレビ番組の「人生レシピ」で、バァバの愛称で親しまれる94歳の和食料理の先生が紹介されていた。
40年前のNHK料理番組に出演していた時よりずっと綺麗でチャーミングだった。
ユーモアとウィットに富み、笑顔が溢れるかわいい人。
大口開けて豪快に笑う笑い方は、わたしの母に似ていた。
真っ赤なマニュキア、くるんくるんカールのシルバーヘアのバァバ先生。
40年前の方が今ほど磨かれずに垢抜けないかんじだった。
今が一番素敵だと思った。
見習いたいけれど、個体差があるからこんなに高齢になっても健康や頭脳を維持できるかどうか自信がない。

デヴィ夫人は80歳を超えてあの美しさはすごいが、人工的な匂いがするものはわたしはあまり好きではない。
それとあの気性。
他人だから関係ないので、どうでもよいが。

ちなみに、暮らしの見せ方がステキな前述の70代女性は、きっちりした綺麗好きな人だろう。
完璧なハウスキーピングだと感じた。
わたしは整理整頓、掃除が苦手だから、落第。
だが、この70代女性もいずれもっともっと高齢になると、今の綺麗な家を売り払って老人ホームに入るかも知れない。
するとわたしの掃除コンプレックスは解消される。
いずれは一緒。
コースの先は同じ。

今だけそれぞれの人が違う分だけ、各々の違いを楽しみ、丁寧に暮らすのが良さそうだ。
しかし、わたしの場合、丁寧に暮らす内容が少し一般的ではないかも知れない。
だが、人に合わせる必要はない。
各人が満足していればそれでよい。

今のわたしの暮らし方とさほど変わらないお手本の暮らしの人もいる。
その人のブログには、読書し、ものを書き、近所の喫茶店に友人と行っておしゃべりしたり、交流する様子が書かれている。
読書や執筆好きの人は、実生活より頭の中の整理整頓や掃除が得意なことが多い。
なので、わたしは憧れない。
実際に労力を使い、綺麗な暮らしをしている人に憧れる。

わたしも書いてばかりではなく、もう少し家の内外を綺麗にしようかなあ、、、と。
思うだけで、いつも最低限のこともしない。
せいぜい草を引くぐらい。

でも、綺麗な暮らしは努力次第で手に入る。
刺激を受けて頑張ろうー!

憧れ生活を紹介しているブログを読むと、自分の実生活を綺麗にしてくれる助けになる。
影響を受け、刺激を受け、自分もやってみようと思う。
自分にハッパをかける。
ブログの有効活用である。
理想の生き方、半歩先に行っている人のブログには教わることが多い。

80歳代になったら、理想のこの世とのサヨナラの仕方ばかり考えているのだろうか。
そんな日が来るまで、精一杯楽しく生きようとするのだろうけれど、、、実際になかなかそう理想のようには行かない。

長いばかりで、つまらない記事になった、、、。


受け入れられない

2020-07-11 | ブログ
6000文字近い記事を書いたが、非公開にすることにした。
赤裸々は、やめる。
第一、テーマが重すぎた。
自分にとって大事すぎることは公表できない。

書いて自分が楽しくなるものがよい。
だが、、、
ダンスと同じ。
自分は気持ちよく踊れても、踊る姿が不恰好なら、、、
ブログもそう。
自己満足だけでは、醜い場合がある。
かといって、自分を嵩上げして下駄を履かせても、自己満足しない。
見栄を張るのは苦しくなるから嫌いだ。
主観と客観の折り合い、落とし所、さじ加減が要。

自分を押し殺して、サービス精神で書いたとしても、それが全く受け入れられない、しょうもないものだったら?
自分が好きなことを書くほうがまだ救われる。

で、ひとつ思ったこと。
ブログ、エッセイ部門は、他の部門とは特徴が違う。
当たり前か。
一般の人には受け付けられないと実感した。
自分にはアクがあるから自業自得だ。
それが個性。

