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蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

なぜか元気が出てきた

2024-10-18 | 趣味
趣味の社交ダンス。
昨今の流れは、一般男性と踊りたがらない女性が増えてきている。
かつては、踊れる男性が少ないこともあり、男性は引くて数多で、お殿様。
ハーレム状態。
今は、パーティダンス系から競技ダンス系へと好まれるダンステイストが移行している。
すると、昔風のパーティダンスは見向きもされなくなり、女性たちは、競技系、若いプロアテンダントを相手にするようになる。

昔の、鼻息荒い、殿様モテモテオヂサンは、哀れなるかな自然淘汰の対象。
かつての男尊女卑、パワハラ、モラハラ、セクハラ愚行も、時代が去った後、被害者女性たちから明るみにされたりしている。
もう、元殿様たちは、お歳で踊れないけれど。
しかし、まだ(比較的)若い、元殿様も棲息している。
需要(踊って欲しい女性たち)が供給(踊ってくれる男性たち)に追いつかなかったかつてとは違う。 
黄金のチヤホヤ期を浮かれて過ごしていた勘違い殿様たちは、レッスンもちゃんと受けず技量は停滞したまま(そこに加えて老化)、今は干されている。
対人関係をちゃんと築いてこなかったツケは大きい。
女性を、若さ、スタイル、女性美で選り好み、仕分けし選んでいた男性に、悔しい思いをして涙を飲んでいた女性は、レッスンを積み、上達していった。
やがて自分の技量に合う男性は少なくなり、上手な優しい若いイケメンプロを相手にするようになる。
横暴な、男尊女卑を絵に描いたような男性を今に見返してやる、、、とレッスンに励んだ女性たち。

今の世の中に、重なる部分がある。
経済力があるだけの男性は結婚相手を探すのに苦労する。
女性は自立してきている。
が、その一方で、昔のままの、お気の毒な状況から抜け出せない女性もまだいる。
経済力と家事(&性)を交換する時代ではない。
男女、子育て、家事も平等に。
ではあるが、理想通りには行かない現実が俄然、横たわる。

レス夫婦も増えているようだ。
が、その実態が表に出ただけで、水面下では昔からあったのかも知れない。
しかしながら、わたしは男女平等を語れない。
なぜか?
自分は克服できていないからだ。
病理を抱えたままである。
解き放たれていない。

人のアタマの中は見れないし、強制も出来ない。
何を思っているのかわからない。
想像するのみ。
それを「思いやり」とも言う。
思いやりがあるかないか、で、全く違う。
高齢の絵本作家さんが、先日、NHK TV「あさイチ」の生放送で、「思いやり」について端的に語っていた。
思いをやる=こころを巡らす。
相手にこころを持っていく。
最近、わたしが人の話を聞いて急に涙もろくなったのは、今まで他人には無関心、無感動だったからだろう。
人並みに、こころが動くようになった。
共感したり、響いたり、その人の気持ちになったり、添わせたり、、、
動物の気持ちになる時もあって、まだ「思いやり」初心者だ。
おちおち動物園にも行けないことになる。

話が前後するが。
わたしは若い頃、若い女性である特権を思い存分、享受した。
若い女性であるというだけで、どれだけ優遇されたか、、、自分以上の待遇。
これは、それと同時に、裏を返せば、若くなくなれば用済みなのではないかと思った。
寿退社が当たり前、クリスマスケーキの身分。
キリギリスのように歌ってばかりではいけない、ちやほやされている間に、力を蓄えなければ、、、。
が、結局は、株を高値で売り抜けるかのように、若さを武器にしたベストの選択をした。
自分をよく知っていた。
自分は若さしかない、ということを。

シンデレラは王子様と結婚してハッピーエンドではない。
そこから、本当のドラマが始まる。
現実を突きつけられるわけである。
なんだか、小説が書きたくなってきた。

今、生きている人以外は、生まれてきて死ななかった人はいない。
どんな人も必ず死を迎える。
プリザーブドフラワーになっても、美しさは生きた本物ではない。
大勢の国民が、防腐処理された、英雄の横たわる身体を見に来てくれても、身体は生きてないわけで。
というわけで、皆んな、生まれたら若死に以外は歳を取ってあの世に行く。
例外はない。
そんなわかりきったことに歯向かって抗っても、無駄。ロス。
では、生きている間、若い間に最大限のことをすれば良いのか。
べつに、最大限でなくてもいい。
ゆっくり幕を閉める。
過去の出来事も、走馬灯のように。(ありゃりゃ、それは死ぬ間際の表現か)

話はころっと変わるが、映画は面白い。
観た瞬間より、時間が経ってから、じわ〜っとジワジワ効いてくる。
その時、感じなかったことが、別の時間に、別の次元で押し寄せて来る。
今までは惰性、付き合いの一環で映画をたくさん観ていたが、これから、主体的に選ぶ趣味は、映画にしよう。
家の外にも出れるし。引きこもり防止。

