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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

評価されない無形の楽しみ

2023-02-16 | 趣味
科学と哲学では理解出来ないことが、たくさんある。
それには変な新興宗教だったり、うさんくさいものが疑問解決へと導こうとする。

うさんくさくないものもある。
芸術。
芸術を理解する側と、自分が体現する側がある。
両方というのもある。
プロ野球の大ファンで応援団長をやっていたり、なおかつ、地元で仲間と草野球もするパターン。
コンサートを聴きに行き、それとは別に自分も家で演奏することもある。

で、わたし。
芸術脳が未発達。
科学脳も未発達。
唯一、発達しているのは哲学脳。
デキナイ自分を肯定し、応援するために哲学脳を駆使する。

小学校の頃から、成長期に、4教科(中学からは5教科)にだけ価値を置く教育を受けた。
その弊害が尾を引いている。
副教科はお遊び、息抜き、と。
入試の合否評価対象にならないからだ。
(芸術や体育コースには進まなかった)

だが、わたしは幼い頃からピアノ、習字、短期間ではバレエ、算盤を習っていた。
大人になってからも華道、その他諸々を習った。
全てものにならず、素通り。
素養がないのか、やる気がないのか、両方か。
大人になってから習ったものは特に、人には言えない。
逆効果なぐらい成果がない。
たんなる暇つぶしだったのだろう。
次のライフステージへ移るまでの待ち時間。

子供の頃のお稽古は親に勧められて。
拒否する選択肢があることを当時、知らなかった。
成果があったかと言うと、どれも現在、ひどい。
習ってない人より、ひどい。
時間と労力とお金の無駄遣いか。
素直に習いに行って、親はとりあえず満足していただろう。
しかし、見事に習得していない。
(ほんの少し、知っている程度)

滋養になっていない。 
が、ここで哲学脳は、「人生で無駄なことなど一つもない」と、無表情で無機質風に答える。

目に見えて残っているものは、全く活用されていない、形だけの免許皆伝。
その他、捨てずに残っている物、物、物、ガラクタの山。
あとは、子供、孫。

無形、有形、いろいろある。 
子供、孫は、有形になるのだろうか。
物体、物質として存在するから有形なんだろう。

かつて、脳を素通りして消えていった無形のもの。
今、その中の一つに取り組んでいて、厄介で難儀で理解不可能で、苦悩の涙を流している。
だが、老後の暇つぶしには、もってこいだと内心喜んでいる。
素養がないだけに、挫折も味わったことがない分野で怖いもの知らずの未知数。
敵は自分だけ。

老後は、評価点数に関係ないものに取り組むのが最適だと感じる。
評価はもう結構。
苦い涙で、卒業した。



こころの傷と向き合う

2022-11-18 | 趣味
過去の嫌な思い出を書き出し、セルフカウンセリングしてます。
傷の修復、再生、自浄に役立つか?
皆さん、ご迷惑だと思うのでスルーしてください。


興味がないことを興味がないと言わなかったわたし。
延々と興味がない、相手の趣味話に付き合っていた。
それはなぜか?

じつのところ、その相手は同じ趣味の人。
だが、共通の趣味のことを語るのではなく、別の趣味のことをその人は話す。
お互いに趣味分野で掘り下げる共通点がなくなった、末期症状の頃。

そもそも、その人は、人を形成する人物像の背景に全く興味がない。
人がどんな風に人生を送ってきたか、全然、ぴくりとも関心がない。
どうでもよい。
自分の人生にもあまり興味がない。
なぜ、そうわたしが言い切るか?

わたしが投げかけた話題には全く関心がない。
世の中のことにはまるで反応しない。
仕事以外の全ての自由時間を趣味に費やしていた。
家でも、家族と食卓を囲んでいる時も。
ずーっとスマホで遊んでいた。
家族も諦めていると思う。
それが、その人のスタイルになり、誰も文句も意見も言わない。
それぞれの家族が好きなように過ごしている。
リビングルームですら、家族は集まらない。
その人が一人で使い、他の家族は寄り付かない。
なるほど、わかる。納得する。