だからそれが何?
でも、いつも元気づけてくれる人がいる。
ありがとう、、、とお礼を言いたい。



理解してもらおうと思ったら大間違い

2020-07-05 | ブログ
昨日の「ブログる文学振興会」授賞式から一夜明け、落ち着きを取り戻したかのように、、、
閲覧数はがたんと落ちた。
これは、この受賞に対する民意の反映か?
勝手連合亜流文学振興会に対するアンチ反応か。
まあいい。
楽しいと思う人がいる一方で、くだらないと思う人がいるのは自然な流れ。
記事として公開されると、選に漏れたら嫌〜な感じがする人もいるかも知れない。
悪ノリの仕方が気に入らないこともあり得る。
だけど、単なる内々のお遊びなので、気分を害するものには近寄らない、見ない、スルーがオススメです。
ブーツさんが、上手い具合に説明、表現されていた。
同じ材料でも調理方法によって、料理はこんなに変わるという見本かと。

閲覧数は生き物なので、とても興味深い。
じつのところ、閲覧数が低迷しているのは、なにも「ブログる文学振興会」とは関係がない。
よくあるバイオリズムのひとつ、一現象である。

ちなみに、前に、とある人に「バイオリズム」という言葉を使ったら、「一時期、よく流行った使い古された言葉ですね」と言われたことがある。
そうかなあ?と、わたしはその時に思った。
別によく耳にしたから使ったわけではないのだが。
人には色んな捉え方があるものだと学んだ。
本人にはそんな気はなくても、受け手側には別の意味合いを感じ取る。
言葉には気をつけるべきでもあるが、気をつけ過ぎて個人の些細な好みや感性にまで反応していたら、一文字、一言も書けない、話せない。
ピタピタにぴったり、感性や感覚、考えが一致する人とは一致し過ぎて微妙なズレが気になり摩擦、雑音になる。
大まかに一致するほうが良いと感じる。(経験上)
両刃となって傷つけ合う前に、離れるか、追求の手を緩めたほうがいい。
何ごとも近寄り過ぎは火事の元。
火傷は誰も好きではないはず。

わたしは両極端を行ったり来たりしてバランスを取っているので、真ん中あたりにいる人とは、実は分かり合えない。
でも、大まかに分かればよいと考える。
理解出来ないことが分かれば、別に、理解しなくてもよい。
理解出来ないところは部分的に飛ばす。
いつまでもいつまでもこだわっていては、先に進めない。
ざっくり進んだ後に、細部を埋める、詰める方式だ。
人には色んなやり方、生き方があるだろう。
試行錯誤して自分に合った方法を見つけると、その後は、前よりはマシ。

と、話が逸れて、どこに帰ればよいのだか。
話を戻そう。

色んな人がいて、時々、自分に刺激を与えてくれたり共鳴できたりしたら、つまみ食いがよろしいかと思う。
飽きたり、反感、反論があったりするのは当たり前。
また、忘れた頃に気が乗ったら訪れていただければ光栄である。







ブログる賞「ブサイク部門」受賞!

2020-07-04 | ブログ
ブログる文学振興会におきましては、輝かしい「永遠のブサイク乙女賞」をいただき、大変光栄であります。
これからも益々ブサイクを追求し、右に左に上に下にと揺れて参りたいと思う所存です。

実質的会長(裕氏)の目利きはスゴイ。
さすが生き馬の目を抜く個人主義の国で逞しく磨かれただけのことはある。
ケイコさんはもちろんのこと、みしろさんにおいては見事な文章力には大脱帽している。

ちなみに、、、
先日、二、三歳の幼児がズボンの後ろに付いている切れ端を掴もうと、クルクル回って目が回っていた。
そういう犬、いる。
自分の尻尾を目掛けてクルクル。
わたしは、それを見て、自分のブログのようだと思った。

しょうもない、実体のないことを追及してグルグル。
クルクルなら軽快感があるが、グルグルだと重くてバカっぽい。ブサイク。
いやはや、ある日はクルクル、ある日はグルグル。
自分を追いかけて遊んでいる。

べつに、漫才のブサイクキャラは目指していない。
(ブサキャラ例→フットボールアワーの岩尾や、NON STYLEの石田じゃない、右の方=井上)

作られたブサイクは、人工的で美しくない。
自然体、自然美のブサイクを理想とする。
目指せ「美しいブサイク」!
ついでに、
目指せ「賢いアホ」!