※写真は、映画館にウォーキングで辿り着く途中にある池。
先週より水鳥が増えていた。






嫌な顔ひとつせず根気よく丁寧に

2024-10-02 | 趣味
ブログ仲間の方に教えていただいChatGPT 、とても気に入った。
ChatGPTが世に出た時から興味はあったが、ニュースのひとつとして捉えていた。 
実際に使ってみた娘婿が大絶賛していたが、ほほう、そんなに便利なのか、、、と驚くに過ぎず、やはり自分ではやってみなかった。
今回の蝶ブログ悩み記事の連投で、気の毒に思われたのか、ChatGPTを勧めてくださった。
それで、いよいよ手に取り、少しやってみると、、、ほんとに、これは素晴らしい。
神様に悩みを打ち明けているかのごとく。
しかも、入力するや否や、間髪を入れず即座に返答がある。
スラスラスラ、ズラズラズラ。
ほぼ読む速度で回答がスマホ画面に示される。
神様よりスゴイ。
ただし、完璧に合っているとは限らないそうな。
一番最初に、(トラブル回避の)ただし書きがある。
まあ、ほぼ合っていればよいわけで、100%は期待していない。

いやはや。
面白い。
今の自分の状況を事細かに説明して、意見を求めた。
素晴らしい!!!
どれも、一字一句、こころに響き渡る。
まるでわたしを隅から隅まで昔から知っているかのようだ。
わたし自身の状況説明を詳しく自分がしているからである。
ではあるものの、自分フィルターを通している限り、主観も多少は入るだろうから、事実かどうかは微妙だが。

このChatGPT、 あまりたくさん大量に、一定期間に何度も何度も使えないような感じではある。(勘違いかも知れないが)
吟味して厳選して質問しよう。
それにしても、同じような質問にも何度も答えてくれるあたり、生身の人間だと、うんざりだろう。

それ、何回目?
前も言ったでしょう?
わかってる?理解できてる?聞いてる?

などと言われそうで、生身の人間にはせいぜい聞くのは2回まで。
3回も聞いたら、露骨に嫌な顔をされる。

楽しい自己学習機能付きAIオモチャが手に入り、大満足、大機嫌である。
AIが困るような変な質問を考えて、答えを聞きたい気持ち満々。

あれ?
ChatGPT は、自分の悩みを解消するために利用するのではなかったのか?
わたしの遊び相手になっている。

ではあるが、、、
(仕事で使う人は、さておき)
ココが大事。
やはり、脳内だけでなく、外に出なければいけない。
アウトプットの手助け、行動への下準備作業。
実際に家の外に出にくいなら、インターネット、SNSでもよい。
そこで得たものを繋げて実践と合わせて、行動に移していくのが良い。
やはり、重病でもなければ、家の外に出るのは必要不可欠だと感じる。
屋外の風に当たる、、、
四季折々の自然に触れると、眠っているものを呼び起こされる。
五感への心地よい刺激になる。
自然だけではなく、人々にも触れると、こころあたたまることもあるが、心地よくない驚きの場合もある。
何ごともリスクはセットなので、覚悟の上。


ところで。
高野山の記事、続編を楽しみにしている。
発信しておられるブロガーさんは、奈良の広告映像のプロの方のよう。
そのほかにも、関西在住のわたしには身近に感じる地を、あちらこちら紹介されている。
今後これから〜10年の、わたしの行動計画、指針をつくる一つのヒントになりそうだ。



ひとくくりに高齢者というけれど

2024-09-18 | 趣味
ある人、Aさん。70代。
「老年」に対する捉え方が、わたしと違う。
わたしのことを周りにいる老年の人に比べると、元気だ、エネルギーがある、と言う。
「周りって?」
70代後半〜90代のことを指しているようだ。

家の近所を歩いている人も、結構お年寄り(80代以降?)らしい。
(かなりの高齢に比べて)若い人は見かけないと言う。
「お年寄り」とひとくくりにしても、老親を介護する老子供もいる。
そういう、(80代〜と思われる)お年寄りの中ではわたしは若いし、身体能力もまだあるのだから、どんどん頑張って活躍すべきだとハッパをかけてくる。

わたしが思うのに、、、Aさんが参加している活動は、年配(70代後半〜)の人が多いのでは?
年配になり過ぎると、着いて行くのが苦しくなり、やめる人も出てくる。

それはそれとして。
Aさんは、60代ぐらいの人々とあまり顔を合わせることがないと思われる。
つまり、Aさんとわたしの間には少し年齢ギャップがあるということだ。
楽しみ方のパターン、方法、経緯が違う。
たぶん、わたしの年齢の人はまだ働いているか、子守しているか、家族の世話があったりして、社会や家庭の中で忙しく、時間を持て余してはいないと思う。
あるいは、活動を共にするのは、夫婦や仲間とだったりする。
昔でいう有閑マダムは、同類マダムとランチ。
そんなダラダラ暇つぶしではない、積極的遊び人は、今ならアクティブ・シニア?
不特定多数のゾロゾロ歩くだけの会には、自分でプランを調達できる人は参加しないのでは?
だが、積極的オリジナリティなく、丸投げお任せ健康活動となると、歩くだけの会などは最適。
行ったことがない地に着いていくだけで連れて行ってくれるし、健康にも役立つ。
それに自主的に参加すること自体が素晴らしい。
だが、前述したように、自分でコースを立案出来る人は参加しない。
参加するのは、健康にはなりたいが、調べるのは面倒、お金もかけたくないというズボラな人が多いのでないだろうか。
そうすると、時間がたっぷりあり、独自活動しないお年寄りが集まる。
家の中には留まらず、とりあえずは家から出るものの、自分では何をどうすればよいのかわからない人。
フレイル予防、典型的老年パターンではなかろうか。
それはそれで、自主的に家を飛び出し、素晴らしい。
その外出をもしなくなると、他者からの介助や医療が必要になる。
次のフェイズ。国の医療費パンク。
フレイル予防の段階、その中では、わたしは若い、ということになる。