自分は好きなようにしてきたから、他の家族も好きなようにするのはしかたない、と、その人は言う。
これからも干渉も束縛もない家族。
だが、家族間にはその影響なのかどうか知らないが、隙間風は次第に病理を生んだようだ。
鶏が先か、卵が先か。
そういう人間関係の構築(虚無)だから、ああいう家族になってしまったのか。
家族間では、絶妙なバランスで家族を形成しているが、形骸化した家族に思える。
だが、そんな家族は山のようにいる。
壊さないだけだ。
そっと病理を抱えたまま、静かに揺り動かさず進む。
病理の原因には(わざと)目を向けず対峙せず。

わたしはそう感じていたが、口に出して言うのはいくらなんでも他人の家庭に踏み込みすぎ。
人のこころに、ずかずかと土足で入る無神経さは、いくらわたしでも持ち合わせていない。
そもそも、趣味が同じなだけの人。

その人は、わたしとのその共通趣味以外の趣味は、ゲーム。
それと、お気に入り将棋士の追っかけ。
その人は自分は将棋はしない。将棋の中身には興味がない。
将棋の内容にも触れない。
ただその棋士の日々の動向や行動をスマホで追うだけ。
あとは、アニメとスマホアニメ小説。
いわゆるオタク趣味(今では市民権を得ている)。
全くわたしとは趣味が合わない。
さらに、その人は社会の出来事にはまるで無関心。
じーーっと室内の椅子に座り続けてスマホで趣味の世界に没頭する。
旅行にも行かない。お酒も飲まない。食にも興味がない。映画もコンサートも行かない。
英語の勉強をちょっとだけしていたが、わたしが隣で歩いている時にも、スマホで。
ウォーキングは少しするが、暫定期間、スマホで仲間と歩数を競い合うためだったり、コロナ時、一歩も部屋の外に出ず、あまりにも身体を動かさない、全く(家事も用事も)何もしないのですることがなかったり、だったり。
暇やお金がないわけではない。
インターネットで色んなモノを買う。
何十年もそのスタンス。

人は人の好みや趣味があるから、口出しする気はない。権利もない。
だが、二人でいる時も、スマホ。
これは、その人の家族と同じ環境。
気を使わなくなったためか、あるいはスマホのほうが楽しいからだと思われるが、わたしが描く空気のような存在は決してそんなカタチではない。

わたしはその人の家族ではないので、付き合いをやめることには何の影響もない。
スマホ相手に一人でいるには何の問題もない。
二人でいるのに、なぜ四六時中スマホ?
それもあって、わたしはその人から遠ざかった。
おそらく、元々一人が好きな人なのに、無理やりわたしが、割り込んだのだろう。
それは間違いだった。
人間、間違いはある。
なので、わたしは撤退した。
少し後悔するとしたら、なぜもっと早く撤退しなかったのか、である。

人として、肝心なところが欠如しているとみなした。
それにしても、わたしもよくあんな時間を耐えていたものだ。
まあ、人生教訓、教えが詰まっている。

嫌な人には近寄らないこと。
自分の目標に沿わない場合は、進路変更すること。
今は、すごくスッキリした気持ち。
だが、時折、トラウマのごとく、虚無な時間の思い出が蘇ると、吐き出したくなる。

趣味分野で、わたしが目指す方向性とズレていたので、どっちみちアウト。
いつかは、別々の道を歩く。
方向性のズレを修正しようという気にならない、その人の性格が、前を進ませなかった。
元々、最初から無理があった。
それを無理矢理、どうにか合わせようとしたのが間違い。
急いては事を仕損ずる。
価値観やどこか共鳴するところがズレていると、どんどん関係は悪化する。
複合的に原因がいくつも重なっていった。

それにしても、あの人物が家族でなくて良かった。
こころの底からそう思う。
フレキシブルに返品交換可能。
胸を撫で下ろしている。

「人生に無駄な時間はない」と秋元康さんも言っているが、無駄な時間を過ごしてこそ、有意義な時間が輝く。
何が無駄で、何が有意義か。
判断するのに時間はかかったが、今後、自分時間を歩んでいく上での選択に、おおいに役に立つ。
無駄ではなかったということか。



心臓バクバクも楽しい

2022-09-02 | 趣味
ドキドキし過ぎた一昨日。
自宅で1時間、駅で20分待ち、たくさんの待ち時間を経て、カウントダウン。
待ち合わせの時間には、大時計の警報の音(のごとく感じた。実際は無音)。

チッチッチ、チーッ!
と針はそれまで秒刻みに動いたものの、待ち合わせ時刻を刺してもその後、止まったまま。

あれ?あれ?あれ?
なんで?なんで?なんで?