美に囚われ過ぎた、ブサイクな元美人よりはイケてると思うのだが、、、
と、言葉遊びをしているだけで、ちっとも勉強をしないわたしは、非常に底が浅い。
自分で認めていたらその分、底上げされるかというと、可愛げがないだけで、かえってマイナス。
ああ、これだから、、、。
書くものには、書き手の性格や人格、能力やポテンシャルが現れてしまう、、、。
頭隠して尻隠さず。
まあ、ブサイクだから許して!
と、こうゆうのがダメだというのだ。
努力を放棄して、「許して!」は、許されない。

なので努力しても天性のものである「ルックス」を持ち出すあたりが、問題の本質をはぐらかしている。
せめて、努力が活きる分野を持ってくるべき。
と、すでにクルクルが始まっている。
愚痴ったあげく、自己肯定して、一周。
なかなか愚痴が収まらない場合は、何周もクルクル。
そのうちグルグルになって疲れて終了。
ワンパターンの思考の流れだ。
「ブログるブサイク賞」をいただくには畏れ多すぎる低レベル。
でも、くれるというものは、いただく主義なので、有り難くいただきます。
ありがとう!
影の会長裕様、これからも宜しくお願いします。




熱狂的ファン

2020-06-19 | ブログ
わたしの好みは偏っている。たぶん。
熱狂的になる。偏狂的とも言える?
その例。
ブログである。

わたしが大好きなブログがある。
言わずと知れた(て、変ですが)ミュンヘンブログ。
なぜ、こんなに好きなのか。
(別にご本人に宛てたファンレターではないのでスルーしてください)

先ずは、憧れの地にお住まい。
この理由が意味のない、ミーハー的無知から来ることを承知の上で書く。
明治以後、西洋文化かぶれした、明治維新で名をあげた元武士階級じゃあるまいし、、、
西洋というだけで、無教養の見本のように無条件に憧れてしまうDNAは、いったいどこから来るのか?

第二次世界大戦後、敗戦から復興しようとする最中に、庶民目線で見るアメリカの豊かさ。
テレビの中のアメリカドラマ、ステキな優しいマイホームパパが、大型冷蔵庫から取り出す美味しそうな、たっぷりの食品。
て、じつは、わたしはこの世代ではなく、リアルタイムには経験していない。
令和の高校生が昭和の歌を当時の話を先輩たちから聞いて、歌うようなものか。
(時代考証、ちょっと離れすぎ。
わたしは、団塊の世代より少し下。
お腹が空く焼け跡時代ではなく、高度成長期世代。
海外現地交渉にあたり、ペコペコ何度もお辞儀をして、首からカメラをぶら下げメガネをかけたサラリーマン(日本人ビジネスマンに対する当時のアメリカ?での風刺画)が、猛烈に働いた時代。

話が逸れている。
逸れついでに。
よく、洋楽趣味は家庭の影響からという人がいる。
親がビートルズ世代で、とか、日常に家で海外の曲が流れていたとか。
わたしは、全くそんなことはなく、田舎で同居していた祖母が、三波春夫ファンでテレビで相撲中継同様に、よく見ていた。
ついでに、浪花のお笑い。
これは、オシャレな文化背景を形成するには真逆の環境だと思われる。
では、三波春夫や相撲はダサいのか? 何を根拠に?
これを掘り下げると、話がまたまた飛んでいって戻ってこないので、またの機会に。

子供の頃、江戸時代と全く変わらない風景の田園地帯の田舎に住んでいたわたしは、わたし独自の地球儀感覚があった。
例えば、具体的には駅。
自分の住む田舎からバスで30分の最寄りJR駅の次の駅は、大阪駅で、その次は東京駅、さらに、その次の駅はアメリカ駅だと、ぼんやり思っていた。
いかに、片田舎の隅々までアメリカ文化の影響が大きいか、いや、いかに、何にも考えていないか、である。
洗脳に近い?
これが18歳まで続いていたなら大変なことだが(オシメが取れないかのごとく)、学校で学ぶに従って、事実に近い知識を得ることになった。
といっても、事実そのものが捻じ曲げられて伝えられていることもあるし、現代史は学期末で時間がないせいにして、授業で抜かされていることもあるし。