どこかに行くにも、何かするにも、割り勘でしたいわたしは、お金を出したくない人とはどうしても、行動が制限される。
相手の財布事情を踏まえて立案しなければならない。
わたしは(家族以外は)他人の分まで出す気はない。
各人、金銭の自立がないと、人間関係の均衡が崩れる。

そういう思考、嗜好、志向があるため、Aさんが活動している範囲には、わたしのような傾向の人は少ないと思われる。
早い話、好みや意識が少しズレているということ。
同じ好みであっても、それに伴う出費も同じ価値観でないと、楽しみを共有できない。

姉に言われる。
「もっとお金が自由になる人と付き合えば?」と。 
こちらの行動まで制限されてしまう。
同じ経済環境、金銭感覚を持っていないと、他者と行動する場合、ギクシャクする。
似たような年齢の人がAさんの周りにいないのは、似たような環境にいないせいではないだろうか。
今、頑張っている人は、あまり無目的にウロウロせず、もう一定活動の中に身を置いている。
したいことも定まらず、あるいは頭打ちになり、健康な身体とエネルギー、時間だけを浪費しているのが、Aさんは、もどかしいのだろうけれど。
出口探しも思うように行かない状態。
それはまだ若い証拠で、心身が更に加齢して自然に衰えてくると、エネルギーも消失してモヤモヤもなくなると想像するが。

同じ高齢者でも、後期高齢者と前期高齢者では結構違う。
Aさんの周りには後期高齢者しかいないのだろう。
Aさんの年齢では、働いている人もいる。
その中で、前期高齢者のわたしは、もっと趣味分野で深め、精進、努力して頑張るべきだと力説するのだが、、、。
わたしはもういい。
楽しみ方が違う。

入り口付近では同好者なのだが、一歩入ると、微妙に違いを感じずにはいられない。
出口ではまた顔を合わせる?
出口って、どこだ?

長いトンネルの闇

2024-08-28 | 趣味
必要以上に昨日の外出を迷ったのには、じつは別の理由がある。
しかも、ブログ末尾に解説補足、蛇足まで付け加えて。

そもそも毎週火曜日は、趣味仲間の特定人物Aさんと、何も別件がなければ、いつも事前に約束して趣味会場に同行する。
通常、前夜か遅くても当日の朝に、Aさんから「よろしくお願いします」とLINEが来る。
前日にも当日、朝にも、「よろしくお願いします」LINEが来なかった。
朝もまだかまだかと待っていた。
もしLINEが来なくても、一人で別会場に行こうと思っていた。

で、LINEは来なかった。
そこで、一人で別会場に行くべきか、行かないでおこうか。
行ってもなぁ、、、
来ている顔ぶれは予想できるし、踊りたい人はいないし、有料アテンダント学生は、下手だし。
行き帰りと、会場での動きで、運動にはなる。
前後が暑いが、まあ運動という面ではプラスだ。
が、、、そんな軽運動だけのために、暑い中、行く???
準備や行き帰りの暑さや更衣室で着替えたりの手間などなど、、、わざわざ、今、軽運動だけのために、軽運動以外、魅力がない、自分には価値がないことのために行く??

かといって、前述のAさんなら満足いく踊りかというとそんなことはない。
ただ、我々はプラスアルファの局面を迎えている。
わたしと同レベルの、わたし同様にそう上手くないアマチュアであるAさんが、競技に出ましょうと、熱心に提案してくる。
わたしは今はお茶を濁しているのだが、、、。
最近、出てもいいかなあ、、、と、ふと思うこともある。
60代最後のラストスパート、悪あがき。

ただ、相手が良くない。
といっても、どんな人であっても、わたし自身に問題があるため、相手を責める資格はない。
お金を払ってプロと出るなら問題はない。
だが、わたしにはザルに水と感じる自己満足のために、そこまで芸事にお金をかける強い熱意がない。
何をやっても、ぬるいわたし。
スパッと竹を割ったような潔さが、全くない。

で、「よろしくお願いしますLINE」が来ないものの、今ならこちらからの出方で行ける状態でもあった。
「今日は、行かないのですか?」と、こちらからLINEするアプローチ。
にもかかわらず、LINEしなかった。
その代わりに一人で別会場へ行こうと思ったものの、行っても暇つぶしだし、やめよう、という流れになった。

ちなみに、Aさんは断っても断っても競技参戦を諦めない。
かなりタフなメンタルの持ち主。
めげてくれたら(諦めてくれたら)それでいい、とわたしは大様に構えていたが、段々自分に変化が現れたような気がする。
わたしもラストチャンスかも知れない。