おかしいな、へんだな、間違えたかな?
不安というよりは、自分の思考が止まった。

・・・・・

結末から言うと、ちゃんとうまくいったのだが。
待ち過ぎて、行き違いがあり、5分ぐらい遅刻したような状況になった。
劇的瞬間は、ちょっとブザマ。
まあ許容範囲内。

それにしても、この歳になってこんなにドキドキできるなんて、なんて幸せなんだろう。
今日が未来の中で、1番若い!
まさにその通り。

1日1日を大切に、
感動を大切に、
思い出づくりを大切に!

将来の自分は、今の自分の上にある。
腐る時はまた腐り、楽しむ時はまた楽しみ、凸凹デコボコ道を歩いて行こう。




ドキドキが止まらない

2022-08-31 | 趣味
先週に突然決まった本日のスケジュール。
一瞬どうしようか迷ったが、その日が今後の自分の1番若い日。
躊躇しているヒマはない。
今日は心臓が口から飛び出してきそうなぐらい、ドキドキしている。
出掛ける1時間前から準備完了になり、時間を持て余している。
何をしよう、、、。

暑い、、、。
暑いのにホットコーヒーを飲んだ。
ほとんど脳は溶けているとみた。
次。
大根サラダを食べた。
何も今、食べなくても。
次、、、何をしようか考えた。
こういう時は考えてもダメ。

で、洗面所の鏡の前に立った。
ポージング。
うん、イケる。
裸眼、0.01。ほとんど見えてない。
何がイケるのかわからないが、なんでも良い。

さて、あとは点検。
靴、これでいい?
いや、こっち?
いやいや、こっち。
いやいやいや、こっち。
どっちやねん。
まるで何足もある中で悩んでいるかの如く。
2足の普段靴の間を行ったり来たり。

で、キバっていないほうにする。
頑張りが見えるのは、カッコ悪い。
どっちみち、両方の靴ともに大したことはない。
にもかかわらず、どっちがいい?
と、まだやっている。
何しろ1時間もあるので、無駄な時間をいっぱい使わないと埋まらない。

やっと残り30分になった。
スキ間時間を埋めるのにはスマホ遊びをすれば良いのだが、その気にならない。
ソワソワ。
わたしのスマホ遊びは、自宅で一日中お尻が椅子にビタっと張りついている時しか興が乗らない。
役に立たないスマホだ。

ちなみに、昨日もまたまた帰りにスマホをいじっていて電車を乗り過ごした。
いったいこれで何度目か、数える気にもならない。
落胆、驚愕、自己嫌悪、諦め、怒り、笑い、いろんな感情が交互になってやってきた。
で、すれっと涼しい顔で電車乗り換えアプリで乗り換え駅の時間を調べる。
スマホのせいで乗り過ごしたが、ここはスマホに働いてもらう。

と、またまたスマホ入力していて今も電車乗り換えに失敗しないか不安だ。
スマホは元凶であり、ともだちでもある。
そう言えば、スマホなど端末機器を長時間いじって遊んでいる(幼児を含め)子供の認知度が落ちているらしい。
年寄りならともかく、未来ある子供には毒を孕む。

乗り換え駅を間違えないように、、、。
1本も2本早い電車に乗った。
さらに自宅では1時間も前からスタンバイ。

心臓の鼓動は高まるばかり、速まるばかり。
大丈夫か、わたし?
待ち合わせ時間より、30分は早く着きそうだ。



楽しすぎて不安

2022-08-24 | 趣味
最近、ものすごく楽しい。
趣味分野。
充実しすぎて、コワイ。
順調すぎて、うまく行き過ぎて、出来過ぎで、不安。
だが、のめり込んではいけない。
他のことにも楽しみの一片を見つけておかないと、ダメになった時のダメージが大きい。
リスクヘッジが必要。
こうやっていつもわたしは、前のめりになっていることから少しだけ、高熱物質をお取り置きする。
ちょっと僅かながら熱冷まし。
でないと、目の前からそれが消えたら、たちまちのうちに、へなへなとなり意気消沈を通り越してショックで立ち上がれない。