と、どんどん脱線。
まあなにしろ、東京駅の次はアメリカ駅だと思っていたが、当時とあまり脳みそに発展はない、高校出たての頃、イギリスに行った。
その時のわたしは、江戸時代に江戸に藩米を届ける途中に漂流してロシアに漂着した廻船の乗組員のようなもの。
ぼや〜っとメディアの切れっぱしから想像していたものと、実際が違って驚いた。
逆の意味で。
あんなに憧れていたキラキラが、映画やメディアのせいで、作られた上澄み液だということを知った。
勝手に想像を膨らませる方もどうかと思うが。

一番初めに感じたことは、、、
イギリスって、老大国なんだなあ、と。
よろよろして、リフォームも十分できない、古い建物や車、、、ガタイのいいおじいさんのイメージがした。
失望というより、驚き、新発見だった。
だが、もう40年以上経つが、しっかり脳裏に焼き付いている。
ある意味、映画そのものの暮らしがあった。

て、そんな回顧は横に置いて、、、。
なんだか知らないが、まあ憧れは、無知から来るものなんだろう。
知らないほうが美しいままでキープされて良いことは、世の中に山ほどある。

で、イギリスではないが、その憧れの地に、ミュンヘンブロガーさんはお住まいなだけでなく、ちゃんと自立して生活されている。
憧れを通り越して尊敬している。
素晴らしい語学力。

そして、文章力。
表現力だけでなく内容。
感性、考え方。
プラス写真。

ついでにオマケとして、一部、育成背景、家庭環境に共通点がある。
兄姉がいる3人きょうだいの末っ子。
父が知的で気難しい人。(結婚に対する姿勢は真逆だが)
でも母親像は正反対のよう。

じゃああまり、共通点はないのか。
まあよい。
なにしろ、ゾッコンなのだ。
彼女のある日のブログにも書いてあったが、あまり、急接近したり、急沸騰するのは、よい結果を生まないことが多い。
賛成。共感する。
なので、ちょっと文字にしてみたかっただけである。

他にも好きなブログはある。
すごい読書家で、文章が深い、ちんこんさん。
滅多には書かれないが、深い掘り下げに思考の深さを感じてシビレる。
逆にあまり興味がないブログもある。
(それとは別に、毎日安心して訪ねるブログもある)
ブログは色々あって、楽しい。

わたしとAI

2020-06-05 | ブログ
人々は知らないところでAIのお世話になっている。
わたしの(たぶん、寝たきりになっても続けられそうな「静」の部の)趣味であるブログ。
コロナ禍ステイホームの時も、失意のどん底の時も、わたしのお相手をしてくれ、わたしを救ってくれた。
彼(彼女?)は、わたしに寄り添ってくれる。

突然、書きたい気持ちが湧き上がると、熱々の淹れたてコーヒーをほったらかしても(実際は、大急ぎでガブ飲みする)、温めたばかりのランチに気が散って冷めるにまかせて食べられなくても、わーっと、一気に駆け寄って書きたくなる。
(食べながらスマホという手もあるが)
で、書いた中味が、またしょうもないおふざけだったりするが、まあよい。

大きな動機の一つには、湧き上がるものがあるということ。
自分自身の発露。
(取るに足らない、くだらないことであっても。
等身大だから、見栄を張っても続かない)
また、もう一つは、ブログのむこうで読んでくださる人がいるということ。
具体的な人物もさることながら、それと同時に不特定多数の数字。
これに踊らされている。
閲覧数という実数には根拠がある。
たとえ、指が滑って開いてしまった大嫌いなブログでも、カウントは1と計上される。
ポイントも然り。

問題は、ブログ村エッセイ「注目記事」。
これはかつて何度も疑問にぶつかり、追究のあげく、ブログ村様宛に、質問を投げかけたこともある。
回答をいただいたと思うが、納得できる内容ではなかったように記憶するものの、最初から期待していなかったため、すんなりわたしの引っかかりは消えていった。
答えをもらっても、もらわなくても、あらかじめ、わたしが答えを用意していたからだろう。