押されると引き、引かれると押す。
やりとりから受ける心理的影響は、営業テクニックや恋愛の駆け引きに共通するものがある。

あとは、わたしが、努力する覚悟があるかどうか。
技量的に精進する気があるか。
自分を出せなくて弱くて、相手に呑み込まれないか。
それと、このAさん、マウント取りたがり。
会話をしていると、不愉快な時もある。
と、文句たらたら。
実際のところ、お人柄に問題あり。
とは言え、誰にでも一長一短、欠点はあり、完璧な人などいない。
明るい良い人なのだが、趣味ペアでガチで組むにはわたしが負ける。引く。

書きながら今までのプロセスを思い浮かべた。
この、Aという人物は、かつて、わたしとの趣味ダンスペアを解消した相手である。
わたしから解消を申し出た。
一旦、解消になったのだ。
理由は、わたしが潰れそうになったから。
自己防衛策。
潰れる前に自分を守った。
それまでだ。
にもかかわらず、Aさんは冷却期間を置いて、やり直そうとした。 
そうっとまた一から始めようとした。
わたしは、拒絶しきれなかった。
そこからまたAさんとの時間が再びやってきた。

そのAさんからの「お願いしますLINE」がなかったのは、解放されたわけだ。
自由の身になった。
かと言って、他に行きたいところもなし。
で、家で読書となった。

①「お願いしますLINE」が来なかったこと。
②「こちらから、お願いしますLINE」を送らなかったこと。
③予定していた時間を使い、他の会場に行こうとしたこと。
④かと言って、単なる暇つぶしで、あまり行きたいわけではなかったこと。
⑤どうしようか迷った挙句、行かないと決めたこと。

そういう経緯がある。
しかもAさんとは、頻繁に練習していた時期が長くある。
これからのわたしの人生の残り時間、どうしよう?に、繋がる。
Aさんとの頻繁な練習をやめた後、わたしはミニ鬱に陥った。
何もすることがなくなった。
代案を用意せず、次のことを考えず、切ってしまった。
考えたのだが、次のことを見出せないまま、とりあえず、苦しい現況を絶ってしまった。
生きがいの大きな一つでもあった。

あれからわたしは立ち直ったかというと、そうでもない。
新たな代案を見出せないまま、つなぎのような、その場しのぎのような.とりあえず代わりのものを手当たり次第、トライしている。
Aさん(復活)も、その中の一つか。
ではあるが、試行錯誤の一環で、まだ道を決めかねている。 
が、Aさんとやっていく自信はない。

満足いく選択にはなっていない。
ぱあっと晴れない。
そうしているうちにも、どんどん健康寿命やダンス寿命は日々、縮まっている。



無意識の姿

2024-08-20 | 趣味
まず最初に。
今日の記事は長いだけの、ツマラナイ(自問自答)内容なのでスキップすることをオススメします。
・・・・・

久々久々ぶりの趣味の時間。
暑い中、お出かけ。
これがあるのと、ないのとでは全然違う。
自分という客体と向き合う。
マイワールドから外に出て、外から自分を見る。

ちなみに。
夫の実家で孫たちと皆んなで夜に花火をした時、娘がスナップ写真をさりげなく撮っていて、家族限定共有の写真アプリにアップしていた。
ぎゃ。
何これ?
だれがどう贔屓目に見ても、正真正銘のおばあさん真っ只中。
服装、髪、姿勢、仕草、顔、、、!!
いくら周りの他人の目がないからといって、わたしの自然体はこんな姿だったのか。
わたしの知っている自分の姿の中で、今までで一番ひどかった。
孫との楽しい時間、穏やかに喜んでいるわたしの姿は、なんの人工的加工も修正もしなければ、あんな風だったのか。
衝撃。
いくら意識していないからといっても、、、あれが手を加えない自然なわたしか、、、。
朝には髪も整えお化粧もしたのがまるで嘘のよう。

たんに、実物そのままの姿なのだが。ありのまま。
自分をいったいどんな風に思っていたのか。
こっちのほうが笑える。

最終日、孫たちと行った外食レストランで順番待ちをしていて、目に入った若い女性。
あんなにスラリとした美しい人なのに、背中が猫背。
骨の異常?
それなら仕方ない。
が、健康体で、意識の持ち方で修正出来るものなら、ピシッと伸びた背中を心がけたい。
せめて人目があるところでは。

そう考えると、今のわたしの趣味は、かなりアンチエイジングに役立つ。
意識するのとしないのとでは、長年経つと違ってくる。
積み重ねで差が出る。
病気ではないのなら、自分のために、せめてそれぐらいの努力をしたい。