それぐらい、熱をあげている。
何年かに一度、こういうかんじで発熱、発火する。
その度に、その後の消火後のことが思い出され、自分にブレーキをかける。
ブレーキをかけてちょうどぐらい、熱くなっている。
ヒートアップし過ぎて、真夏の漏電危機。
病気か。
一人で舞い上がってしまう。
このまま順調には絶対に行かないことは、わかっている。
先が思いやられる。
今だけだ。
今がピークだ。
浮かれると同時に、「目を覚ませ」と自分に言い聞かせる。
冷水を浴びせる。
蕎麦を茹でる時、沸騰した時点で注入するびっくり水のように。(またまた的外れな例)

今までもそうだった。
あんなに盛り上がっていたのがウソような、夢の風船が破裂した後は、ぱんぱんに膨らんだあの風船が実際の出来事だったことが信じられない、雲泥の差の、寒々した現実に直面する。
その時はどう対処してきたか。
とりあえずは、燻り続け、滅入った後は静かにクールダウン。
傷が癒えるまで、落ち着くまで静かにしておく。
燃え尽きたカスは、灰になり空中に舞うか、土に戻す。
また一から出直す。
次の発火物に火がつくのを根気強く待つ。
懲りない。
なんでこうも、いつも熱くなるのか。
自分のことながら、原因不明である。


頑張らない自由

2022-08-11 | 趣味
ぜひ書きたいことがある。
昨日アップした、体育会系の楽しい運動余生について。
益々、ヒートアップした、この体育会系の人物は、鬼軍曹と化した。

何十回と同じことをやらされ、
「違う!」「違う!」とダメ出しは延々と続く。
どこがどう違うのか。
わたしは示された見本と同じようにしている(つもり)。
1ヶ月ぐらい延々と同じことをしている。
1回目も100回目も変化、進歩なし。
耐久性能検査をしている機械のように、101回目に、わたしは壊れた。
「100回やっても500回やっても同じです!!」
被っていた帽子を床に叩きつけた瞬間である。
(帽子、被ってなかったけど)
その前の時間も、ずーっと怒鳴られっ放し。
何故、出来ない?
何故、そうする?
何故、こうしない?
何度、言ったらわかる?

わたしは、何故自分が怒られているのかわからない。
自分の何処が悪いのかわからない。
何しろ出来なくて、一方的にわたしが悪いようだ。
叱られ否定され続ける。
逆転することはあり得なく、こんなことが一生続く。
一方的にやられるだけの、こんな徒弟制度、令和の時代には合っていない。
教えてもらうなんてとんでもない、師匠の技を盗み見て身につけよ、とは昔の職人さん。
わたしは、甘々、甘〜い甘〜いキャラ。
いきなり崖から子供のライオンを突き落とす親ライオンのやり方には着いていけない。
せめてパラシュートが必要。
スパルタは拒絶反応。わたしは今時の若者風、今時の年寄り。
生きて行くには他に方法がないなら泣いてでもしがみつくだろうが、そんなことはない。ぱ〜っと手を放した。
楽しむためのことなのに、苦しんでいるのは本末転倒。
(「楽あれば苦あり」「苦は楽の種」、、、と、ことわざカルタが頭に浮かぶが、、、)
やめたっ!!やってられるか!
カルタを手のひらで、ぐちゃぐちゃに混ぜ返す。

親切に教えてくれる人は他にもわんさかいる。
お金を払えばプロが更に高度なノウハウを効率よく駆使してくれる。
多くの生徒を輩出してきたレッスンテクニックが研究し尽くされている。
歯を食いしばってでも、、、は、やめた。
そんなに噛んだら唇が痛い。

その後の反省会で、わかったこと、、、。
皆さん、ガンガン意見なり考えなりを主張していて、お互い負けてないバトルのしのぎ合いが継続されることによって、お互いが鋼のように心身の強度を増して行く。
心技体。体育会系のセオリー。
この話を聞いて、わたしは、無理!と瞬時に思った。
わたしはそういうキャラクターではない。
熱い夏の甲子園球児たちのような、燃える体育会系人間ではない。
学生時代から帰宅部で、本格的な体育会系クラブに身を置いたことはない。
やはり、住処、棲家は、人それぞれ適材適所、あると思う。

帰りの電車の中で、ポロポロ涙が流れた。
マスクの下は鼻水も。
マスクって便利だと心の底から思った。(感激するのは、そこ?)