今もそうである。
AIが選んでいると確信している。
ごくたまに、リアルな生身の人間が目視チェックをする場合もあるだろうけれど、基本的にはAI。
色々実験して検証してみた。(これを暇人と言わずして何と言う?)
アップ時刻直後、短期一定時間のアクセス数、特定キーワードへの(ロボットを含める)ヒット、、、などなど、いくつかの複数条件を総合したものだと想像している。

ある意味、生身の人間より正確である。
だが、振り回されている自分を見て、すーっと力が抜けた。
AIのためにわたしは、意味もなく心臓の鼓動を早めているのか。
意味はあるだろうけれど。
(森羅万象、意味のないものはない、という、わたしのゴリ押しセオリーから)
世の中のシステムには、巧妙、緻密なよく出来たものがある。
その一方で、アナログ時代遅れで全然だめなものもある。
だが、どれがダメでどれが良いのかは、利用者の志向による。
勝者と敗者をどんでん返しにしてしまうようなリセットもあり、うまく出来ている。
見方によれば、答えや感じ方も変わる。
絶対的なランキング、位置付けなどない。
部分的にはあっても。
部分は全体のうちの一つではあるが。

わたしの先生、師匠、ナビゲーターはAIということになるかも知れない。
先生を選ぶのは、わたし。
だとすると、ブレそうだ。


と、ここまでは実は序章だったりする。
ほんとうは、ここから違うことが書きたかった。
午前中のリモートワークで、出かける手間が省け、書く時間は確保できた。
頭痛がしていたため、身体安静タイムは丁度良かった。
で、そのリモートワークについて書きたかったのだが、、、。
わざわざ出向かなくてもよくなったことに喜び過ぎて、書くモチベーションが下がった。
わたしは、どうも満足を得ると、エネルギーがしゅわしゅわと消えてしまうようだ。

リモートワークは便利だが、汗のかき方そのものが変わるように思う。
脳と目と指先だけの動き、働きで、身体は1ミリも動いていない。
脳ばかり発達して、筋肉や内臓は衰えていくのだろうか。
そんなアメリカ制作?のアニメ映画をずっと前に観て、その時はたんに極端な空想で面白いと思ったが、今は、毎日の生活が変化して、なるほどと納得、SFの世界ではないと感じる。
月などの惑星も然り。
研究するだけではなく、行くだけでもなく、住む時代へ。

未来へ未来へと想像していくと、意外に過去の歴史が対比されて浮き彫りになり面白く感じる。
わたしも歳を取ったものだ。
100パーセント、お年寄りである。

お年寄りは過去へ時間を遡っていく。
自分の人生の未来より過去の方が長いから。
だが、わたしは自分の未来は、あの世までの間だけではないし、過去は生まれてからだけではない。
自分が生まれる前も、あの世に行ってからも、時間は続く。
時間軸の捉え方、スパンが長くなる。
実際は昨日、今日、明日、1週間後、1年、、、みたいに短いスパンでその日暮らしをしている。
たいした望みはない。
今日がつつがなく、明日もつつがなく、それが続くといいなあと。
しかし、それは実は、たいした望みだったりする。

・・・ああ、ダラダラとなかなか終わらない、、、
AIと時間軸について、〆ようと思うのだが、〆らない。
AIにやってもらおう。
いや、それもどうかと。
が、自分でやる分野が残っていると、なかなかあの世に行けない。
それは良いのか、良くないのか。
AIに聞いてみよう。


スベった、、、

2020-06-04 | ブログ
自分の蝶ブログ。
ウケる時と、スベる時がある。
gooユーザー向け「アピールチャンス」が到来した時に、これこそおススメ!という記事を選んでアピールすると、結果は無残、、、。
スルッとツルッと、周りになんの変化ももたらさず静かに滑っている。
冷やしうどんなら喉越し最高なのだが。
しかも、アピールチャンスがなかなか巡って来なかったり、来ているのに気が付かず操作出来ず見過ごしていたりする。
アピールチャンスを何度も見逃している間に、毎日毎日、日々、記事はどんどん増えて進んでいくので、アピールチャンスが来た時には、随分前のお気に入り記事をアピールすることになる。