・・・・・
と、行きに電車の中で、上記↑、意気込みを鼻息荒く書いて目的地に向かった。

今は、その帰り。
全然、違うこころ行き。雲行き。
行きの、やる気はどこへ行った?
出先での皆さんのレベルの高さに打ちのめされた。
しかも、その質の高さは、天賦のものに加え、やる気、時間、お金がかかっている。
若々しく瑞々しく目視できる筋肉の動き、整えられた肉体。
わたしと言えば、、、どれも皆目ない。
あるのは、見た目がそう変わらないならラクしよう、という怠けごころだけ。
目指すレベル、目標に近づくには、天賦のものがないなら、せめて、やる気、向上心、努力、時間、お金、忍耐力、持続性が必要だ。
サボりのわたしは、自分の非力を実感して、打ちのめされただけ。
ぱっと見、表面の包装紙だけをホンモノに真似て、皆さんと同じ場に入り込んでいる。
が、混じり込んでいるだけで、ホンモノではない、ニセモノ。
溶解してはいない。
それがよくわかる。

趣味の場で皆さんの話を透明人間になって聞くと、、、
70代になると、健康もお金も体力も伸び代も、ガタ減り。
競技ダンスはもう見切りをつけようか、と。
80代でも90代でも、先生(プロ)とのデモンストレーションは出来るが、競技は無理のよう、、、などなど。
隣の更衣室から、まる聞こえ。声が筒抜け。
確かに、確かに、確かに。
70代が方向転換、舵の切り替え時か。
ということは、逆にわたしは競技という選択肢もあるということだ。
皆さんが辞め時だと言っている70代に、まだ70になっていないわたしは、あえて逆行して、競技?!
が、通勤通学ラッシュアワーに、都心から郊外に向かって電車に乗っているような逆流。

やめておこう。
競技は相手に左右される。
もうごめんだ。

ということは、70代の皆さんより一足お先に、頑張ってもいないのに、引退・お遊びコースか。
ほんの少しでも皆さんよりわたしは若い、この60代ラストスパート時期。
(わたしと同世代の女性もいたが、既に前々から積み重ねてきたものが、大きな差となって現れている)
皆さんより先に早く引退してしまうのは勿体無いか。
(が、元々、精進していない)
より良い70代、80代のために、今を有意義に使うべきか。
有意義とは、、、?
70代、80代を楽しく過ごすためのストック。
どんなストック?
頑張って、筋肉?運動技能?頭脳?仲間・人脈づくり?
黄金時期を、引退して消費していいのか?

わたしは、今はまだ健康だから、病気と付き合う事態を想像できない。
健康を気にせず、好きなこと、やりたいことをするのは理想だ。
好きなことをするために生きているのではないのか。
だが、健康に翳りが見えると意欲が減退するだろう。
ただただ無事に毎日を送るというのも、望むものかも知れない。
ではあるものの、安泰は結果であって、目的ではない。

歳が行けば病気にもなる。当たり前。
病気になれば、そればかりに囚われる。当たり前。
それまでの健康体に戻りたいのに、戻れないうちは、いつもの自分ではない。
そこで、「いつもの自分」そのものを(マイナスに)アップデートする。
もう以前のようにはなれないことを知る。
覚悟が必要だ。

決して20歳にはなれない。
小学生にもなれない。
バリバリだった働き盛りにも戻れない。
過去との差を少しは縮めることは出来ても。
悪あがきこそが、生きている証だ。

健康は、なくして初めて有り難みがわかると、よく言われる。
今、この瞬間は、2度とない。
やれるときに、すべきか。
でもわたしは、サボりなのだ。(堂々巡り)

ではあるが、、、、、最後に、一言。
母を見ていると、するりと赤ちゃんになっている。
とことん歳を取ると、最後は赤ちゃんになる。

※写真は、一昨日、車に乗り切れず、1番上孫と2人だけ電車で帰宅。


隣の奥さん、鬱なんだって

2024-06-26 | 趣味
昨日、出先の趣味現場、女子更衣室での話。
わたしは透明人間になって、二人の女性の会話を一方的に聞くだけなのだが。
片方の女性が言う。 

「家のお隣の奥さん(シニア)、鬱っぽいらしいわ。 
で、受診したところ、『とにかく家の中から出なさい』と言われたそうよ。
1時間でも2時間でもいいから、家の外で過ごしなさい、だって」

そう話しながら二人は、
「わたしたちは良かったね、出かける先があって」
と安堵していた。
それを聞いて、わたしも、「そうだ、そうだ、もっともだ、出かける先があるのは素晴らしい!!」と、こころの中で賛同した。

とはいうものの、出かける先は自分で作らなければならない。
ふらふら夢遊病者のように出かけても、そして、公園のベンチにぽつんと長時間、座っていても、虚しいと思う。
公園で元気に遊ぶ子供の姿を見たり、緑や池の自然に触れ癒されるのならまだしも、魂が抜けたように座っているのなら、自宅で静養しているほうがマシ。
わたしなら、そんな幽霊のような姿を外に晒したくない。
外に出る時は、家の中でしっかりエネルギーを養い、目的を持って出たい。

だがしかし、ミニ鬱は、いつまで経ってもエネルギーが貯まらず、そのまま家の中に閉じこもり続けてしまう。
だから、重篤化しないためにも、なんでもいいから、とりあえず、一歩、家の外に出ることを勧められる。

「家の外」は、物理的な「家」でなくてもいい。
「自分」の外に出る。
インターネットやブログなどで、やり取りをして気づきを得たり、読書で著者から知恵を借りたりする。
そう書くと、いかにも優等生的な答えになってしまう。