家に帰って、また涙がはらはら流れた。
鼻水は今度は流しっ放しではなく、ちゃんと拭き取った。
こうやって少しずつ積み重ね、強くなり、、、だといいが、、、そんなのは世の中に横行する美談だ。
弱音を吐くのは、悪いことではない。
頑張らない自由だってある。


「わたし、つぶれるかも知れません」
と、鬼軍曹に伝えた。




慰め合う同年代

2022-08-10 | 趣味
毎日、暑い。
もうじきお盆、ああ、これまた暑い。
さらに法要を控え、もっともっと暑くるしい。

今、終戦関係のニュースや番組が多い。
こころを痛めている。
平和を願わない人はいない。

さて。
わたくし。
ある人とにこやかに話していて、
あとどれぐらい生きるつもり?と投げかけられた。
うーん、30年ぐらいかなあと。
あと30年、どうしよう?という流れになった。
もう少し伸びるかも知れない。
それはそれで、大変だ。

毎日、健康にいきましょう、と、その人とまとまりのない〆になった。
話していて、あらほんと、あと30年も?と意外に長いことにビックリ。
最後の5年を引いて、あと25年ぐらい、どうしよう??
と話しながら、趣味の運動を続けようね、と落ち着いた。
まだまだ毎日、新しい筋肉痛が起こる現状を嘆くと、筋肉は使わないと衰えるらしい。
だから筋肉痛はwelcome、嬉しい状態なんだそうな。
だがしかし、、、その人物にわたしはただ今、モーレツにシゴかれている。
バリバリ体育会系のその人に。
お手柔らかに、ほどほどに、とお願いしているのだが、容赦ない特訓は続く。
いつまで、どこまで、行くのか?
まあ運動系なので、悪の道には突き進まないことは確かだ。
頑張ろうね、と、励まし合っている。

他の、趣味運動仲間の年配の皆様とも、慰め合い、励まし合っている。
(労わり合いは、まだするに至らない)
皆さん、運動会場の姿と、帰宅時の姿は10歳ぐらいの差がある。
帰る時は、歳相応のお年寄りに。
シンデレラのドレスはボロ普段着に、馬車は、かぼちゃになってしまうかんじ?
魔法は解けてしまう。
ではあるが、魔法が効いている間にイキイキと運動に勤しむ。
悪くはない。
若さを保つために頑張るのではなく、楽しむために身体を動かす。
結果的に、心身の健康を保つ。
あまり健康オタクみたいな、目的にとらわれすぎるのは、しんどい。
タスクように課すのは疲れる。
自然がいい。
やりたいように、したいように。
mustマストでもなく、betterベターでもなく、as you like.
楽しく、ちゃらんぽらんに。
目指したり目標にしたりするのも張りがあって良いが、自然体がわたしは好き。
サボりのわたしは、自由解放の中で、遠い目標に向かっている。



 火が着いたのはお尻にではなく

2022-07-08 | 趣味
 延々と長々と抱えていたタスクが昨日、終了した。
で、心身共に解放されたか、、、というと。

わたしは、そもそも都度都度に、ちゃっちゃとテキパキ物事を処理する、常に動いている回遊魚ではない。
ちょっとぐらいのことでは動かない(動けない)。
なので、やるべき用事をあれもこれもついでに、一度に達成ゴール日を調整して、まとめて行った。
サボりで、モチベーションの低いわたしは、こうでもしないと、一つ一つ丁寧に手をかけるタイプではない。
1か、0か。
やるか、やらないか。
やるなら、まとめて一気にドカーンと。

というわけで、終わって肩の荷が降りたかというと、、、
その逆。
達成ピークの次の瞬間から、益々、忙しくなってきた。

0を1に切り替えた途端、人生スタンスまで変更を余儀なくされた。
わたしの何もせず眠っている(予定の)、20年早取りしていた余生、安楽にあの世に行くまで、何ごともないようにそっと待つ予定が、、、路線変更となった。

まだ、わたしには活力とやる気が残っていた。
このエネルギーを生み出し使うのは、結構、しんどいのだが。
第1期→小学生高学年〜高校1年ぐらいの時。
第2期→婚活24歳の時。
第3期→就活&就労時。

この期間の後、わたしの、逆噴射エネルギー時期は終わったと思ったが。
(ちなみに、子育て期は、エネルギー期だとか頭で考える余裕はまるでなく、体力のみ。
ただただ毎日を目の前のタスクに対して全力でやり過ごすのみ)