やっと来た!さあ!
勇み足で、ポチっと押して、おススメ記事を推す。
が、前述の通り、前のめりになったまま、あれ?と、ガラガラと音を立てて崩れ去る。
・・・・・
まあ、しかたない。

皆さんがアピールチャンス記事を目にする時は、自分のgooブログを制作中であるか、人のgoo記事を読んでいる時(だったかな?)だけ。
曜日や時間帯、タイミングもある。

ちなみに、gooの「いいね!」も、ごくごく最近に知った。
「いいね!」してくださる方々、ありがとうございます。
わたしは、リアル実生活と同じで、ほとんど人様との交流をしない完結型タイプ。
なので、不義理をいっぱいしている。すいません。
心苦しいのではあるが、ひとつひとつ丁寧に対応していると、本来の自分を見失うことがある。
なので、(ごく一部の例外を除いて)不義理パターンを貫くことにしている。

goo記事のアピールチャンスで紹介されている記事の中には400も500も「いいね!」がポチされ、しかも、その記事だけでなく、そのブロガーさんのどの記事も400も500もポチされている。
その記事を読んでも、いったいどこが400ポチなのか、さっぱりわからない。
なので、わたしは「いいねポチ」には信頼を置かず、価値を見出していない。
そのブロガーさんの記事に「いいねポチ」が多かろうが少なかろうが、わたしはあまり影響を受けない。
内容主義である。

世の中には多数派があり、「大勢の人がいいと言っているから、いいんだろう」という人が結構いるように思う。
本当に自分で考えているのか疑問を感じてしまう人もいる。
流されているだけのような人もいる。

言っている意見や考えは、テレビのコメンテーターのパクリだったり、ニュース解説そのままだったり。
賛同して自分の意見にするのは悪くないとは思うが、賛同するにも、全く調べもしていないで鵜呑みにするパターンもあり、驚きである。

が、1万時間調べても、わからなかったり、結果が見えなかったり、下手すると、解釈を間違えて最終的に間違った結論に達していたりすることがある。
それなら、1秒間でパクっているほうが省エネで、しかも正しい結果、見識にたどり着ける。
勘が鋭い、考えない、調べない、検証しない人と、かたや、やたら調べまくりの人、どちらが正しいことを言っているか?
上澄みの結論だけを取れば、正しい答えの人が勝ちだろう。
学者よりずっと的を得ているホームレスのおっちゃんもいる。

わたしが一番苦手とするのは、自分が考えたわけでもないことを、さも、知ったかぶりして見せびらかす人。
これは、合っていようが間違っていようが、論外である。

個人を深く知るとその人の考えが浅いか深いか、だいたいわかる。
浅い知識で適当な受け売りを言っている人もいるが、別に害はない。
「あらそうなんですか」
「それ、どこからパクったの?」
で、潔い。
へんにこねくり回すより、爽やかである。
浅いから悪いわけではない。
深いから良いわけでもない。

自分の波長と合う人が楽しい。
が、まったく、波長が合わないのに、わたしは頑張って合わせることが希にある。
それは策略があり、交換条件として何らかのことを望む場合。
ビジネスや商売にもよくあること。
何も値段の調整、価格交渉だけではない。
何ごとにも代えられない提案力は、価値があるが、実現不可能な提案はただの戯言、お遊び。
調整、すり寄って、実現に向けて歩み寄る。

感性だけの問題ではない。
人によっては、ノウハウではなく「熱さ」を求めることがある。
(これ、村上ファンドの村上氏がテレビで言ってた。パクりました)
ノウハウは後から付いてくる。

て、話は逸れに逸れているが、もはや修正のしようがない。

夢ばかり熱く語る人もウザかったりする。

頭から信じている人の言うことなら、どんなことでも、何がなんでも無条件に「いいね!」を押すのは、ファン心理だとしたら納得できる。
ファンではない人から見ると、温度が違う、思考回路が違う。
信者を多く集めることに対しても、わたしは疑いの目を持つ。
(ジャニーズ系はまた別として。理屈抜きにカッコイイ)