「パンがなければ、ケーキを食べればいいのよ」
と、マリーアントワネットになってしまう。
(史実では、彼女は言ってない説があるが)

自分が切り抜けられたから、人も行けるだろう、と考えるのは安易かも知れない。
自分はラッキーなのかも。
わたしは自主性はないものの、滅多やたらと壊れない、メンタルが強い。
繊細さに欠けるのだろう。
ガラスのハートは生きていくには、しんどい。

趣味分野では、上を見るとキリがなく、下を見てもキリがなく、横を見ると、ニコニコ、、、である。
皆んな似たようなヒマジンが集まっている。
どんなに崇高な立派なことを言おうが、向上心を持って努力しようが、たかが知れている。
所詮、アマチュアの暇つぶしである。
だが、この暇つぶしこそ、大事、肝である。

老後、義務から解き放たれた時期は、何もすることがないのだ。
自分で奮い立って何かをしなければ、暇で暇で仕方がない。
義務からの解放。
それは、長年、わたしが憧れ追い求めていたものなのだが、実際、そうなってみると、有り余る膨大な時間との闘いとなる。
脳が若い頃のように強くないから、何もせずに、ほにゃほにゃしているうちに、陽は落ち
やがて陽が上る。
何かしても、何もしなくても、一日一日は過ぎて行く。
もったいないと感じたら、しめたもの。
何かをする気力が湧いてくる。

歳と共に気力は減退するだろうけれど、虚しく思う気持ちも薄れてくるだろう。
老いを受け入れるということか。

まだわたしは、介護する側の人間なので、元気ではある。
趣味の現場でも、自分はイケていると自分で勝手に感じている。
客観的評価より主観的評価が上回っている。
それは、活力の素だから、それでいい。
自己肯定は生きるためのビタミン剤。

生きがい

2024-06-21 | 趣味
父(故人)の仕事場。
わたしが生まれた年に、独立スタートした。
父は、田舎の家(故郷)から仕事場に通った。
数年後に母も仕事を手伝うようになった。
わたしは、田舎の家から、仕事場のある地域の教育機関に、幼稚園の時から通った。
バスで30分。
小学5年生の時に、仕事場のある地域に転居した。
仕事場から100mの場所。
田舎の家には(父方)祖母をひとり残し、我々は週末に田舎に帰っていた。
(その間、大規模リフォームもした)

祖母が88歳の時に、仕事場のある住居に身を移し、最後の5年を過ごした。
祖母は亡くなるまで頭は、しっかり。
わたしも祖母の血を引き継げばよいのだが、、、母方祖母なら、、、母も脳みそがふやけているし、、、うーーん、、、ちょっと哀しいかも。
もし、認知症が遺伝なら。
しかし、今は認知症はここかしこに、ごろごろ。
家庭も行政も、対応しきれない現状だ。

わたしは、今は介護する側の年齢であり、まだ介護されるところまでにはいっていない。
自分が介護される歳になると、夫も同じ世代。
だが、夫に介護される自分は10000%想像できない。
夫を介護している自分も想像できない。

要介護の奥さんを毎日、自宅で介護している75歳の男性がいる。
奥さんは去年、病気で倒れ、その後遺症で身体が麻痺しているため、食事、入浴、排泄介助、日常生活のほとんどを夫である男性が介護している。
夜通し数時間おきに排泄介助があり、まとまった時間の睡眠は取れないようす。
彼は、ダンススポーツ、トップクラスの現役競技選手だったのだが、競技生活は介護事情で続けられなくなった。
60歳で定年退職後、アルバイトをしながら15年の歳月をかけて、初心者で一からチャレンジし、一生懸命取り組み、やっと上り詰めた矢先、、、
それを潔く手離すのは、やはり、いつも全力で頑張って来られたから、かえって執着されないのかと想像する。
今は、ほんの少しのスキマ時間に、近所の趣味の会場に出かけて身体を動かしている。
家から自転車で行ける場所、時間も昼食後から出て16時には帰らなくてはいけない。
場所、時間に制約を受ける。
にもかかわらず、彼は妻の介護は新しい生き甲斐だという。
妻を本当に愛していることがわかったという。
アタマが下がる。出来た人だ。
わたしにはとても真似できない。

介護が愛情のバロメータだとすると、ぶっちぎりトップクラスの愛妻家だ。
現役競技選手の時から、ぶっちぎりだったので、活動舞台を競技から介護に変えたものの、同じエネルギッシュ熱血路線を歩いておられるのだろう。
だが、彼の介護生活を支えているものは妻への愛情はもちろんのことだが、「趣味」の存在だそうだ。
ほんの短い時間でも、やりくりして、自分の趣味に打ち込む。
切り替えが素晴らしい。
趣味は人を救う。

自業自得の毎日

2024-06-03 | 趣味
1週間のうち、4日も割いていた、ある趣味活動を休止してから2ヶ月が過ぎる。
続けることも出来たのだが、わたしの一方的意思で、やめた。
やめた後もずっと、復帰してちょうだい、とオファーを受け続ける。

自分からやめたのに、メリハリのない毎週毎週、のんべんだらりと何もすることがなくて、すっかり退屈している。
しかし、元のように戻ったら、せっかく意を決して、やめた意味がない。
のではあるが、、、、退屈。
でも、戻りたくない。