が、今になって突然、訪れた。
どうしても頑張らなければならない時期。
ああ懐かしい。この苦しみ。
学生時代を思い出す。
(就労時は自意識も低く、あまり苦にはならなかった)

緊張感、緊迫感、プレッシャー。
自分への叱咤激励。
結果を出すことによる、思いや考えのアウトプット。
頭の中だけで何百時間も精神論を唱えてもダメ。
やる時には、やらなければ一生このまま。
動かない。
というわけで、人生の自分育成ラストチャンスに賭け、挑戦している。

落ち込み

2022-07-04 | 趣味
ここのところ、落ち込みが激しい。
こころが深い底に行ったきり、帰ってこない。
ウッチャンではない(と思う)。 
はっきりした原因はあるから。

こころが弱っている。
気楽に(事態が動くのを)待てない。
待っている間にも不安が増加していく。
平常心を保てない。
落ち着かない鈍い波が押し寄せる。

家庭生活ではものすごく順調過ぎるほど順調なのに。
楽しいイベント目白押し。
が、それとは別の世界に、気になることがあると集中して喜べない。
なんと贅沢な悩みだろう。
何も楽しい時期に、別件で悩みを抱えなくてもよいものを。
ある意味、感情の分散になっているのかも知れない。
良い時に良いことが重なると、喜びも倍増。
もしこれが逆なら?
悪い時に悪いことが重なり、「泣きっ面に蜂」になる。
楽しいことと、悲しいことは、あらかじめ量が決まっていて、人生のどのタイミングに出るのか、わからないのかも?
あるいは、神様が頃合いを見計らって采配しているのかも。

悲しみの原因は、「期待」にある。
落胆。
期待しなければ良いものを、良い流れがどんどん続くと、その流れのまま行くと想像する。
が、そうではない展開が突然訪れる。
やはり、期待が原因だ。
良いことは続かない、むしろ、良い時期を楽しめてラッキーと思わなければ。
「引き寄せの法則」は、気まぐれだ。

痛みにまかせる

2022-06-21 | 趣味
またまた涙。
タオルハンカチ、びしょびしょ。
マスク、2つ、びしょびしょ。
涙が止まらない。
涙はリラクゼーション効果ありだそうだが、今回は、そういう傾向ゼロ。

自分が不甲斐なくて、ただただ泣けてくるだけ。
ようし頑張ろう!と、七転び八起き的にエネルギーに転化するかというと、全然。
青菜に塩どっさりてんこ盛り。
塩の山に頭から突っ込むナメクジ。

自分はどんなに頑張っても出来ないことがある。
出来る人がほとんどなのに、わたしは出来ない。
鉄棒の逆上がりみたいなものか。
自転車に乗れないようなものか。
(逆上がりも自転車もクリアしているけど)
でも、そんなかんじの難易度。
だいたいの人は出来ると思う。

出来る人から見れば、何故出来ない?
努力が足りない、根性が無い、と、映るだろう。
出来ないものは出来ない。
努力しても頑張っても、出来ないものは出来ない。
どこまでこれを引きずっていけばよい?
一生?

もう学校、教育期間も卒業。
子育ても終了。
仕事もリタイア。
あと、残っているのは夫を送ることぐらいだが、わたしのほうが早くあの世に行くような気がする。
なぜなら、わたしは、いいとこ取りの人生なので、なんとなくそんな予感がするのだ。

出来ない自分を責めているわけではない。
悔しがっているわけでもない。
出来る人を羨ましがることはまるでない。
能力がないのは、仕方ない。
情けない。
ただそれだけだ。

では、なぜ、涙が後から後から流れて止まらないの?
脳が悲しみを緩和しようと、慰めてくれているのか。

先天的に障がいがある人や、後天的に障がいを生じた人もいる。
嘆こうが喚こうが、笑おうが、事実は同じ。変わらない。
受け取り方が違うだけ。
自分がどう思うか。
人にどう思われるかを気にするのは初心者。
あくまでも自分主体。
泣いても笑っても生きている。

頑張って無理に乗り越えようとしなくてもいい。
出来ないという能力が足りない事実を淡々と粛々と受け止め認めるだけ。

それがどうした?
と、開き直るには、まだまだこころがヒリヒリ痛い。
痛みにまかせて、あがかず自然治癒するまでじっとしておこう。