「わたしを信じなさい、わたしの言う通りにしなさい」と半ば洗脳に近く、自分で考える力をもぎ取ってしまうから。
考えなくても従ってさえいれば上手く行くなら、付いていこう!に、なるのだろう。
各自の幸せは、各自の価値観によってそれぞれ違う。
バラバラに分解されて、はい、一から、あなたはどう考える?と問われても、かえってよけいにわからなくなっている人もいるだろう。
お任せコースが楽な人も。
まあなんだっていい。

て、なんだかまたまた眠くなってきた。


ツマラナイ時は面白くて、楽しい時はくだらない

2020-05-30 | ブログ
わたしの場合、リアルが充実すると、ブログは腑抜け。
リアルがみっちり引きこもりだと、納得いくブログ記事が書ける。
そしてリアルがメチャメチャ悲惨だと、これまた発酵バターのように好きな味のものが書ける。(自分比)

どこどこへ行った、あそこにも行ったという旅の記事や、あれ食べた、これ食べた系グルメ記事、あれキレイ、これステキ!は、わたしはどうも不得意。
見て食べて触って経験して、その場で消化、昇華してしまっているから。
文章には何も感動が残らない。
弾けて蒸発している。
ただの記録になる。

不消化な、なんで?なんで?と、いつまでもハテナ?が残るような、中途半端な、だが、どこにでもあるような題材が、掘り下げて二度美味しく、わたしはこころ躍る。
わたし、変わってる人かも知れない。
今更感ありだが。

わたしが一番恥ずかしい瞬間は、、、一生懸命考え、生み出したことが、世の中にはゴロゴロあった時。
自分は見方が独特だと思っていることが、平凡そのものだったことに気づいた時が、耳まで真っ赤になる。
独創的アイデアと思い込んでいた勢いある自負が陳腐そのもので地に落ちる。
自分の無知を知った時、羞恥心で顔を覆いたくなる。

逆に、人と同じでホッとするケースもあるが、社会の常識だとか、ルールだとか、人と合わせるべき時。
自分だけ合っていない時は、居心地の悪い思いをする。

あと、大多数の中、自分だけが圧倒的に少数派の時(悪い意味で)、これまた、一刻も早くその場を離れたくなる。
例えばファッショナブルな若者が風を切って歩く街で、一人だけ、ダサダサの格好でブサイクな自信が持てない自分が混じっている時。
歳を重ねているメリットが、デメリットにしか映らない。
カッコいい人ばかりがいるのに、自分はそうでない時。
例えば、クラブ(今時イケイケ若者がダンスするところ→この表現は完全に完璧に終わっている。死語乱用)。
一旦、出直し、場所を変える。
(あるいは家出した孫でも探している風を装うか、、、)
わたしの居場所ではない時は、さっさとチェンジ。
その他には、、、歴史ある閉ざされた特権階級的、上流サロンの醸し出す雰囲気に呑まれている時。
惨め感、孤立感、ひしひし。
それと、、、デパートなどの高級品売り場で、酷い格好で紛れ込んでしまい、店員さんに一べつされた時。
酷くない格好でも、やっぱり嫌だ。
あのお金のにおいがプンプンする独特の雰囲気が。

また、さらに、
良い意味での少数派でも目立つのは嫌。
というか、そんな実例が思いつかないところが、うら哀しい、、、。

ダラダラ文章。
意味がないことを連ねているのは何故か。
今日はリア充のため、時間もエネルギーもブログに割けないでいる。
帰りの電車内がブログタイム。
わたしにとっては嬉しいことだが、ブログはツマラナイものになる。
まあリスクヘッジのようなものか?