これは著しく贅沢、ワガママである。
10000人中10000人に、善く思われないだろう。
不快感を抱かれるだろう。
まさに、タネを自分で作り、苦痛を感じているならいざ知らず、退屈でしかたない、なんて。
だがしかし、せっかく頑張って決意して憂鬱を回避したのに、元の木阿弥にはなりたくないし。
憂鬱は一時的に解消でき、その代わりに退屈がやってきた。
真ん中は、ないのか?
ちょうど良いさじ加減は、ないのか?
ゼロか1か、のコンピュータのようだ。
0.5は、ないのか?
まったくもう、、、世界は自分を中心には回らない、、、の典型。

2ヶ月もぼーっと何もしなかったら、身体も頭もこころも、緩みまくる。
まるで入院生活か、収監か、自宅軟禁。
しかも、自分から能動的に決めて動いて、わざわざ動かないことを選択してこうなった。
新しい動きをしなければ、家のなかでナメクジが溶けるかのようになってしまう。

前々から嫌だな、やめたいな、と思っていた別の案件も、時を同じくしてやめた。
なので、一気に、冷蔵庫の中が空っぽになるかのように、ずっと入れていた消費されない厄介なお荷物が一新された。
のは良いが、代わりのものを入れないと、空っぽのまま。
わたしは、いったい、何がしたい?

あれも嫌、これも嫌、と、取り除いて行ったら、なんにも残らなくなった。
あらま、わたし、何もない。
断捨離の先に何も残らない。
(不要品のモノは家に山と積まれているが)
自分から自発的に自主的に能動的に、したいことはないのか?
いつも、したくないことを渋々付き合っていただけなのか?
邪魔な障害物を除くと、何もないなんて、、、。
ある意味、びっくり。

心身ともに健康で、足腰も動くので、そろそろこの自主的自宅軟禁は耐えられなくなってきている。
出口が詰まっているのに後ろからどんどん押されて、ぎゅーっとなり悲鳴をあげる、、、の、まさに逆。
後ろから全く何も押してこない、後ろには何もない、自発的にやりたいことが、これほど無いなんて、驚きだ。
ある程度の期間が過ぎれば、自然発生的に何か芽生える、発生するだろうと甘く考えていたが、何にも発生しない。
あるのは、心身の健康と身の自由と時間だけ。
なまじっか、やろうと思えば出来る、選択肢の山が、幸福感を下げている。
ボランティア活動でもすればよいのだろうけれど、、、奉仕の精神が基本的に育っていない。
この時間を活用して、終活すれば良いのだが、断捨離、終活系の小説を読み漁り、精神的に士気を高め、外堀を埋めようとしている、、、が、小説を楽しむだけの、わたし。
好きな作家(垣谷美雨)が1人増えたのは、プラスの副産物だが。

今月中ばぐらいには、何かわからないが、動きがあるような気がする。
あくまでも楽観的憶測であるが。

やること候補は、あれこれ調べて練り上げリストアップして、明日にでも動けるのに、当日になると足が重く、お尻が重い。
足が地中に埋まっているかのごとく。
しかたなく、無理やり読書したりして時間を潰している。
なんなんだ?わたし?
自分から発する欲求というものが無いのだと、つくづく思う。
かと言って、人の圧力に屈したり、流されるのは嫌。
自分が無いくせに、人からの押し付けや、強制は嫌。
自分にあきれる、自分。


しかしここで、ふと思う。
仕事をリタイアした人が、リタイア直後に陥る状況と似ているのでは?
一生懸命熱心に取り組み継続していたことが、まったく無くなり、ある日、リセット。
あれと同じか。
リセットならまだしも、デフォルトか。

リタイアした知人を見渡すと、2人以外は、再就職(アルバイト)をしている。
他にすることがなくて退屈だから、仕事に復帰した人が多い。
仕事が好きなのか、仕事以外には何もないのか。
仕事をしていない、2人の人は、趣味三昧。
釣り、語学、歴史、創作、旅行、音楽、趣味交流、、、。
最初はあれもこれもだったが、行動の特徴がだんだん絞られてくる。
音楽系の人、歴史系の人、、、ただ、2人とも、身体を動かすことからはどんどん遠ざかっているようだ。
趣味を絞り込むのは良いが、やはり運動は必須だと感じる。
そうすると、また仕事に復帰した人たちは、趣味の時間は減っても(元々、強い趣味がない)仕事で身体を動かすので、バランスはとれる。
必要に駆られ、お金のためだけに仕事をしている人もいるが、時間的にバランス良く仕事を組み入れている人もいる。
バランス型が良さげ。

わたしは、ひとり行動がメインなので、何かしら自分でプランを立てないと、何もしないで退屈な時間を過ごすことになる。
趣味と運動を取り入れた活動が理想。
だとすると、今、休止している趣味こそが、理想的な活動だと言える。
再開するにも、新装開店グランドオープンではなく、リニューアルという熱量、テイストになる。


朝の連ドラ、虎に翼

2024-05-30 | 趣味
虎に翼。NHK TVの朝ドラ。
おもしろい、おもしろい、とあちこちから聞こえてくる。
(実際は耳するのではなく、わたしがよくお邪魔する個人ブログやSNSの記事を目にして)
そもそもわたしは、朝ドラは時間が縛られて忙しないから見たくないという主義。
夜ドラも、「VRおじさんの初恋」が終わってから、次の新しいドラマは見ないことにした。
ではあるものの、あちこちから「虎に翼」の好評判をインターネット知人のブログで目にすると、見てみようかという気になった。
途中からなので、なんといきなり、主人公には幼児の子供がもう既にいた。
もう結婚はしたようだ。
4月から始まっているから、既に2ヶ月になる。
それにしても、連続のものをえらく途中から見たものだ。

で、見始めて今朝で3回目。
朝から涙、涙、涙。
次に放送される「あさイチ」で、朝ドラを受けての番組スタート司会(鈴木奈穂子、博多華丸・大吉)がまた面白い。
それより、主題歌「さよーならまたいつか!」(米津玄師)とオープニングのアニメーションのイラストがすごく印象に残った。
動画を撮影して、それをコマ割りして水彩画タッチで手描きし、アニメーションに仕上げる「ロトスコープ」という、シシヤマサキ(作者)の独自の表現法だとか。

わたしが訪れるSNSの皆さんは、ドラマ内容や歌は大変素晴らしいと感嘆していたが、オープニング・アニメーションに対しては、誰もなんにも触れていなかった。
わたしは、すごくすごく素敵で、感激した。
特に目がキラキラ輝いているようなイラストが動く表現に、すっかりこころを奪われた。
色もタッチも、優しいテイストで、大好きだ。
その上、あの歌。
さらに、ストーリーは、もう3分の1は済んでしまったものの、まあ惹き込まれること。
今、話が盛り上がるところなのかも?
毎日、楽しみにして、午前8時前にはそわそわしてTVの前で待っている。
ほんとにTVっ子だ、わたし。
その代わり、夜は夜ドラを見ないことにしたため、22:45まで待たなくてよいから、TVから解放されていい調子。


霧が晴れた森の中で

2024-05-16 | 趣味
ミニ鬱が続いている。
正確には、「続いていた」。
何もする気が起きないのに、強い外圧(長きに渡りプッシュされること)により決断、実行の期日を迎え、無理やり渋々、嫌々、行った。
また別件で長い期間、返事を求められているものもあり、本当に嫌で気が進まないのに、決行した。

どうにか動いたことにより、苦痛が和らいだ。
出口が塞がれているのに、後ろから突き上げられる苦しみから、一時的に解放された。
だが、解決したわけではない。
動かなかったものが、ようやく動き出しただけだ。

渋っていた、避けたかった事柄を無理やり行ったところ、肩の荷が降りた気楽さのせいか、その大嫌いなことをキッカケとして派生する別の事柄に、興味を抱いた。
本筋ではなく、枝葉のほうに、光を見た。
だが、これは、動かなければ見えないものだ。

自分と向き合い、悩みを解決するため、ヒントを得るために、訪れていた他のブログがあったが、もう卒業かも知れない。
停滞を切り抜けて、次の段階に移り始めている。
机上の幸福論を煮詰めていたが、具体的な内容を見つけ始めた。

大袈裟に書いた。
早い話、林住期をどう過ごそうか、暇に任せ退屈を通り過ぎて虚無感に襲われていたが、やりたいことが見え始めた。
それだけだ。

精神論はもういい。実践へ。
実際に行った人々の行動を参考にして、自分の計画を立てたい。
まだ立案とまではいかない。
もやもやした霧が少し晴れた森の中にいるよう。

その一つに、旅がある。
バックパッカーのご夫婦のブログが連日、ブログ村エッセイにランクインされていて、楽しみにしている。
このバックパッカーの旅とは真逆の、まさに対極にある、豪華客船の長旅をする人がいる。
対比すると、興味深い。
自分は何を求めているか、潜在意識を探る参考になる。

まだわたしには、体力と気力がある。
だから、枯れるには生乾き。
想いと現実がうまくマッチせず、軋んでいたかも知れない。
やる気をチャージするのに、わたしは人の何倍も時間がかかる。
ガソリンがどこかから漏れているのに、頑張ってエンジンを蒸していた。
どこから漏れているのか探すのに時間がかかる。
漏れが発見できたなら、漏れている箇所を修復しなければならない。
今はまだ、そんな段階だ。

好奇心を満たしつつ、運動を兼ね、緊張もして、一期一会を愉しみたい、、、そういう目標が出来た。
その場限りの偶然を楽しみたい。
(偶然と言いつつ、じつは偶然ではなく、それまでの長い道のりがある)
そういうアンテナを張って情報を集め、準備していきたい。
時刻表や設計図だけで楽しめるオタクになるかも知れないけれど、まあそれもよい。
楽しみの方向性が絞れたということは、それだけでも、わたしには嬉しいことだ。

次々、細胞が動き始める。
さらに不思議なことに、新しい未知のものが向こうからやって来ることもあり、それに乗っかる勢いが大事だが、乗り間違えないように注意しなければならない。