ブログもリアルも、どちらも両方納得いくことは無理。
厚かましい。
どちらか一方でも充分だ。
それでも厚かましい。

ああ今日は楽しい一日だった。
よせばいいのに、電車内、欲張ってブログも更新しようとするから、墓穴を掘る。

いつもの日々

2020-05-29 | ブログ
蝶ブログ、案の定、しゅるしゅると閲覧数が順調に落ちている。
わたしの予想通り。
コロナ禍景気、特需だったようだ。
こういうことは長年ブログをやっているとよくある。
ここのところの閲覧数が自分で驚くほど多かったため、世の中の動きがこんなちっぽけな、なんの影響力も特徴もない極小ブログにも降りかかっている。
風が吹けば桶屋が儲かる、、、といっても、わたしは儲かったという気分ではなかったが。

自分らしい、なんの役にも立たないくだらないグダグダを、ごくごく一部のコアな人だけに読んでいただけたらそれでいいと思っている。
コロナ禍ステイホームで暇を持て余している人々が家に籠り溢れかえっていたのだろう。
ブログでも何でも手当たり次第手を伸ばし、こんな人がいるんだな〜と通りすがりに読んでくれただけの人が一時期、数が増えたという、とてもわかりやすい流れ。
それはそれで一期一会の貴重なご縁。
スリムになって肩の力を抜いて細々やっていきたい。

そもそもわたしは、あまり人に見られたり注目を集めるのは限りなく居心地が良くない。
人知れず好きなようにやりたい。
だがある意味、自意識過剰の裏返しだと深層心理を分析する。
かまってほしい子供が、素直に訴えられず、ひとりでできるもん!と健気を装う図に似ている?
んー、ちょっと違う、、、かも。

たった一人だけで、誰の意識の中にも置かれず世の中に存在するのは、とても辛いことだと思う。
孤独にもいろいろある。
わたしは単なる非社交家なだけで、社交を怠るとその副作用で人も離れ、寂しいという結果がもれなく付いてくる。
嫌なら社交したり、努力すればよいわけで。
寂しいかというと、強がりや負け惜しみと感じられるかも知れないが、わたしは多くの人々とシェアしたいとは望んでいない。
エッセンスを薄く広く伸ばし軽くすると多くの人々と繋がることが出来る。
あるいは、接点を増やすため、いくつも特徴、分野を持つとか。

偉大な人なら持っているエッセンスも濃く大量にあるから大人数でシェアできる。
わたしのような微力な人間は元々の量が少ないので、多くの人を惹きつけることは決してない。
わたしはそれでなんの不満もない。
当たり前のことを当たり前に納得するだけだ。
逆に等身大以上のブーム的現象は気が落ち着かない。
一過性。
人は移り気なものだから。

というわけで、コロナ自粛も徐々に解放され、人々の気持ちも外に向く。
カメラモードをオフにして、わたしはメークを落としてホームウエアで寛ぎながらブログが書ける。
とかなんとか言いながら、閲覧数ガタ落ちの自分を慰めている。
相変わらず、可愛げがない。

来週から保育所、さらに学校も再開のよう。
チビッコたちが大人しくケーブルテレビや番組録画を見ているあいだに、チビッコの布団を干して、ブログ更新が出来てやれやれ。
小学2年孫Aが、番組の合間合間にキャンディを欲しがり、スマホブログ更新中のわたしのところにやって来る。
「ミルキーはママの味〜♫」と子供の頃のCMで耳にしたフレーズをわたしが口ずさむと、Aは、「違うで、牛の味やで」という。
なるほど、その通り、牛のお乳。
「人間も赤ちゃんを育てるお乳が出るんよ」と、真面目に説明したが、
もう小学生にもなると、ママの味じゃないんだ、と妙に感心した。
が、ママであろうが、牛であろうが、ダラダラと与えるわけにはいかないので、計画表を書いた。
時間割。
それと同時に算数の計算を二個したらキャンディをあげることにした。
あらまあ、正解率の低さったら。
飴、あげられないなあ。
欲しがるA、あげられないわたし。
ミニバトル。
バトルはどこにも落ちている。
バトルを気にしながら、時間に追われながら、ブログと向かうのも、何の必要性もないのに、、、
ブログ病である。

しかし、目に見えないもの(閲覧数)に振り回されるのは、コロナウイルスと同じだ。
て、内容はイマイチだが。

ブログ。また明日の自分に期待しよう!
て、いつもこれ。